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第四章その6 きっかけはたいがい思いがけないものである

「へえ、本当に幽霊なの!?」


 信じられないとでも言いたげに幽霊の顔を覗き込みながら、美里ちゃんは興奮したように目を輝かせる。


 一方の幽霊はというと苦い笑顔を浮かべながら顔を背けていた。


「美里やめなさい、その子嫌がってるでしょ!」


 すぐさまお母さんが叱りつけると、里美ちゃんは「はーい」とまったく心のこもっていない返事でやり過ごす。母子揃ってなんていう順応力だ。


 残りのビールをグイっと流し込んだ俺は「怖くないの?」と尋ねる。


「そりゃ不思議だとは思いますけど、あんまりにもくっきり見えるから」


 そう話す美里ちゃんはどことなく嬉しそうだった。たしかに幽霊が見えるっていうのは怖くもあるがちょっと憧れるシチュエーションでもあるし、俺と同じくサブカルチャーに精通しているならこの現状もすんなりと受け入れられる素養があったのかもしれない。


 しかしそんな柔軟思考な女子中学生とは異なる人物が約一名。一家で唯一幽霊を見ることのできないお父さんは、気が気でなかった。


「か、母さんも美里も悪い冗談はよしてくれ!」


 旦那さんは部屋の隅っこにべったりと背中をへばりつけてびくびくと震えていた。


 見えないのは怖いもんな。とはいえ屈強な見た目とビビり具合のギャップに、俺は笑いを堪えるので必死だった。


 元々霊感の強い奥さんによると、どうもあの部屋に入ったら幽霊を見えるようになるらしい。俺も元来霊感はほぼゼロだが、引越し初日にドアを蹴破って入ったから見えるようになったのだという。だから今でも少女以外の霊を感知することはできないそうだ。


「じゃああんたも入る? 見えるようになるわよ」


 奥さんの提案にも「見えないものが見えるのもおっかないだろ!」と震えた声で怒鳴り返す。見えようが見えなかろうが、幽霊は怖いらしい。


「まあまあ、うちの幽霊は基本的に無害なんで。ほら、この大根も幽霊が煮込んだんですよ」


「前に天ぷら作った時もお手伝いしてくれたしね」


「ひえええ」


 俺と奥さんとで怖くないよとアピールするも、旦那さんは余計に怯えてしまった。




「ふああ、今日は疲れた」


 押し入れから取り出した布団を畳の上に敷いて横になる。昼間外に干していたおかげか、布団はふかふかでまだ太陽の温かさが残っているようだった。


 久野瀬一家が帰宅した途端にどっと疲れの押し寄せた俺は、すっかり冷えてしまったご飯に温かいお茶をかけて胃に流し込むと、さっさと風呂に入って寝ることにした。いつもよりだいぶ早いが、今日は後半に突発的なイベントが発生して気力も体力もごっそり奪われてしまった気分だ。


 何か考えるのも億劫なので、虚ろな瞳でぼうっと天井の木目を眺めたままいくらか時間が過ぎた時のことだった。視界の中に、ひょっこりと別のものが割り込む。


「ん?」


 それは幽霊の少女の頭だった。枕元に立っていた少女が、覗き込むようにして俺を見下ろしていたのだ。


「どしたの?」


 眼をこすりながら俺が尋ねると、途端少女は頭をひっこめる。その少女を追って俺が半身を起き上がらせると、少女は座敷に立ったままそっと手を前に伸ばす。


 そして彼女は舞い始めた。以前見せてくれた、あの天女の舞を。


 どうしたの、突然? そんな野暮なことは訊けなかった。


 夜の静寂の中右に左にと自由自在に舞う彼女の動きはダイナミックでありながら一切のブレがなく、素人目に見ても洗練されたものだった。


 そうか、美里ちゃんはこれをしたくなかったんだな、というかこんなレベルを要求されたら初心者なら怖気づくのは当たり前だ。


 しばらく俺は少女の舞を眺めていた。背筋はまるで天から糸で吊り上げられているようにピンと伸び、屈伸と回転で踏みしめられる畳は一切の音も立てない。ほんの数十秒のような、何十分も経ってしまったような、俺の意識からは時間の流れさえも奪われていた。


 ひとしきりの演技を終え、手を伸ばしたまま静止する少女。俺はしんと張りつめたこの空気を壊すのを恐れ、音の立たない小さな拍手を贈った。


 少女は手を叩く俺に顔を向ける。その表情は今まで見たことが無いほど、真剣みを帯びたまっすぐなものだった。


 畳の上に置いたメモ帳を拾い上げ、さらさらと鉛筆を走らせる。そして突きつけられた文面は、思いもよらないものだった。


(思い出した)


 確かにそう書かれていた。


「え、何を!?」


 過去を一切忘れているはずのこの幽霊が!?


 すっかり眠気は吹き飛んでいた。金槌で殴られられたような衝撃に、座っていた俺も立ち上がる。


 そして続いて幽霊の書き足した内容も、これまた衝撃的なものだった。


(私も天女の舞を嫌がってあの部屋に閉じこもっていたこと)


 本当に!?


 生前の具体的なことを思いだすなんて、まさかの展開だ!


(私はたしか、天花と呼ばれていた)


「天に花……これ、読みは『てんか』でいいの?」


 少女はこくりと頷いた。


 思い返せば俺は今までこの子のことを単に幽霊としか呼んでいなかった。


 これまでこの子に名前を付けようかと思ったことは何度もある。だが相手は幽霊といえど元は生きていた人間、たとえ記憶を失っていても親からもらったもの以外の名前を勝手に与えるのには抵抗があったのだ。


 しかし名前が判明したことは俺にとっても大きな意味があった。今まで彼女は俺にとって、過去に何のしがらみも無いただの同居人として振る舞えていた。しかし過去を思い出した今からは、無数の経験を積み重ねて人格を形成してきた一個人として見なくてはならない。


 そしてその変化は、彼女について俺がずっと内心疑問に思ってきたことを一気に解放させるに至った。


 生年月日は、この家の前の住人とはどういう関係か、なぜあの部屋にいたのか。そして……なぜ死んでしまったか。


「えっと、この家は自分の家なんだよね?」


 恐る恐る尋ねると、天花と名乗った少女は頷きながらメモ帳に書き込んだ。


(おそらくそう。でもごめん、それ以上はまだ思い出せない)


 そう文面を見せる彼女はどことなくいたたまれない顔をしていた。


「いいや、こっちこそ無理に訊いてごめんね。思い出せないものは無理して思い出さなくてもいいし、話したくないことがあれば話さなくてもいい」


 俺は慌てて天花ちゃんを宥めた。名前を知った途端、彼女に対する見方が少々変わってしまったようだ。


「天花ちゃん、天女の舞ができるってことは、やっぱり君も祭りで踊ったことがあるの?」


(それはわからない。ただ、天女の舞と聞いて身体が覚えていた)


 実体が無いのに体が覚えている、は幽霊なりのジョークのようにも映るが、彼女にとってはそういった感触なのだろう。


 俺が次に何を訊こうかと考え込んだその一瞬、彼女はメモ帳に凄まじい速さで筆を走らせると、こちらが口を出す前に今しがた書き上げたメモ帳をこちらに見せつける。


(お願いがあるの)


 そこにはこう書かれていた。


「お願い?」


 天花ちゃんは音もなく、一瞬唾を呑み込むようなそぶりを見せた。そしてメモ帳をめくると、また新たに別の文章が書かれていた。


(私はなぜ自分がここにいるのか、ほとんどわからない。私が何者なのか、いっしょに調べて!)

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