夜明けを告げる鐘
それからオリヴィエールは、夜闇を避けるようになった。日のない場所は彼ら牙を持つ者の領域であり、そして彼らの牙はオリヴィエールを食わんと剥かれている。避けるのは道理であった。
変わったのは、夜の調査もやめたことだった。出かけるのは決まって昼間、日が出ているときであり、しかも日陰を避けるようになった。それは牙を持つ者どもを避けようという意思であった。
さらに言えば、レイナルドとも会わないようになっていた。いま彼は怪我人であり、安静にしている必要があったのだ。むやみに動かすことは避けるべきだろう。オリヴィエールも、レイナルドが動けないのであれば自分の身も危ういし、オリヴィエールが牙を持つ者を避けるのであれば、レイナルドの目的も達成できない。〈テンプル騎士団の呪い〉を追う側であったオリヴィエールは追われる側になってしまった。しかしレイナルドにとっては未だ〈呪い〉を追う立場であることに変わりなかった。
だが、それでも二人は〈呪い〉と戦うべく準備を進めていた。レイナルドは安静にし体を休めることで。傷は深く、そのときまでに完全に治癒することは難しいだろうと思われていた。本人は「しかし、戦うことに変わりはない」と言っていたため、オリヴィエールには止めることができない。
そしてオリヴィエールは、教皇クレメンス六世との折衝を重ねていた。彼が求めていることを探りながら、オリヴィエールは一つの提案をする。会談が落着した頃には、手紙をしたためている。中身は二通あり、一つはレイナルドへ、一つは酒を酌み交わした音楽家ハイリゲンへと送られた。
着々と準備が進んでいた。ナポリ女王が到着する日が迫ってきているのである。
そしてその日こそが、オリヴィエールが定めた決着の日であった。
三月十五日の早朝だった。一時課の鐘(六時を告げる鐘)も鳴り響いている。
教皇庁はすでに大忙しであった。聖職者のみならず料理人や厩番までが駆り出されて、誰も彼もが己の役割を果たそうとしていた。
この日はアヴィニョン女王がやってくる日であった。あと数時間もしないうちに彼女はやってくる。大勢の枢機卿と貴族を連れて。市中も大騒ぎであった。彼女は敗軍の王であり、逃走中の身ではあったが、さながら凱旋かのような盛り上がりだった。
できれば、それは彼女の勝利の前借りであればとオリヴィエールは思った。
「司祭オリヴィエール!」
声をかけてくる人物がいた。振り向けば枢機卿のギュスターヴが、緋色の衣服をすでにまとってそこにいた。教皇宮殿前でのことである。まだ日が登って浅いものの、空にあった星々はその光を失っていた。
「どこへ行くのだ。お前の仕事はどうした」
「私は司祭です、ギュスターヴ猊下。市井の教会へと向かうのです。教皇猊下から許可も得ております」
そのように言うと、ギュスターヴは少し怯んでいた。咎めるつもりで声をかけたのだろう。
そうか、と頷いて彼はオリヴィエールの顔をうかがう。
「ずいぶんいい顔をする。何か良いことでもあったか?」
「どうでしょう。まあ、あのナポリ女王の来訪に私も興奮を隠せないということでしょう」
肉欲を捨てた身ではあるが、美を賛美する心は失っていないつもりだった。それは美しい景色や、芸術の品であったり、人の容姿であっても同じだった。ナポリ女王がいかほどのものか、興味がないと言えば嘘になる。
たとえ、女嫌いの身であっても。
「なるほどな。確かに、街の者たちも盛り上がっているようだ。彼らにとっては、自分たちの街の王でもあるのだから、当然か。誰か上に立とうと、人はあまり関心を持たないものではあるが、その人物が誉れであれば自身のことのように思い、恥であれば他人のように批難する。そういうものなのだろう」
皮肉をこめてギュスターヴはそう言った。オリヴィエールは笑いはしなかった。彼にしては、冴えない冗談だ。
「それで、ギュスターヴ様はどのようなご用件で?」
「私は今回の裁判で、判事の一人として出席させてもらうことになった。名ばかりの枢機卿でも、仕事はするさ」
大役であった。キリスト教世界における枢機卿の立ち位置を考えれば当然でもあったが、今日この日の当事者になれる者というのは、よほどの幸運か、人によっては不運にでも思うだろう。
ナポリ女王の騒ぎを知らぬ知識層の者はいない。誰もが今日の判決を待っている。そしてその状況に立ち会えればと誰もが思っている。世界各国、各領地、教会、修道院、から特使まで派遣するという徹底振りだった。
誰もが知りたがっているのだ。それも自分の最も近い場所で。その点で、ギュスターヴとオリヴィエールの立場は羨ましがられることだろう。尤も、どのような職務が待ち受けているかは別にしてだ。
「しかし、結局は〈テンプル騎士団の呪い〉を解くことは叶わなかったか。残念だ。だが、時は無情であり、勝手に進んでいくもの。気づけばこの日になってしまったな、オリヴィエール」
「それは私の不手際です。が、しかし、呪いなどじきに解けることでしょう」
「見込みがあるのか?」
「無論ですとも」
自信をもって頷いた。今日を持って、呪いは解かれることだろうと。それは信頼でもあった。敵味方を問わない信頼である。彼ならばこうするだろうと、そう思っているのであった。
香りが舞った。今日も今日とて、ギュスターヴは香水をつけているのだろう。久しぶりに嗅いだ香りは頭をすっきりさせたのだった。
「ギュスターヴ猊下、お願いがあります。香水をお借りできないでしょうか?
未だ魔の香りが漂っているように思うのです。なんとも恐ろしい、魔の気配が……。ローズマリーには魔除けの効果もあると聞きます。どうか、私にも」
「ははあ、よかろう。確かにこのアヴィニョンの香りはかの女王にとっては厳しかろう。せめて、我らだけでもいい香りを振りまかねばな」
ギュスターヴは笑って、袖から瓶を取り出した。その瓶から液をオリヴィエールの手に注ぐ。首元に塗るのだ、と言われて、首へ手を伸ばした。ローズマリーの香りが顔へと立ち上ってきて、これならば都市に満ちる不快な臭いもいくらか防げるだろうと思った。
「これでよかろう。魔除けなる噂は、本当かどうかは知らないが、これのおかげで私は風邪知らずでもある。譲れるほどの量をこちらに回すことが難しいのが残念だがな」
「それを買うほどの金銭を私は持っておりませぬゆえ」
「なんだ、清貧をよしとするのか。いや、これは失言だった。だが、人の世のためなどと言い、托鉢していくのもまた私は好かんのだ」
それは貴族らしい道理だとオリヴィエールは思った。主は、所有物を売り払い富を分配せよと言っていた。フランシスコ会やドミニコ会などは頑なに従っていた。しかしそれはとうてい叶わないことであるともわかっている。トマス・アクィナスが言っていたように、人は生きるためには財を持たねばならぬし、過ぎた欲さえなければ、財を蓄えるのもまた善行であるとみなされた。
尤も、そんな道理がいまの教会に通じるわけがない。王を越えて富を持つ教会は、いかなる身分をも突き放すほどの財を保有している。
かのテンプル騎士団とて、蓄えた富を主への奉仕のためとしていたが、その道理を通すにはあまりに豊かすぎていた。それゆえに目をつけられ、裁かれたのだ。
「過ぎたる理想は、人には理解できませんから」
「物分かりがいいな。悪人は同好の士を集めるが、真面目すぎるのは誰からも好かれん。無論、好かれてなにかが変わるわけではないが、この教皇庁では他人との関係を考えなければ生きていられんからな」
ギュスターヴがそう言うと、彼の元に一人の人物が駆け寄った。耳打ちをすると、彼は顔をしかめた。
「すまない、そろそろ行こう。忙しかったろうに呼び止めてすまなかった」
「いえ。お久しぶりに話が聞けて、嬉しく思います。香水もありがとうございました」
「礼には及ばぬ。またうちに来るといい。今度こそ葡萄酒でもいかがかね?」
「考えておきます。では」
オリヴィエールはそう言って、ギュスターヴに背を向けて歩き出した。日はだいぶ昇ってきており、もうすぐナポリ女王がやってくることだろうと思わせた。
アヴィニョンの街は、未だかつてない活気に溢れている。その雑踏を抜けるため、オリヴィエールは歩き出した。




