幽鬼跋扈
影より現れた幽鬼たちもまた、ゆらりと剣を抜いた。
月明かりがあってもなお、暗くてよく見えていなかった。もしかすると、それこそが彼らの策略であったのかもしれなかった。刃物を見せないことで、戦いに有利は生まれる。それは不意打ちであったし、相手との距離感を喪失させることであった。剣に詳しくないオリヴィエールであったが、レイナルドが動かないことが自身の考えの正しさを証明していた。
幽鬼たちはゆっくりと、オリヴィエールとレイナルドを追い詰めていた。じりじりと、二人は後ろへ退いていく。一騎当千に思えるレイナルドでさえ、五人を相手にすることはできないようであった。
剣というのはそれほどまでに恐ろしいものである。腕に覚えのある者ほど、無謀なことは最後という最後までしないものだった。剣を持つ者を一人相手にするならば、できる限り引きつけてから討つ。二人が相手ならば、一人ずつ相手するように算段を立てる。三人ならば同じ様に、相手を連携させずに戦う。だが、四人以上であれば勝ち目はまずない。オリヴィエールでさえそう思うのだから、レイナルドであればなおさらであろう。
ふと、幽鬼の姿を見た。オリヴィエールの印象は正しいだろう。大きな外套で身を包んでいるが、やせ細った首を隠せていない。鼻から下はあらゆるものが尖っていた。顎も、口角も。それは怒りの表情にも似ていた。
「何者だ。ここは死者の眠る地、お前たちのような輩が踏み荒らしてよいものではないし、静寂こそが尊ばれる場所だ。即刻、剣を仕舞い、疾く立ち去るがよい」
果たして、保身になると口がよく回るオリヴィエールではあった。正論を前にすれば、人はひるむものであることを知っている。ましてや悪魔となれば、聖職者の言葉で退くのは道理だろう。
だが、相手は恐るべき凶手たちであった。オリヴィエールにとっては、聖戦のおりに十字軍を震え上がらせた〈山の老人〉を思わせるほどだ。少なくとも、昨晩の手際のよさを思うに、相応の手練れであることには違いないだろう。司祭であれど、王すらも恐れぬ彼らからすれば、ただの人であった。
誰かが鼻で笑った。それは伝播して、不気味な笑いとなり幽鬼の間を広がっていく。
「オリヴィエール、彼らには言葉は通じません。いいえ、それは決して語を理解できない、という意味ではなく。もはや腹に決めているのです。自らの使命を遂行するためであれば、主の言葉ですら耳を塞いでみせるというものです。
下がってください。ここからは剣の領域です」
オリヴィエールはレイナルドの言葉に従って、後ろへと退いた。途端、幽鬼たちは身を低くして襲いかかってくる。人々の墓を盾にして身を隠しているのだ。身軽にするために盾や鎧を捨てている彼らにとって、障害物こそが最大の鎧なのである。
一方のレイナルドはと言えば、機巧のついた剣をぐるりと回して構えた。地面に対して垂直にし、身をたたんでいる。油断なくじろりと辺りを見渡せば、迫ってくる敵を捉えていた。
二人が同時に姿を表して、レイナルドへと剣をふるった。剣は思ったよりも細身である。力では大振りのレイナルドの剣が勝るだろう。だが、速さではどうか。見ているオリヴィエールの方が震えていた。
ほぼ同時に、二手から振るわれた剣を、レイナルドはよく見ていた。一つを躱し、もう一つは剣で捌いていた。いずれも余裕のある動きで、返しの太刀まで繰り出してみせる。凶手たちもさすがの動きで、レイナルドの剣を退いて避けていた。
続いて、他の三人が立て続けに襲いかかった。一人目の剣をレイナルドは弾いた。だが、剣というのは攻めるにしろ守るにしろ、一度振るうと次の動きまでにわずかな隙ができる。そこを突いてきたのが、他の幽鬼であった。突きの構えで突撃してくる幽鬼に対し、しかしレイナルドは冷静だった。
そのうち一人の剣を、鎧で受け止める。耳障りな音を響かせて、相手の剣を滑らせたのだった。そして鮮やかに身を翻すと、背を向けたまま自らの剣を相手の首筋に合わせて掻き切る。両手で握られた剣がその技を可能にしていた。血が溢れたが、レイナルドは容赦なくその背中を押した。次に迫っていた幽鬼は、味方へ刃を振るうのを抑えたのだった。
やはりレイナルドの剣術は巧みであり、圧倒的だった。素人であるオリヴィエールからもそう見えた。まるで、あらゆる剣術に対して、防ぎ手と攻め手を心得ているかのような落ち着きぶりであった。
さらに言えば、一度たりともレイナルドはその立ち位置を変えていなかった。オリヴィエールを守るためだ。彼の騎士たる戦いは、確実に魔の手からオリヴィエールを守っていた。
「どうしましたか、手を抜かないでください。もしくは逃げてください。さもないと、この者のようになりますよ!」
自分が倒した者を剣で示しながら、レイナルドから発されたのは明らかな挑発だ。殺気を相手へとぶつける。幽鬼たちは怯みはしなかったが、わずかに身を退いた。
彼は苛烈だった。弱きを助けるが、ひとたび剣を持った者に容赦はなかった。騎士の作法が説かれて久しいが、それは元来、騎士というものが激しい気性を持っているからだ。抑えの利かなくなった騎士は、野盗と化した傭兵と差がない。荒々しい戦士の体現を、オリヴィエールはいままさに見せつけられていた。
それでもなお、レイナルドは冷静だった。釣ろうとする相手の動きに対し、自分は頑なに動かないという意志を示していた。
ほっと安心する。思わず尻餅をついてしまった。それが仇となった。
突然、オリヴィエールは押し倒された。レイナルドが自分の名を叫ぶ。それと同時に顔を覗き込んでくるのは、幽鬼たちと同じように外套で身を隠した人物だった。暗くとも、これだけ近ければ、相手の顔を見ることもできる。
その特徴は、多くの幽鬼と似ている。尖った顎に、肉つきは悪い。血色も悪そうだった。そして、覗かせているのは牙だ。鋭い犬歯は、まるで狼か蝙蝠の牙を思わせていた。
「獣め! 狼男め! 悪魔め、人の血を食らう者め、立ち去れ!」
オリヴィエールは叫ぶ。ありったけの罵詈雑言を畳み掛けた。自分の顔を覗き込んでいた幽鬼の顔が、一層歪んだ。明確な怒りと、悲しみだった。
幽鬼はオリヴィエールの首を締めた。片手であったが、握るには十分な強さだった。息ができない。苦しみは一気に跳ね上がり、ゆるやかに退いていく。感覚が遠のいでいるのだ。視界もぼやけていく。
手は自然とロザリオへと伸びた。するどい先が手に食い込む。それが意識をどうにか保たせた。腕を振り上げようとして、幽鬼がその手を止めた。手首からは感触が伝わってくるが、とてつもなく冷たく感じられる。
やはり、人ではないのだ。このようなものが人であるはずがない。悪鬼に違いないのだ!
叫びたくともできなかった。やがて意識の手綱を握ることすら困難になってきた。ロザリオを握った手もほどけていく。
「オリヴィエール!」
名が呼ばれた。何度も、何度も叫ばれる。
目の前から人が退いた。肺に一気に空気が流れ込んで、むせる。唾が溢れてきて、仰向けに寝転ぶのが苦しくなった。ふらつきながらも立ち上がると、そこには騎士と幽鬼が、わずかに欠けた月を背景に向かい合っていた。
他の幽鬼は、一人がさらに倒れており、二人は手負いであった。どちらもレイナルドがやったことは疑いようがなかった。
「これまでです。貴方たちが私たち、いいえ、オリヴィエールを狙っている理由は自分たちの悪事の露呈を防ぐためでしょう? であれば、無駄だとあえて言いましょう。
敬虔たる信徒にして司祭オリヴィエールは、聖堂の騎士たるこのレイナルド・コランの庇護下にあります。私がいる限り、何人たりともこの者に危害を加えることはできません。
さあ、我が剣の錆となるか、この場を去るか選びなさい。これ以上、死者の眠る地を荒らすことは私の望むところではない。貴方たちにも人の心があるならば、眠った友のことを思いなさい」
わずかな間に、レイナルドはいくつもの致命的な言葉を残していた。それはオリヴィエールだけが気にかけていたことであり、幽鬼には関係のないことではあった。
果たして、相手はどのように動くのかと思えば、思ったよりも聞き分けよく撤退をするようであった。それぞれが油断なくレイナルドを見ながら、ゆっくりと退いていく。複数人であっても敵わない相手に、手負いの状態で勝てると思うほど甘くはないようだ。斬り伏せられた仲間を連れて、彼らは再び闇へと消えていく。
残ったのはオリヴィエールの首を締めた者のみだった。春先ではあったが、冷たい風に外套を揺らしながらじっと二人を睨んでいる。
「オリヴィエール、そして、レイナルド」
名をつぶやいた。言葉には訛りがあったが、オリヴィエールにはそれがどの地方の訛りなのかはわからなかった。少なくとも、フランスの者ではないように思えた。
「その名、その顔、覚えたぞ。
恐怖せよ。我らは竜の力を持つ者である」
そう言って、ついにその者も姿を消した。どうやら彼が隊長格なのであろう。真っ当な隊を率いる者であれば、引き際は自身を最後にすることが常識になっている。情け容赦のない傭兵隊であってさえそうするのだから、間違いない。
墓地には再び、静けさが戻ってきた。レイナルドが剣を納める音が、金属楽器の音色のようにさえ聞こえた。
振り返ったレイナルドが、オリヴィエールの様子を見て、安心したようにため息をついた。
「落ち着きましたか、オリヴィエール。握られた首は……しばらく跡になってしまいそうですが。
それに、彼の言葉を聞きましたか。竜の力と言いました。私にはそれは不明ですが、しかし貴方を狙う者は強大なもののようだ。これ以上、この噂を詮索するのはよした方がいいでしょう。ここから先は私に任せていただけませんか」
「馬鹿言え、レイナルド。ここで引けるか。確かに恐ろしくはあるが、ここで退いては……矜持に関わる。一度やると決めたことは、やるのだ」
有り体に言えば、くだらぬ意地であった。悪魔になど負けてたまるか、という思いだ。
聖職者であってさえ、悪魔に怯えることはよくあることであったが、ここにおいてオリヴィエールは異様な頑固さを見せた。自分が並大抵の聖職者ではないという証明と、これからの出世にも関わる。
それに、レイナルドは彼らに「人の心」と言った。オリヴィエール自身も、人ではないと罵ってみせたが、思い返してみれば首を締められたとき、牙を突きたてればいいだろうに、彼はそうしなかった。そのことがオリヴィエールを戸惑わせていると共に、思考を巡らせることになった。
その態度が正義感に見えたのだろうか。レイナルドは微笑んだ。こいつが女であれば惚れていただろうな、とオリヴィエールは思った。
「いや、そんなことよりもだ、おい、レイナルド」
「なんでしょう?」
「聖堂の騎士……とはどういうことだ?」
しまった、という顔を浮かべるレイナルド。
この迂闊な騎士を放っておくのは、やはり得策ではない。オリヴィエールは頼りになるはずの彼に、保護欲のようなものを抱いていたのだった。