女王への嫌疑
試合はギュスターヴの勝利だった。
最後の方で尻込みをしてしまっているうちに攻め込まれたというのがオリヴィエールの所感であり、それは間違いではなかった。事実として、ギュスターヴの指摘も最後に集中していた。
それを聞き留めながら、思考はナポリ女王へと向いていた。彼女のことを知りたいと、ふと思ったのだった。高名も悪名もある彼女の存在が、この世界における特別のようにも思えていた。
そもそも、悪名が高いというのが、彼女の優秀さの裏付けであるようにも思えた。かの女王、クレオパトラ七世を思えば、それもわかる。時の人物であったカエサルを誑かし、多くの男を陥れた魔性の女として語られるクレオパトラであったが、彼女は複数の言語を巧みに操り、話術もまた政治家すら及ばぬものであったとも言われている。そうした優秀な者ほど、悪名を語られるものである。
特にキリスト教世界では顕著であった。女というだけで批難されることもあった。イヴとはすなわちアダムを惑わすものであり、男が魔道に堕ちる理由に女を挙げることは多くあった。一方で、女が魔道へ行くことに男が挙げられることはなかった。ダンテ・アリギエーリは、やはり彼の著作の中でクレオパトラを地獄へ落としていた。果たして、彼がナポリ女王ジョヴァンナを見ればどのように書いただろうか、などと思いを馳せるのは野暮であるかもしれない。
オリヴィエールは、ふと目の前にいる知識人に、尋ねたくなった。
「猊下は、ナポリ女王がやはり犯人かとお思いで?」
ギュスターヴは駒をいじる手を止めた。少しだけ思案顏になる。
「その彼女には旦那を殺めたいだけの事情があったことは間違いない」
「事情……それは愛人の存在のことですか」
「女王が愛憎のみで、人を殺めると思うか?」
その問いに、オリヴィエールは首を振った。そんなことはない。仮に一連の殺人事件を仕組んだのが女王だとして、動機が愛憎のみであるなど考えられまい。彼女は政治家である。夫の存在でさえ、政治の上に成り立っているのだ。
ジョヴァンナを疑う理由は、何も現場の状況によるのみではない。事件が起こるとき、なにか動機があるはずなのであった。検察が、あるいは裁判が明らかにするべきは、なにも手段のみではないのだ。
「ハンガリー王国の王ラヨシュは、父王が内政を固めた跡を引き継ぎ、対外政策をとっている。ハンガリー王国をフランス、イングランド、神聖ローマ帝国に準ずるほどの大国へと成長させるという野望もある。……ラヨシュ王の弟君こそが、ジョヴァンナの夫であった。二人は共同統治をする約束の元に結婚したが、ジョヴァンナは単独で即位したのだ」
「もとよりハンガリー王はナポリ王国を狙っていたと?」
「欲しくない者などいないだろうさ。地中海の中心であり、ローマにも近い。フランス王国とも神聖ローマ帝国からも距離がある。これほどの好条件の地は、誰もが欲しがる」
それは道理であり、政治であった。いまでこそ黒死病でどこもかしこも戦争などしている場合ではなくなったが、半島の南は各王たちにとって、魅力的に映ったことだろう。その地に君臨する女王が当代一の美女であることは、運命のようにも思えた。
オリヴィエールは頭を巡らせる。元は共同国王として即位するはずであった。ジョヴァンナとハンガリー王弟の間に男児が生まれれば、それはハンガリー王国の血を継ぐナポリ王が生まれることになる。あるいは、ジョヴァンナが亡くなったときに、王位継承者はハンガリー王弟となる。
冷や汗が流れた。ハンガリー王国とナポリ王国の暗闘は、婚姻という公の関係でさえ行われている。これが王侯貴族の政治であった。
そしてオリヴィエールに、一つの閃きがあった。しかし暗い光である。
暗殺の手がジョヴァンナの元に迫っていたのだろうか。そして、自身が死ぬよりも前に、ハンガリー王弟である夫を死なせなければならなかったのではないか。オリヴィエールがそこまで思い至るのはすぐであった。
それと同時に、脳裏に己の首を締めたあの男の、牙がちらついた。まさか、彼らがその凶手であろうか。
頭を振って冷静になった。自分は恐怖に囚われている。ジョヴァンナと牙を持つ者たち、そして〈テンプル騎士団の呪い〉をつなげるのは安易にすぎる。ジョヴァンナが犯人だと思うことさえ、推測にすぎないのだ。
だが、しかし、もしかすると。オリヴィエールは思考と恐怖の渦に飲み込まれていた。
「顔色が悪いな、大丈夫か」
ギュスターヴの心配の声が聞こえた。彼が立ち上がり、近寄ってくる。香水の薫りが待った。ローズマリーの薫りだ。よほど気に入っているのか、魔除けの意味なのだろうか。
手で押し出し、オリヴィエールは否定の意思を示した。
「……そろそろ行きます。約束がありまして」
「友人か。くれぐれも大事にしたまえよ」
その言葉にだけ頷いて、オリヴィエールはギュスターヴの部屋をあとにした。
* * *
レイナルドとの待ち合わせ場所は、再び同じ宿屋であった。
彼はすっかりそこに居ついているようで、主人とも顔馴染みになっているようであった。今日も今日とて、安く薄い葡萄酒を飲みながら誰かと話していた。葡萄酒の色の濃さこそが、貧富の差を象徴しているようにすら思える。
端の席でレイナルドと話しているのは、男女二人であった。しかし男女は組み合わせではない。女の方は見覚えがあって、昨日にレイナルドへと迫っていた者だ。もう一人の男は洒落た男で、レイナルドがいなければ注目はすべて彼がかっさらっていただろう。
彼はオリヴィエールを見つけると、手を振って知らせてきた。誰かがすでに集まっている席に向かうのは気まずく思う質ではあるが、渋々とレイナルドの斜め向かいに座った。
「なんだ、友人を作ったのかね? 安酒でも美味かろう」
「貴方がいなければ美味しさも半減ですよ」
「調子がいいことを言いおってからに」
だが、そう言われて嫌な思いはしなかった。オリヴィエールも女給に酒を頼むと、ふっと笑った。
面白くなさそうな顔をしたのは、レイナルドに迫っていた女だった。
「話の続きをしてよ」
「そうしたいのは山々ですが、申し訳ない、これから私は仕事の話です」
「ちぇ、つれないの。そうやってまた遠ざけるんだわ」
そう言って、女は立ち上がる。女は男の話に立ち入らず、というのが常識である。女は違法な娼婦であったが、常識には忠実なようであった。
また明日、とレイナルドが声をかけると、途端に上機嫌になって、彼女はどこかへと行ってしまった。焦らすという女の手法は、同じ女にも通じるようであった。罪な男だ。
残った男の方に、オリヴィエールは向いた。
「それで、貴方は……いや、待て、その顔は見たことがあるな」
どこだったか、と思ったところで、あっと声をあげる。
「ルイス・ハイリゲン! あの、音楽家の!」
教皇庁に勤める彼は教皇のお気に入りであると同時に、アヴィニョンで最も有名な音楽家であった。後援として青年枢機卿ジョヴァンニ・コロンナであり、かの枢機卿の聖歌隊の指揮をしているのを何度も見ていた。しかし、オリヴィエールがハイリゲンとこうして間近で会ったのは初めてだった。
アヴィニョンで一番と言われてるのは、その伊達男ぶりもだった。流行を一早く取り入れる彼は、服装から髪型までを最新のものにしては、婦女子たちを唸らせてきた。道行く人が彼を見て、これからどのような流行りがやってくるかを知るのである。フランドルからやってきた苦学生は、いまやキリスト教世界の中心人物の一人であったのだ。
さきほどの女とて、レイナルドがいなければハイリゲンになびいていたに違いない。
「おお、ありがとう、名を知ってもらえていたとは」
「神の音に最も近い男のことを知らぬ者は、教皇庁にはおらんよ」
この時代の音楽とは数学の隣人であった。構造には一定の法則があり、それを見出すこと。そして連なる音を公式に当てはめていき、計算していくことで、正確さを上げていくことで神の音に近づくこと。それが音楽家の仕事であった。オリヴィエールは音楽家の仕事について、尊敬の念を持っており、アヴィニョンの最先端を行くハイリゲンであれば、彼の雇い主である枢機卿と同じように扱われた。
なぜ、この者がいるのかと言うと、犯人はすぐ目の前にいた。
「つい、声をかけてしまったのです」
どうやらこの人たらしの騎士は、面白いと思ったものに飛び込まずにはいられない質らしい。たまさか、そこに風変わりな、ハイリゲンを崇拝する者からすればおしゃれな人物がいたから、声をかけて酒を酌み交わし始めたのだという。世間知らずというのは、ときに恐ろしいことしでかすものだ。
そのおかげで、教皇庁の司祭、若手枢機卿お抱えの音楽家、いないはずのテンプル騎士という奇妙な組み合わせがここに完成したのだった。
「それで、貴殿は何を話していたのだ」
「レイナルド卿は、彼の師の逸話を語られていた。十二の師、というのを聞いたときは眉唾ものだと思ったが、作り話にしてもこれほど迫るものはないな」
「むっ、失礼な。作り話などありません。我が祖先と、そして彼らにまつわる話はすべて本当にあったことなのです」
レイナルドは少し膨れてそう言った。だがオリヴィエールには、ハイリゲンの方が信用できた。
十二というのは重要な意味を持つ数字であった。それはイエス・キリストに付き従った弟子・使徒の人数だからである。それゆえか、十二という数字はよくあやかって使われていた。有名なところで言えば、『ローランの歌』におけるカール大帝に従った十二の聖騎士などである。
それだけにレイナルドの話も疑わしく思われたのだが、ハイリゲンに言わせてみればなかなかに面白かったらしい。
「だが、ハイリゲン、よければ貴方の意見も聞かせてほしい。ナポリ女王ジョヴァンナについてだ」
音楽家は知識人であった。それは過去から伝わるキリスト教の考えに通じているからであり、また多くの知識人とつながりを持っていた。同じ芸術に生きる者として、詩人との知り合いもいる。ハイリゲンであれば、ペトラルカともつながりがある。それはペトラルカの出資者こそが、ハイリゲンの雇い主であったからだ。そしてなにより彼ら芸術家は、世相に対してとても機敏である。
優れた音楽家の言葉には、誰もが一目置いていた。
「ジョヴァンナ、ですか。かの女王については話題がこと欠きませんが、騎士と司祭が揃って何を企んでいるのです?
まあ、彼女に会いたい男というのは、星の数ほどいるでしょう。ですが私が見る限り、貴方がたはそうではない。よろしい、私でよければ、お相手しましょう。レイナルド卿の語りに免じて」
ハイリゲンは、噂に違わぬ伊達男ぶりをみせた。派手な言動がオリヴィエールに苦笑を浮かばせる。
この音楽家と騎士の並びに、自分は不要なのではないか、などと思えてきた。




