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転がる剣

 オリヴィエールはアヴィニョンの市中を歩き、レイナルドの元へと向かう。

 彼との待ち合わせ場所は決まって、彼が最初に泊まっていた宿の酒場であった。このときもそうであった。牙を持つ者たちの襲撃を避けるために宿を転々とし、時には厩戸でさえ寝泊まりをしていた彼であったが、最後はやはり最初に宿泊していた〈アントンの宿屋〉であった。

 しかし、いつもの角席にレイナルドの姿はなかった。あたりを見渡しても、ナポリ女王の勝利を祝うことにかこつけて酒を呑みに来た者たちばかりであり、件の騎士の姿はどこにもない。

 きょろきょろとオリヴィエールが見渡していると、一人の女の姿が目に入った。ここに来るたびにレイナルドを誘惑していた女だった。彼女が辺りを見ながら客の品定めをしていることこそが、レイナルドがここにいないことの証左である。

 もしかすると、約束の場所を間違えたのかもしれない。そう思いながら、その女に声をかけた。


「すまない、聞きたいことがあるんだが」

「お客さん? ……じゃなかった、いつものお坊さんね」


 満面の笑みが曇る。商売用の表情とは言え、申し訳なくも思った。

 扇情的な格好をなるべく目に入れないようにしてオリヴィエールは言った。


「レイナルド……あの騎士を知らないか? ここで待ち合わせをしていたのだが」

「あら、女王の裁判はいいの? いまごろ大忙しでしょうに」

「そのことで、な。話をしようと待ち合わせをしたのだが、顔が見えない。何か聞いてないか?」

「そちらこそ聞いてない? 彼ならだいぶ前に、荷物をまとめて出て行ったわ。私に一言だけ、『お相手できなかったのは申し訳ない、そういう教えですので』なんて言ってね。そういう教え、なんて、宗教騎士だったのかしら。もったいない気もするけど、仕方ないわ」

「そうか。なにかあれば伝えるが」

「お気遣いどうも。でもいいの。思い出にしまっておくのもいい女の条件なのよ」


 水商売の女はそう言って、オリヴィエールに背を向けて去っていく。名残惜しそうであったが、割り切ろうとしている姿には敬服を覚えた。

 しばらく立ち尽くしていたオリヴィエールであったが、思い立つと酒場を出た。もうすぐ日が暮れるためか、帰る者たちでいっぱいの通りに出る。日が暮れてしまえば城門は閉じてしまうから、この時間がもっとも人通りの多いときだろう。みなが疲れた顔を、あるいは解放された顔を浮かべている。黒死病に冒されているアヴィニョンではあったが、帰る場所がある喜びだけは変わらない。

 オリヴィエールは、その人混みをかき分けて進んでいく。代わり映えしない、昔の戦いの跡の残るアヴィニョンの市街を抜けていく。この都市のどこかでレイナルドも戦っていたのだろうが、その痕跡は過去に紛れてしまっているだろう。

 流れに沿わない司祭を多くの者は怪訝な目で見るが気にしていられなかった。足をとられながらも、できる限り急いでいく。目指すのは東の門であった。

 夜がやってくる方へとずっと向かっていき、息も絶え絶えになる。日頃から運動をしていても、どうにも走るのは苦手だった。

 やがてたどり着いた門には、馬がいた。その上に人もいる。片腕を吊るした男、レイナルドだった。黄金の髪が光を浴びて眩しく輝いている。夜を背にしているからか、顔は明るかった。


「やっぱり来ましたか、オリヴィエール」

「待っていたくせに、よく言う」

「そう思いますか」


 レイナルドは笑った。優しげな笑みだった。傷をものともしていなかった。

 そう、傷だ。彼はあの牙を持つ者たちに腕を貫かれている。あの晩に受けた傷は相当に深い。そして今日も激しい戦いを繰り広げたのだ。体はひどく傷ついていることだろう。オリヴィエールからしてみれば気が気ではなかった。


「裁判は無事に終わったようですね。結果は……まあ、顔を見ればわかります。女王の勝利でしょう?」

「そういう貴殿はわかりやすいな」

「生きるか死ぬかですから」


 そう言って、馬上から降りることもなくレイナルドはオリヴィエールの方を向いた。宗教騎士であれど騎士だ、馬の扱いは巧みであった。


「オリヴィエール、牙を持つ者たちの脅威は去りました。彼らはもはや、この都市に危害を及ぼすことはないでしょう」

「それは重畳だ。これにて、この都市にかかった〈テンプル騎士団の呪い〉は解けたわけだ」

「……司祭オリヴィエール」


 改まった顔をしてレイナルドは言う。


「私とともに来ませんか?」

「なんだと?」

「貴方が行ったことは大きなことだ。歴史の奔流が貴方の安寧を許さないでしょう。であれば、気ままに旅をするのも一手です。

 私はこれから東へ向かいます。まずはハンガリーへ。次いで南へ下り、ルーマニア、ギリシャ、コンスタンティノープル、オスマン帝国を抜けて聖地へと向かうつもりです」

「巡礼をするつもりにしても危険すぎる。そんなものに付き合えというのか」

「同じ危険でも、自らが選んだものと、そうでないものとは別です」


 真面目くさってレイナルドは言った。いいや、彼は真面目なのだ。いつだって冗談を言ったことはない。それを笑ったのも自分で、それを嘆いたのも自分だ。

 そして巡礼の旅と聞けば、魅力を感じずにはいられなかった。伝え聞くエルサレムとはどのような地なのだろうか。向かうまでにどのような試練が待ち受けているだろうか。聖地へ赴いたという経験は必ずや自分を高めることだろう。命は危うけれど、何かが得られることは確証された旅だった。護衛としてレイナルドはこの上ない。少し考えが足りないところもあるが、そこは自分が補えばいいだろうとも思った。

 少しの逡巡を経て、オリヴィエールは首を横に振る。


「いいや、私はここに残る」

「貴方は知りすぎました。教皇が貴方を放っておくはずがない。彼らは政治家です。ローマと同じです」

「死を恐れるか」


 その問いかけに、レイナルドは驚いていた。そして悲しそうな顔をする。嘘のつけない男だ、と喜べばいいのか悲しめばいいのか。その性格が災いし、そしてその性格が彼を助けることになるだろう。その天秤はひどく危ういものに思えた。どちらかに傾けば、たちまちレイナルドに刃が向けられる。善も悪も等しく釣り合わせる必要があった。

 レイナルドは答える。


「死を恐れなさい、オリヴィエール。私が死ぬのはいい、しかし、貴方が死ぬのは耐えられない」

「それと同じことを私も想っているよ、友よ」


 そう言って、オリヴィエールは微笑んだ。疲労の色がとても濃く出ているだろう。レイナルドもまた同じように、疲れているだろうに、笑ってみせた。

 門番が大きな声をあげた。そろそろ門を閉めるのだろう。黒死病の流行るこの時分に、これだけ長く開けていることの方が稀であった。レイナルドがそれを聞いて、馬首を向ける。

 いまから外に出たとして、すぐにでも夜になるだろう。普通ならしないはずの強行軍であった。しかしレイナルドは、目的を果たせばすぐに旅立つことを選ぶ。そういう男だった。


「では、また会いましょう」

「この広い世界のどこで会うというのかね」

「案外と、狭いものです。私と貴方が出会えたのですから、再会することだってありえます」


 レイナルドは馬を走らせる。門番の検問は、出て行く者に対しては緩い。まっすぐ夜の方へと駆けて行く彼を止める者はいない。その後ろ姿をオリヴィエールは眺めることしかできない。

 わずか一週間ばかりの付き合いではあったが、苦難をともにし、使命を全うした友との別れは、不思議と清々しく思えたのだった。今生の別れではあるまい、とも思った。お互い、死ぬときは人知れずいなくなるだろう。

 妙に現実主義の騎士の姿を、永遠に忘れることはない。オリヴィエールは固くそう誓ったのだった。

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