闇を追う者
オリヴィエールは宿に赴いた。レイナルドとの待ち合わせ場所であった。〈アントンの宿屋〉は看板に書かれた名前だ。フランス語とイタリア語、ゲルマン語、そして拙いラテン語によって書かれていた。教皇庁がここに移される前からあったのか、フランス語とイタリア語は付け加えられる形で書かれている。
アヴィニョンはプロヴァンス伯領であり、すなわち神聖ローマ帝国なのである。主に使われているのはフランス語であったが、それは教皇庁の者の多くがフランス人だからであって、市井ではイタリアからの流入者で溢れかえっており、地元の者は神聖ローマ帝国の言語に準じている。渾沌とした状況であった。
目当てのレイナルドと言えば、宿屋に一階の端で女を侍らせていた。このとき、宿屋とは居酒屋とひとつになっており、そこは娼館に雇われていない娼婦の溜まり場でもあった。安価で保証のされていない者たちで、相手にするのは決まって安い男たちであった。
見目は娼館の者と変わりないらしいが、どうもその態度や、技量というものは段違いなのだと同僚がかつて語っていたのを思い出した。
レイナルドはオリヴィエールを見つけると、寄りかかってきていた女を離した。
「ねえ、もうお話は終わり?」
「申し訳ありません、約束がありまして。また明日にでも」
二人がそんな会話をする。どうやらレイナルドが買い取った女などではなく、女の方がレイナルドに夢中らしい。
それも無理もない、と思った。レイナルドは見目が整っていて、こんな安宿など不釣り合いであった。上品でありながらも笑顔をずっと浮かべている彼は、男のオリヴィエールからも魅力的に見えた。
獅子を思わせる金髪は少し赤みがかかっていて、特に青の瞳は惹きつけられる。二重で大きく開かれていて揺れている瞳は、暗闇の中でも輝くのではないかと思うほどだった。
名残惜しそうに去っていった女を尻目に、オリヴィエールはレイナルドの向かいに座った。
「どんな話をしていたんだ?」
「私の師の話ですよ」
「ほう、さぞかし立派な御仁だろう?
貴殿の剣技もさることながら、所作も洗練されているのは私でもわかるほどだ。それを教える者は優れた者に違いないのだ」
「ありがとうございます。もし私が人にとって善く見えるのだとすれば、譽れを受けるべきは我が師でしょう」
レイナルドはそう言った。その在り方は、オリヴィエールには眩しすぎた。
「それを言うなら、オリヴィエール、貴方もよい師を得たのでしょうね」
「私はそんな立派な者ではないぞ」
「いいえ、それは謙遜です。私は貴方のような者が聖職者にいると知って、希望を持ちました。
特にこのアヴィニョンでは貴重でしょうね。この空気の中で自分を保つことがいかに大変か、よくわかります」
なるほど、他の聖職者たちの堕落ぶりを見れば、オリヴィエールは模範に照らし合わせて至極まっとうな聖職者であるだろう。もうひとつの貴族社会となってしまった聖職者界隈は、憧れとやっかみとしがらみに囚われるようになってしまった。確かに、一見敬虔なキリスト教徒であるオリヴィエールは貴重だろう。
それはむずがゆく、そして間違いだ。だが、言ったところで仕方がないことだった。むしろそのように勘違いしてもらった方が都合がいい。
けれども、だ。自分がレイナルドに告げた言葉を自分に当てはめると、師とは母のことである。それにはいささか複雑な思いを覚えた。
「それで、今日は共同墓地へと行くのですね? 〈テンプル騎士団の呪い〉を解くために」
「無論だとも、レイナルド卿。だが、その前に伝えるべきことがある。
女王ジョヴァンナ。知っているかと思うが、彼女がここにやってくることとなったそうだ」
「ジョヴァンナ? どなたですか、それは」
レイナルドがそう言った。世間知らずな者でも知っていると言ったが、前言撤回だ。目の前にいるようなよほどの世間知らずならば、彼女のことは知らないようだ。
「貴殿は本当に騎士か? これは常識だぞ」
「むっ、失礼な。確かに騎士とは身分でありましょう。けれどもテンプル騎士団をはじめとし、ヨハネ騎士団やドイツ騎士団を思い出してください。騎士とは心でなるものです」
それは確かに。オリヴィエールは思った。自分の早とちりがすぎたと。
ごほん、と咳払いをして、レイナルドは尋ねた。
「それで、そのジョヴァンナとはどなたなのです」
「この地の本来の持ち主、と言えばいいだろうか。
そして我ら教会にとって重要な地の女王であり、その身はナポリに置いている」
「ですが、彼女が有名なのはそれだけではない、ですね?」
瞬きを繰り返してレイナルドは言った。オリヴィエールは頷く。
「まず第一に、彼女は絶世の美女だ。
いや、どこかの姫が美女だとか、そういう噂はよく流れるものだが、彼女は格が違うと言われている。ある詩人は、呪われた黄金に例えていたよ」
「それはなんというか……そそりますね?」
「うん?」
レイナルドは「忘れてください」と言うから、オリヴィエールは気にしないことにした。
「そして何よりもだが。
彼女は前の夫を、自らの手で殺めたという疑いがかけられている」
「…………」
レイナルドは目を細めた。彼なりに思うところがあるのだろうか。
「もちろん、疑惑であるから、確定ではない。あまり真に受けないように……とは言うが、まさにいまその真偽が問われているのだがな」
「はい。ですが、女王がどうして疑われるのです?」
「簡単に言えば、その夫を殺めた者に女王の乳母や関係者がいたこと、そして女王もまた、その現場の近くにいたにも関わらず感知していないと言っていること。そして結婚当初から、公然と懇意にしていた愛人がいた。
……この三つが彼女を疑う要因だ」
「なるほど」
レイナルドは腕を組んで唸る。確かに、証拠と言えるものはない。ただただ、疑わしきことがあるというだけ。それも、疑うには十分なほどに状況が整っている。
「その身の潔白を教皇聖下に委ねる、ということですね」
「そうだ。だが、形式として裁判という場でその決着をつけなければならない。そして現状は女王の不利であろう。いまこのとき、彼女を許してしまうのならば、アヴィニョン教皇の威信は揺らいでしまう。
さらに言えば、すでに相手方の弁護士は到着している」
「相手方は?」
「ハンガリー王国。かの女王の、亡き夫の出身国だ」
それは、とレイナルドは言った。だが、その先を口にはしなかった。
ハンガリー王国はナポリ王国と戦争状態にある。理由はかつて王子であった者の死はナポリ女王の陰謀によるものだとしたのだった。経過としては、ハンガリー王国のラヨシュ王はナポリ王国まで遠征し占領しており、ナポリ女王はプロヴァンス伯領へと避難している。戦力差はゆうに二倍から三倍あったと言われている。現在は黒死病によってハンガリー軍に被害が出たために撤退しているが、両軍の緊張状態は続いたままであった。
そして、それはつい最近にあったことだった。
「……この事態の混迷と、呪いの噂がどう関係してくるというのです?」
苛立ちを隠さずに、レイナルドは言った。
彼はそもそも、〈テンプル騎士団の呪い〉という噂に否定的であった。もしかすると、テンプル騎士団の関係者なのではないかとオリヴィエールは思っているが、お互いの信頼関係のために黙っていることにした。
「この呪いを仕組んだ誰かが、この時機を見計らっていたのではないか、ということだ」
「つまりどういうことです? わかりやすいように言ってください」
「かの女王を如何様に裁くかによって権威を示すおつもりなのだろう。そしてそれを、知っていて利用しようとする者がこの街にはいる、ということだ。呪いの名によって女王を葬るか、あるいはその噂によってそもそも女王がアヴィニョンへ踏み入れることを躊躇わせるか。私ならそうするだろうな。
ともあれ、かのナポリ女王を貶めるための罠か、教皇の権威失墜を狙う者か。わからないが、ここで何かが起こるに違いないと考えている」
なるほど、とレイナルドは言った。
オリヴィエールは焦っていた。一刻も早く、呪いについて何かしら調べる必要がある。人為的なものか、偶発的なものかはわからないが、突き詰める必要があった。
「状況は理解できました。確かに、こんな呪いを仕組んだ者であれば、そのような回りくどい方法をも取りかねません」
レイナルドは言った。
「回りくどい方法をとる者は、得てして大きな敵であるでしょう」
「根拠を聞こうか」
「簡単なことです。短絡的な方法をとる者には余裕というものがない。それは力についてです。財力、武力。逆に言えば、もし〈テンプル騎士団の呪い〉なるものを仕組んだ何者かがいるとすれば、いますぐに採算がとれずとも、いずれ益になるはずだと計画できる者のことです。
剣の道にも通じます。最後に一太刀を浴びせれば、命のやりとりは終わります。けれども戦いの最中で余裕をなくせば、剣は大振りになり、そして隙を多くみせることでしょう。しかし、余裕のある者ならば。一挙一動のすべてがわずかでも勝利への一歩に繋がると知るのです」
「剣の術理に心得はないが、わかる気もするな。
であれば、いま我らが相手するべき敵をどのように心得る?」
「無論、一国どころではなく。もしかすると、このキリスト教世界すべてを巻き込むことだって考える者でしょう」
オリヴィエールは、ごくり、と息を飲んだ。
果たして、自分が何を相手にしているのかわからないでいた。大きな悪意が潜んでいることは間違いないだろう。だが、敵は超常のものか。あるいは尋常でない者か。それとも、それらを利用し翻弄する者がいるのだろうか。
そしてすでに、ことはアヴィニョンに留まらなくなっている。国同士であれば、アヴィニョンという異国の地でありながら監視し圧力をかけるフランス王国が関わり、フランス王国が関わることであればイングランドにも関わる。裁判ではナポリ王国とハンガリー王国が核となる。
アヴィニョン教皇庁を中心として何かが起こっている。オリヴィエールは緊張していた。唾を飲み込む。まぶたの裏に牙を持つ者の姿が蘇った。やせ細った幽鬼のごとき姿が、大きく感じられた。
「大丈夫ですよ」
レイナルドが言った。変わらない、強い笑顔だった。
「私がこの闇を照らしましょう。大丈夫、明日もまた日は登るのですから。ですから、歩むことを忘れないことです」
「やめない、ではなく?」
「人はそれほど強くありませんから。立ち止まっても、ただ歩むことはできるというのを忘れない。それだけで上々ではありませんか」
なるほど、と頷くので精一杯のオリヴィエールであったが、不思議と気力が湧いてくるのを感じていたのだった。