竜の牙と魔女の裁判(中)
レイナルドと牙を持つ者は、市中を駆け回って戦った。お互いが優位に立てる場所を奪い合い、誘い出す。たった二人の戦争は、それぞれが持つ全ての技を引き出していた。ときには剣を納めて走ることもある。
剣戟がいくつ交わされたかはわからなかった。中には兵士たちの喧嘩だと言う者もいたが、次の言葉を紡いだときに二人の姿は消えていた。激しく動き回る彼らは倉庫へ入り、黒死病で一家が亡くなった家へも押し入り戦った。
両者は疲労の色を濃くする。それぞれが負傷していて、しかし死力を尽くして戦っている。長期戦は二人にとって不利だった。
レイナルドは、相手の剣を恐れてなどいなかった。確かにいま戦っている相手の剣技は卓越していたが、これよりも優れた使い手と出会ったことがある。が、気迫が違った。技術の差だけが戦いの趨勢を決めるわけではない。その差がわずかであれば、感情がひっくり返してしまうことも知っているのである。
「見事な剣です。さぞかし、名のある騎士だったのでしょう」
「戯言を。手を抜いているのではないか?」
「まさか……こうも必死に追いすがられては、私とて油断はできません」
本心からそう言った。どうだか、と吐き捨てられる。
「魔の道を行く者よ。貴方たちは未だ人であるようです」
剣が再び交わされる。レイナルドの機巧の剣が悲鳴をあげた。もとより、これほど剣をぶつけることは想定していないし、しばらく戦い続け手入れもろくにできていなかった。もしかすると武器の差がここにきて決着をつけてしまうのではないかとすら思えた。
無言の相手に、レイナルドは言葉を畳み掛ける。
「私が生きていることがその証拠だ。あの夜、最後に剣など持ち出さなければよかったのです。クロスボウで貫いていれば、あるいは剣に毒でも塗布していれば、いまごろ私は冷たくなっていたでしょう。
いまだってそうだ。もっと大勢で私を襲えばいい。騒ぎにならないように仕留めることだってできるでしょう。宿を襲っても構わなかった」
「ふん、あちこち逃げ回り、あの晩からいくつもの宿をとっていたお前が言うことか」
「なんだ、わかっていましたか。けれどもそこまでしながら、どうして私を放置していたのです?
それともオリヴィエールを侮っていましたか。それなら合点がいきますが、にしても迂闊でした。やはり暗殺者にはてんで向いていません。かの〈山の老人〉たちであれば、そのような甘いことはしません。心は不要であると切り捨てているでしょう」
「ほざくな、小僧が! 見てきたとでも言うのか!」
「ええ、見てきましたとも。正しくは我が師が、ですが」
「なにぃ!?」
レイナルドは言う。自分の師のことを。十二人いる師のうちの一人の名を告げる。ルノー・ド・ヴィシエの名を。過去、テンプル騎士団の総長を務め、恐ろしきサラセンの暗殺者たち〈山の老人〉と対峙した猛者である。
「ふざけるな! そんなことがあるはずなどない!
テンプル騎士団が滅びたのはいつだと思っている。そして、彼らが聖地から去ったのは、いつだと思っている」
「ふざけてなどいません。私には数多の師がいる。それは私に教えを残した全ての者。十二の師で名を挙げるならば……リチャード、ベルナール、ギヨーム、ルノー……彼らが私の中にはいるのです。我が聖剣に刻まれた名の数々こそが、我が血肉なのです」
「世迷言を! 何が言いたい!」
「貴殿の前にいる私こそがテンプル騎士であると、そう言っているのです」
なにせ、そう在れと言われた。レイナルドは言った。
テンプル騎士団たれと育てられた。キリスト教世界を守る剣であれと鍛えられた。
過去に、キリスト教世界に貢献した騎士たちの話を聞かされて育ち、斯く在るべしと。その中には数多の強敵との戦いがあった。真に恐ろしい暗殺者とはどのようなものかなど、身に叩き込まれたものであった。
「その私からして、貴方たちは未熟である、と言っています。
善悪なく人を殺すことを生業とするならば、正しき行いのために人としての悪を為そうとするならば、心は捨てなさい。課された任を粛々と行いなさい。人ではなく、道具として振る舞いなさい。
けれども……私には、貴方のその心は尊いものに思えます。技とはすなわち結果ですが、心とは過程に宿るものです」
二人は距離をとった。レイナルドの優しい声音に、相手は驚いていた。わずかに重心がずれる。レイナルドは、そこに剣を入れるようなことはしなかった。語るべきことがあると思ったからだ。
「その心こそが、人のものでしょう。何者かが貴方を悪魔であると、狼男であると、吸血鬼であると罵ったところで関係ありません。
私は認めます、病に冒されし者よ。貴方は人です。まごうことなき、人です」
オリヴィエールは彼を、様々な言葉で表現していた。だが、結局は人である。レイナルドはずっとそう思っていた。いかに悪魔的な行いをしようとも、対峙しているのは死を恐れる者であった。
ハンセン病のように、人の見目を変質させてしまう病は数多くある。それによる差別だってあった。聖地でも病院を建てて対策していたが、キリスト教世界における各国では隔離政策がとられている。そのことの是非は問わないが、彼らが自分と同じ人であることは事実であった。
それを知るレイナルドであるからこそ、対等に相手を扱ったのかもしれない。あるいは騎士と言えど戦士であり、命のやり取りをするために、相手を計る必要があったからかもしれない。
「……そうか」
牙を持つ者はそうつぶやいて、外套を脱いだ。
細長い顔に、青白い肌。鋭く尖った牙は、人間離れして獣のようであった。しかし目に宿る理性的な光をレイナルドは見逃さなかった。
「だが、我らは人のようには生きられない。血を飲まねばならぬ。人を殺めてでも、自分の居場所は守らねばならぬ。その苦しみからは、逃れることはできぬ」
「しかし、それが人を殺めていい理由になどなりはしません。その道を選んだのは他ならぬ貴方なのですから、誰かを責めるのはお門違いでしょう。私は決して、貴方の選択を否定するわけではありません。しかし、悪には然るべき報いがあるべきなのです」
レイナルドは剣を構えた。怪我をしている左腕に力は入らないものの、型を守るために両手で持った。
「どんな夜であったって、光は私たちを照らしています。闇に隠れた悪とて主は観ておられます。弱き者よ、悪を為すこと無かれ。
主に曰く、天の国は善悪を知らぬ子のような者のものであり、人は善悪の区別を知り、その選択を託され、そして親たる我らは善悪を知らぬ子のためにも、善を為さねばならないのです」
ここに、レイナルドは自身が戦う理由を示した。テンプル騎士団を騙るものを許さないことのみではない。テンプル騎士団の理想の体現たる己が、悪を誅すると言ったのだった。
悪魔ではなく、人の悪を。
相対した、牙を持つ者は、戸惑いながらも剣を深く構えた。潤んだ瞳がレイナルドを見ている。
互いにまったく違う構えであったが、不思議と狙いはわかった。
「テンプル騎士団、レイナルド・コラン。いざ」
「……竜牙部隊、オトカル。行くぞ」
スパルトイ。それはギリシャ神話で言われる、竜の牙より蘇った兵士たちのことだ。
鋭い牙を持っている彼らの願いの名でもあるのだろうな、とレイナルドは思った。
二人はほとんど同時に駆け出す。剣を大きく振りかぶって、決着をつけたのだった。
* * *
「では次に、ナポリ女王ジョヴァンナの供述を求める」
教皇の声によって、ナポリ女王は入廷する。男ばかりの法廷というだけで女である彼女にとっては敵地に等しいものであるだろう。加えて、検察団の供述によって彼女は今や窮地に立たされていると言っても過言ではない。誰もが彼女を見る目を厳しくしていた。
扉が開かれ、彼女の姿が現れた。顔は青ざめていて、しかし女王のおちつきがあり、しとやかで、美しいという言葉が彼女のためにあるような気さえした。オリヴィエールが彼女の顔を見たのは初めてだった。アヴィニョンに到着したときは距離もあり、顔を見ることは叶わないでいた。見た今だからこそ思う。ジョヴァンナは美の化身だ。天上から舞い降りた天使だ。あるいは、古の民が謳った異端の神々の一人ヴィーナスであるかもしれない。
波打つ黄金の髪に、ナポリ女王の証明である冠をつけていた。毛皮のふちどりのついた空色の外套には、白百合の紋章が散りばめられている。
ゆっくりと、しっかりした足取りで大法廷の中央を歩く彼女は、名門貴族の間を抜けていき、枢機卿の横を通り過ぎる。さながら、綺羅星の間を駆ける流星のように。
教皇の元まで向かったナポリ女王は、跪いて教皇の足に接吻をした。教皇クレメンス六世はナポリ女王を立たせると、その唇に接吻し、隣に座らせた。
ふと、教皇が女王に耳打ちしたように見えた。女王は席につきながらも、傍聴席を見て回る。そしてオリヴィエールを見ると、安心したように微笑んだような気がした。
オリヴィエールは、腰を抜かさなかった自分を褒めたい気持ちだった。大法廷であることも忘れて、心は有頂天に達した。美の化身たる彼女は自分に微笑んだというだけで、歴史に刻まれた名だたる騎士たちに並んだような気さえしたのだ。
そして確信をした。自分のなし得たことは教皇に届いていて、そして呪いは解かれたのだと。教皇だけではない、女王までもがその不安を取り除いていた。ただの数日に、自分が張り巡らせた策は確かに実をなしていたのだ。
オリヴィエールは教皇に提案したのである。〈テンプル騎士団の呪い〉は本物であると。しかしそれは、このアヴィニョンが未だエルサレム王のものであり、エルサレム王のものであるということはテンプル騎士団のものであるからだ、と。であるならば、女王からこの都市を買い取ってはどうだろうか。だが、通常通り買い取ってしまえば財政も傾くだろう。しからば、彼女に無罪を買わせるのはどうか。結果としてアヴィニョンを適正価格よりもずっと安く買うことで、彼女を救うこととしたのだった。
それは常日頃していることだろう、とオリヴィエールはほくそ笑んだ。免罪符を買わせることなど日常茶飯事だ。教皇クレメンス六世は、その顔を笑顔に変えて頷いたのだった。
「では、反論を述べよ」
クレメンス六世が言うと、ナポリ女王は立ち上がった。
さて、ナポリ女王の供述が始まった。彼女は堂々とした声音で主張する。女王、女、そして母としての声が重なっているようにさえ思えた。
「まずはこの場にお集まりいただき、ありがとうございます。私は今日、この日を待ち望んでいました。教皇庁という公正で公平で、そして主に最も近き場所で、私の無実と、我が国の無罪を主張することができる機会を得たことは、まさしく天命と言えるでしょう。無実、無罪に勝るものなどこの世にはないはずであり、正義が悪を許さぬ心のことを言うのであれば、天秤は必ずや私たちに傾くことと信じております。
それでは、この場においてただ一人の女である私の言葉を、どうか聞いてください。潔白の証明と正義の心は、国境さえも越えるものと信じております」
女王の堂々たる前口上は、皆の耳を澄ませた。それは、ハンガリー王国が染め上げた色を払拭させていた。彼女は入廷してきた時点で、この場の色を調律し始めたのであった。女王の威厳、カリスマがそうさせているのかもしれない。
正義について唱えた彼女は、しかし次には、己の不実を告白する。
「さて、まず私と夫アンドラーシュの関係についてです。告白しますが、決して良好ではございません。理想とする結婚生活とはほど遠いものであります。
私は一国の女王であり、アンドラーシュは一領主であり他国の王子でありますから、政治的主張が対立することも多くありました。そしてお互いに若く、政治と私生活を混同することがままあり、冷めていたという言葉は的を得ていました。
そのために寂しい思いをさせたことも多くありますが、それは私とて同じです。が、しかし、私たちは夫婦であり、子であるカルロも生まれたことが何よりの証明でしょう」
ナポリ女王の主張は、これもまた事実である。政治と私生活を切り離すことは理想論であり、どれだけ歳を取ろうとも、変わらない。あえて未熟であったと認めることで、ナポリ女王は自分にも責任があるとした。
一方で、これは貴族の夫婦によくある問題に過ぎないと言い、しかし夫婦の体は成していると主張しているのだった。
「しかし、私たちはお互いに言葉を重ねることでわかりあうことを覚えました。それは事実でしょう。彼と閨を共にしたのは何も、彼が殺されたあの日だけではありません。それよりもずっと前から、言葉を重ね、日夜を問わずわかりあう努力をして参りました。であるから、私たちの間にあったことは、彼が殺されたこととは無関係なのです。
まして、アンドラーシュと私は、伴侶というだけではありません。幼馴染なのです。幼少の折より遊んでいた仲でございます。ラヨシュ陛下とアンドラーシュのどちらが騎士でどちらが王の役をやるのかを言い争っている光景が懐かしく思います。しかも、決まって争っていたのは騎士の役を巡ってですから、不思議なことです」
法廷に笑みが溢れた。裁判の場にふさわしくない和やかな雰囲気が一瞬だけ漏れる。彼女の過去を思わせる言葉に、ふと微笑みが浮かぶ。不思議なことで、どの身分であっても子どもというのは皆、同じ遊びをするものであった。アーサーやランスロット、あるいはシャルルマーニュとローランに扮して、幼ながらに想い人に愛を謳ったりするのだ。
「それほどの仲ではございましたが、私たちはそれぞれ、国を背負い立つ者であり、考えの違いは生じましょう。対立することはもちろんございます。ですが、私は今でこそ、友愛の情とは考えの違いによって裂かれるものではないことがわかります。幼少の頃から長きに渡る関係を持つ者を殺めることなど決してありません」
これに顔をしかめたのはハンガリー王国の検察団であった。ナポリ女王は、ハンガリー国王ラヨシュはその頃のことを忘れて攻め入っているのだ、と言っているのだ。
理論が通用する世界ではない。まして倫理などで政治などまかり通ることはない。
しかし、この裁判では別だった。主の御前であるからには、人は理論と倫理で固めなければならないのだ。場の空気を支配した者こそが、教皇に問うことができる。どちらが勝者なりや、と。
「そして何よりも大切なことですが……私たちを襲う苦難は計り知れないものとなりました。それは一人の母親としての苦難でもあります」
母親、という言葉にオリヴィエールは息を呑んだ。ふとした瞬間に、自分の母親の姿が目に浮かんだ。聖母になり損ねた女が、どうしてかナポリ女王の姿と重なって見えたのだった。




