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風が運んできたもの

 騒ぎは大きかったが、火事が大きいわけではなかった。

 家屋の一階から出火しているのみで、他には確認できなかった。夜警にあたっていた者が水を井戸から運んできて、急いで消し止めたために被害も最小限であった。煙だけがやたら立ち込めていた。

 火事そのものは珍しいことではない。誰もが高価である夜の灯りを無駄遣いすまいと思うほど困窮していたが、それが火に対する用心に繋がっていたかと言えばそうではないのだから。

 さらに言えば、不審火だって少なくない。悪疫の時代だった。人は勝手に憶測を口にし、気づけばそれは真実となって語られるようになる。


「中に人がいる、誰かはもうわからないほどだ」

「この家で暮らしていた者は黒死病にかかっていたようだ」

「であれば、誰かが火をかけたに違いない」


 口々に野次馬が言った。最終的な結論はありふれたものだった。黒死病を恐れた何者かが、罹患した者を排斥するべく行ったのだった。

 それは他の都市では見られることでもあった。都市を支配する貴族や家が強権を行使することによって、病人そのものを追い出すことがある。例えば北イタリアのミラノなどがそうで、ビスコンティ家の独裁が敷かれているかの都市では、徹底した黒死病対策が行われ、その一環として罹患したとわかればその者を家族ごと都市から締め出していた。

 だが、焼くという行為は別であった。この時代、火刑は極刑である。キリスト教において最後の審判によって復活するには肉体が必要だからであり、火刑はその肉体を物質的に失わせる刑罰であった。異端者や魔女に対して行われるものだ。そして、それは決して一般民衆が下すにはあまりにも重いものであり、通常では行われないことである。

 だから、現実として人が人を焼くなどということが行われているこの時代は普通ではないのだ。隣人が恐ろしいあまりに、病原ごとこの世から失わせようとする行為は、残虐極まりないことである。到底ゆるされないだろう。


「ここの家の前に誰かいなかったか? 怪我人だ」


 オリヴィエールが消火にあたった夜警に尋ねる。始めはうろん気にしていた夜警は、彼が司祭だと気づくと背筋を正して答える。教皇庁のあるアヴィニョンでは、聖職者であるというだけである程度の融通が利いた。それは信徒の敬虔さからではなく、権力への恐れからだった。


「いいや、見てはいないな。中にいたやつがそうだろうか。襲われて動けなくなったところを焼かれちまったのかもしれんな。道理で逃げ出そうとしなかったわけだ。

 すまんが、もう見るに耐えない状態で、特徴も伝えられん。明日になれば、周辺住人に聞いて回るさ。

 あんた、あの人のために祈ってやってくれないか。しばらくはこの家に入れないだろうが、主もわざわざ目の前で祈れだなんて冷たいことは言わないだろう」


 夜警の者たちは、そう言い残して再び家屋の中に入っていった。まだ火の粉が残っていないか確かめるのだ。木造家屋が密集した都市では、火事が区画の一つをまるごと焼き払ってしまうなんてことが少なくなかった。放っておいていい火種はひとつもない。可燃性のものは、早くに外へと出すに限った。

 夜警の言葉を聞いていたオリヴィエールは、祈るような気持ちにはなれなかった。


「そんなはずはない」


 オリヴィエールが思考の結論を口にしたのはすぐだった。

 なにせ、ここにいた者は、あの牙を持つ者に血を啜られたのである。まさか獣ではないのだから、病が蔓延るこの時代に、わざわざ病持ちの者から血を啜るはずがない。念入りに確かめていると考えた方が自然だろう。

 火事に見せかけて証拠の隠滅を図ったのだ。餌となった人を焼き、地面の血痕は水に流したのだ。オリヴィエールはそう考えた。


「中を確認しよう。判別ができるかはわからないが、背格好くらいなら覚えている。焼かれた者がどんな者かを見なければ」

「オリヴィエール、落ち着いてください」

「私は落ち着いている、落ち着いているとも!」


 レイナルドがそう言った。とっさに頭に血の上ったオリヴィエールは、思わず強い口調で言い返してしまう。


「思ったより堪え性がないのですね、貴方は」


 くすり、と笑われる。馬鹿にしてきたわけではないことはわかるが、レイナルドの目から見ても自分が何かに苛ついていたことがわかるほどだったのだと理解する。

 掴まれていた腕を振り払って、ふん、と鼻を鳴らす。そうだ、いまは冷静にならなければならない。死した者を救う術を自分は持っていないのだから、いまできることをするのが、死者にできるせめてものことだった。

 自分を狙っている者は、この火事を起こした人物と同じと見ていいだろう。目撃者を消そうとしているに違いないのだ。であれば、彼らは……牙を持つ者は複数人いると考えるのが自然だった。恐ろしき背教の者たちが、この都市の闇には潜んでいる。そしていまも、次に誰を食すか考えているに違いないのだ。

 レイナルドの意見も聞きたかったが、ここで口にしてよいものかは迷った。

 理屈ではなく感性で動くレイナルドは嫌いではないが、得意ではない性質だった。オリヴィエールは理論立てて物を言う方であるから、理屈が通じる者を好むが、一方で筋を立てて話せない者が苦手であった。だから、彼の言葉を引き出すよりも、自分の言葉を伝えることが先決であった。


「聞いてくれ。この火事は仕組まれたものだろう。中にいる者はおそらく、血を啜られた者だ。奴は……奴らは自分たちの〈食事〉の痕跡を消しているのだ」

「であれば、先ほど私たちを狙っていたのはその一味ということですか」


 オリヴィエールは驚いて、レイナルドを見た。彼は手のうちに小さな刃物(ナイフ)を持っていた。彼の装備ではあるまい。それは何者かが握っていたものを、レイナルドが取り上げたということだった。その卓越した技量に驚くのと同時に、自分を狙う存在にぞっとする。

 ぞっとして、辺りを見渡そうとするも、それもレイナルドによって止められた。


「やめておきましょう。顔を見られては活動にも支障が出ます。〈テンプル騎士団の呪い〉について解明するのでしょう?」

「……私は貴殿を連れて行くと言った覚えはないのだがな」


 だが、これで断るなんてことはできないだろう。目的も一致している以上、同行してもらった方が効率がいい。レイナルドの実力は貴重であった。オリヴィエールの剣となり盾となる存在は必要だ。


「だが、ことは重大だ。果たして、私たちが追っている〈テンプル騎士団の呪い〉というものの正体はこれか?

 そんなはずがない。たかだか〈食事〉がために、大それた名を使いすぎだ」

「同意です。かの騎士団の名を冠する行いにしては、あまりにも()()()


 それは二人が意見を同じくすることであった。

 火事を目の当たりにして、その考えが深まった。確かに生き血を啜る者というのは奇怪であり、古代ギリシャや東欧で語られる怪物を彷彿とさせる。いいや、事実として、そうした怪物であったのかもしれない。黒死病という悪疫は、そうした怪物たちをも運んできたと考えることもできる。

 だがしかし、そうであったとしても、行いに対する名称としてあまりに小さな行いであった。もし恐慌に陥れたいのであれば、もっと大々的にするべきであったようにオリヴィエールは思った。


「この火事は突発的に行ったものに違いないんだ。見せるためのものではない、隠すためにだ。それは自分たちの食事の跡を片付けるようなものだ。いまはまだ見られてはいけないのか、あるいは……」


 そこまで考えが至って、はたと振り返る。野次馬たちは次第に散り散りになっていく。

 彼らの中に牙を持つ者の一味がいるのかわからなかったが、いまこのとき、ここに注目が集まっているのだとすれば。


「レイナルド、もう一度、あの行き止まりへ行こう」

「どういうことです? 行くべきは共同墓地では?」

「いいから、早く」


 オリヴィエールはそう言って、もう一度同じ道を引き返した。この日三回目となる路地の光景は、闇を増して一層不気味だった。だがためらうことなく石畳を走っていく。

 やがてたどり着いたそこに、オリヴィエールは確信を持って見た。


「なくなっている、牙持つ者の亡骸が!」


 今度はレイナルドが驚く番であった。彼はオリヴィエールの顔をまじまじと見て、解説を求める。

 しゃがみこんで、遺体のあった場所を見つめながらオリヴィエールは言った。


「あの火事には二つの意味があったのだ。一つは彼らの〈食事〉の跡を消すこと。もう一つはここにあった仲間の遺体を運び出すこと。

 彼らが〈テンプル騎士団の呪い〉の正体か否かはさておき、自分たちの姿について噂されたくないのだろう」


 月明かりでははっきりとわからないが、地面や壁の色が変わっている場所がある。血はすでに乾いていた。もしかすると、運び出す時に火で炙っていたのかもしれない。血だまりではなく乾いた跡であれば、この場所で起こったことについて思いを馳せる者はぐっと減るだろう。

 突発的でありながら、用意周到に行われていた。複数人と思っていたが、それは三人や四人ではなく、相当な数がいる可能性が高かった。

 元から片付ける予定であったのだろう。しかし、〈食事〉の場をオリヴィエールに目撃された上に、口封じのため取り押さえようとしたところをレイナルドに斬り伏せられた。彼らにとって想定外の事態だった。数人が〈餌〉となった者を家に入れて放火し、そっちに気取られている間に他の数人がここにあった遺体を運び出し状況をなるべく残さないようにしたと考えられる。

 考えられるだけで、十人かそれ以上の集団であった。それも組織だって動く者たちだ。

 月に影がかかった。レイナルドが剣の柄に手をかけて、空を見上げる。そこでは影がうごめいているかのようであった。


「レイナルド、今日はもう帰ろう。これ以上、ここにいるのは得策ではない」

「しかし、それでは御身が」

「気にするな、これでも教皇庁に務める身だ。それに、教会では彼らも騒ぎは起こせまい」


 そう言って力なく笑った。なにせ、教会には人があまりに多くいる。旅宿などに入れない者や、施しを受ける者、治療を受ける者など様々であった。そんな彼ら全員の口を封じるのは、それこそ街を揺るがすほどの火災を起こさなければならない。そしてそれは、牙を持つ彼らも望むことではないのだろうとオリヴィエールは考えている。

 いまは体力の回復と状況の整理を。そのために月が陰るよりも前に帰らなければならない。光がなければ、自分たちを見る者はいなくなってしまうのだから。

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