第三章その2 岩魚の味
俺は幽霊に炊飯器の使い方を教えると、すぐまた仕事に戻った。
先ほど菫坂先生に見せた主人公の友人のデザインを要望に沿って修正する。この友人は序盤こそ何の関係もなさそうなキャラだが、後半から徐々に物語の本筋に絡んでくる。印象に残り、かといって目立ちすぎないキャラデザを考えないと。
どれほど時間が経ったかわからないほど作業に熱中し、うーんと背中を伸ばして、ようやく身体が尿意を催していることを自覚する。
部屋を出て早足でトイレに向かい用を足す。いらない水分を絞り出してすっきり爽やかな顔で廊下を歩いていると、ふと家中を良い匂いが立ちこめていることに気付いた。
ガスコンロの使い方も教えたし、火で何かを炙っているのだろうかと、俺は興味本位で居間の襖をそっと開いた。ここは台所と隣接しているので、コンロに向かう少女の背中が見えるはずだ。
「あ!」
しかし予想とはまったく違う光景に、俺は声を漏らした。少女は居間に設けられた囲炉裏の傍らに座り込み、そこにせっせと細い手を突っ込んでいたのだ。
年季の入った囲炉裏からはめらめらと赤い炎が立ち昇っている。そしてその周囲には木の串で貫かれたイワナが、灰に突き刺し並べられていた。
そう、少女は囲炉裏で魚を炙っていたのだ。たしかに囲炉裏は暖を取り湯を沸かすだけでなく調理にも利用されるが、こんなのテレビでしか見たことがない。
俺の声に気付いた少女はこちらを向くと、にかっとほほ笑んで携帯していたメモに鉛筆で何かを書き込む。そしてこちらに向けた文面には、「1時間以上かけて、ゆっくり火を通すの」と書かれていた。
直火なら早いと思っていたが、どうやらグリルで焼くのよりもだいぶ時間がかかるようだ。バーベキューのように網の上で焼くのとは違うのだろう。
さらに少女は炭火の上に五徳と鉄鍋を置き、そこで味噌汁まで温めていた。今日買ったばかりの味噌を溶かしてじっくりと煮込んでいる。材料は今日スーパーで買ってきた乾燥ワカメや麩といった簡単なものだが、それでもインスタントではない味噌汁なんて俺にとっては久しぶりだった。
こんな美味しそうな品々を見て平気でいられるはずがない。俺はたちまち異様なまでの空腹を覚え、仕事のこともほっぽり出して囲炉裏の傍に座り込んでしまった。
「いただきまーす!」
俺は火の傍から取り出したばかりのイワナを皿の上に置き、すっかり湯気すら昇らなくなった魚を前に合掌する。
塩を振ったイワナを直火で炙るだけ。調理法自体は極めて単純で、原始的かつワイルドに思えるだろう。しかしうまく焼くには思った以上にコツが要るようだ。下手に火に近付けると黒焦げになるし、火が遠ければ生焼けになる。
少女は最初、イワナの串を炎から離れた囲炉裏の端っこに挿していたものの、だんだんと焼けていく内に2度、3度と徐々にイワナを炎に近づけていったのだった。
おかげで焦げ目もなく均等に焼けたイワナは、余分な水気が抜けて美味しそうな魚の匂いを漂わせていた。さらに芳醇な炭の香りもほのかにしみ込み、香ばしさを盛り立てている。
せっかくだからととまだまだ熱い串を手に持って、俺はそのままイワナにかぶりついた。
「うんまい!」
思ったよりも小骨は少ない。淡白な身に塩辛さがちゃんとしみ込んで、噛めば噛むほど味が出る。しかも魚そのものの味か、ほんのり優しい甘みも混じっているように思えた。
少女も串を一本手に取って魚を頬張っている。実に満足げなその表情は、会心の出来と誇らしげだった。
そしてご飯はこれで終わらない。白ご飯に味噌汁と、シンプルだが一人暮らし男はなかなか恵まれないメニューだ。
白ご飯には地元産のミルキークイーンという品種を使っているが、これがまた瑞々しくて柔らかい。スーパーで売ってたのをテキトーに買ったのだが、まさかの大当たりだ。それに味噌汁も煮干しからしっかりと出汁を取っているようで、うま味が濃縮されている。
いずれも家庭の味ではあるが、店で出されても文句は絶対に出てこないクオリティだった。この幽霊、料理もできるなんて随分とハイスペックだな。
ああ、こんなんだったら野菜も少しくらい買っといたら良かった。