凱旋
ハンガリー国王検察団とナポリ女王、それぞれの主張が終わった。
法廷には異様な静けさがあった。公正なる場として静寂は正しいことであったが、溢れかえるような人が一箇所に集まっているこの場では、かえって不気味にも思えた。
ナポリ女王ジョヴァンナはゆっくりと、元の席に戻っていった。教皇のとなりに座る彼女は、顔をさらに蒼白にしていたが、それに気づいたのはこの場でオリヴィエールだけだろう。彼女はじっと前を見ている。あくまで堂々とした態度であろうという意思を感じた。
この法廷にいる誰もが、裁判の結果を読めずにいた。はじめはハンガリー王国の圧勝かと思われたが、ナポリ女王の真に迫った弁舌は並大抵の理論でさえもひっくり返してしまうように感じられる。嘘とまでは言わずとも、こじつけであるという風に考えてしまうほどに。
次いで、皆が見たのは教皇のクレメンス六世だ。彼はこの裁判にどのような結果を下すのか、誰もが待っていた。
何人かの枢機卿が立ち上がって、教皇の元へと向かう。それぞれが小さな声で教皇へと助言をすると、緋色の衣を翻して席に座った。
そしてクレメンス六世は立ち上がる。聴衆は顔をあげた。
「ナポリ女王ジョヴァンナは無罪とする」
簡潔に彼は言った。ハンガリー王国の検察団がどよめいた。誰かが言葉を告げるよりも前に、クレメンス六世は告げる。
「ハンガリー王国側の主張に告発の根拠はなし。ナポリ女王の身辺が起こした事件であるからと言って、それを女王の罪とするのは不当であると言えよう。隣人の罪をその者の罪として扱おうというのは、理には適わないと言えよう」
理由もまた短く、しかし納得のいくものではあった。ハンガリー王国検察団の、女王の意思についての言及を巧みに躱すものであり、理由そのものへの反論の余地はなかったのだ。
誰もが驚きを隠せなかった。法廷の空気を他所に、法廷の主人たる教皇はナポリ女王を立たせる。そして「潔白な愛しい娘よ」と声をかけた。軽い抱擁を教皇と女王は交わす。どこからか知らず、拍手が響いた。女王は礼をして、身を翻した。入廷してきたときとは逆に、枢機卿団の間を抜けていき、ハンガリー王国の検察団の前を通って行った。
彼女を出迎えたのはタラント公ルイージであった。美男子は女王の手をとり、扉の前に立つと一礼をする。女王もまたそれに倣った。ちらり、と彼女は辺りを見渡す。数多の目が女王を見つめていた。それは世界の目である。祝福されているのか、あるいは欺いた魔女であると蔑まれているのだろうか。女王の表情に曇りはない。扉が開かれ、二人が出て行く。はあ、と息を漏らしたのは誰だっただろうか。
こうして裁判は閉幕を迎えた。
しばらくして、裁判の閉幕を告げる鐘がアヴィニョンに響き渡った。このときばかりは黒死病の恐怖はどこかへといってしまっていた。誰もが口にしている。我らが女王の勝利であると。
女王はようやく、凱旋のときを迎えたのだった。
* * *
法廷をあとにしたオリヴィエールは、教皇宮殿前の広間に出る。人で溢れかえるそこは、縮小されたキリスト教世界であった。有力な国や修道院の使者たちで溢れかえっており、いまここで発されている一言がすべて国の意思として扱われるのである。彼らも迂闊に発言をしているわけではない。今回の裁判を経て、それぞれの国の立場を明らかにしようと言うのだ。
そして彼らが注目していた裁判を大きく動かしたのは、この自分なのだ。教皇宮殿を動かしたとすら思える感慨に浸る。それは誇らしいやら、恐ろしいやらわからなかった。まるで実感はない。空に浮かぶ雲が流れているのは、お前の吐息によってだ、と言われた方が信じられそうであった。
取り返しのつかないことをしてしまった自覚もあった。これでよかった、と胸を張ることもできなかった。
だが、ひとまずは一件落着であっただろう。結果を得るというのは前進したことである。そう、信じることにした。
まずはレイナルドの元へ行かなければなるまい。怪我を負っての戦いであったが、オリヴィエールはあのテンプル騎士の勝利を疑ってはいなかった。いかに牙を持つ者が怪物のような容姿をしていても、レイナルドは彼らを人であるとし、人として戦うと言ったのだから。
手はず通りであれば、いまごろ彼は宿で身を休めているはずである。軟膏を買っていかねば、などと考えていた。
人々の間を抜けていく。すれ違う相手がすべて特使であると考えると、なかなかに冷や汗ものであった。
「司祭オリヴィエール、オリヴィエールか」
そう声をかけられて、立ち止まる。そこには緋色の衣を纏ったギュスターヴ枢機卿がいた。彼はオリヴィエールを見つけると人混みを抜けてくる。表情は伺うことができない。彼の感情が平坦であるのか、自分が同様しているのか。
いまここで、一番会いたくなかった人物との遭遇に、オリヴィエールはわずかに反応が遅れた。
「猊下、今朝ぶりです。白熱した裁判でしたが、よもやナポリ女王の勝利に終わるとは」
「君は疑っていたのかね、彼女の勝利を。無理もない、女王がこのアヴィニョンにやってくるまでは誰もが彼女に疑いを持っていた。彼女を崇拝する者でも、それは拭えなかったはずだ。にも関わらず、このような結果になるとは思いもしなかった」
「すべては教皇猊下の御心のままに。公平たる裁決であったでしょう」
「だが、最近になって教皇猊下と急に謁見を求めていた司祭の噂を聞いたが、どうなのかね」
オリヴィエールは驚いた。それは自身が教皇と会っていることを知らていたことに対してではない。ギュスターヴらしくない、直截的な物言いにだった。
ぎこちない笑みを浮かべているだろう、と自分のことを認識しながら答える。
「そのような話もあります。しかし、それが裁決にどのような影響が……」
「まあいい。だが、思った通りにはならんな、世の中というのは。この都市を覆っている闇は払えないが、雲間から光が射すことはある」
苛立ちを抑えるようにそう言うギュスターヴに、オリヴィエールは笑うことはできなかった。
彼から香るローズマリーが、心をかきたてる。この香りがもたらすはずの落ち着く感覚ははるか昔になくなっていて、焦りばかりが募るのであった。
ギュスターヴから借り受けたこの香りを纏って、タラント公ルイージの使者と会ったときのことを思い出す。ハンガリー王国の香りだと彼は言っていた。であれば、この香りの持ち主が何者かなど、言うまでもないことである。
思えば、〈テンプル騎士団の呪い〉について話されたのが、ギュスターヴと歓談したあとである。偶然ではない、と考えることの方が難しい。その後の彼の言動もどこか気がかりに思えてきた。が、しかし、それを追及するほどの証拠がオリヴィエールの中にはなかった。それこそ教皇が裁判で下したように、根拠のない罪のなすりつけになってしまうだろう。
頭の中に遊戯盤が思い浮かぶ。白の女王は確かに敵の猛攻を凌いで、自らの地位を取り戻した。しかし司祭は、あるいは騎士はどうなっているだろうか。
まるで読めない盤面に顔をしかめながら、オリヴィエールは言葉を絞り出す。
「ギュスターヴ猊下は……猊下は教皇のこの度の判決を、喜ぶ者ですか?」
そう問うた。どんな答えを期待しているわけでもない。ギュスターヴは枢機卿であるから、教皇の下した判決に不満を持ったとして、立場が揺らぐものではあるまい。くだらない質問だ、と自分でそう思った。
ギュスターヴはしばらくまばたきを繰り返す。沈黙のあとに、こう答える。
「そんなこと、聞くまでもないだろう?」
その回答に、オリヴィエールは思わず目を見開いた。




