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パレードはどこへ行く

 三月十五日、朝の九時ごろであった。元から陰気臭く、そして黒死病が蔓延し薄気味悪くなったアヴィニョンの街であったが、この日はいつになく華やかだった。民衆は笑顔を浮かべて、さらには親子代々に伝わる豪勢なドレスを着込んで、みな大通りにやってきている。冬の終わりに漂う朝の凍るような空気を天然色に変えてしまうかのようだった。

 外壁に設けられた門から教皇宮殿にまで続く大通りさえ入り組んでおり、昼間であってもろくに日が差さないものの、人々は色彩豊かな布幕を垂らして街を飾った。歓声と喇叭ラッパが響いて、街を覆っていた闇が祓われるかのような明るさである。

 人々が笑顔で見守るのは、貴き者たちの列である。先頭を行くのは二人の聖職者だ。プロヴァンス伯領で名を馳せるフィレンツェ司教は笑み顔を浮かばせていた。一方、プロヴァンス司教区の尚書係は帽子を深く被る。二人は手を振って人々の祝福を願いながら進んで行く。

 そのあとに続くのは十八人もの枢機卿たちだった。彼らもまた鮮やかな緋の衣服をまとっている。彼らの悠然たる姿は、誇りと余裕を感じさせた。そしてそれは、これから教皇と謁見する名誉のためだけではなかった。後ろを進む人物によってもたらされることは誰の目から見ても明らかだ。

 キリスト教世界で一番の美男美女の二人がいた。彼らの姿を見て、よもや天の方からやってきたのではないか、と思う者すらいたほどであった。

 男の方はルイージという名である。イタリア半島の南端、タラントを領地に持つ公爵であり、美男子として名を馳せている。若い時からその美貌は有名であり、この時代にルイ、ルイジ、ルイージと名を挙げたならば、真っ先に彼のことを挙げるだろうほどに。流行にとても敏いのもその証拠で、ショートカットのヘアスタイルと、体に密着したスペイン風の服はまさに最先端を行くものであった。

 そして、ルイージの数歩前を行く者こそ、ナポリ女王ジョヴァンナであった。白い肌に黄金の髪の取り合わせは、氷上の黄金だと言われていたが、それも納得できる美貌であった。金があしらわれた真紅のドレスを身に纏っており、その手には女王を示す錫杖と宝珠があった。背が高く、男たちと並んでいても決して見劣りすることはない。むしろ、彼女の存在が際立って見えるほどであり、堂々たる威厳は王としての風格を見せた。

 アヴィニョンはこのときはまだ、ナポリ女王の持ち物であった。教皇宮殿の来客である以前に、アヴィニョン市民からすれば、自分たちの主人を迎え入れる行事であった。その主人がキリスト教世界でも至上の美を称えられる者であるならば、興奮もするだろう。

 パレードは盛況のまま終わる。ナポリ女王は教皇宮殿へ姿を消す前に振り返り、自らの臣民へと礼をしたのだという。噂など気にせぬ素振りに、民衆は彼女の勝利を確信していたのだった。


「見事でした、さすがは噂に聞きしナポリ女王。

 一度でも出会ったならば、彼女に惚れぬ者などおおよそいないでしょう」


 オリヴィエールはそう言った。場所は宿の客室であった。アヴィニョンでも珍しい個室の客室は、よほどの金持ちでなければ利用できなかった。だいたいが高級娼婦を連れ込む商人や聖職者が使うのであるが、このときばかりは違った。

 向かい側に座って、オリヴィエールの言葉に頷いたのは一人の男だった。この男こそがオリヴィエールが用意した切り札であった。


「オリヴィエール殿、わざわざ音楽家を通じてまで手紙を寄越したのには訳があるのでしょう?

 女王の裁判まで時間がありません。手短に用件を済ませましょう」


 ハイリゲンを通じて手紙を送った相手は、ナポリ女王の現夫であるルイージであった。オリヴィエールは彼につながりなどないが、神の音に最も近いと言われている男の手紙を無視するわけにはいかないと踏んだオリヴィエールは、ハイリゲンを利用させてもらったのだ。

 無論のこと、その内容はルイージ、いや、彼を含むナポリ王国に利になることである。

 こうしてオリヴィエールの元にルイージの使者がやってくることとなったのだ。彼は身分を隠すために、貴族たちと比べればぼろ布にも等しい衣服を身に纏っているが、顔立ちからは相応の身分の者であると伺えた。ルイージの臣下の子息だろう。


「この度の裁判、教皇猊下はナポリ女王の勝利を望んでおられる」

「そうですとも。我らは知らぬ仲ではおりません。まして、我らが女王は無実なのですから」

「しかし政治がそれを許さぬことは、おわかりであるはずだ」

「用件を早く、と言ったはずです」


 焦らされるのが嫌なのか、ルイージの使者はそう言った。

 オリヴィエールは一枚の書状を渡した。その中身を見た使者は、顔を強張らせた。


「オリヴィエール殿、まさか冗談を申すために呼びつけたわけではあるまい。

 このアヴィニョンの都市を明け渡せと、そう申しているのか?」

「タダでとは申しておりません。八万フローリンで買い取ろうと言っているのです」

「タダも同然ではないか!」


 使者は激昂した。それもそうだろう、とオリヴィエールは思った。

 フローリンとはイタリアのフィレンツェで発行されている貨幣である。各国から信用は厚く、国際取引や貿易で使われる主要な貨幣であった。対抗するべく貨幣を作った国はフランス王国を含めて多くあったが、フローリン通貨に敵う物はなかった。

 そしてこの時代、都市の売買も少なくなかった。商人たちが領主から買い取って自由都市となることもあった。百五十年前になるが、獅子心王と名高いイングランド王などは「買い手がいるならばロンドンさえ売る」と言ったこともある。

 だが、八万フローリンというのは都市の値段としては破格であった。アヴィニョンがキリスト教世界の中心であることを考えれば、なおのことだった。


「しかし、ナポリ王国にとって、必要な金額ではございませんか?

 それだけの資産と、タラント公の財産があれば、かの傭兵ヴェルナー・フォン・ブルスリンゲンを雇うこともできましょう」


 ドイツ出身のイタリア傭兵ブルスリンゲンは苛烈であり悪逆の名で知られていたが、味方に引き込めればこれほど頼もしい者もいなかった。悪評と信頼というのは、傭兵に対しては等価値である。

 元はハンガリー王国のラヨシュについていたブルスリンゲンであったが、ラヨシュの軍勢が黒死病の打撃を受け撤退した際に、イタリア半島内に取り残されている。解き放たれた猛犬たちを番犬に仕立て上げるのに必要な金額をオリヴィエールは提示したのだった。

 本来のアヴィニョンの値段から、女王の無罪確定を差し引いて、八万フローリン。悪い取引ではないはずだが、矜持が許さないのだろう。


「しかし、しかしこの条件はあまりにも!」

「私は公へ送った手紙には、教皇が女王の勝利を望んでいること、そしてそのために用意もしていることをお伝えしました。ルイージ公からの返答には、いかなる条件にも応じるとありました。

 教皇猊下は決して女王を勝利させる、とは申しておりません。主は公平に、正しい者の味方をします」


 オリヴィエールはそう言った。信仰心を持つ者など、教皇庁には数えるほどしかいない。神や悪魔など都合のいいものになってしまっている。この文言だけで、交渉の後押しは決まったも同然だった。

 唇を噛み締める使者は、しかし頷くしかないだろう。

 これだけあれば足りてしまう。女王の無罪と軍資金、いままさに求めているものを二つ提示されて、頷かないわけにはいかなかった。

 尤も、すべてはタラント公爵ルイージとすでに交わした内容であった。彼の方が聡明で、即決の伝言を送ってきたものだった。

 お互いに書状をまとめて、オリヴィエールが預かることになった。形式的には、まだ売買のやりとりは済んでいない。口約束ということになっている。あくまでオリヴィエールが送った手紙は個人的なものであり、ルイージやジョヴァンナ、クレメンス六世のあずかり知らぬことでなければならないのだった。


「では、以上を公と女王陛下へお伝えいただけますかな?」


 笑顔でオリヴィエールが言うと、相手の使者は忌々しそうな顔を浮かべる。


「聖職者よりも、商人の方が合ってるよ、貴様は。

 ハンガリー王国の匂いまでさせて、嫌な男だ」

「……いま、なんと?」

「つけている香水、ローズマリーだろう?

 そいつの製法はハンガリー王国とポーランドの一部でしか使われてない、門外不出の香水さ。すぐにわかる。亡くなられたアンドラーシュ殿下もつけておられたものさ」


 オリヴィエールはまるで、竜の尻尾を踏んだような感覚がした。




    *     *     *




 二人は怪しまれないよう、別々に教皇宮殿へと向かった。

 宮殿に着いたナポリ女王たちはいまごろ軽食と摂っているころだろう。一方、造られたばかりの宮殿一階にある大法廷は裁判の準備で忙しいはずだ。

 まずは教皇への謁見を果たし、ことの次第を伝えなければならない。すべて完了し、無事に裁判を行われたし、と。

 時間には余裕がある。しかし、駆けずにはいられなかった。思いが逸り、脚に力がこもった。

 いま自分は世界を揺るがすほどのことをしているのだという実感があった。キリスト教世界を席巻するスキャンダルの一旦を担っているのだ。いま自分が握っている情報と書状には、それだけの価値があるのだ。

 同時に、女王の裁判の結果が、真実の外側で左右されることに悩みがなかったと言えば嘘になるだろう。かの女王は公正に裁かれるべきだ。罪過の有無を明らかにする必要がある。彼女のいないところでいくら議論しようと時間の無駄であり、今日このときに明らかになるべきだろいう思いもある。

 だが、現実はこの通りだった。自分はもしかすると、大きな悪に加担しているのではないかとすら思った。もし女王が犯人であったならば、この身は海に沈めてくれようか。黒死病であると偽って、出奔さえしてしまおうかとすら思ったのだ。

 真実はまだ明らかになっていない。自分の目で、耳で確かめる必要があった。


「急がなければな。裁判が始まってしまう」


 漏らした独り言に、答える影があった。


「その必要はない。貴様はここで死ぬ」


 視線を送ると同時、駆けてくる者がいる。自分の命を狙う者は、いまや多くいるに違いないが、この期に及んで狙ってくるとすれば牙を持つ者に他ならなかった。

 手に持っている剣は騎士のものだった。オリヴィエールは、迫る剣へ反応することができない。振りかざされた剣が閃いた。しかしオリヴィエールは、すでに覚悟を済ませていた。それは死への覚悟ではなく、自分が襲われるという覚悟である。

 間に割り込む者がいた。彼は機巧の剣を振るって、相手の剣を弾いたのだ。


「レイナルド!」

「オリヴィエール、行ってください。ここは私が食い止めます」


 そう言って、レイナルドは片手で剣を構えた。頷いて、オリヴィエールは急いだ。彼の戦いを見届けることはできない。だが、自分は見なければならないものがある。

 果たして〈テンプル騎士団の呪い〉は解けたのかを。

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