就寝直前
ガチャリ
扉の開く音がすると同時に、仄かな熱と鼻腔をくすぐる甘い香りが入ってくる。
風呂から上がった神楽耶は、ぺたぺたと絨毯の上を歩いていき、そのままベッドに腰を落ち着けた。
いまだ湿っている髪を気にかけながら、「ふぅ」と一息つく。体を洗いさっぱりして、ようやく気持ちが落ち着いたようである。
「どうだ。多少はリラックスできたか? 予想はしていたが、初日から随分とハードな展開だったからな。あまり気を張り詰めていると明日からが辛くなるぞ」
己の欲望に火をつけないよう、神楽耶から視線をそらしつつ明は言う。
神楽耶はやんわりとした笑みを浮かべ、明の言葉に頷いて見せた。
「はい。監視カメラで見られていると思うとちょっと気持ち悪かったですけど、だいぶリラックスすることができました。やっぱりお風呂って凄いですね。シャンプーとかリンスも普段使えないような高級なものが置いてあったので、そこはちょっと得した気分です」
神楽耶が優しく髪をすくたびに、甘く心地の良い匂いが漂ってくる。
やや火照った彼女の顔色や、熱を冷ますためのやや露出の多い恰好。それだけでも十分目に毒だというのに、香りまでもが脳を揺らがせるような妖艶さを持っている。
理性を保つことに全力を注ぎながら、「それは良かったな」と明はつぶやいた。
しばらくの間、どちらも口を開かない静かな時間が流れる。
徐々に蠱惑的なシャンプーの匂いに耐性がついてきた明は、ようやく神楽耶へと視線を向け、話を切り出した。
「今日はまだゲーム初日だ。もちろん誰かが積極的に動き、明日の朝が来る頃にはゲームが終了しているという可能性もあるが、自己紹介を聞いた限りではそこまで積極的に動く奴はいないように思えた。だから今日は早めに寝て、明日以降に向けて英気を養っておきたい」
「でもその前に、『作戦会議』ですよね。具体的な方針は一応決めましたけど、さっきの六道さんとの会話から新たに得られたこともありますからね」
明は小さく頷き肯定する。
「スペルの時限発動。これが可能というのは、戦略的な幅が広がると同時にひどく厄介な話でもあるからな。いつ誰がスペルを発動したのか分かりにくくなるから、誰がどれだけスペルを所持しているかの情報も曖昧になる。はっきり言って、ゲームの難易度が数倍に増したようなものだ。これについては何かしら対処法を考える必要がある」
「そうでしょうか? その点に関しては、そこまで気にする必要はないと思いますけど」
「なぜだ?」
訝しげな明を真っすぐに見つめ、神楽耶は言う。
「だって、スペルの時限発動を行うってことは、すぐに相手が死なないってことですよね。そうすると、せっかくスペルを唱えてもそれが発動する前にその人が殺されてしまい、無駄打ちになる可能性だって出てくるじゃないですか」
「それは、その通りだな」
「それに時限発動がどこまで正確に使えるのかだって、実際のところ不明のままです。もし発動するまでに相手が効果範囲外に出たら。もし自分のイメージが足りず発動条件を満たしていなかったら。もし時限発動可能というのが嘘だったら。そういった可能性を考えれば、わざわざリスクを冒してまで使う必要のある場面って少ないと思うんです。だからあまり気にしなくても、そこまで心配はないんじゃないでしょうか」
「……そうだな」
思いがけない意見に、明は神楽耶へ抱いていた考えがやや間違っていることを認識した。
別に神楽耶のことを馬鹿だと侮っていたわけではない。しかし、率先してゲームを攻略するための方法や、ルールへの理解に努めている様子はないと高を括っていた節はある。
この思い違いが嬉しい誤算なのか、それとも危険な誤算なのか。結論を出しきれずに、明は押し黙る。
神楽耶は今の提案ぐらいなら明が思いついていただろうと考えているのか、自慢げな様子を見せたりはしない。それよりも、六道が最後に言っていた『黒幕』について、気にかけていた。
「このゲームのスポンサーがあの四大財閥だったなんて……本当に驚きました。六道さんの話が嘘の可能性もありますけど、それぐらい巨大なバックがいなければ、こんなゲームを行うこと自体あり得ませんもんね。『杉並』という名前は全然聞いたことがなかったですけど、東郷さんは聞いたことありましたか?」
「いや、ないな。陰に潜む諜報機関とか言っていたし、一般には知られていない組織なんじゃないか。まあ、漫画みたいな話で現実味は一切ないがな」
「それを言ったら今のこの状況が全く現実的じゃないですよ。無理やり変な館に集められて、三人になるまで殺し合ってくださいなんて、どこの三流小説ですか。しかもキラースペルなんておかしな能力までつけられて……。本当に、とんでもない災難です」
沈鬱そうに神楽耶はため息をつく。
一応彼女はこの中で唯一無実を主張している人間。もし本当に誤解されて連れてこられたのなら、それはとんでもない不運に違いないだろう。
明はため息をつく神楽耶を数秒眺めた後、「この程度のこと、まだましな方だろう」と呟いた。
「この程度のことって、普通に考えて一生に一度あるかないかの大事件ですよ。東郷さんは今までどれだけ悲惨な目にあってきたんですか」
明の言葉を軽いジョークだと思ったのか、神楽耶は笑いながら尋ねてくる。明は絨毯に目を落としたまま、無感情に答えた。
「別に、悲惨な目に合ってきた記憶はそこまでないさ。ただ親から虐待を受け、学校で虐められ、友人も頼れる人間もなく一人で生きてきたってだけだ。正直自分が生きている意味も分からず、かといって自分から死のうとも思えず漫然と生きてきただけ。そうして無為に生きている日常を思い返せば、今なんてまだましな方だ。この場においてなら俺は他の奴と対等だし、やるべきことも決まっている。そもそも幸せだと思えた瞬間なんて、人生で一度きりだしな。今の状況は俺にとって、いつもの日常とそこまで変わりはしないさ」
突然語られた重い過去話に、神楽耶は絶句して口をつぐんだ。
当たり前の話だろうが、部屋の空気が一気に重くなる。明は自分が余計なことを言ったのだということに気づき、小さく舌打ちをした。
実際、明としては自分の過去を悲惨だと思ったことは無かった。虐待されている人間も、虐められている人間も世の中にはたくさんいる。それよりももっと辛い地獄を生きている人だって、それに耐え切れず死んでしまった人だって、当然いる。
だから自分のことを特別不幸だと考えていない――というと少し違うのだが、ただ、結果として。この年まで五体満足に生きてこられた自分を不幸だなどとは、一度も考えたことがなかったのである。ただし、幸福だと思ったこともなかったけれど。
自分の不用意な問いかけが、明の古傷に触れてしまったと悔いたのか。神楽耶は深々と頭を下げてきた。
「すいません、東郷さん。東郷さんの事情も知らないで、失礼な質問をしてしまいました」
「別に謝らなくていい。俺の過去を知らない以上、聞いておかしくないことだしな。それより、他に話がないならそろそろ眠った方がいいと思うぞ。睡眠薬を使えば、この状況下でもなんとか寝られるだろう」
「そう……ですね。じゃあお先に眠らせてもらいます。東郷さんも、あまり無理はせずにちゃんと睡眠はとってくださいね」
このまま話を続けても、重い空気を引きずったままになる。そう考えたのか、あっさりと神楽耶は引き下がった。
テーブルの上に置いておいた薬瓶から薬を取り出し、ペットボトルの水を使って一気に飲み下す。そしてベッドの上に横になると、掛け布団を体の上に被せた。
「電気は消しておくか?」
「いえ、点けたままで大丈夫です。それじゃあ、お休みなさい」
明に背を向け、神楽耶は一人眠りにつく。
初めて会ったばかりの異性がいる部屋でもそこまで恐れずに寝ることができるのは、暴力禁止というルールが存在するからか。それとも、短時間とはいえ仲間として行動し、多少の信頼関係を築くことができたからか。
何にしろ、疲れや薬の力もあってか数分と経たないうちに、神楽耶は規則正しい寝息をたて始めた。
明は備え付けのソファに腰かけながら、時計に目を向ける。
時計の針は午後十一時十分を指し示していた。
六道との話し合いの後、厨房に行って軽く夕食を取り、十時に連絡通路が閉まるのかを確認。それから多少の話し合いの後神楽耶が風呂に入り、気づけば一日目も終わりかけていたわけだ。
明はソファから立ち上がり、ベッドで眠る神楽耶に近づいた。手を伸ばして彼女の肩に触れ、軽く揺すってみる。神楽耶は特に起きる様子は見せず、規則正しい寝息だけが返ってきた。
明はそれでもしばらく神楽耶を見つめていたが、やはり起きる気配はない。彼女が完全に寝ていることを確認し終えると、再び時計へと目を向ける。当然ほとんど時刻は変わっていない。
明は小さくため息をつくと、「少し早すぎる気はするが、まあいいか」と呟き、部屋の外へと歩き始める。
扉を開け、部屋から出る直前。再度ベッドの上に寝ている神楽耶に視線を向けた。
依然全く動きがないことを確認。
そうして何度も振り返る自分の小心さに呆れたのか、軽い溜息を一つ。
明は扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。




