第三章その3 湖の伝説
食後、少女は台所で食器を洗っていた。疲れを知らない幽霊とはいえ、本当に働き者だ。
一方の俺はと言うと、居間の畳の上で横になってテレビを見ていた。料理に使っていた囲炉裏の火もすっかり勢いを失い、白くなった木炭から時折パチッと火花が飛び出している。
最近はバラエティ番組にも飽きてきたので、特に意味も無く地元テレビ局の報道番組を流していると、ちょうど県内のニュースが放送される。殺人事件なんて滅多に起こらないのだろう、のんびりとした雰囲気がアナウンサーからは感じ取れた。
「新緑に包まれた賤ケ岳は、多くのハイキング客で賑わいました」
映し出されたのは初夏の山。舗装された山道を、高齢者から幼児まで様々な年齢層の登山客が行き来している。
そういえば賤ケ岳ってここから近かったよな。それにここは昔大きな戦いがあったことでも有名らしいが、生憎戦国時代の歴史には詳しくない。
「山頂からは南に琵琶湖、北に余呉湖が一望でき、異なった水の景色を堪能することができます」
山頂はちょっとした公園として整備されていた。登山客はベンチに腰掛けて休んだり、備え付けの双眼鏡を覗き込んだりして各々楽しんでいる。暑くもなく寒くもない、行楽にはベストなシーズンだろう。
「最高の絶景です。余呉湖に舞い降りた天女もこの風景を見たのでしょうね」
インタビューを受けたお爺さんが余呉湖をバックにほっほっほとカメラに笑いかける。
「天女?」
突然飛び出した単語が気になった俺は、そっとスマホを手に取り検索サイトを開いた。
調べて初めてわかったことだが、どうやら余呉湖には天女伝説というものがあるらしい。
はるか昔。天女が余呉湖に舞い降りて水浴びをしている最中、湖畔の柳の木の枝にかけておいた羽衣を伊香刀美という男が盗んで隠してしまった。
羽衣を失った天女は天上に戻ることができず伊香刀美の妻となり、そこで生まれた子孫が伊香地方と呼ばれたこの地をやがて治めることになる。ちなみにその後、母親である天女は伊香刀美の隠した羽衣を見つけ、天に昇って帰っていったという。
つまり女を騙して娶ったということか。現代の倫理観で言えばだいぶツッコミどころ満載なお話しだが、これと似たような話は全国各地に伝わっている。俺も歌舞伎『羽衣』で有名な三保の松原の伝承は聞いたことはあるが、余呉湖の伝説は国内で最も古いらしい。
「余呉湖では毎年夏に地元住民により余呉天女祭が開かれている、か。天女に扮した踊り手による『天女の舞』は祭りのクライマックスである、と」
気が付けば俺は文章を音読していた。なんてことはない、よくある地域のおとぎ話と言えばそれまでだが、それが今なお伝承として根付いていることに俺はおもしろさを感じていた。
そういえば生まれてこの方、地元に古くから伝わる祭りというのを生で見たことは無い。サラリーマン家庭生まれの俺は蒲田のマンションで育っており、地縁やしがらみとは無縁のまま大人になった。祭りというのも商店会や神社が勝手に準備してくれるもので、地元住民であっても俺はお客さんという立場でしかなかった。
だからこそ地元住民の住民による住民のための祭りというものがどういうものなのか、今ひとつ想像できないが個人的に興味はあった。
「ねえ、キミさあ」
ちょうど洗い物を終えた少女が居間に戻ってきたので、俺は寝そべったまま声をかける。
「余呉湖の天女伝説って知ってる?」
一瞬、ほんの短い間のことだった。
少女ははっと目を大きく開いたかと思うと、指先まで動きをぴたりと静止させてしまった。
え、まさか地雷でも踏んでしまった?
嫌な予感に俺まで固まってしまうが、すぐさま少女は表情を崩したかと思うと、すっと腕を前に突き出したのだ。
そして彼女は舞い始めた。ピンと背中を張りつめたまま、まっすぐに伸ばした腕を時折捻り、右に左にと畳を踏みしめる。その動きは完全に日本舞踊。現代の能楽に通ずるゆったりとした、旋回を主とするものだった。素人目に見ても洗練されたその所作は、まるで後ろから雅楽の演奏が聞こえてくるようだった。
「それは?」
突如見事な舞を披露する彼女に俺はしばし口をはさむことができなかったが、ひと段落ついたのか腕を伸ばしたままぴたりと固まったところでようやく尋ねる。
少女は得意げににやついたままメモ帳を広げると、そこに『天女の舞』と書き込んだ。
天女の舞だって? まさか祭りでするという?
「どこで覚えたの?」
すかさず俺は尋ねる。だが少女の返答は『覚えてない』だったので、俺はがっくりと肩を落とした。
そういやこの子、自分の名前も覚えてないんだったっけ。
翌日、俺は朝から箪笥をひっくり返しては中の物を片っ端から調べていた。
少女はこの家で育ち、そして死んだ。それは間違いないだろう。
だがそれ以外の記憶はなく、自分の名前さえも覚えていないというのはあまりにも可哀想だ。
本人は気にしてはいないようだが、それでは俺の方は落ち着かない。
天女の舞というのも、夏祭りで披露される舞のような気がしてならない。つまりあの子は生前、少なくとも祭りの練習に励んでいたことにはなる。
白黒テレビは知っていてもカラーテレビは知らない、自動で着火するコンロを知らない、セーラー服を着ているといった彼女のようすから、俺はあの子が1960年前後に亡くなったのではないかと目星をつけていた。
少しでも手掛かりは無いかと朝から頑張ってはいるのだが、出てくるものは古い衣類や食器、どこかの土産物のような置物ばかりだ。家族に関する書類はすべて持っていかれているようで、めぼしいものは何も見つからない。
そうこうしている間に俺の方が根負けして、換気のため開け放たれた縁側にどっさりと腰を下ろす。
「はあ、疲れたなぁ」
そこに少女は冷やした麦茶を持ってきてくれた。俺は「ありがとう」とコップを受け取る。
「なかなか見つからないね、この家広いし」
苦笑いを浮かべるが、彼女の正体とつながる物がある場所について俺はすでにおおよその目星をつけていた。
彼女が閉じ込められていた一番奥の部屋のことだ。あそこに入ったのは最初扉を蹴破った時だけだが、あの部屋には勉強机や本棚など、かつて年頃の女の子が使っていたであろう品々がそのまま残されていたのが見えた。仮にあそこが少女の生前の自室であったとしたら、例えばアルバムであったり日記であったり、思い出の品が残っている可能性は非常に高い。
しかしあの部屋に入ろうとすると少女は途端に嫌そうな顔をするので、俺はどうしてもあそこに入ることはできなかった。
探すならまずはそれ以外の部屋から。あの部屋はこの子が俺に入っていいよと許可をくれるまで、一歩も踏み入れないつもりだ。
そんな俺の心中など察する気配もなく、少女はまたしてもさらさらと鉛筆をメモ帳に走らせる。
(納屋ならおもしろいもの、あるかも)
そしてこんな文面を見せつけるのだ。どうもこの子は俺が何を探しているのかよくわかっていないらしい。
「納屋かあ」
俺は顎に指をあてて考え込んだ。今は車庫として使っている納屋だが、まだちゃんと中を開けたこと無かったなぁ。