第四章その2 お仕事は突然に
夕食後、俺は風呂に入っていた。もちろん桶風呂ではなくガスで沸かせる方のお風呂だ。
床はタイル張りで年季を感じさせるが浴槽自体は新しく、壁にはタッチパネルの液晶画面も埋め込まれている。手すりもついて足もゆっくり伸ばせるバリアフリー構造なので、1年前まで住んでいたお婆ちゃんもこのお風呂は快適に使えていたことだろう。
バスチェアに腰かけたままシャンプーを頭になじませた俺は、ぬるめのシャワーで泡を洗い流す。あまり皮膚が丈夫でないので、使うのもお肌に優しいシャンプーだ。
温水滴り落ちる前髪を手で払いのける。ふと鏡を見ると、なんと俺の背後にあの幽霊の少女が映り込んでいた。
「うわ!」
登場の仕方があまりにホラーだったので、俺はバスチェアから転げ落ちてしまった。シャンプーのボトルが宙を舞い、シャワーホースが床に落ちるが少女はまったく動じることなくじっと立っていた。
「な、何だよいきなり!?」
とりあえずタオルで局部を隠し、俺は頭から水滴をボトボトと垂らしながら怒鳴るように訊いた。
少女がすっと差し出したのは俺のスマートフォンだった。ブルブルとバイブレーションが作動している。電話の着信があったらしい。
「スマホはお風呂に持ってこないの!」
俺は身を丸めながら少女の手からスマホを奪い取る。防水性だから大丈夫だとは思うけど、普通風呂ではスマホは使わんわな。
画面に表示されていたのは出版社の名前だった。俺は濡れた指で画面をスライドさせて電話に出る。
「八幡先生、お休みのところ失礼します、伊庭です」
電話の主は菫坂先生の担当編集者の女性だった。前に顔合わせをした時はショートカットにパンツ姿で活発そうな印象だったのを覚えている。
「先生が描いてくださった表紙と挿絵、すべて使うことになりました。いつも通りの手早い仕事で私たちも大助かりです」
「それは良かったです、菫坂先生とじっくり話し合った甲斐がありましたよ」
俺はほがらかに対応するが、内心冷や冷やしていた。今全裸です、なんてとても言えねえ。
「そこでですね、余裕があればでかまわないのですが、初版購入特典を封入したいと思いまして……」
ああ、当初の契約には無かったけれども、追加でお仕事の発注を頼みたいという話だな。
人気作家の新作とあって、出版社も特に力を入れて売り出そうとしているらしい。初版購入者にはしおりやポストカードなんかの特典を付けて購買意欲を高めようというのが狙いだろう。
当然、他では使われないイラストが必要になるとあればイラストレーターである俺の出番だ。
「わかりました、スケジュールも余裕ありますので契約書を送ってください。最近引っ越したんですけど、住所はご存知ですか?」
「はい、長浜ですね。私、岐阜出身なんでだいたい場所はわかりますよ」
そう答える伊庭さんはどこか嬉しそうだった。ここは関西地方に区分されるが、京都や大阪よりも岐阜、名古屋の方が距離が近い。地元の人の言葉使いにも、バリバリの関西弁ではなく東海地方の訛りが入っている気がする。
「では具体的には契約書を見てから判断します」
入浴中に長電話は気が引けるので、俺はさっさと電話を切った。
スマホを返そうと後ろを見た時、すでに少女は風呂場から姿を消していた。
俺は一回ため息を吐くと、全身ずぶ濡れのまま一旦浴室の外に出て、洗面所の棚の上にスマホを置いた。
そういやうちの婆ちゃんも、電話鳴ったら風呂から飛び出てでも電話に出ていたな。しかも頭にシャンプーついたままで。
翌日の夕方、俺は紙袋片手に田んぼに囲まれた田舎道を歩いていた。さっきから何匹ものトンボが飛び交っては俺の前を横切っている。こいつらは夏の生き物だと思っていたが、5月でもこんなに見られるものなんだな。
そう無理矢理にでも何かを考えていないと、俺は不安に押しつぶされそうな気分だった。こんなに緊張するの、イラストを担当した作品がアニメ化した時、雑誌の取材でインタビューを受けた時以来かもしれない。
「ここか」
そして俺はある建物の前まで来ると立ち止まった。
町内会の集会所。古くからある2階建ての木造家屋だが、1階は倉庫になっているのか大きなシャッターが壁を覆っており、逆に2階の窓からは明かりが漏れ出ている。集会は2階で行われているようだ。
ガラス戸を開けると、玄関にはすでに何十人分もの靴が並べられていた。過疎化の進む町内だが、自治会の結束はなおも強いらしい。
俺は脱いだ靴をすみっこにそっと置くと、足音を立てないように階段を上った。
思った通り、2階は大きな和室となっていて、敷き詰められた座布団の上にお爺ちゃんお婆ちゃんら近所の皆さんが座って思い思いに談笑していた。
しかし俺が部屋の敷居をまたいだ瞬間、ほんの一瞬だが室内は静寂に包まれる。見慣れない若い男の登場に、部屋中ののお爺さんお婆さんは奇異の目を向けたのだ。
「大八木さん、こっちこっち!」
聞き覚えのある声と顔に、俺はようやく安堵の息を吐く。部屋の奥の方で、久野瀬さん夫婦が手招きしていたのだ。
俺は「失礼します」と先客を避けながら、部屋の奥まで一目散に突き進む。夫婦の隣のちょうど空いていた座布団に座り込んだ時には、すでにへとへとに疲れていた。
「大八木さん、心の準備はできていますか?」
「ええ、なんとか」
俺はしっかりと握っていた紙袋を少し高く上げる。
あまり人付き合いは得意な方ではないが、こういう環境で生きていく上では人と関わらざるを得ない。郷に入っては郷に従え、だ。
「大八木さん、ですかな?」
そんな時、お爺さんがひとり俺に話しかけてきたのだった。白髪に眼鏡をかけた小柄なお爺さんで、もう70は過ぎているだろう。
「あら町内会長、お元気そうで。大八木さん、町内会長の室田さんですよ」
久野瀬さんの奥さんが間に入る。これは絶好の機会だと、俺は立ち上がった。
「初めまして、大八木と申します。せっかくですし、これどうぞ」
俺はすかさず紙袋を差し出した。
通販で買っておいた東京たまごだ。ひとりにひとつずつで配れば、町内会の世帯全体に行き渡らせるだけの量を準備している。
「これは珍しいものをありがとうございます」
町内会長は実に満足した様子だった。つかみの印象は及第点といったところか。
こういう手土産を用意するかどうかで、印象って大きく変わるからな。昔はこういうことは考えなかったが、社会人生活を送っていくなかでこういう気遣いがどれほど重要かを身にしみて実感している。