第四章その3 天女のゆくえ
「では、今年度の総会を開催します」
ざっと見ただけで100人近くははいるだろうか、これ以上入らないほど人の押し寄せた集会所で、町内会長の室田さんが前に立つ。
世間話に花を咲かせていたご近所の皆さんも、すぐさま水を打ったように静まり返る。いよいよ総会のスタートだ。
「昨年度はいろんなことがありました。長浜曳山祭りに応援で参加しましたし、小学校の総合学習に町内から3名が講師として呼ばれたりもしました。2月には会計の小林さんが突然倒れて、病室で私と帳簿を睨みながら新年度の予算を計画したものです」
そこでどっと会場から笑いがこみ上げる。こういう内輪ネタって新参者には辛いよな。
「で、今年も7月末に例年通り天女祭を行うわけですが……」
室田さんは顔を曇らせながら、もごもごと話した。声もどんどんトーンが落ちていく。
「天女役に決まっていた松井さんのお孫さんが引越しで出演できなくなってしまいました。そこで代役を探すことになったのですが、何せ急な話なのでまだ決まっていません」
会長の沈んだ声に、参加者は一斉に落胆のため息を吐いた。ここにいる全員が同じことを気がかりに思っていたそうだが、まだ問題は解決していないようだ。
「天女祭って夏に余呉湖でやっているお祭りのことですか?」
俺は隣の久野瀬の旦那さんに小さく尋ねた。以前余呉湖についてネットで調べた時、祭りのことが書かれていたのを思い出していた。
「よくご存知ですね。元は戦争から帰ってきた地元の若者たちを慰めるために開かれたのが始まりで、今では地域住民が主催する伝統のお祭りになっています。出店やカラオケ大会も開かれますが、一番の見所は夜に湖のほとりで天女に扮した少女が舞いを披露するところです。この時ばかりは誰もが口を開かず、じっと舞に見入るのですよ」
旦那さんが小声で丁寧に返した。
神社や寺が主催するのではなく、地元の住民が開くのがこの祭りのミソらしい。俺にとって祭りというのは自分たちで作るものではなくすでに用意されているものだったから、この感覚は新鮮だった。
「いつも中高生の女の子にやってもらっているのですが、最近は過疎化も進んで、演者を探すのも大変になってしまったそうです」
「今年はせっかく決まっていた子がお父さんの仕事の関係で引っ越すことになって。舞ができるような子も他にいないので、どうしようかと悩んでいるのですよ」
話に加わった奥さんも頭を抱えているようだった。
「おいおい、70年以上続く祭りをこんなところで終わらせるのか?」
ひとりのお爺さんがよろよろと立ち上がる。足腰が辛そうだが、それでも皆に意見を伝えたいらしい。
「それは私だってイヤよ。でも天女がいないんじゃ、天女祭が成り立たないじゃない」
「もう未経験でもかまわん、どこか良さそうな子は……」
俺の前に座っていたお爺さんがきょろきょろと周囲を見回した時のことだった。そのお爺さんと久野瀬の旦那さんの視線が偶然にも交錯し、ふたりが互いに目を合わせる状態になった。
お爺さんは「ひらめいた」とばかりに口角を上げ、俺は嫌な予感にぶるっと身を震わせる。
「そういえば久野瀬さんのところ、中学2年生の娘さんがいませんでした?」
お爺さんの一言を合図に、会場全員の視線が一斉に久野瀬さん夫婦に向けられる。
「え、ええ?」
突然のことに久野瀬さん夫婦は返答に詰まっていた。だがお爺さんお婆さんは容赦せず、さらに追撃をかける。
「そうだったわね、かわいらしい子だったじゃないの」
「美里ちゃんね、あの子ならばっちりだと思うわ!」
「久野瀬さん、どうか一肌脱いでくださいよ」
「ちょ、そんないきなり言われても……」
旦那さんはほとほと困り果てた様子だった。ガタイの良い旦那さんがあたふたしているのはちょっとおもしろいが、この時ばかりは同情心の方が勝っていた。
久野瀬さんはこの地域になじんでいるとはいえ、越してきてまだ3年しか経っていない。生まれてからずっとこの土地に暮らしている高齢の住民からすれば異分子でもあり、頼り甲斐ある若者だ。久野瀬さんにしても彼らの思いを無碍にはできない、辛いところだろう。
「たとえ親でも私たちだけで決めることはできません」
ぴしゃりと鞭を打つような一言に、場が静まり返す。果敢にも言い返したのは奥さんだった。
「娘にも決める権利はありますし、本人の了承を得るのが先です。私たちからも頼んではみますが、あくまで決めるのは娘自身です」
奥さんの堂々とした態度に、高齢の住民たちも皆有無を言わさず頷くしかないようだった。
「えー、では久野瀬さん」
町会長の室田さんが白髪頭をポリポリとかきながら、ばつが悪そうに話す。
「美里ちゃんから良い返事を得られるのを、期待して待っていますよ」
「大変なことになってしまいましたね……」
「果たして娘が引き受けてくれるでしょうか」
街灯に照らされた田んぼ道を歩く久野瀬さんの旦那さんの足取りは、足枷でもついているかのように重々しかった。
集会所を出た頃にはすっかり日も沈んでいた。どこからか虫とカエルの声が絶え間なく聞こえ、田舎道は昼間よりも賑やかだった。特にアマガエルの鳴き声は何百ものギロを鳴らしているようで、ちょっとした騒音にも思えた。
そんな大音量に囲まれながら、俺と久野瀬さん夫婦は肩を並べて帰路に就いていた。
「美里が決めることだから、変にどうこう言っちゃだめよ」
「でもみんな期待してるし……」
さばさばした奥さんとは対照的に、旦那さんは心配そうだった。初めて見た時とは想像もつかない旦那さんの変わりようだ。
夜、家に帰った俺を待っていたのは、幽霊の手料理だった。
今日は安売りされていた大根とツナ缶を使った煮物だ。よく煮込んだ大根にツナと醤油の風味がしみ込み、シンプルな食材ながら芳醇な香りを部屋中に漂わせていた。そこにいつものご飯、みそ汁とお漬物が加わり、さらにスーパーの総菜のコロッケも並べられる。一食でいろんな味を堪能できる、日本人らしい理想的な食事だ。
「うわあ、今日も美味しそうだね!」
ちゃぶ台の上に並べられるメニューを見ながら感激する俺に、幽霊はにこりと微笑みながら台所からお茶を運んでいた。
「じゃあ、いただきます!」
一日の疲れは晩御飯ですべてチャラになるものだ。俺が掌を合わせ、箸を手にしようとしたまさにその時だった。
ピンポーンと呼び出しベルが鳴ったのだ。
こんな最悪なタイミングでやって来るなんて、どんな無礼な客だろう。俺は「ああもう!」とこぼしながら立ち上がり、わざと床を踏み鳴らして玄関に向かった。
「どなたです?」
ぶっきらぼうに、ガララと引き戸を開ける。
そしてそこに立っていた人物を目にするなり、「ひょえ!?」とすぐさま間抜けな声を上げてしまうのだった。
「み、美里ちゃん?」
そこにいたのは近所の女子中学生。久野瀬さんの一人娘である里美ちゃんが、ポップな黄緑色のTシャツにジーンズ生地のスカートと普段着姿で玄関の前に立っていたのだった。
「失礼します!」
里美ちゃんはそう怒鳴るように言うと、なんと俺の脇をすり抜けて家の中に入ってきたのだった。
よく見るとその手には旅行で使うようなボストンバッグを提げている。
「い、いきなりどうしたの?」
俺は慌てながら尋ねた。そりゃ30男の家に突然美少女JCが強引に上がり込んできたら、誰だって焦る。
土間の真ん中に立った里美ちゃんが振り返る。その時俺の目に飛び込んできた彼女の瞳は、激しい怒りと強い意志がこもっていた。
「先生!」
そして彼女はいきなり頭を下げた。まっすぐ90度、人生で一度も向けられたことのないような角度だ。
「お願いします、私を大八木先生の弟子にしてください!」