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放たれた矢は戻ってこない

 白い布に赤い十字、それはテンプル騎士の証でもあった。

 オリヴィエールが生きている時代に、公式にテンプル騎士は実在していない。自らがテンプル騎士であると名乗る者など、レイナルドしか見たことがなかった。フランスやイタリアから離れてドイツやスペインなどに行けばいくつか残っている集団がいるとも聞くが、教皇により異端だと見なされることの効果は絶大で、行動範囲が相当に制限されたのだった。

 オリヴィエールはレイナルドの顔を見た。彼は険しい顔を浮かべている。相手の実力の高さに余裕を奪われていたのは確かであるが、それ以上に相手の正体について驚いているようであった。

 再びの風切り音と破裂音。反射的にしゃがみこんだ。ことなきを得るが、オリヴィエールはなんども襲いかかってくる死の気配に、いっそ死んでしまった方が楽なのではないかとすら思えた。


「次で決めます。ここから先の路地、私たちと彼は、一直線に相対します。そのときこそが彼の最後です」


 そう言ったレイナルドの声は、いつも以上に迫真であった。オリヴィエールは頷くことしかできない。

 走り回り、そしてレイナルドの言う路地まで来た。人の気配はないが、レイナルドの言葉を信じるならばこの先に弓手がいるはずなのだ。

 そのことがオリヴィエールに、冷や汗をかかせた。まるで殺意そのものが形となって迫ってきているようであった。暗闇の路地を這うようにその触手を伸ばし、オリヴィエールを絡め取ろうとしているのだ。

 剣を振り払い、レイナルドは立ち上がった。そして全身に身につけていた護りを落とす。がらん、という音が響いて鎧が転がるのを見て、オリヴィエールは正気を疑った。


「馬鹿な、それでは万が一、矢が当たったら」

「どのみち同じこと。重い鎧を身につけていては、近づくこともままならないでしょう。どころか、優れたクロスボウは全身を覆う鎧でさえ貫通するのです。この鎧はこの場において重し以外の何物でもありません」


 こともなげにそう言うレイナルドは、ついに全身の鎧を外してしまった。下に着込んでいた鎖帷子のみを身につけているのみだ。よし、と意気込むと、時機を伺った。

 首を出し、通路の端を行き来する。動きによる挑発であったが、これは効果的だった。がさり、という音から衝撃が飛んでくる。

 レイナルドは矢が放たれる音がするのと同時に駆け出す。次弾の装填までにかかる時間は、どれほどの使い手であろうが二十秒ほどかかると言われている。それは大きな隙であった。レイナルドであれば、剣を振るって相手を両断することもできよう。

 だが、相手は予想以上に早い対応を見せる。矢弾ではなく、クロスボウそのものを変えていたのだ。確かにそのようにすれば、装填の時間を短縮することはできる。構えてから矢が放たれるまで、数秒もかからなかった。

 オリヴィエールが声を発そうにも、時すでに遅しだ。次の瞬間に、レイナルドの腹には鋭い矢が突き刺さるだろう。その光景を想像しながら、走っていく騎士の後ろ姿を見るしかなかった。

 だが、レイナルドはそのとき恐ろしい動きを見せた。彼は身を揺らすと、壁を走り始めたのだ。わずか二歩であったが度肝を抜くには十分だろう。満足に狙うこともできないままにクロスボウは放たれる。逸れた矢は空へと飛んでいき、家屋の壁に突き刺さった。レイナルドは地面を走り、剣を振りかぶった。

 交錯は起こらなかった。牙を持つ者たちが盾となって立ちふさがる。不利を悟ったレイナルドは剣を引いて後退した。


「……その忠誠、見事。騎士でも献身ができる者などそうはいません。

 よほど慕われているのですね」


 微笑むようにレイナルドは言った。そして背を向けて走り出し、オリヴィエールの元へと戻る。装填を終えて、盾となった者たちの間から矢が再び放たれたが、わずかに遅かった。


「これは参りました。手の出しようがありませんね。

 尤も、オリヴィエールを狙わなかったことは失策です。一人を失おうとも、貴方がたは目標を達成すべきでした」

「もはやお前たち二人を看過することはできなくなった。疾く、首を差し出すがよい」

「それはハンガリー王国のことでしょうか。それともテンプル騎士団のことでしょうか。貴方がたはどちらなのです?

 ことと次第によっては、私は彷徨える亡霊となった同胞を斬らねばなりません」

「いいや、問うまでもないことだ、レイナルド。奴らが貴殿の同胞などであるはずがない」


 二人の会話に、オリヴィエールが口を挟んだ。お互いの姿はお互いに確認できていない。ただ声が聞こえる範囲で、身を潜めて探り合っている。


「それはどういうことです、オリヴィエール」

「テンプル騎士団は確かに悪魔崇拝者として裁かれただろう。ああ、恐ろしき罪だ。

 だが決して、死を恐れ正面から戦うことを恐れるような卑怯者ではなかったはずだ!」


 あえて大声で、オリヴィエールは言った。

 矢が飛んできた。当てるつもりはないのだろう。だが感情の高ぶりは伝わってくる。怒りだった。


「くだらぬ、くだらぬくだらぬ、吠えよったな司祭風情が! お前にはわかるまい、決して日の下を歩くできぬ我らが苦難を! 闇夜にあって、人の血を啜ることでしか生きることのできぬ苦しみを!」

「なるほど、読めてきたぞ。さては貴様たちは、人でありながら血を啜らなければならない、そういう体質なのだな?

 本来の任務……おおよそ、ナポリ女王のことだろうな? そのために事前に忍び込んできたはいいが、腹を満たすべく食事を行った。人倫を陵辱するかのような食事を。配下の一人が失態を冒した。いままではその赤き十字架を隠れ蓑にしたが、なるほど、テンプル騎士本人が現れれば看破されもする」

「よく回る口を褒めてやろう、聖職者よ。よろしい、殺すのはお前が最初だ」


 声がした。怒りの言葉とともに、気配は散らばっていく。こちらに近づいているのだろうか。

 オリヴィエールはレイナルドの顔を見上げた。


「挑発が過ぎます。が、なるほど、真実とはときに一番の痛打になるというわけですね」

「はったりだよ。ほとんど推測にすぎないし、奴らが冷静であればすっとぼけてもよかったのだ」

「……なんと。しかし、それが真実であったからこそ、彼らはあのように言ったのでしょう」

「やましいことなく生きていられるならばよかったのだがな。人とはそうはいかないものだ」


 レイナルドは剣を構えた。機巧のついた剣は、その輝きを損ねていない。まるで剣自身がまだまだ戦えると言っているようにさえ見えた。

 いまだ彼らはオリヴィエールの命を狙っている。逆に言えば、彼らはオリヴィエールに近づかざるを得ないのだ。鍛錬を積んでいなくとも、それくらいはわかる。

 辺りを見渡す。自分たちをクロスボウで狙える位置は屋根の上からだろう。しかしそれでも、かなりの接近をしなければならない。剣などによる白兵戦であるならばなおのことだ。

 やつらが近くにいる。そう思うだけで、幻影の刃を突きつけられているような感覚さえした。

 王とは、あるいは貴族とは、常にこのような状況に置かれているのだろうか。戦場において騎士や傭兵はこのような思いで戦っているのだろうか。死とは身近なものであると、黒死病が流行るこの数ヶ月の間ずっと感じていたはずなのに、いざ迫ってみると慣れることのない感覚が走る。

 レイナルドは剣を油断なく構えていた。鎧を全て外した彼は冷や汗を流していた。自分の身を守るものは、もはや自分の腕以外にないのである。一手間違えれば、寒い空の下に横たわることになるだろう。

 どさり、と音がした。人の落ちる音であり、びくりと構える。音のした方を思わず振り返ったが、レイナルドがすれ違うようにオリヴィエールの背に回った。

 金属の音が響いた。だが、それは剣の噛み合う音ではない。恐る恐る振り向くと、レイナルドと外套の男が組み合っていた。

 ふと音のした方を見れば、首に牙を突き立てられた骸が転がっている。奴らの食事の跡だ、などと感慨なく思ってしまう。おそらくこれを囮にして、注意を逸らすつもりだったのだろう。古典的な罠であったが、オリヴィエールの気を引くには十分過ぎた。

 レイナルドの腕からは、血が滴っていた。見れば、相手の短剣を受け止めているのは左腕であった。短剣も、刺突用の、鎖帷子を貫通させるために用いられるものであった。


「……見事なものだ、非力な司祭を庇うのみならず、こちらにも一撃加えるとは」


 一方、相手はその牙を見せて笑った。だが表情は苦悶に歪んでいる。レイナルドの剣の柄が腹に入っているのだ。


「そちらこそ、命を奪えないと知るや、腕に狙いを変えたのは素晴らしい機転でした。

 尤も、手段は褒められたものではありません。それを自覚しているからこそ、卑怯な手が中途半端なのです。私の胸をクロスボウで狙えば一撃だったでしょうに」


 そう言ったレイナルドは、相手と離れる。オリヴィエールは、レイナルドの言ったことを理解するのに時間がかかった。

 二人はそれぞれが痛めた場所を押さえて引き下がった。すると遠くから、人の声が聞こえてくる。

 あれだけ走り回っていたのだ。誰かに目撃されてもおかしくはない。夜警に通報されたのかもしれなかった。オリヴィエールは司祭であるから切り抜けられるにしても、レイナルドや牙を持つ者どもはそうではない。


「……引き際か」


 彼らはそう言って、再び身を闇の中へと消していく。その後ろ姿に、オリヴィエールが声をかけた。


「お前たちの狙いは、ナポリ女王なのか?」

「簡単に教えると思うな司祭よ。だがあえて言うならば、我らは命じられてここにいるだけだ。恐怖を与えるために。そして我らは、我らの糧食にありつくために。

 だが、姿を見られたならば殺さねばならぬ。それは道理だ。悪魔の醜聞は消さねばならぬ」


 そう言って、彼らは足早に去っていく。オリヴィエールとレイナルドは取り残された。道路の奥から声がする。こっちだ、としきりに言っているから、やはり夜警だろう。


「レイナルド、私はこれから、日の下しか歩かないことにしよう」

「……それがいいでしょうね」

「そして、次に奴らに会うのはきっと……終わらせるときだな」


 この噂も、女王の裁判も。

 オリヴィエールはそう言った。レイナルドは、短く、はいとだけ答えた。

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