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竜の牙と魔女の裁判(下)

 レイナルドと牙を持つ者オトカルが交錯する。

 遠目から見れば、二人は重なった姿勢をとっていたであろう。しかし、その表情は対照的だった。

 金髪のレイナルドは表情を凍らせている。元の豊かな表情はどこへ行ったのか、もしくはこちらが素なのかはわからない。猛々しい戦士の表情ではなく、現実を受け止める執行人のようであった。

 対するオトカルの表情は笑みであった。不敵とも言える。諦めにも似ていた。しかし、晴れやかであることは誰からも伺えるものだった。


「ああ、俺はこうして……」


 力なくオトカルは言って膝をついた。口端から血をこぼすが、吐き出す無様は晒さなかった。レイナルドは剣を引き抜くと、その肩を支えて仰向けに寝かせた。

 最後のとき、レイナルドはオトカルが突き出した剣を弾いたのだった。円を描く軌道で相手の剣をからめ取り、胸へと伸びていった。突き刺さった剣は血を滴らせ赤く染まる。

 レイナルドはそっと、オトカルを離した。そして地面へと優しく横たえた。

 石畳の上ではさぞ寒かろう。春が近づいているとはいえ、まだ冬の名残がアヴィニョンにはあった。


「何か言い残すことはありますか」


 レイナルドは聞いた。オトカルは笑みを変える。穏やかなものから、獰猛なものへと。


「甘いな、テンプル騎士。先ほどまではあれほど苛烈であったというのに。早くとどめを刺せばいいではないか」

「真実を述べることと、情けをかけることは違います。貴方は人だ、と言ったはずです」

「ふん、生かすつもりはないくせに」


 オトカルの呼吸は荒く、声はもはや聞き取るのも難しかった。死が間近に迫っているのだ。

 まだ息をしているのは彼の執念だろうか。青白い顔はさらに青くなっている。牙はもはや恐ろしく見えなかった。レイナルドは剣の血を払った。そして膝を折る。さあ、言葉を、と声をかけた。


「俺は死ななければいけなかったのか?」


 問いかけであることに気づくのに、少しの時間を必要とした。レイナルドは首肯する。


「この世に死ななくてよいものなどありません。果てのない命など夢のまた夢。永遠を求めるために詩を唄う者はいるでしょう、歴史に名を刻もうと試みる者はいるでしょう。愛する者を文学に埋めた者もいました。

 しかし、命は有限のもの。いいえ、ありとあらゆるものは有限なのです。だからこそ奪う者は許されないのです。

 覚えておいてください。この世の全ては死ななければならないのです」


 レイナルドは言った。であるならば、命はすべて同じなのだ、と。生きている限り、病を持っていようがいまいが、人を殺めようが、同じ命である。だからこそ、善なる道を選ぶか、悪なる道を選ぶのかに価値が生まれるのだ。

 ふっ、とオトカルは笑った。満足したのだろうか。それとも呆れたのだろうか。すでに死人にも等しい彼は、暗闇に訪れる直前にたくさんの笑みを零していった。

 どうしてか、その姿には人としての尊厳があった。この死を選んだのだという自負だろうか。


「まったく、ままならぬ」

「ええ、まったく」


 その受け答えがオトカルの最期であった。目を閉じたオトカルは、牙を覗かせているものの、安堵していることだけが伺えた。

 レイナルドは剣を抜いた。機巧の剣には、先に逝ってしまったレイナルドの師の名が刻まれていた。その剣を十字架に見立てて、葬送の言葉を贈る。主よ、この者を憐れみたまえ。この世を去っていく者にできることは、祈ることしかない。それが自分の手で葬った者であろうと同じであった。

 立ち上がると、レイナルドの周囲に牙を持つ者たち、竜牙兵隊スパルトイの者たちがいた。外套の影からレイナルドを睨みつけている。ゆらり、と揺れていた。外套の中には剣が隠されているのだと伺えた。レイナルドは彼らの間を抜けていく。竜牙兵隊たちは手を出してくることはなかった。

 竜牙兵隊の彼らは、オトカルの遺体を担ぎ上げる。どこへと持っていくのだろうか。あの地下墓地カタコンベに運び入れるのだろうか。少なくとも表沙汰にはできないだろう。


「竜の牙の者たちよ。その身にかかるのは呪いではない。黒死病が神からの祝福でも、まして呪いでないのと同じように。私と同じく生きる者よ、その運命を恨むことはあっても、その身を恨むことはしないよう……私は祈っていますよ」


 聖人には到底満たない身ではある。世の出てはならないのは、テンプル騎士である己も同じこと。まして、失われた財宝たる聖剣と、闇に葬られた戦いの数々を知る身なればなおのことだった。

 そして彼ら竜牙兵隊のこともまた、歴史の闇へと葬られることになるだろう。レイナルドの師たちがそうであるように、レイナルドの戦いもまた暗部となる。

 だが誰かが覚えているだけでも、その価値はあるのではないか、とレイナルドは信じていた。悪魔とさえ形容される身になろうとも、人として在りたいと願い戦った、未熟な暗殺者たちに救いあれ、と祈らずにはいられない。

 痛む左腕を抑えながら、レイナルドは人混みの中に紛れていった。血の臭いがするからか、人は訝しげな目でレイナルドを見る。ふらつく足に力を入れた。宿へと戻り、オリヴィエールの戦いの結果を待たなければならない。

 ふと、教皇宮殿を見た。この都市で一番大きな建物である教皇宮殿は、いまなお大きくなろうとしている。教皇クレメンス六世は改築工事を進めており、未だ半分の完成度らしい。そして、歴史を左右するかもしれない裁判が行われている法廷があるのは、改築の進んでいない、謂わば旧宮殿であった。




    *     *     *




 ナポリ女王ジョヴァンナは身振り手振りを駆使して、法廷に集まる者へと訴えかける。そこにいるのが聖職者であろうと、地方貴族であろうと、あるいは王族であろうと関係なく、一人の母としての言葉を続ける。


「私たちは国を追われました。自分の不正による追放ならば甘んじて受けましょう。しかし、これは私の幼じみであるハンガリー王ラヨシュによるものです。無論のこと、自身の弟が亡くなったことの悲しみは、夫を亡くした妻である私もまた理解できることではあります。当たり前の幸福を夢見るキリスト教徒であります。それが無残にも奪われた。誰かの手によって。その何者かを探す努力をしました。それらしき者もまた私の周りの者でした。

 この深い悲しみの矛先は、自分にこそ向いております。夫一人を失うことは、身を裂かれるほどの思いがしました。殺めた者が顔を知る者であることは、心が灰になるようなものでした。そして、私たちを私たちの家から追い出した者が幼少からの知己であることに、無力を感じました」


 滔々と訴えかける彼女を、聴衆は、ハンガリー王国の検事の答弁の際とはまったく違う態度で受け止めていた。沈黙である。誰もが何も言わずに、女王の言葉を聞き入っていた。一言一句を逃すまいという思いは変わらないのだろう。ひとえに、ジョヴァンナという女王の魔力がそうさせているのだろうか。

 オリヴィエールは傍聴席に座って、手に汗を握る。女王はいま剣の橋を渡っているような思いであろう。彼女が口にしていることが真実かどうかはわからない。しかし、本当のことであろうが嘘であろうが、真に迫らなければハンガリー王国の主張を退けることなどできないであろう。

 そんな彼女が自信満々に振る舞えるのは、自分の成果でもあるだろう、とオリヴィエールは思った。うぬぼれであったかもしれない。ナポリ女王の生み出した空気がそう思わせたかもしれない。

 ともあれ、オリヴィエールは祈ることしかできないのだ。ナポリ女王の主張に正当性があること、そしてそれが、臆病なクレメンス六世にハンガリー王国を断ち切る決断をさせることをだ。


「帰る家がない生活など、想像したこともありませんでした。亡命の日々は、まるで地から足が離れているような感覚さえしました。ナポリ王国を継ぐべき我が子の幼少を、私の領土であるとは言え、他国で過ごさせなければならないというのは、寂しいような思いもしました。自身の治める領土を知らずして王になった者など、誰が信用するのでしょうか」


 これには多くの貴族たちが苦笑いを浮かべた。誰のことを言っているかなど、わかりきったことだった。


「この亡命生活を強いられた上で、ハンガリー王国はさらにこう言うのです。アンドラーシュはもはやナポリ王国のものではない。元のハンガリー王国のものである。すなわちその子のカルロの身柄もまた、ハンガリー王国に帰属するものである、と。

 ……こんなことが容認できるでしょうか。カルロはアンドラーシュの子であり、そして私の子であります。国から武力によって追い出した他国が、さらにその後継者たる子の身柄までもを要求してきたのです。あまりに、あまりに残酷ではないでしょうか。そのような無法がまかり通っていいのでしょうか。

 私には到底、そのようには思えません」


 ナポリ女王の主張は、ハンガリー王国検察団の主張とは正反対であった。

 検察団は、ハンガリー王国がナポリ王国を狙っているなどという妄想を女王が抱いているとした。そのために夫を暗殺したのだと。ハンガリー王国からの影響を断つために。

 一方の女王は、夫の死に乗じてハンガリー王国はナポリ王国を狙っているのだ、と言った。もしかすると、その死すらもハンガリー王国が仕込んだものである可能性を含ませながら。

 愛人であり今の夫であるタラント公ルイージとの間に子が生まれれば、その子が後継者となるだろう。しかし、いま女王がなんらかの要因で亡くなったならば、カルロを王に立て、王配たるアンドラーシュが摂政となる。

 両者は心情に訴えかけながらも、政争を繰り広げていたのだった。そのことに気づかぬ諸侯たちの特使ではないし、枢機卿団ではない。オリヴィエールもまた気づいていた。それだけであれば、政治的対立であり、自身に陣営の側に味方をすればいいだけだろう。

 この場が教皇宮殿で、教皇裁判の場でなければ、である。

 裁判の判決如何はキリスト教世界の末世まで残るものであり、その中に教義的な不義の証拠を残すことはできない。純然たる立場から正しい方を勝たせなければならなかった。教えがまた、政治的な立場をも揺るがすのだ。

 女王の主張は、最後の言葉を以って締めくくられた。


「みなさまの前で申し上げます。虐げられた孤児と貶められた女王に罪はございません。どうか我が子を、不当な判断によって、夫殺しの母を持つような不幸な子に仕立て上げませんよう、お願い申し上げます」

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