ロゼ・デ・マリー
あの晩、オリヴィエールは一目散に自分の寝床へと向かっていた。相対する者を冷静に分析しながら、一方で相手の存在に震えていた。血を滴らせるあの男の顔を思い出して泣き、その彼らから差し向けられた刃物に怯える。
一晩経ってみて、朝日を拝んだことのなんと落ち着くことか。この明るさの下に陰謀が張り巡らされていても、目の前に怪物じみた者の現れないことがどれほど救いになることか。
この朝日を前に生きていることへ感謝を捧げ、そのために慣例となっている朝の祈りは、皮肉にも純粋なものになったものだった。
そんなオリヴィエールは再び、ギュスターヴの部屋を訪れていた。厳密には、朝に報告を終えたオリヴィエールをギュスターヴが捕まえたのである。彼はまた「戦争ごっこをしよう」と言って、盤を広げた。趣味だ、と言っていたが、オリヴィエールと話すための口実に過ぎないのだろう。こうして若い者を見つけては相手をさせて、からかっているのだ。むしろそちらの方が彼の趣味であり、それもあまりいい趣味ではない、とオリヴィエールは思った。だが枢機卿の誘いであるから、下手に断るわけにもいかない。
椅子について、どれくらいが経っただろうか。いくつか世間話をして、試合は続いていく。盤面は終始、ギュスターヴの黒が有利であった。どうにか一矢報いようとするも、オリヴィエールは活路が見いだせないでいる。
向かいに座るギュスターヴは微笑んでいるのみで、なにを考えているかはわからない。年の功による狡猾さが滲み出ていた。
「それで、調査はどうだったのかね」
「ご存知でしたか」
「我々とて元は貴族だ。集まって世間の話をしていれば偉い気になっているのだよ。
そこで、さる司祭に出回っている『呪い』の噂の調査をさせているというではないか。しかも聞き覚えのある名前だ。少しばかり、知恵でも貸そうかと思うのが自然ではないかね」
くつくつ、と笑うギュスターヴに、オリヴィエールは底知れなさを感じていた。なにが狙いなのか、と思わずにはいられなかった。
駒を進める。それが痛手だったようで、置いたあとにしまった、と感じた。物事は、なにかをした後に痛みを感じさせる。どうして、失敗とはしてからでないとわからないようになっているのだ、とオリヴィエールは思わざるを得なかった。
「散々な目にあいました。上には、ろくに伝えられず仕舞いですよ。
きっと『主への冒涜である』と言われて、それまでです」
「ほう? 聞かせてはくれんかね」
オリヴィエールは迷いながらも、伝える。前の夜でのあらましを。人の血を啜る人、不審な火事、消えた亡骸……点でしかないものを線で結ぶようにだ。
レイナルドのことは通りすがりの騎士とぼかして説明する。彼とこれからまた会うことなどは黙っていた。彼の正体がわからない以上、口外すればレイナルドを、そして自身を追い込むことになりかねない。
ギュスターヴは興味深いといった体で話を聞き続けた。時折、質問を挟みながらも、彼は頷いてオリヴィエールから言葉を引き出し続ける。
「なるほど、それは災難だったな」
彼はそう言った。「まったくです」とオリヴィエールも頷いてみせた。
あれほどひどい目にあったことは、後にも先にもなかった。そしてあれほどの、奇蹟を感じたことも。
「しかし、人の血を啜る者か。そのことは君の命じた者に伝えているのだな?」
「噂の源かもしれない、とはお伝えしてます」
「賢明だな」
こっちはまだまだだが、とギュスターヴは言って駒を進めた。女王の駒を大胆にも、オリヴィエールの陣の目前に置いた。これは隙だ、と思いオリヴィエールの白の騎士が女王を討ち取る。だが、それがまずかった。防御の陣を固めていたにもかかわらず、大胆に動きすぎたために、穴ができてしまった。
あっ、と声を出したときには、盤上では敵陣に深いところへと潜り込まれていた。
「防御が硬いのはいい。だが、硬すぎるものはちょっとした亀裂から崩れていくものだ。
そしてその亀裂を作るのは、いつだって大胆な手か、小細工の積み重ねだ。例えば、この女王のようにね」
「肝に命じます」
そう言って、さらにオリヴィエールは駒を進めた。ここまできたら、破れかぶれでも打って出るしかないと盤上を見つめて思った。
ほう、と唸ってギュスターヴもまた駒を進める。少しは驚かすことができたか、と思うものの自分の未熟さばかりを感じていた。
「なぜ、教皇庁がこの噂に対して躍起になるか、見当はつくかね?」
「……テンプル騎士団のことですか」
「それもある。だが、噂程度では躍起にはならない」
ギュスターヴの言葉に、オリヴィエールは首をかしげる。ふふ、と笑ったギュスターヴは葡萄酒を口に含んだ。
「イングランドとフランスの両王国が戦争に疲弊し、神聖ローマ帝国では前皇帝ルートヴィヒ四世を廃位しカール皇帝を擁立した。いまこそ、アヴィニョンを中心として教皇の権威を増す好機、と考えているのだ」
「それは」
納得ではあるが、自分の身には大きすぎる。話についていけても、それを知ったところでできることなどはなにもない。雲上の話をされたとしても、矮小なる身であれば無力である。
「だが、疫病の蔓延を見てみよ。それこそが神の裁きか福音か、などと言っている輩も溢れている。
特に呪いの噂だ。あれがまずいというのは、君が知っている通りだ」
なるほど、とオリヴィエールは言った。あの呪いが死した者を蘇らせて、生きし者の血を啜らせるというのなら、それこそ神への冒涜であり、そんなものが教皇の座すアヴィニョンにあると広まってしまっては、権威は失墜してしまう。そうした政治的意図の元にオリヴィエールは動かされていたのだ。
馬鹿げている、と思いながらも、思うままに動けない自分の無力さを恨んだ。そして脳裏に現れたのはレイナルドの姿だった。彼こそ、正義の具現であるようにも感じられた。
ふわりと、香水の匂いが舞った。以前にもここで遊戯に興じていたときに感じた香りだ。目を閉じて鼻をひくひくと鳴らす。オリヴィエールのらしからぬ様子を見て、ギュスターヴは吹き出すのだった。
「も、申し訳ありません。しかし、猊下がつけてらっしゃる香がとてもよく、気になりまして」
「そうだろう。これは私が遠方より取り寄せているものでね。なかなかにいい香りだ。知っているか? 東方では蒸留酒を体の、主に臭いを発するところに吹きかけては病を防ぐそうだ。私がつけているのは、元は薬用酒だがな」
しかし、これほど濃い香りとなると、オリヴィエールは知らなかった。
「花の香りですね。ローズマリーでしょうか?」
「よく知っているな。その通りだ」
まるで海からこぼれた雫のように美しい青を咲かせる花を、そう呼んでいた。香りがとても強く、長く生きることから好まれているものである。
ローズマリーにはこんな話もある。スペインで語られる伝承だ。聖母マリアが救世主イエスを産んだとき、時のユダヤ王ヘロデによって追っ手がかけられた。エジプトへと逃げる最中、ついに追っ手が追いつきてきた。愛子を抱えた彼女は生い茂る草木の元に隠れたが、それは白い花を咲かせており、青い外套を纏っていたマリアは嫌でも目立ってしまう。そこで花は、彼女を匿うために色を青に変えたのだ。そのためにこの花は聖母の薔薇、すなわちローズマリーと呼ばれるようになった。
そのためかはわからないが、ローズマリーには魔除けの力が宿っていると言われている。葬儀の際には枝を持って参列し、死者の眠る棺桶の上へと投げ込む習慣があった。また、結婚式の際も同様に扱われた。ローズマリーで飾りを作って壁にかけるのである。
古代はギリシャから、古き異端の神々が所有していたものとさえ言われている。曰く無限の知恵を与えるだとか、危難を避けるなどと言われている。
なるほど、ローズマリーを香水として使うのは理に適っていると言う他ない。特にこの悪疫の時代においては絶大な意味を持つだろう。
「……なるほど、道理で猊下が健康なわけです。素晴らしい知恵だ。病除けにこれほど効果のあるものはないでしょう」
「できることはできる限りするものさ。金ならある。
それに、女受けもすこぶるいいものだ」
枢機卿として問題のある言葉であったが、責めることもできない。何せギュスターヴは枢機卿であっても聖職者ではない。教皇の個人的な相談役として招かれた者であった。さらに言えば、元貴族でもある。この時代、そういった枢機卿は少なくない。
「ところで司祭オリヴィエールよ、君は男色家かね?」
あまりに唐突な言葉に、思わず目を白黒させる。さらにその隙に、駒が一手進められた。司教の駒が深く潜り込んでいた。二重の驚きに、いよいよ声が出なかった。
「あ、あんまりです、ギュスターヴ卿。私は〈テンプル騎士団の呪い〉を追いかける者です。その私が、テンプル騎士団と同じ男色の罪を犯していると?」
かつて沈んだソドムという都市にかけられた罪の名は、この時代において深いものであった。そのために裁かれた者が何人もおり、かつて栄光を誇った騎士団も例外などではない。
「うむ、君は他の者と比べて、女の気というものがない。いいや、そういう者もいるだろう。それは聖職者として正しい姿である。この時代では通用しないがな。
だが、君は言うほど敬虔な教徒でもなかろう。戒律は守ろうとも、それは君が慣習としいることで、決して教えによるものであるようには思えないのだ」
「猊下、私は至って通常の聖職者です。我が身に宿る罪を雪ぎ、自らを慕う教徒たちを導き、やがて主の元へとたどり着けるように教え諭す者です。それは当然のこと」
「お前のそれは、ただの利口さだよ。
なるほど、君は優等生だ。とても従順で、正しく、そして誰もが思い描くような平凡さだ。
いままでずっとそうやって生きてきた、それだけのことだろう?」
変な声が喉から出そうになるのを、必死に堪えた。
ギュスターヴはとてもよくオリヴィエールのことを知っていた。興味を持った若者を誘うのが彼の趣味である。であれば、興味の源泉はどこだろうか。それはその者の振る舞いや経歴からだった。彼は自分のことをとっくのとうに知っているのだ。そしてその過去を、自分の口から語ってみせよと言う。それも暇つぶしがてらにだ。
傲慢であったが、隠し立てをする必要はない。彼は聖職者でなくとも枢機卿である。司祭である自らの告解を聞いてもらう相手として、これほど相応しい相手もいないだろう。
「では聞いていただけますか」
そう尋ねると満足げにギュスターヴは頷いた。
腹をくくって、オリヴィエールは語る。自らを道化として、あるいは吟遊詩人のように。
母の話を。聖母を気取った、愚かな女の話を。