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聖母気取り

 オリヴィエールの生まれははっきりしている。私生児であった。

 この時代においては私生児は珍しくない。というのも、傭兵団があちこちを襲っては女を孕ませていたし、さらに言えば、不倫や婚前交渉も行われていた。娼婦だってあふれていて、キリスト教徒の数は多けれど、それをしっかり守ろうとしている者はほとんどいまい。よほどの世間知らずだろう。

 だがときに、そうした世間知らずを騙そうとする者がいた。そして強引さ以外によって押し通ろうとする男とは、知恵と知識のある者であり、そういう者は聖職者であった。それが父であった。

 母は貴族の娘であり、敬虔なキリスト教徒であった。貴族において息子は跡取りであり、娘はつながりを強めるための道具だった。だが、多くても意味がなかった。特に娘については、嫁がせる際の持参金や、いわゆる嫁入り道具などにかかる費用を考えると、家ごとに適度な数というものがある。まして貴族も貧しくなっていく時代でもあった。

 では、そうしたあぶれた娘はどこへ行くのかというと、多くは修道院であった。修道女として生きていくために聖書の読みや儀礼の方法などの様々な教育と生活の習慣を身につけるのである。当時の女性からしてみれば、ラテン語などの教養は男性のものであったために、それを学べる修道女というのは憧れでもあった。修道院としても、貴族や商家から預かる際の持参金は貴重な資金源であったから、快く受け入れられていたのである。

 そこで育った娘たちは、いわば世間擦れしてない、純真無垢な者たちであった。女特有の世間話に興じながらも、真っ白な処女たちである。母はまさにその典型であり、おまけに弁舌を振るう者にめっぽう弱かった。

 そんな処女たちを食い物にする者もいて、オリヴィエールの父である司祭がそれであった。司教、すなわち高位聖職者の候補者であるその者もまた貴族の出であり、オリヴィエールは私生児ながらに高貴な血を受け継いでいることになる。

 果たしてどのようにして言いくるめられ、騙されたのかはわからないが、母は修道院の司祭にその身を捧げてしまった。おおかた、キリスト教的な魂の救済だか、あるいは天国での幸福を約束されたのだろうか。少なくとも愛を囁かれたわけではないだろう。交わりもただの一度のはずがなく、どのときかは知らないが、オリヴィエールはそうして身篭られた。

 オリヴィエールは母が美化していた思い出をそのように解釈していた。そしてそこからは、オリヴィエールが生まれたあとの話になる。

 無論、子を持つ修道女などいてはならない。建前でしかなくなっていた戒律は、しかし建前を守るためには容赦はなかった。実家へと帰らされた母はオリヴィエールを産んだあとに、ともに地元の商家へと嫁ぐことになった。裏で何らかのやりとりがあったに違いない婚姻ではあったが、己の地位を守るために母はそれを受け入れたのだそうだ。

 だが、それだけで終わらなかったのがオリヴィエールの母であった。


「この子は偉い司教さまにするわ。ええ、それが一番だわ! きっと主も、それをお望みくださるはずよ!」


 そう言って、オリヴィエールを聖職者にすべく教育を始めた。この時代において、女性ができることと言えば不倫か自分の子への教育のみであった。そしてその身を恋がためでなく救済のために捧げる母には、もはや好意や愛などの情の対象は人には向けられていなかった。天上の主のため、と言われれば、彼女はどんなこともするだろう。

 ともすれば聖女の資質を持っていた彼女であったが、生来の愚かさと中途半端な教養が仇となった。身を守るために、あるいは自我を守るために、それらは振るわれた。

 私生児であるオリヴィエールは実家である貴族の財産を継ぐこともできず、さりとて商家でもよい待遇を受けていたわけではなかったから、すがる先は母の言う教育にしかなかったのである。

 ラテン語を含め、様々な過去の物語や作法を習った。幸いにして、頭の出来は顔も知らぬ父から受け継いでいるようで、努力を重ねればその分だけ成果が出るようになった。

 一方で、母の愚かさも幼なながらに理解をし、周囲の陰口をもわかるようになっていた。決して悪意を向けて荒れたわけではなかったが、母に対して、ひいては女性に対する嫌悪感を覚えつつあった。教えにあるように、聖職者は妻帯しない、淫行に走らないというものを盾にするようになった。

 そんな折、オリヴィエールは母と話す機会があった。ある程度の判断力を身につけた彼は、母を見定めようと思ったのである。


「母上、どうして私に聖職者としての道を歩ませようと思ったのですか」


 商家となれば成功していただろうか。少なくとも武の道は歩めそうになかったし、受け継ぐ資産などどこにもなかったから聖職者として、せめて貴族に近い道を歩ませようと思ったのだろうか。

 この時代において、領地を持つことを許された聖職者は貴族と大きな違いはなかった。主人に王を頂くか、教皇をおくかの違いでしかなかった。ただし、そのためには人脈といくばくかの金がかかるが、母の実家と商家がそれぞれを担うことで賄うことができた。身内から聖職者、それも司祭や司教となる者を輩出することは名誉なことであった。

 だが、その環境が整っているからといって、母がどのような想いを抱いているのかは別問題だった。

 オリヴィエールの問いに対する母の答えは恍惚の表情とともにかえってきた。


「だって、あなたが立派な聖職者様となって世の者たちを導けば、きっと主は私をお認めになるわ。よくあの者を産んだ、なんて仰って、私を遥かな天の国に導いてくれるに違いないの」

「母上は救われたいのですか。そのために私を産んだのですか」

「いいえ、そんなことはないわ。でも、自分の子をそういう風に育てたかったのよ。聖母マリアのように、我が子を慈しみ、育み、そしてやがて世を救う者となるべく

 それって素敵なことだと思わない? ねえ、そうでしょう?」


 乙女のような顔で彼女は言った。我が儘な願いだった。愚かにも原罪ある身ながらに無原罪の御宿りを果たした聖母と身を重ねているのであった。そしてこれが、この女の本性でもあった。他者のため、世のため、そんな美辞麗句と並べながら利己的な生き方をする、そんな女だった。

 聖母マリアへの崇敬が高まっていたのはこのときだった。神への取りなしをなす仲裁者であり、乙女としてかくあるべしなどとされていた。パリではノートルダム大聖堂がマリアに奉献されて建てられたこともそうであるし、聖母マリアへの祈りのルミナチオも唱えられるようになり、彼女が人々の前に姿を表したと言われる地などは巡礼の目的地にもなっていた。ときに主以上の存在になることもあったのだった。

 母は、自らを聖母と重ねて自惚れるような下らない女だ。その性はむしろ淫売そのものであった。一心不乱に献身できればよかっただろうが、我が身を守ろうとする賢さがあった。その中途半端さが自分と誰かを不幸にしていくのだ。

 魔女め、と罵ることができればよかった。しかし、母にそのような言葉を向けられるほど、オリヴィエールは恥知らずではなかった。

 だが、このときである。オリヴィエールの女性に対する姿勢が定まったのは。

 端から見れば敬虔な教徒である彼は、たちまち聖職者として成り上がっていくことになる。貴族の血筋と商家の資金力から周囲に慕われるようにもなった。男であろうと女であろうと、平等に扱うその姿は、もしかすると母の望んだものであったのかもしれない。

 その根元は信仰とはほど遠い場所にあったのだったが。


 語り終えて、オリヴィエールは深いため息をついた。

 こんなことを誰かに話したことはなかった。いいや、話すつもりもない。自らの手で主の元へ送り届け許されようといままで耐え忍んできた。

 もしかすると、昨夜の出来事からの恐怖感がそうさせていたのかもしれなかったが、オリヴィエールはなおも気丈に振舞おうとしていた。


「お前の出生については、あいわかった。

 なるほど、同情しよう。零落した女の末路であろうな」


 そうしてギュスターヴは葡萄酒を口に含んだ。

 勧められたが、やはり断る。どうせこのあとにまた外出をしなければならないし、後に蒸留酒を薄めたものを飲まなければならないのだから、いまのうちに飲んでいては酔いが回ってしまう。

 清潔な水などどこにもなかった。だから代わりに、酒を飲んで喉を潤していた。


「だが、女というものは時に、男には考えもできないことをしでかすものだ。

 常ならば世に蔓延る常識を盾に自らを守るものであるが、そんなものなど知らぬがごとき言動をすることがある。君の母のようにね」


 ギュスターヴは椅子に深く腰掛けた。盤上はすでに決着がついていた。どこがよかったか悪かったか、など試合ゲームの感想を聞いていた。

 彼が抱えている、女性への思いはよくわからなかった。一方でオリヴィエールには、その思いはただ一人に向けられているようにも感じられた。


「事態は厄介になってきているのだ、オリヴィエール。それも女によってだ」

「どういうことです?」

「一週間後、彼女がやってくる。ナポリ女王にして、シチリア、エルサレムの両王国の王を兼任し、アカイア、フォルカルキエ、そしてなにより、ここアヴィニョンを含むプロヴァンス伯の称号を持つ、彼女が。

 その身にかかった疑いの、潔白を示しにね」


 驚いただろう? とギュスターヴは言った。

 思わず、つばを飲み込んだ。オリヴィエールは知っている。彼女の名を。いや、おおよそ、彼女の名を知らぬ者はこの世界にはいないだろう。

 ナポリ女王ジョヴァンナ。絶世の美女として、そしてこの世で最も罪深き女として、名を馳せている者である。いま彼女はその身に嫌疑がかけられている。それは二国の戦争を引き起こすほどのものであった。

 オリヴィエールは、自分の手の中に握られている白の女王を見た。

 まさに、大胆な一手であった。

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