十字を背負った者
すっかり日が暮れて、オリヴィエールとレイナルドはハイリゲンと別れ、共同墓地へと再び向かうのであった。
宿屋の安い酒では酔えない、というのは本当のことで、三月の寒い風ですっかり覚めてしまっていた。
月はますます欠けてきており、あと少しもすれば、夜でも灯りが必要になるだろうと思われた。月も暗くなれば、昇る時間も遅くなる。そうなれば夜に外で活動することも難しくなり、共同墓地へ行く機会はなくなるだろうと思われた。
「それで、再び行くのはどういった訳なのです?」
レイナルドがそう問うてきた。オリヴィエールは、自分が図書館で調べた成果を話す。
「あの共同墓地は、元は地下墓地があったようだ」
「なんと、であれば彼らは本当に墓から湧いて出ていたというのですか?」
地下墓地というのは古くはローマにおいて、キリスト教徒が迫害を受けていた時代にまで遡る。迫害を受けていた彼らは、隠れて儀礼を行ったり、殉教者たちをこっそりと葬っていたりしたのだった。
キリスト教がローマ帝国に認められてからは使われなくなったが、いまもなおかつてローマ帝国であった領土のあちこちに点在しているらしい。大きな都市の歴史もまた、古くはローマ帝国まで遡ることとなり、その都市周辺には地下墓地が多く眠っていると言われている。
そしてアヴィニョンの近くにもまた、地下墓地が眠っていたというわけだ。
「噂も嘘ではなかったわけだ。屍ではなく、生きた人だったが」
「おや、あれほど悪魔だとか叫んでいたではありませんか」
「あ、あのときはあのときだ! 無論、狼狽えたとも。牙の生えた者など、見たことなかろう? 貴殿はどうして彼らを人だと思ったのか、聞かせてもらおうか」
オリヴィエールは本当に怪異だと思ったのだ。自分の目で彼らが血を吸っているのを見たからかもしれない。恐怖がより恐ろしい姿として見せたのかもしれない。
だが、相対したレイナルドは彼らを人であると断じたのだ。そのことを信じようと思えど、疑いがないわけではない。
そのことですか、とレイナルドは頷いた。
「無論、私は始めから彼らを怪異などとは思ってなどいませんでした。この世には溢れるほどの怪談がありますが、いずれも人の業によるもの。誰の目を借りて語るかにしか過ぎない事柄に左右されてしまっては、真に神の御業たる奇蹟を目の当たりにしたとき、惑わされてしまうでしょう。
尤も彼らの場合はもっと簡単なことでした。私の剣技を恐れていた、それのみです」
「それは剣の術理を知るものの言い分だ。もっとわかりやすく教えてくれ」
「簡単なことだと言っています、オリヴィエール。つまり彼らは死を恐れていた。生ある者は自らの生の終わりたる死を恐れるでしょう。死した者がもし意思を持つならば、死の後に続く生を知っている。痛みこそ恐れど、死を恐れることはないはずです。
彼らは私の剣を嫌っていました。我が剣は確かに聖剣ですが、しかし真に恐れたるは剣の謂れにあらず。持ち主の腕と切り味によってのみ、相手は死を意識するのです。そして優れた剣士であった彼らは、私の剣をこそ恐れたのです」
なるほど、とオリヴィエールは納得する。
死を恐れる者は生きている者だけだ。その論理が正しいかはさておき、レイナルドが剣を通じて彼らに見たのは生きたいという意思だったというわけだ。
だとすれば、あの牙は何なのだろう。オリヴィエールにはまだ疑問があった。生きている者であったとして、あの恐ろしい姿はなんなのか。牙を生やし、痩躯で、死人のような青白い肌は何なのだろうか。
「そういう者もいるでしょう。病による外見上の変化はない話ではありません。聖地であってもそうだったと聞き及んでおります」
「……ハンセン病のことか。ああ、確かに、そうだな」
ハンセン病は旧約聖書、新約聖書のどちらでも言われる皮膚の病であった。古くはギリシャの時代からあるなどと言われているが、はっきりしていない。第一回十字軍のとき、聖地に派遣された兵士の間で流行した病であった。皮膚が鱗のように変化する、などと言われている。死の病ではないが、社会的に隔離されていた。物理的に収容さえされていた。治癒ができ次第に復権させるなどと言われていたが、それは事実上の追放であったことは否めないだろう。
フランシスコ修道会などは新約聖書に基づいて、彼らを癒すために、独自で村を築いたりなどをしていた。尤も、その村はこの黒死病で大きな打撃を受けて、壊滅している場所も少なくないと聞き及んでいる。
そして、この病を癒した奇跡を起こした者もいる。ハンガリー王国の王女にして聖女エリーザベト。フランシスコ修道士の影響を受けたらしい彼女は、王女の身ながらレプラ病患者を癒すべく努力をしたという。多くの反発を受けたものの、夫であり王であるルートヴィヒ四世の擁護を得たのだという。夫婦仲の睦まじさは多くの物語の種になった。
そんな彼女も、夫の死後はひどい扱いを受けたという。城を追い出され、豚小屋で暮らすこともあったそうだ。再婚の薦めを断って修道院へと入ったエリーザベトは、最後まで貧民の救済を続け、二十四歳で亡くなった。
彼女はむしろその死後に奇跡を起こした。彼女の墓を訪れた者の病がたちどころに治ったのだという。そのことを讃えて、時のローマ教皇によって列聖され聖女となった。
「やはり、詳しいですね」
「貴殿のように、実際に見たわけではないからな。文面と言葉のみの薄い知識だ」
「ないよりもずっと良いです。しかし、またハンガリー王国ですか。
あの王国が悪しきものと断ずるわけではありませんが、よもや、ということも」
そこまで言うと、レイナルドは黙った。どうしたのか、と聞くよりも先に、外套を翻してオリヴィエールを包んだのだった。
臭いにむせながらも、彼の足取りに従って道の角へと連れて行かれる。すると鋭い金属が落ちる音がした。
薄暗い石畳に転がっているのは一本の棒であったが、その正体はわからなかった。だがそれが攻撃の意思をもって向けられたものであることは疑いようがなかった。
「オリヴィエール、貴方はここで」
「貴殿はどうするのだ」
「恐らく、相手は一人でしょう。昨日の傷が一日で治るとは思えない」
そう言ってレイナルドは道路に出る。空を見上げれば、屋根の上に一人の影があった。月を背にしているから暗かったものの、不思議とその気配で誰かは察することはできた。以前、オリヴィエールの首を絞めた男だ。
レイナルドは剣を抜いた。彼は相当の手練れに思われた。少なくとも牙を持つ者たちの首領であるから、相応の実力者であることは間違いない。上に立つために武力は必要ではないが、しかし力なき者に従うこともないのは道理だった。
「降りてきなさい、正々堂々と戦うのです」
「ならばお綺麗な騎士らしく決闘でも挑んだらどうだ? 尤も俺に賭けるものはなく、そしてそれはお前にとってもそうだろうさ」
男はそう言った。あのとき、竜の力と口にしたものと同じ声だった。
オリヴィエールは彼のフランス語に、わずかな訛りを感じた。ドイツ語に近いだろうか。彼の出身が恐らく、旧神聖ローマ帝国領だったのか、あるいはドイツで長らく騎士か傭兵をしていたのだろうか。
ドイツ出身の傭兵であれば厄介だった。かの国出身の傭兵は貴族の者が多く、そして誰もが優れた戦士であり戦術家であった。恐ろしく、苛烈で、冷酷であった。フランス人からしてみれば礼儀のなってない者どもであり、イタリア人からはローマ気取りの時代遅れであったが、それは恐怖心の裏返しであった。
「無論、その通り。ですが私は貴方との戦いを望みます。戦士であるならば受けて立つとよろしいでしょう」
「戦士など! とうの昔に捨てたさ。いまの俺はただの凶手。呪われた身よ。
お前たちに放ったその鋼鉄こそがなによりの証拠。生き汚くいかせてもらうぜ?」
そう言って、彼は再び消えた。いいや、屋根の反対側へと身を隠したのだ。
レイナルドはオリヴィエールの腕を引っ張る。
「移動します、ついてきてください。決して離れぬように」
真に迫った口調は、レイナルドが切羽詰まっていることを明かしていた。オリヴィエールはその剣幕に頷くしかなかった。
レイナルドに手を引かれて、暗い道を走る。相手がどこから現れるかわからない以上、オリヴィエールは四方を見やったが、この暗さではろくに見えやしなかった。レイナルドもまた、辺りを見渡しながら進んでいく。
「相手を探すのではなく、どこに隠れることができそうかを考えてください。昼の道を思い出せばわかるでしょう?」
「簡単に言うな。アヴィニョンはあまりに入り組んでいて、この都市に住んでいる者とて馴染みの道しか覚えてないんだぞ。なのにどこに隠れることができるかなど考えるのは、盗人か暗殺者か貴殿くらいだ!」
そう言いながらも、オリヴィエールは必死になっていた。自分が暗殺者であればどこに隠れるか、など考えるのも難しいが、しかしやらないよりもずっとましだった。
道に飛び出そうとするところで、レイナルドに止められる。同時に目の前から、風を切る音が聞こえた。何かが破裂するような音が次いで響いた。
いま、相手としている者が使っているのは短剣や弓矢などではなく、クロスボウであった。その威力は弓矢の比ではないと言われている。鎧を貫くほどの威力を誇り、また修練に多くの時間を割く必要のない武器としてフランスやイタリアでは積極的に使われていた。イギリスとの戦争において装填の遅さと、彼らが使う長弓もまた相当の威力をもっているために劣っていると言われていたが、それでもこの状況においてクロスボウは脅威であった。
脚などを撃ち抜かれてしまえば、まともに歩くことなどできなくなるだろう。相手の殺意の高さを伺うことができる。
「出てくるがいい、牙を持つ者よ! 竜たる力が所以を示せ!」
レイナルドはそう叫ぶ。例によって挑発であったが、相手はそれに乗るほど甘くはない。
クロスボウの装填には少しの時間がかかるが、彼は相当の腕前のようで、絶え間なく矢が飛んできた。わずかに移動し、相手に位置を気取られないようにするので精一杯で、二人へと何度も何度も矢が襲いかかる。
道の角から、様子を伺った。月明かりに照らされて背が見える。
外套が翻った。オリヴィエールの目に、描かれている模様が映った。
赤い十字架こそがその正体だった。




