暗い底の臭い
救世主の降誕から、一三四八年の歳月が流れていた。
世には悪疫が蔓延していた。
古くには太陽を司る神が気まぐれに、あるいは怒りから放った矢が無差別に当たったのだと言った。
この時代においても、その矢は再び猛威を奮った。神は踊るようにして矢を放ったのである。矢は王も貴族も枢機卿も、職人も市民も奴隷も、教徒も異教徒も等しく貫いた。
東方からやってきた呪われた矢の嵐は、地中海を渡って、西方をも荒らしていったのである。
死の舞踏。
そう言われた。人々は恐怖した。
フランスとイングランド、二つの大国も長い争いから疲弊していた時代だった。
葬儀も埋葬も追いつかなかった。
祈りは何の慰めにもならなかった。
やり場のない怒りは、祖先の怒りにも繋がった。かつての復讐とは名ばかりの虐殺まで行われた。
生への執着から、人は狂うこともあった。おおよその悪徳の限りを尽くす者も現れた。諦めて、以前のまま生活をしようとし心折れた者もいた。
黒き死をもたらす病。
体の一部を変色させ、ある者は四日のうちに咳をして血を吐き死に絶えた。
ある者は誰にも気づかれないまま死んだ。
そしてある者は、生きていることをわかってもらえず、早すぎる埋葬を行われた。
それほどまでに死はありふれたものだった。
多くの者は教会にすがった。教会は「死を想い、生きよ」としか言わなかった。壁画には骸骨と踊る人が描かれた。死は常に隣にあり、我らの生はその死と踊るものである。
絵に描かれた通り。欧州は地獄だった。
* * *
フランスの南方にある都市、アヴィニョン。かつてのフランス王がその権威のために教皇庁をローマから移した場所だった。
屋敷の一室。一人の若き司祭が、黒白の盤を睨みつける。
フランスではエシェクと呼ばれる、ペルシャから伝わった戦争ごっこだった。
若き司祭、名前はオリヴィエールと言ったが、彼は劣勢にあった。黒の軍勢が、自陣に流れ込んでいるのである。
いかにして挽回するか、頭を捻っているが、なかなか思い浮かばない。相手の布陣をどこかで見たとこがある気もすれば、だからといって逆転の目処が立つわけでもない。
であるなら、いかにして相手の首を取るかであるが、それもまた無理難題のように思えた。
何せ、道は塞がれているのである。兵士の剣は届かないのだ。
オリヴィエールはふと、向かいに座っている男を見る。
ギュスターヴという名前である。彼は枢機卿という、オリヴィエールよりも上の立場だ。オリヴィエールのおおよそ二倍以上の年齢であるはずなのに、見目が若々しく活動も精力的な彼は、こうして暇な時間を見つけては若い者に吹っかけていくのだ。それこそ、試すように。
ついに自分の番か、と勇んで勝負を受けたのはいいものの、いままで彼と戦った者のように負けていく未来しか見えなかった。
「私の顔を見ても、答えは出ないぞ」
ギュスターヴはそう言った。だが、オリヴィエールは盤上を見つめても何も思いつかなかった。
彼の余裕さは、年の功によるものだろうか。ということはいつか、自分もこうなれるのだろうか……と思うも、想像できない。
盤に目を落とせば、そこには勝機というものがまるで見えなかった。汗が手に滲む。
苦し紛れの一手。しかしそれをわかっていたかのように、ギュスターヴは駒を進めた。
うっ、と喉から変な声が出る。ギュスターヴが笑った。
「ときに司祭オリヴィエール、いまのアヴィニョンをどう見るかね」
まるで世間話をするかのようにギュスターヴは言った。
それがただの質問ではないことをオリヴィエールはわかった。ここは慎重になるべき場面だ。
「質問の意図がわかりかねます」
オリヴィエールは周囲を見渡した。部屋には他に誰もいないことを、無意識に確認してしまったのだ。
「憂いを持つ者は皆、そのようにするな」
ギュスターヴは冷静に、オリヴィエールの思考を見抜いていた。
彼が腕を振るうたびに香りが舞った。濃い花の香りだった。おそらくはローズマリーだろう。普通のものより強い匂いであったが嫌いではない。品のいい、彼の趣味がうかがえる。
「枢機卿ギュスターヴ……それでも私たちは教皇庁に勤める者です」
「気にするな。ここは私の部屋だ。なに、ただのお話だよ」
ははは、と笑う彼を、オリヴィエールは信用することにした。
声の調子をいくらか落として、語る。
「あまりに……あまりに悲惨が過ぎます。
街には咳と喀血の音が響いているし、路上で生活している者たちがその不衛生さを輪にかけてひどくしている。病にかかった者たちは、体をくの字にして死んでいく。さらにはユダヤの民に罪をなすりつけ、追いかけ回し、火をかける。
挙句に市の教会は、この病を『神の祝福』とまで呼び始める始末。
猊下の勅令が出されれば沈静化もしようものですが、それでもなお聞かぬ者たちが多い」
「ほう、なるほど、なるほどな」
ギュスターヴが、感心したように唸った。
意地の悪い笑みだ、絶対に何か考えている。オリヴィエールはそう思わずにはいられない。
この男は、すでに七十に近い歳だ。自分よりずっと思慮深く、自分よりずっと狡猾だ。言葉の裏を必ず読み取ってくるだろう。
ましてや、いま話したことなど、この男でなくとも知っている事実のみだ。そこに含ませた毒を、必ず暴いてくる。
「であるならば、教皇庁に罪はない、と?」
「罪はないでしょう。
あるならば、それは我らの原罪。
神の祝福などではないし、生まれてから背負っているものに他なりません」
「我らは無策だ。死というものは、防ぐことができるはずのものだ。
しかし悪疫が相手では」
「当面の課題は解決させております。猊下は自らの命によって墓を増築しても足りず、川を清め臨時の墓とした。
……朝に流される屍体の群れは、確かに悍ましくもありますが。我らは死に行く者に祈りを捧げるしかありません」
苦笑いをしてオリヴィエールが言うとギュスターヴは拍手を送った。
「完璧な回答だな。実に模範的で、そして味付けも効いている」
皮肉だ、とわからないオリヴィエールではない。意図して教皇庁への批判を避けている。いや、この疫病については皆が無策なのだから、教皇庁のみを批判するのはお門違いなのだ。しかし、批判は免れない点だってある。
それを言ったところで仕方ないし、猊下の悪評を口にするのは憚られた。
何より、自分の無力さを咎められているようだったからだ。
オリヴィエールが語ったアヴィニョンの様子など、ほんの一部にしか過ぎなかった。実際はもっともっと、深刻である。しかし意図的に明言するのは避けたのだった。
患者の体に黒い斑点が浮かぶことから黒死病と呼ばれたその疫病は、マルセイユやヴェネツィアから流行ってきているらしいことは知っている。いまではフィレンツェにまで死神の手は伸びていた。
数ヶ月の狂乱の後、アヴィニョンの民は静かになった。
それはまるで、教会に食糧を求めて並ぶ乞食の列のようにも見えた。望みもしない死を待っているのだった。
教会も、教皇庁もできうる限りのことをしていたが、悪疫そのものを止めることはできない。死の慰めもろくにできず、路上に転がる人の死に、愛も哀も注がれることはなかった。同情すらももらえず、生きとし生きるものは、自らの生に縋ることに精一杯だった。
そしてそれが教皇庁の評判を失墜させた。以前よりもずっとひどく。
……元のアヴィニョンも散々であった。教皇庁がローマより移ったことで多くの人が流れ込んできた。その中には富める者もいたが、多くは貧しい者であり、異人種だった。人口密度は上がり、社会資本は追いつかなかった。途端に治安は悪化し、見る影もなく荒廃していった。
聖職者でさえ、唯一の楽しみは娼婦と寝ることだった。その頃に市民が声高に言っていった質の悪い冗談に「ローマには娼館は二つしかないが、アヴィニョンには十一もある」というものまであったくらいだ。
死が溢れるよりかはましであるかもしれない、などと思うくらいには、感覚が麻痺していた。
「巷では、この悪疫は呪いなんて言われている」
「呪い……悪魔崇拝ですか」
「さあな。黒い斑点を矢を受けた跡に見立て、神の矢が当たったなどという噂もあるが。
尤も、いまのアヴィニョンに呪いをかける輩なら、心あたりはある」
「例えば?」
「テンプル騎士団」
なんの躊躇いもなく、ギュスターヴはその名前を口にした。
思わずオリヴィエールは顔を上げる。
「まさか、お戯れを」
「いい男の条件を教えてやろう。冗談も嗜んでいることだ」
笑えない冗談だった、と言いはしなかった。
盤上の遊戯は進んだ。さて、いよいよオリヴィエールの首に王手がかけられた。投了するしかなかった。黒の勝利か、と苦笑いを浮かべた。
「参りました。さすがはギュスターヴ様……」
「なに、君より歳を重ねているからね。いずれコツがわかるさ。ただの遊戯だし、そんなに逸ることもない」
そう言って、ギュスターヴはワインを口にした。オリヴィエールも飲むことを勧められたが断って、席を立ち上がった。鐘が鳴ったのが聞こえたからだった。
「もう行くのかね?」
「ええ、呼び出されておりまして」
「なるほどな。君も期待されている若者、ということか」
そう言うと、手鐘を鳴らした。召使が扉を開けて、オリヴィエールを送る用意をしていた。
「最後に年長者から助言だ。真実は常に残酷だ。しかし真に受けて、惑わされるなよ?」
その言葉の意図は測りかねたが「わかりました」とだけ言って、オリヴィエールは部屋から出た。ワインを一口、飲んでおけばよかったなと後悔はしていた。