怯える男、笑う男
「ナポリ女王の裁判、その趨勢はいま、読めなくなっていることは事実でしょう」
ハイリゲンは言う。それはオリヴィエールも同意するところであった。
「オリヴィエール、貴方も知っての通り、彼女の罪過の議論はこの二年で何度も繰り返してきている。だが、あえて言うならば、私は彼女を支持するよ。他ならぬ友も政治的中立を保ってはいるが、彼女を敬愛しているしね」
「だが、それだけの根拠はどこにある?」
「根拠など、ここに彼女がやってくる、それだけで十分だろう」
そのようにハイリゲンは言った。いかにも彼女の信奉者が言いそうなことではあったが、ハイリゲンが言うからには説得力があった。
「この黒死病の蔓延るアヴィニョンにやってくるなど、尋常ではないだろう。まして、彼女がいたプロヴァンス地方はすでに流行の天頂をすぎて、比較的安全であった。
〈太陽の放った矢〉などと詩人は言うし、〈テンプル騎士団の呪い〉などとも噂されるこの恐ろしき疫病を恐れぬのは、ひとえに自らの潔白を信じているからではないのかね」
なるほど、とオリヴィエールは頷いた。
正しければ負けない、というのはキリスト教世界に根深くあった考え方であった。それは騎士の決闘で顕著であっただろう。ときに裁判の結果を決闘で決めることもあった。主は正しい者に味方するのであって、もし主を味方につけているのであれば、負けるはずがない。
無論、不信心な者は剣による決着など、当人の腕次第だと訴える。けれども主の、王の、聖職者の前で行われた決闘は正式なものであり、法によって守られていたのだった。神の御前に不正はないのである。
そしてナポリ女王とて同じだった。自分は無罪である。何ら恥ずべきところなどない。そう思うからこそ、彼女は黒死病も恐れずこのアヴィニョンにやってくることができるのではないか、と思われるのだった。
「けれども、彼女の援護にも翳りがある。先ほどのはあくまで私と友の間で交わされた見解であるが、中立的な立場から申すと、いよいよ難しい」
「と言うと?」
「この〈呪い〉の噂です、司祭殿。〈テンプル騎士団の呪い〉は教皇庁をも蝕んでいる。以前からアヴィニョンの教皇について批判が多かったが、黒死病によっていよいよ失墜した」
「だが、〈呪い〉とナポリ女王にどのような関係がある。彼女はクレメンス六世猊下の支持者であるし、クレメンス六世猊下もまたナポリ女王の支持者だ。
ゆえに彼女は、教皇猊下へ保護と公正な裁判を求めていたのではないのかね」
それは公然の事実であった。むしろ、だからこそ誰もがナポリ女王の勝利を考えていたのだ。
神聖ローマ帝国を抑えている彼の権力は絶大であり、ハンガリー王国をも抑えることができる。なにより、アヴィニョンは辺境でありフランス王国から圧力を受けているとは言え、神聖ローマ帝国に属するプロヴァンス伯領なのである。現プロヴァンス伯であるナポリ女王とは、癒着とも言える関係があった。
そこまで考えて、オリヴィエールはハイリゲンの言葉を先読みした。
「なるほど、彼女はエルサレム王でもあったな」
すでに存在しないエルサレム王国であったが、それでも王国の地を誰が持っているかというのは重要な問題であった。シチリア領主が代々世襲することになっており、現在はジョヴァンナがその人であった。
そしてエルサレム王国の起源は第一回十字軍であり、そしてかの聖地を守護する務めを果たしていたのは同じく第一回十字軍を起源とするテンプル騎士団だった。
ここまで黙っていたレイナルドが、口を開く。
「しかし、〈テンプル騎士団の呪い〉なるものは、教皇庁のみを、アヴィニョンのみを襲っているわけではない。南方よりずっと北上を続けている。じきにパリまで届くという話ですが……。ナポリ女王と結びつけるのは、いくらなんでも無理があるでしょう。
黒死病がそれを指すのなら、ですが」
「その通りです、レイナルド卿。私とてそう思うよ。
だが裁判とはそう上手くはいかないものであるということは、周知の事実でもある。法と論理と倫理に従いはすれど、そこは政治の場でもあるのだ。世論が左右することもある。政治的な先見が判決を決めることだってある。
わずかな恐怖が剣を震わせることがあるように、こじつけであっても、一度自分の中に落ちた過ちを拾うのは、そう簡単なことではないのです」
ハイリゲンはとても冷静な男であった。黒死病に怯える者の心理をよくわかっている。それは、彼が教皇に近しい者であったからかもしれない。
いま、アヴィニョンとクレメンス六世は黒死病に怯えている。彼は決して優れた為政者ではなかったが、愚かな者でもなかった。場当たりであれど共同墓地を増やしたし、いたずらなユダヤ人の虐殺も禁じた。慰みにすらならないが、人々を祝福し贖罪を認めもした。だが臆病でもあった。水を極端に恐がり、常に薪を焚いて過ごし、そして十人を超える医師を側に置いていた。世論とて、この〈呪い〉を恐れているし、教皇庁が放置することを許さないだろう。信心深くはなくとも、恐怖心には従うのだ。
そしてその恐怖心は、エルサレムの名を背負うナポリ女王ジョヴァンナにも向いているのであった。
彼女をいかように裁こうか。罪の有無のどちらを認めれば、この〈呪い〉から逃れられようか。
そんな想いがあったとしても不思議ではない。
同時に、オリヴィエールは〈テンプル騎士団の呪い〉を解決することがどういうことなのか、を考えたのだった。
「では、もし仮に〈テンプル騎士団の呪い〉が嘘だということがわかったなら?」
「……この黒死病が解決するわけでもない。けれども、墓場で人が動くだとか、屋根から聞こえる呻き声などの噂が黒死病と関連するものではなく、何者かの仕業か、あるいは自然にあったことだということがわかれば、という話ですか?」
「いいや、違うとも。この〈呪い〉を解くことで、ジョヴァンナは無罪になるか、否かだ」
レイナルドの目が輝く。オリヴィエールはハイリゲンに目をやった。
音楽家は、はあ、とため息をついて言う。
「驚いた。貴方たちは〈呪い〉を追っているのですか。そして、そのことで女王を救おうと。
無茶で、無謀で、考えなしだ。けれども確かに、〈呪い〉の噂がなくなれば趨勢は彼女に傾きますね。むしろ何かを解決した……その成果こそが、教皇庁の言葉を本物にしてみせる。
私はしがない音楽家ですが、司祭である貴方ならばわかるでしょう。わかっていることを人に言わせるのは、よくないですよ」
「失礼した。だが、ああ、なるほどな」
オリヴィエールに〈テンプル騎士団の呪い〉を解決してほしい理由は、きっとそこにあった。
ナポリ女王を救うための障害の排除である。彼女を救うべく、状況を傾けることこそが、オリヴィエールに真に求められていることだったのだ。
「なにを納得しているのです? オリヴィエール、私にもわかるように」
レイナルドが首を傾げていた。
「私が本当に戦うべき相手がわかった、ということだ」
「それは良いことです。何者と戦うかわからない不明は、迷いの元となりますから」
うんうん、と頷く彼の能天気さに、オリヴィエールは呆れる。これでテンプル騎士団の末裔であるというのだから、何も言えない。かの騎士団は呪いなど遺していないとは思えたが。
「まあ、陰気臭い話はこれくらいにしておこう。そろそろレイナルド卿の話をもっと聞きたいところだな。あと酒の追加とパンを頼もうか」
「こんなところの安酒など、ハイリゲン殿の口に合うかはわからんが」
「なあに、面白い話と友の笑顔があれば、ロゼだってピノ・ノワールに変わるだろう」
ロゼとは庶民が飲む薄い葡萄酒のことだった。赤色が薄まって、薔薇の色のように思えたからだった。しかしそれは味も、そしてアルコールも薄まっていることを示しており、ほとんど酔うこともできない代物だ。
一方のピノ・ノワールは教皇も愛飲する高級な赤である。白の葡萄酒が好まれてはいたものの、赤だってその味わい深さでは負けていなかった。
運ばれてきた杯で乾杯を交わし、三人の夜は更けていく。話の中心はレイナルドであった。彼が語る昔話は迫真であり、その冒険譚や恋愛譚は男心をくすぐらせるのであった。いまが疫病の流行る暗黒の時代であることを忘れてしまいそうだった。
そんな奇妙な三人組の会話は、周りの者も巻き込んでいた。聞き耳を立てている女給が、しきりにテーブルの横を通るのだ。
見やれば、先ほどまでレイナルドにしなだれかかっていた女ほどではないが、なかなか色気のある女だった。尻が大きいのが目を惹かせる。歩いているときの動きは、はるかに目立っていた。
「オリヴィエールは、彼女がお好みで?」
レイナルドがそう言った。葡萄酒を吹き出しそうになりながらも、答える。
「私はああいう女は好かんのだ。いや、そもそも聖職である身で女の好みを語る方がおかしいと思うが。
だが、男でも女でも、聡明な方がいい。それだけは確かだな。知識があって、でもひけらかすことのない者が好ましいよ」
こと異性のことになると、男というのは図々しくなるものであった。自分のことを棚に上げて、夢ばかりを見るようになる。
それは女性嫌いなオリヴィエールでも言えることで、むしろ女性嫌いこそがその性を助長していた。
「なるほど。いえ、あまりにも彼女を眺める貴方の顔が面白くて」
「ふん。まあ、女を七人でも並べてくれれば、なびかないわけではないがな」
「贅沢をいいますね。でも、それだけ女性がいれば、こんな陰鬱な空気も吹き飛ばしてくれそうです」
くすくす、とレイナルドは笑った。ハイリゲンもまた同じように笑う。オリヴィエールも思わず吹き出してしまう。
まったくこんなときに、なんて話をしているんだ、と思ってしまう。だが、それくらいの余裕もあってもいいだろうとも思った。
「貴殿はどうだ、女性の好みは」
「ええ、胸は大きいに越したことはないと思います。母性です」
「……いい趣味をしている」
「褒めないでください、照れます」
「オリヴィエール殿は決して褒めていない。決してな」
三人は揃って笑った。なるほど、こういうときに酒というものは飲みたくなるのか。オリヴィエールは酒を好むわけではないが、その気持ちがわかりつつあった。
「だが、機知に富む女というのは、騎士をよくよく惑わすものなのだろう? かつて吟遊詩人が得意げに歌っていたよ」
ハイリゲンがそう言う。吟遊詩人が歌う騎士道物語はいくつもあった。アーサー王やカール大帝の騎士たちの武勇伝、歴史的大事件の顛末、そして下世話な恋愛物語だった。
レイナルドは笑いながら言う。
「そうでしょうとも。何せ頭のいい女性は、嘘と真を使い分けることができるのです。騎士道に忠実な者ほどその掌に乗せられてしまいますからね」
それは冗談なのか、本気なのか。いいや、どちらもだろう。
オリヴィエールとハイリゲンは笑いながら、葡萄酒を口に含んだ。
「男のできることと言えば、彼らの騎士を演じることと、詩を捧げることだ。
我が友も言っていた。かの偉大なる政治家にして詩人、ダンテ・アリギエーリが成し遂げたのは『神曲』の完成によって、愛する女を永遠のものにしたことだとな」
なるほど、とオリヴィエールとレイナルドは上機嫌に言った。笑いが絶えない。かつてアリストテレスは、数ある生き物の中で人だけが笑うと言ったし、プラトンは笑いとは誰かへの嫉妬の裏返しであるとも言った。だがそんな高尚な考えをこそ、笑いは遠くへと飛ばすのだった。
男たちの夜は更けていく。




