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去りゆく風

 裁判の日から二ヶ月が経った。女王はアヴィニョンより退去した。いいや、女王どころではない。教皇のクレメンス六世までもがアヴィニョンから出て行ったのだ。

 それぞれに理由があった。ナポリ女王は自らの態勢を整えるために、自らの都市へ向かった。いまごろナポリ王国をハンガリー王国から奪還する手はずを整えているはずだ。一方で、クレメンス六世は黒死病に怯え、ついに打てる手はなくなり退去止む無しとなった。

 あえて擁護をするのなら、数多の手を尽くしていながらも黒死病の勢いは止まらなかった。罹患者を救うべく保護をしていた教会もあったが、それは病の温床となるだけである。教皇もまた、信者を守る術と自身を守る術を模索していたが、もはや黒き死の切っ先は喉元につきつけられたも同然であった。

 しかし、一般市民は金銭的にも身分的にも逃げ出すことが許されぬのに、教皇が逃げ出してしまっては面目はまるで立たない。もはや教皇への信用は失墜したも同然であった。さらに言えば、教皇は自分の側近である枢機卿数名と、ハイリゲンなどの芸術家を連れて退去してしまったのだった。これには、政治の世界でも呆れの声が聞こえるほどであった。せめて一人で逃げればいいものを、と失望の声もあがる。

 そんな中でも志ある教皇庁職員や聖職者たちはアヴィニョンに留まり、救済活動を続けていた。オリヴィエールもその一人であった。

 そんなある日のことだった。オリヴィエールは久しぶりにギュスターヴと話す機会を得たのだった。

 彼の館はいつになく閑散としていた。にも関わらず、屋敷の使いたちは忙しく動き回る。それらを傍目に見ながら、オリヴィエールはギュスターヴの執政室にいたのだった。

 この部屋は初めて入るのだが、机と椅子以外がなくなった部屋は、オリヴィエールにしてみればかえって落ち着くものであった。


「すまないな、葡萄酒でも用意できればよかったが」

「おかまいなく。……以前も飲まなかったでしょう?」

「そういえばそうだったな。老いたものだ、私も。だが、老いても楽しめるものがあるというのは良いことだとは思わんかね?」

「酒とはそういう趣味なのですね、覚えておきましょう」


 オリヴィエールがそう言えば、ギュスターヴは笑う。


「酒の良さがわかれば、人の生もまたよくなるというもの。荷物にもなる、言ってくれればいくつか残していこう」

「どちらかと言えば、作る方に興味があります。どのようにすれば美酒というものが生まれるのか。同じ葡萄でありながら、どうして万にも及ぶ味の差が出るのか」

「イエスの言葉にあるように、木とともに実を成す……聖職者としてあまりに美しい生き方だが、その思いを抱くには、暗雲の時代にあって見通しはできなかろう。先が見える光明の時でなければ」


 遠い目をしたギュスターヴは言った。オリヴィエールは頷く。

 いくつか使用人に指示をして、全員が引き払った。執政室にはオリヴィエールとギュスターヴの二人きりになった。


「どちらへ行かれるのですか?」

「故郷にだ。神聖ローマ帝国の東端に位置する。長旅であるが、黒死病はまだそこまでは至っていないようではある。すでに先の短い身だが、なに、死ぬときは穏やかにと決めているし、家族もそれを望んでいる」

「枢機卿位はいかがなさるのです?」

「返上した。息子の屋敷で、残りは詩作でもして過ごそう」

「……チェスでは結局、勝てませんでしたね」

「君もあと十年もすれば、私など簡単に勝てるようになるさ。その頃に私が生きていれば、だがね」

「勝ち逃げですか」


 オリヴィエールはそう言った。別れるには惜しい人だ、と素直に思った。しかし時の流れは残酷なもので、ギュスターヴもまた老いるものだった。艶やかであった肌も、この数ヶ月で陰が差しているだろうか。あの、ローズマリーの香りもなくなっている。香水が切れたのだ。

 そう、香水である。オリヴィエールは未だ、二ヶ月前のことをよく覚えていた。ギュスターヴとの会話も、タラント公ルイージの使者とのやりとりも。そして、自身が調べたこの都市、アヴィニョンのことも。


「そういえば、お礼を言うのを忘れておりました。香水のことです。ハンガリー水をお借りしました。覚えておいでではないですか?」

「そんなこともあったな。小さなことだ。それに、すでに切らしてしまってな。何かの役に立ったか?」

「おかげさまで、魔をこの身より払うことができましたとも。目が覚めた、とでも言いましょうか」


 オリヴィエールが礼を言う。ギュスターヴは笑った。


「魔を払う、か。確かに、すっかり〈テンプル騎士団の呪い〉の噂は聞かなくなってしまった。君の活躍のおかげ、という認識で合っているかね」

「そうであればいいのですが。私にできたことはとても小さなこと。

 しかし、噂は女王とともにやって来て、女王とともに去りました。まるで嵐のようです」

「黒死病は悪化するばかりであるがな。どうやら太陽神アポロンは未だお怒りのようだ」


 異教の精霊の名を持ち出してギュスターヴは言う。十字軍による聖地、イスラームへの遠征によって手に入れた知識たちの一つだった。太古にギリシアで信じられた、あるいは未だに信じられているかもしれない者たちの名に曰く、太陽と理性、医療と未来、羊を率いる者……そしてそれらを反転させることのできる存在の名だった。

 彼の放った矢はキリスト教世界を襲った。そう唱える者もいた。間違いではないようにも思えるが、悪魔の仕業であると言われたときと同じように感じた。


「この黒死病も、いつまで続くのでしょうね」

「さてな。これが病であれば、あと数度、息を吹き返すだろう。我らが子どもの頃に何度も風邪をひいたように」

「我々は未だ子どもと同じであると?」

「いかにも。そして老いた先から死ぬ。いつまでたっても、我らは子どもというわけだ」

「それは……確かに」


 オリヴィエールは納得する。そしてこのあとの未来に思いを馳せるのだ。様々な変化を強いられるだろう。人口の半分は死ぬかもしれない。人がいなくなった死の街がいくつも出来上がる。治療にあたる聖職者は次々に死んでいってしまう。混沌が支配するだろう。いずれにせよ、悲観的な未来であった。


「オリヴィエール、どうだ、私と来ないか。東であれば病はまだ流行っていない。君も来るというなら、席を用意しようではないか」


 ギュスターヴの提案だった。数ヶ月前に、似たことを言われた。しかしあのときと言葉の意味は違って聞こえた。


「嬉しいお誘いですが、やめておきましょう。私はここに残ります」

「なぜだ。美しく死ぬことに意味はないのだぞ?」

「まだそうと決まったわけではありませんから」


 そう言うと、鐘が鳴ったのが聞こえた。オリヴィエールは用事を思い出す。アヴィニョンから人はどんどん減っている。富める者からまずいなくなり、この都市で言う富める者とは聖職者に他ならない。人手不足となり、オリヴィエールの手には以前の倍以上の案件が舞い込むようになっていた。

 こうして話す暇も本来はないほどだったのだ。


「では、これにて。またお会いできれば嬉しく思います」

「そうだな。この老いぼれの身はそう長くはないだろう。死は目前まで迫っている。病に倒れるよりかは、ましかもしれないが」


 オリヴィエールはギュスターヴの屋敷を去った。

 振り返れば、屋敷は知らない間にみすぼらしくなってしまったように思えた。それはこの黒死病の影響だろうか。それとも香水が切れたからだろうか。はたまた自分は、この屋敷の外観など気にも留めていなかったのだろうか。気づけばこの都市の一部としてすっかり馴染んでしまっていた。

 そしてこの屋敷も空になるだろうと思うと、寂しくもあったが、当然だろうとも思った。己の利にならないことであれば、平然と捨てられる。ギュスターヴはそういう者だ。


「そういえば、彼は〈テンプル騎士団の呪い〉のことを黒死病のことだとは決して言わなかったな」


 無論のこと、その正体は決して病ではなかった。形を持った死であり、人の仕業であった。牙を持つ者たちの暗躍によってである。だが〈呪い〉はオリヴィエールが聞いている限り、この都市における黒死病の異名であったはずだ。噂にしかすぎないものを、どうして断定するかのように語ることができようか。

 無知蒙昧な者であれば断ずるように言うだろうが、ギュスターヴほどの男が……。


「いや、やめておこう。私は司祭でしかないのだから。訴えたところで女王の裁判と同じように、告発の根拠がなしと言われるのが関の山だろう」


 そして、神ならぬ身に裁くなどという言葉は重すぎる。今日より自分はただの司祭として生きるのだ。そう決めたのだ。


 ふと、日が昇ってきている方角を見た。春がやってきた。しかし都市を覆う暗雲が晴れることはない。

 門が開いた。日に日に開門の時間は短くなっている。病を入れないためか、病を出さないためかはもうわからなかった。

 しかし、オリヴィエールの目には残像が残っていた。馬にまたがり駆けていってしまった騎士は、本当に〈呪い〉さえも解いてしまったのだった。

 春になったはずのアヴィニョンに風が吹く。その風は遠い彼の方から吹いていた。

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