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墓で起きる者

 共同墓地は、現教皇であるクレメンス六世が黒死病の蔓延による墓地不足を解消するために増設したものであった。その財産によって買い取った土地である。あちこちに新たに立てられた共同墓地であったが、いま二人がきているこの墓所は、アヴィニョンの城壁を越えて東に位置している。

 溢れ出た死者の行き場として作られたこの墓地には、庶民の誰にも読めないラテン語によって名や葬送の言葉が刻まれており、しかしその文字列があるだけでありがたがられていた。

 この共同墓地も一万を超える数の死者を収めてみせたが、すぐにいっぱいになった。墓地はついにローヌ河へと移されたのだが、その当時は深く感謝されたものであった。ローヌ河も教皇自らが祝福を施したとして、いまでは多くの人がそこへ死した家族を流していた。死者で溢れる河は、見ていて気持ちのいいものではない。せめて無念を連れて行くがいい、とオリヴィエールは思っていた。

 尤も、ローヌ河はアヴィニョン教皇庁に圧力をかけるフランス王国との境であり、川を跨いでいるサンベネゼ橋はその象徴でもあった。河に死者が溢れているのは、ともすれば、フランス王国への当てつけであったのかもしれない。お前たちの築いた屍によって、ここを越えることは能わじ、と。死者を越えてやってくる度胸があるのであれば、という意味をもたせて。

 オリヴィエールは、その共同墓地へ足を踏み入れたことは一度もなかった。いいや、墓地に一度も足を運んだことのない聖職者などは溢れているから、決してオリヴィエールが特別であったわけではない。

 街の外に作られた共同墓地には、日も暮れていることもあって、もうすでにほとんど人がいなかった。死を悼む者にだって生活がある。日が高いうちにやってきては、暮れる前には帰る。それが人の生き方であった。


「それで、ここに動く屍体が現れると?」

「私はそう聞いている。日が暮れたときに現れる人影はゆらめき、力なく歩いている。そして生者を見つけると、にやりと笑うのだという。

 はっきりとこの目で見るまでは何も言えないが、まったくもって馬鹿馬鹿しい。けれども状況として、無視することはできない。少しでも知りたいのだ」


 オリヴィエールは動く屍体など冗談か何かにしか思っていない。主の御業なればわかるが、一人でに死者が立ち上がるなど、ありえるはずがないのだ。

 見渡してみれば、そこにいるのは未だ泣き呻く人々だった。見れば、子をなくした母が名を呼びながら咽び泣いている。嘆かわしいことだ、とオリヴィエールは思った。

 救うことはできない。彼女にとっての救いとは何か、オリヴィエールにはわからない。金を与えれば納得するか、家か食事か。そんなことしか思い付かない自分が寂しく思えてしまうのはなぜだろうか。

 それとともに、オリヴィエールは母を泣いてる女の姿に重ねた。自分が死んだとき、彼女は泣いてくれるだろうか。自分を失ったことが悲しいだろうか、あるいは己の野望を果たせなかったことを嘆くのだろうか。

 すると、レイナルドが前へ出た。女へと歩み寄っていく。


「いかがなさいましたか」

「ああ、ああ、騎士様」


 女はレイナルドにすがった。レイナルドはしゃがみ込んで、女と視線を合わせる。


「息子が亡くなったのです。可哀想に、まだよわいは四つ。

 なぜ自分が苦しんでいたのか、なぜ自分が死んでしまったのか、そもそも死とは何かわからないままなのです。死した先に何かがあるという救いの存在すらも知らないままに、逝ってしまったのです。

 まして、この身は夫を失い、身売りをせねば子を養えないほど落ちぶれてしまっております。そうまでして、息子を守ることは叶いませんでした。

 そしてなにより、亡き父も知らぬ息子は、共に行く勇気を持てなかった、天国へと行く自信のなかった私のために、あの世においても一人なのです。私は夫の孤独も、息子の孤独も癒すことのできない、愚かな女なのです。だから祈るしかない、己の無力を呪っているのです」


 女は咽び泣きながら言った。敬虔なキリスト教徒だった。教会で告解すべき内容を、恥ずべきとして腹にしまっていたのだろう。墓場まで持っていくのだ、と。

 レイナルドは彼女に向けて口を開く。


「ならば、貴女のご子息は幸せでしょう。

 この世にあって、人が他者へ与えられるものの中で最も尊きもの、愛を授かったのですから」


 その言葉を紡ぐレイナルドは、オリヴィエールには輝いて見えた。

 女が顔をあげた。揺れる瞳が騎士の顔を捉える。


「さあ、立ちなさい。 貴女の中の光が、ご子息の帰ってくる場所なのです。その光をなくさぬようにしてください。死者が道に迷わぬように、生きるのです。

 そして安心なさい。死後の彼を愛するは、主のことわり。彼はこの世の者もあの世の者も等しく、私たちが誰か一人に注ぐような愛をくださります」


 レイナルドは淀みなく、聖句を唱えるように言った。女は泣きながらレイナルドの瞳を見ていた。虚ろだった女の瞳に、光が灯っていくのを感じた。

 きっと、聖人とはこういう人物なのだろう、とオリヴィエールは思った。

 彼女は立ち上がると、レイナルドとオリヴィエールに礼をして、墓場から立ち去った。ふらふらとしているものの、視線をまっすぐにして歩いている。先ほどまであった弱さをそのままに、しかし力強さを内包していた。心強さまであった。

 その後ろ姿を見送って、オリヴィエールはレイナルドへと近づく。安心しきっている彼の顔を見て、思わず自身も顔を綻ばせるのであった。


「素晴らしい言葉だった。貴殿の言葉であればこそ、だな」


 それは皮肉だった。自分へのだ。そのことをわかっていながらも口にせずにはいられなかった。

 彼女が嘆いたように、オリヴィエールもまた無力であった。告解を聞くべきは司祭たる自分であった。救えぬとわかれば、手を差し出すことも躊躇ってしまった。どころか見放してすらいた。以前ならそのことを恥じることはなかったろうが、目の前にはその彼女へ言葉をかけ、救えずとも前を向かせたレイナルドがいたのだった。自分より優れた者を見れば、比較してしまうのが人というものである。

 レイナルドは、ありがとうございます、と言って礼をする。


「大したことは言えておりません。ただ、少しでも彼女が前を向ければと。これからは彼女次第です。主は常に彼女を見ておりますから、これからの彼女の行いこそが救うことになるでしょう」

「いいや。少なくとも、彼女を助けようと思い動いた、それは尊いことなのだろう。

 わかっていたとして、できるかどうかは別だ」


 そして、それこそが、人を救う道に他ならない。

 己にできなかったことを成し遂げた者へ、オリヴィエールは最大の賛辞を送った。

 主は無力だ。己を救えなかった救世主が残された者どもを救えるのか。そう言った教皇がかつていた。四十年ほど前に座したボニファティウス八世であった。キリストの無力を公言し憚らず、その教えさえ学問の一派と片付けた。彼をこそ異端であると言った者も少なくない。かのダンテ・アリギエーリなどはその著作の中で、彼を魔王と同じかそれ以上の悪であると語った。一方で、知こそが人を救うとも考えていたらしく、学問所の整理と編纂を命じたりなどしていた。

 オリヴィエールはその話を聞いて、驚きはすれど納得することはあった。主が力を持っているならば我らの苦しみとはなんなのだろうと。そして、主に代わり人々の声を聞き、主の嘆きを癒すことこそが自分のできることなのではないか、と夢を見たこともあった。若かりし頃の夢であった。

 レイナルドこそがそれを実現する人物であるかのようにオリヴィエールには思われた。

 当の騎士は、戸惑ったような顔を浮かべていた。驚いていると言った方がいいかもしれない。


「貴方がそんな風に、誰かを褒めるような人とは思わなかった」

「その認識は間違いだな。私は、私が尊敬するに値した者は褒めるさ」

「なら、その期待に応えられるようにしなければなりませんね」


 レイナルドはそう言う。爽やかな笑みが癪に障るが、視線を外すことはできなかった。

 二人は共同墓地を見て回った。なにか変わったことがないか、聞いて回っていた。とりわけ、屍人が墓から出てくるということは、墓の中から何かが這い出た跡があるはずなのだ。土を積んだ跡であったり、掘り起こした跡であったりを見つけられれば、大きな手がかりとなる。

 だが、二人は注意深く探したが、見つけることは叶わなかった。やはり死者が蘇り歩くなどという噂は嘘だったのだろう。先ほどのように一日中泣きはらした者を、屍と見間違えた何者かがいたに違いないのだ。噂などそんなものだ、とオリヴィエールは思った。

 死者へのせめてもの慰みに、とばかりに十字を切った。彼らの無念を知ることはできないが、ここに眠る者を覚えていようと。


「オリヴィエール、これを」


 レイナルドはオリヴィエールを呼び止めた。慌てて駆け寄ると、そこには地面を大きな石などで擦った跡があった。

 足で踏みならされているからか、暗くなりつつある中では注視していても、そこに何かがあると知っていなければ気づけなかった。


「ふむ、これは、墓石で引きずっている跡だろうか。だとすれば、ここにあるのは尋常の墓などではなく……」


 そっと、墓石に手をかける。感触が他のものとは違った。軽いような感覚だ。数人がかりで運ぶはずのものであるが、これならば自分一人でも運べそうだとも思うほどに。

 念のため、レイナルドに助けを請おうとしたときだった。剣の抜かれる音がした。レイナルドがその手に複雑な機巧がなされた剣を握っている。


「囲まれています。昨晩、私たちをつけ狙った者でしょう」


 思い出したのは、あの火事のとき、レイナルドが凶手の手より奪ったという短刃ナイフだった。戦うには心許ないが、人を殺めるには十分な凶器を向けた者がいる。その者たちはあの牙を持つ者の仲間だろう、と怯えていたのは今朝のことだった。

 立ち上がって周りを見てみれば、墓となっている十字架や石の間から外套を被った人物たちが、炎のように揺らめいている。まるで地面から湧き上がってくるかのようにも見えていた。

 四人、五人と姿を表していたが、もしかするともっと多くの人物が隠れていて、自分たちを狙っているかもしれなかった。


「オリヴィエール、動かぬように。大丈夫です。私が守りますから」

「馬鹿言え。そういうのは貴婦人に言うものだ」

「貴方の力は貴婦人とそう変わりませんよ」


 軽口で返ってくる。そのことにオリヴィエールはわずかな安心感を覚えていた。

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