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竜の牙と魔女の裁判(上)

 オリヴィエールが去ったあと、レイナルドは暗殺者と対峙する。

 お互いが剣を握りにらみ合うのは、平和な都市の市中でのことだった。その光景は異様であったが、人通りの少ない路地であることと、ナポリ女王の来訪に浮かれ、彼女の裁判を待つ民衆たちは表通りに集まっているため、ここにいるのは二人だけであった。

 騎士と暗殺者が対峙するという絵に、レイナルドは不思議な思いを抱いた。

 彼らの目標はすでに達成できない。オリヴィエールは逃げおおせ、日の下を歩いて教皇宮殿へと向かうはずだ。自分たちの姿を見て、そしてナポリ女王の有利となる取引を行う書状を持った彼は、牙を持つ者たちがこの都市にもたらした〈テンプル騎士団の呪い〉の噂そのものをひっくり返すことなく、その呪いを解いてみせたのである。少なくとも、教皇クレメンス六世とナポリ女王ジョヴァンナの二人からだ。

 これは二人が立てた作戦だった。レイナルドが入念に都市を調べ、彼らが襲撃してくるであろう場所をあらかじめ見つけていた。あえてそこを通ることでおびき出したわけであるが、上手いこと乗ってくれたのだ。そして彼らを足止めしている間に、オリヴィエールは自身の目標を達成したのだった。

 剣を数合交える。音が鳴り響いていた。お互いに鎧は身につけていない。鎖帷子さえも外していた。それは、どちらもが負傷をしているからだ。

 レイナルドはいま、左腕にまともに力が入らない状態だった。いずれ治る怪我ではあったが、わずか数日では未だ治癒はできていない。馬上でも使える長剣は、地上では両手で振るうものであったから、これは圧倒的な不利であった。

 しかし、それでも対等に戦えているのは、牙を持つ者もまた傷を負っているからであった。レイナルドが剣の柄を腹に叩き込んだことで、内臓が傷ついたのだろう。体の芯に力が入っていなかった。それでは満足に剣を振るうことができない。

 二人は卓越した剣技を持ちながらも、全力を出すことができず、決め手に欠けていたのだった。

 お互いに鍔迫り合いを嫌って、距離をとった。剣の構えからして、それぞれに怪我があるのは両者がともに把握していた。


「……貴様、最後まで邪魔立てをするか」

「当然です。私の目的は〈テンプル騎士団の呪い〉について解明すること。その正体が、テンプル騎士を隠れ蓑にし悪事を働く者であるならば、これを誅するのが我が使命」

「ほう! 悪事、悪事と言ったな、小僧」

「人の血を啜り、襲ったことが悪事ではないと? 悪事でなければ、その責を他者に、テンプル騎士団に押し付けるわけがないでしょう?」

「ほざけ!」


 牙を持つ者は叫んだ。空気を揺るがすのではないかと思うほどの叫びであった。

 さしものレイナルドも一歩引いてしまうほどだ。


「我らは血を啜らねば生きていられぬ。我らは、そのように生まれてきた、定められてきた! おぞましいと自分たちでさえ思うとも! だが、止められぬ。お前たちがパンを食すように、我らは人の肉に歯を立てる。 お前たちが葡萄酒を飲むように、我らは血を啜る! 報われぬ善のまま死ぬか、後ろ指をさされながらも悪として生きるかなど、幼き我らには……!」


 そこから先は言葉にならなかった。ゆらり、と牙を持つ者は揺れた。それはレイナルドの目から見てからだったかもしれない。自分の思っている彼の存在が、揺らいでいたのだ。


「選択の余地はない。そうあれ、と生まれてきたのだ。であれば、そう生きるしかない」


 生まれは絶対であった時代だ。どこで生まれるのか、によってその一生が決まってしまう。どのように生まれるのか、によってその一生が決まってしまう。富める者は富み、貧しい者は貧しいままに。女であれば嫁ぐ先は決まり、男であれば家を継ぐか、相続させるものなどないとばかりに追い出されるかであった。あるいは、悪の道に身をやつすかだった。自分たちを救う者などいない。社会道徳やキリスト教などを切って捨てることもあった。

 それは牙を持つ者である彼とてそうだったのだろう。血を啜らねばならない身として生まれてきて、しかし生きるためにそうするしかなかった。そのことを許してもらうために、剣を握り、自分のためでなく他人のために手を汚し続けた。

 同情したところで、救えはしなかった。


「そのために、貴方は……?」

「いかにもだ! エリザーベト様こそが、我らが救いであると我らが主人はおっしゃられた。それしか道が残されていない。この忌まわしき病は、我らから人間性を奪っていった。俺はそれを取り戻したいのだ。あの方であれば必ずや救いをもたらしてくれる。その術を与えようと言ってくれたのだ。

 そのためであれば、私は血を捧げよう。国など関係ない。ただ、我が宿願のために!」

「暗がりから人を殺める道こそがそれだと? それは魔道だ。決して進んではいけない道だ。かの聖女がそれを望むはずがない!」

「だが、道なのだ! 光の下を歩けぬ者には、暗がりの道を行くしかない!」


 そう言って、再び剣が振るわれた。身をひねることができないからかそれほどの威力はないものの、片腕で受けるしかないレイナルドには響いた。

 隙を見つけたとして、追い詰めるだけの力が体にない以上、消耗戦になるのは目に見えていた。

 剣の腕前は伯仲していた。わずかにレイナルドが上であろう。しかし、その差を埋めるほどの気迫で牙を持つ者はその剣を振るう。

 決闘裁判という、紛争解決の手段があった。ドイツのゲルマン民族から端を発するこの解決法は、神は正しい方へ味方し、その剣に力を宿すとしていた。そしてそれは、ときに真実を覆い隠すものであった。

 相手の剣を受けて、レイナルドはその解決法の意味を知る。なるほど、これほどの気迫は神懸かりと呼ばれるのも致し方ないことである。技術の差を、ただ胸にある熱でもって越えようとするのは並大抵のことではなく、その熱をして真実であると証明するというのは、深く納得してしまいそうであった。




    *     *     *




「ハンガリー王国検察団の主張を述べよ」


 裁判の準備はつつがなく終了し、すでに傍聴席には人が入っていた。見て驚くのは、その錚々たる面々であった。彼らはいずれも名のある領地からやってきた特使たちであった。各修道会や、大聖堂からも使者がたてられている。オリヴィエールが何度か教皇庁で顔を合わせた者もおり、その身元を思い出すと、やはりこの裁判がどれほど注目を集めているかを知らされた。

 教皇が開廷を宣言し、まず前に立ったのはハンガリー王国の検察団であった。彼らの前には枢機卿が勢揃いし半円状に座っており、その後ろ、一番高いところに教皇が座っているという構図だ。

 検察団の代表者が一人現れ、周囲に礼をする。その堂々たる姿はよほどの自信があるのだということが伺えた。原稿を手にすると、息を大きく吸った。


「まずは教皇猊下と、ここにお集まりいただいた皆様に感謝の言葉を。我らがハンガリー王国の王子であった敬愛すべきアンドラーシュの無念と、我らが国民の落胆と怒りを訴える機会を賜ったことを嬉しく思う。これは決して、何者かを不当に陥れようというものではない。我らは真実を証明しようと言うのである。罪を明るみにせずして、我らに真の夜明けはない。

 まして、一国の王がその罪の在り処を隠すなど言語道断である。よって、これより語るのは確固たる事実であり、我らの調査の賜物である」


 そう語った彼らの言葉を、観衆は静かに聞き入っていた。吟遊詩人の前口上のようだ、とオリヴィエールは思った。彼らはいま、この大法廷という舞台を整えて、観衆を自分たちの世界に引き込んだのである。その言説はとても見事であった。


「まず最初に、アンドラーシュ殿下の殺人について、不可解な点があまりに多いと言えよう。事件の夜について、断片的に語られている事実をつなぎ合わせ、ひとつの真実として語らせてもらう。

 アンドラーシュ殿下はこの日、珍しくも、ナポリ女王とねやを共にしていた。これはこの日に限り、女王のたっての希望だったという。が、しかし、夜更けにナポリ女王の侍女がアンドラーシュ殿下をお呼び立てした。曰く、顧問の一人であるマブリーチェ・ディ・パーチェが殿下に話があると。

 疑うことを知らぬ殿下は、あるいは女王との幸せを噛み締めていた殿下は、その言葉を信じた。いや、誰が疑うことがあろうか。自身の妻が信を置く者であれば、疑う余地などなかろう」


 そうだ、と同意の声が小さく漏れた。法廷を騒がすほどではない。熱狂ではなく、冷静な納得であった。

 検察団は少し間を置いて続ける。


「しかし、ここで不可解な、おおよそ理解のできぬことをしたのだ。寝室の扉の鍵は閉められたのである。だが、多くの寝室がそうであるように、鍵とは内側にあるものだ。部屋の主人とは部屋の内にいるものだからだ。さて、なぜ女王は鍵を閉めたのか。愛する夫が外へ出たにも関わらずだ。誰がその扉を開ける? これが第一の不可解な点である」


 検察のその言葉に、傍聴席に座る者たちは隣に座る者と言葉をかわし始めた。大法廷はまさに、検察団の独壇場であった。彼らは至って論理的に、ナポリ女王を追い詰めていく。彼女を擁護しようとする者も、心情によってのみで擁護できるはずがなく、論理の破綻を見抜かねばならなかった。しかし検察団は、そんな隙を一切見せない。


「そこで王子は、三人の男に襲われた。卑劣にもその男たちは、角で殿下が出てこられるのを待っていたのである。その男のうちの一人は、ライモンド・カバーンと言う。諸君もご存知の通り、この男は処刑された。一方でこの男は、女王の教育係を務めた女の夫である。

 さて、なぜ女王の側近たる者の夫が、女王の夫を襲わなければならないのか? これもまた疑うべき点である。そしてこの襲撃によって、最初にあった侍女による誘い出しも怪しいものだと考えられよう」


 そうだ、と今度は大きな声が聞こえた。野次ではなく、心からの納得の声であったことは、聞こえた者すべてが思ったことだったろう。声に呼応するように、場の皆が頷いた。


「そしてアンドラーシュ殿下は……取っ組み合いになった末に、三人のうち一人が手袋を殿下の口へと押し込んだ。苦しむ殿下の首にあらかじめ輪にしていたロープを通し、バルコニーまで引きずって、そして外へと投げたのである。

 だが、発見されたときにはまだ、殿下は息があったことは、第一発見者たる侍女が証言している。ここでさらに不思議なことに、階下に潜んでいた犯人たちの協力者の一人が、殿下を体ごと引っ張ったのである。首を吊るされた殿下にさらなる苦しみが襲ったのだ。

 そして何より重要なのは、これは女王の寝室の隣で起こった事件なのである。彼女は扉越しであっても、アンドラーシュ殿下の声を聞いていたはずなのだ。にも関わらず、彼女は扉を開けることはなかった。鍵を閉めて、知らぬ顔をし、己は無実であるかのような顔をするのだ。

 この卑劣で、悪辣で、悪逆な犯行の、これが全貌である」


 理解していただけただろうか、検察団の代表は言った。いよいよ、大法廷は騒がしくなってきた。波のように動揺が広がっていく。教皇が静粛にするように声をかけなければ、もしかすると声援まであがっていたかもしれない。

 オリヴィエールもまた、動揺した一人であった。最善を尽くしたはずだった。しかし、それでもなお足りないのではないか、と思わせるだけの気迫が検察団にはあったのだ。絶対にナポリ女王を逃すまいとする意思が。


「次に、ナポリ女王にはアンドラーシュ殿下を殺害する動機があった。夫婦関係が冷めていたというのが一つ挙げられる。事情を知る者に聞けば、二人は一日に言葉を交わすのは数えるほどであり、夜も別室で過ごすことが多かった。特に、殿下のお言葉をかの女王は無視することも多かったと聞き及んでいる。

 さらに言えば、かの女王はアンドラーシュ殿下という夫を持ちながら、愛人を持っていた。諸君も知っての通り、タラント公ルイージである。二人の関係は公然の事実であり、これ見よがしに連れ添って歩いていたと言うではないか。このことを考えれば、ナポリ女王にとって、アンドラーシュ殿下の存在が疎ましく思われても仕方ないのではないだろうか。殿下の思いは彼女にあったにも関わらず、ナポリ女王に仕打ちはあまりに酷であると言えよう」


 このように、検察は畳み掛けた。彼らの入念な調査による事実の整理は、動機を本物にさせていた。動機だけであっても、証拠だけであっても裁判が決することはない。動機とは曖昧なものである。本人が自白をしなければ、推測でしかない。だが証拠の数々が推測による動機を証明してしまう。二つが噛み合ってこそ、勝利へと導かれるのであった。


「二人は知らぬ仲で結婚したのではない。幼馴染であった。それはアンドラーシュ殿下の兄であるラヨシュ陛下ともどもである。将来は兄が王に、弟を婿にということはわかりながら過ごした幼少期だっただろう。しかし、彼女は幼い頃から周囲の者に話していたという。アンドラーシュは恥ずべき男であると。運動ができず、小太りで、おまけに知恵が回らないと。さらには兄であるラヨシュ陛下についても、悪知恵が働き、将来はナポリ王国を狙っているのだ、などと。

 人の善を見ず、誇大な妄想を口にするような者が、重ねて悪言を向けていた相手が死した事件の無罪を主張したところで、いかにして信用することができようか。まして、このように数々の証拠がありながら、である」


 大法廷を支配しているのはハンガリー王国の検察団であった。彼らは多くの者が知っている事実に対する入念な調査と、見事な物語によってナポリ女王を悪の魔女にしていたのであった。検察団の主張が真実かどうか、それはオリヴィエールを含む傍聴者にはわからない。まして、真実の在り処を決めるのはオリヴィエールではなく、建前として主であるし、教皇であった。

 その教皇は、至って冷静であった。黒死病と呪いに怯え欲深い彼であったが、公式の場で毅然とする態度をとる彼はやはり教皇の器であったように思えた。


「我々は以下のように、真実を主張する。

 ナポリ女王はかねてより厄介に思っていたアンドラーシュ殿下を、側近に命じ暗殺したのである。侍女に殿下を誘い出してもらい、そこに彼女を慕う側近たちに襲わせ、殺害に至ったのである。そしてその死で以って国民からの同情を得て、自らの手でその者たちを処断し、自らをあたかも正義の代弁者であり、悲劇の姫であるかのように演出せしめたのだ。

 我らはこのような、一国の王子を、自分の夫を、そして一人の男を利用した彼女を断罪する必要があり、真実をキリスト教世界に喧伝せしめ、この悪夢のような状況を打開する必要があるように思う。シチリア島からやってきたと思われるこの悪疫に悩まされる今、鉄槌を下すことによって人々に正義と真実の力を示すべきなのだ。

 重ねて言うが、これらは我らの調査に基づくれっきとした事実であり、これらをつなぎ合わせていくと、ナポリ女王は明らかに、アンドラーシュ殿下の死について関与していたと考えるのが妥当である。決して何者かに不名誉を与えようというわけではない」


 ここで彼らは、本当の主張を見せようとしていた。シチリア島はこのとき、ナポリ王国の所有物であった。黒死病と絡めることによって、女王の悪事を世界中の苦しみと繋げて語ってみせ、彼女を裁くのが唯一の道であるように見せようとしているのだ。

 そしてそれは、上手くいったと言える。彼らの主張を退けるだけの主張を、ナポリ女王ができるようには思えなかった。状況も証拠も動機も、あまりにも揃っている。大法廷に集まった誰もが、心情とは別にして、ハンガリー王国の検察団の勝利を確信していた。

 どうする、とオリヴィエールは冷や汗をかいた。できる限りのことをした。ナポリ女王の勝利は教皇クレメンス六世の望むところである。しかし、彼がこの状況をひっくり返すような判決を下せるかどうかだけは、わからなかった。

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