第四章その5 わがままな天照
「本当に申し訳ありません」
プシュッと弾ける音とともに、缶の飲み口から白い泡がブクブクと吹き出す。
俺と久野瀬の旦那さんは扉の前の廊下に座り込み、互いに缶ビールを開けていた。床には夕食の煮物や漬物も並べ、酒のアテにしている。
「しかし驚きましたよ、まさか弟子にしてくれなんて」
「すみません、ご迷惑でしかないのに」
「ええ、そういうのは受け付けておりませんし。ですが正直に言いますと、少し嬉しかったんですよ」
缶に口をつけながら旦那さんは目を丸くする。俺は箸でよく煮込んだ大根をつつきながら照れ隠しで笑った。
「私はイラストで食べている身ですが、評価というのはいつもパソコン画面や手紙を通じて届くものばかりでファンの口から直接聞いたことは滅多にありません。美里ちゃんみたいな子は初めてでした」
ちらりと固く閉ざされた扉に目を向ける。中からの反応は特にない。
何年か前、サイン会も一度だけ開いたことがあるのだが、そこでいきなりアンチな読者が押し掛けてきて散々な目に遭ったためにそれ以降は開いていなかった。聞けばアニメ化されたキャラの声がイメージと全然違うと怒鳴り込みに来たのだが……俺が知るかそんなん。
小さい頃から人付き合いの苦手だった俺は、友達の作り方がよくわからなかった。体力も無く外で走り回るのも得意でなかったので、遊びと言えばもっぱら絵を描くかブロック遊び、テレビゲームとインドア中心だった。
幼稚園でも学校でも、休み時間はずっとひとりで遊んでいた。みんなががわいわいと楽しく遊んでいる傍らで、俺だけが自由帳に絵を描いているのはすっかり日常の光景になっていた。
そんなある時、俺は気付いたのだ。幼稚園や学校でも、人気のある子はとびぬけて足が速かったり勉強ができたり、何かしら「すごいこと」のできる子だと。
そこで俺はひらめいた。うまい絵を描いて注目されれば、きっとみんな俺に話しかけて友達になってくれると。だから俺はひたすらに絵を描き続けた。親に怒られるくらいのペースで自由帳を消費し、36色の色鉛筆で複雑な色彩を表現する訓練を重ねた。おかげで絵の腕はめきめきと上達し、図画工作では何度もコンクールで入選した。
しかしそんなんで友達ができるはずはなかった。描き上げた時には「すごいね」と言われても、その時限り。会話も長続きしなければ、関係が深まることもなかった。
大人になって幾分かコミュ障は改善されたものの、根本的には変わっていない。絵を仕事にしている今、連絡を取っているのは仕事の関係でつながっている人だけだ。
だからこそ美里ちゃんが俺を選んでくれた時、自分の絵が心底認められたように感じた。たとえ家を出て押し掛ける口実であっても、弟子になりたいと言ってきたことは素直に嬉しかったのだ。
「弟子にしてほしいくらいに熱心なファンに会ったのは、あの子が初めてです」
そう笑いながら話していると、また呼び鈴が鳴る。お母さんもやって来たのだ。
選手交替。頼りにならない男衆はドアの前から引っ込み、奥さんだけを残す。
「美里、お父さんの言うことが腹立つのは分かるわ。美里がしたくないなら、お母さんちゃんと町内会にも伝えておくから。だからいつまでも閉じこもってないで出てきなさい」
電話口で響かせた超弩級の大音量とは打って変わって、奥さんは包容力ある声色で娘を宥める。
一方、近くの座敷に引っ込んだ旦那さんは残念そうに缶ビールをちびちびと飲んでいた。
「そういえば美里ちゃんがイラストに興味あるというのは、お父さんはご存知だったのですか?」
立つ瀬がない旦那さんがちょっとかわいそうに映ったので、俺はわざと話題を逸らす。
「薄々は勘付いていましたけど、まさかここまで大胆なことができるとは想像もつきませんでした。家出するなら友達の家に行くと思っていましたし」
やはり普通に考えればそうだろう。30歳独身男の家に自ら上がり込む女子中学生なんて、客観的に見れば危機管理能力が欠如しているとしか言いようがない。
「こういう住み込みとか泊まり込みとかはお断りしますが、もし美里ちゃんが私の仕事風景を見てみたいのでしたら、いくらでもかまいませんよ」
「ほ、本当ですか?」
旦那さんがぐいっと顔を近づける。僥倖に巡り合ったと言いたげなその瞳は、どういうわけか涙で潤んでいるように見えた。
俺がぽかんと言葉を失っていた理由を察したのだろう、旦那さんははっと息を吐くと「い、いやすみません」と慌てて眼を拭った。
「私も嬉しいんですよ。娘が親にこんなに反発するくらい、元気になってくれて良かったって」
旦那さんが笑って誤魔化していたちょうどその時、遠くからドアがキイと開く音が鳴った。お母さんの説得が功を奏したようだ。
お母さんに連れられて座敷まで来た美里ちゃんは、すっかりしゅんとおとなしくなっていた。
「先生、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いやいや、いいんだよ」
気にしてないよと、わざとらしく首と手を振る。しかし「ありがとうございます」と返す美里ちゃんは、まだ落ち込んでいる様子だった。
「ほら、あんたもいつまでビール飲んでんの。片付けて帰るわよ」
奥さんにはやし立てられ、旦那さんは急いでビール片手に台所に引っ込む。いっしょに持ってきた煮物や漬物も座敷から一掃された。
残されたのは俺と美里ちゃんのふたり。すっかりしょげ込んでいる彼女に、俺は「あのさあ」とわざとらしく話しかける。
「美里ちゃん、イラストの仕事に興味あるなら、いつでもうちを訪ねてくるといいよ」
「え、本当ですか!?」
たちまち彼女の顔に光が戻った。この子が俺の弟子になりたいというのは、方便であっても少なからず本心から出たものなのだろう。
「ファンの声を生で聞きたいからね。できそうならトーン貼りとかも手伝ってもらうよ」
「感激です、ありがとうございます!」
嬉しそうに頬を紅潮させる彼女からは、さっきの落ち込み具合はすっかり吹っ飛んでいた。
ほっ、これで親子喧嘩も収まったし、美里ちゃんも元気になってくれただろう。ようやく安堵して一日を終えられる。
「ところで先生」
安心する俺に、美里ちゃんが不意に尋ねるので、俺は「うん?」と間抜けに返した。
「先生って妹さん、いらっしゃったんですか?」
美里ちゃんが不思議そうにちらりと自分の後ろに顔を向ける。
そこには例のセーラー服を着た幽霊の少女が、むうっと頬を膨らませて立っていたのだった。