第三章その4 NAYA
古く錆びついた鍵を挿し込むと、金属がこすれる音とともにガチャリと錠が外れる。そして滑りの悪くなった木製の引き戸を力を込めて開いてやると、真っ暗な屋内に外の光が差し込んだ。
ここら辺の農家には大概、家族の住まう母屋とは別に納屋という農具や収穫物を保管しておくための建屋がある。鍬や脱穀機、トラクターなどをしまっておくためのいわゆるでっかい物置なのだが、住宅街の一戸建てよりも大きく、2階建てになっている納屋も多い。電気と水が通るなら人も住めそうなほどだ。
しかしここは扉を開けるのも久しぶりだったのだろう、外の風が吹き込んできた途端に土埃が煙幕のごとく立ち上り、目や鼻に刺激を感じた俺は一時撤退する。そしてマスクと野球帽、軍手と完全武装を整えてから再突入した。
懐中電灯で中を照らす。もうもうと舞い上がる埃に光が反射して見えづらいが、かろうじて中にどんな物が置かれているかはわかった。
壁に立てかけられているのは鍬や鋤などの古い農具、梅干しでも漬け込んでいたような壺や瓶、うず高く積み重ねられたビニール詰めの腐葉土。
しかし予想通りと言うべきかやはりと言うべきか、生前の少女に関する手掛かりになりそうなものは何も置いていなかった。そりゃあこんな納屋に書類や本なんか置くわけないとは薄々勘付いていたけれども。
「ここにはさすがに置いてないだろうなぁ」
ぼそっと呟く俺の傍らで、少女は足元に転がっていた移植ごてを拾い上げていた。きっと雑草伸び放題の庭が気になるのだろう。この子も農家の生まれなら、庭や畑の世話は日常のことだったのかもしれない。
「ん?」
そんな時、懐中電灯がとらえた妙な物体に、俺は強い興味を惹きつけられてしまった。納屋の隅っこ、古ぼけたドラム缶や戸棚と並んで、見慣れない物が鎮座していたのだ。
「あれは……何だ?」
じっと目を細める。ライトが照らし出すそれは、まるで巨大な樽のようだった。
「まさかこんな物が残っていたなんて」
ガタイの良い久野瀬の旦那さんがふうと額の汗を拭う姿は、あまりにも様になっていた。
俺と久野瀬さんふたりがかりで納屋から運び出したのは、巨大な木製の樽のようなものだった。樽のような、というのはこれが単に液体を貯蔵する樽ではなく、側面に穴が穿たれ、そこに扉のような蝶番が着いているからだった。
これは一体何なのかと久野瀬さんに写真とメールを送ってみたところ、驚くような早さで駆けつけてきたのだ。仕事が休みだとは言え、なんだか申し訳ない。
「これ、そんなに珍しいものなのですか?」
「珍しいも何も、ほとんど絶滅危惧種です。桶風呂なんて、もう博物館くらいにしか残っていませんよ」
納屋の奥にあった樽のような物のことを、この地域では桶風呂と呼ぶらしい。
「昔のお風呂って聞くと五右衛門風呂みたいなものかと思っていたのですが、全然違うんですね」
東海道中膝栗毛で喜多さんが釜底をぶち抜いたエピソードをふと思い出す。あれはたしか鉄の釜底に蓋と兼用の底板を敷くのを知らなくて、便所の下駄を履いて風呂に入っていたら足踏みする内に釜を踏み抜いてしまったんだったかな。
「ええ、これは底に金属でできた平釜をはめて、その周りを全部木材で覆い隠している構造なんですよ。入るときは木の板を下に敷くのですが、普通のお風呂に比べて少ない水で済みます。ですからお風呂というよりサウナに近いかもしれません。それにこれは滋賀県の北部でしか使われていない、この地域特有の物です」
なるほど、この地域ならではのお風呂なら知られていなくても不思議ではないな。まだまだ日本には広く知られていない驚きの風習や文化が残っているようだ。
「それにしても大発見ですね。高齢の方なら懐かしくて使いたいって言うかもしれませんね」
久野瀬さんが子供のように目を輝かせる。この人、きっとキャンプとか好きなタイプだな。
「でもこれ、ちゃんと使えるのでしょうか?」
しかし俺は頭をぼりぼりと掻いていた。久野瀬さんには悪いが、せっかく見つけたこれも使えなければただの置き場の困る骨董品だ。
何せ数十年間納屋に放置されていたのを引っ張り出してきたのだ、使用に耐えうるかはわからない。
そんな対照的な様子を見せる男二人のことなど眼中になく、幽霊の少女は桶風呂のあちらこちらをしげしげと覗き込んでいた。年代から推測するに彼女もこれを使っていた可能性も高いので、懐かしさを感じているのだろうか。
ちなみに久野瀬さんにはこの少女の姿はまったく見えていないようで、少女が久野瀬さんの目の前に立っていても顔の前で手を振っても、瞬きひとつしなかった。
少女はしばらくの間桶風呂の周りをぐるぐると回って観察していたが、最後にはにこりと微笑んで大きく頷いた。
またしても見せる得意げなこの顔。直感的に俺は少女が何を言いたいのか察し、呟くように小声で「使えそう?」と尋ねた。