黒き災い
「――グレイシィ、止まれ!」
ところが家を飛び出してからしばし駆けると、行く手に村人の一群が現れた。その先頭に弓を持って立っているのは、グレイシィの幼馴染み兼狩人のラッセだ。
「グレイシィ、今すぐその男から離れろ。そいつは村に災いを呼ぶ疫病神だ」
「まだそうと決まったわけじゃない。そこを退いて、ラッセ」
「退くのはお前だ、グレイシィ。俺達は村長から、何が何でもその男を仕留めろと言われてる。気の毒だが、これも村を守るためだ。大人しく手を引いてくれ」
「それなら、あたし達は今すぐこの村を出ていくわ。悪魔がカインを追ってくるなら、村を離れれば問題無いでしょ?」
「駄目だ。たとえそれでこの村は守れても、そいつと一緒にいる限りお前も危険に晒される。そんなどこの馬の骨とも知れない奴のために、お前が命を張る必要なんて無いだろ?」
「そうかもね。でもあたしは、あたしのせいで人が死ぬところなんて見たくない。カインが死ぬところなんて見たくないの!」
「なら、目を瞑ってろ。俺が一撃でその男の心臓を射抜いてやる」
「やめて、ラッセ!」
「――お……おい、あれを……あれを見ろ!」
刹那、ラッセの後ろで鉈を構えていた一人の男が、目を剥いて何かを指差した。
その指は、村の真ん中で足を止めたカインとグレイシィの後ろを示している。が、二人がそれを振り返るよりも早く、ばさりと大きな羽音が一つ、頭の上から降ってくる。
それは昨日カインが聞いた、ヒポグリフの羽音にも似ていた。
が、そのときひらりとカインの眼前へ舞い落ちてきたのは、烏のそれのような、漆黒の羽根だ。
「 ミ ツ ケ タ 」
ぞくりと全身に粟が立ち、カインはその場に縫い付けられたように動けなくなった。
たった今、カインとグレイシィが立っている位置から、右斜め後ろ。そこに佇んだ一軒の民家の上に、何かいる。
聞こえたのは、複数の人間の声を重ねたような、それでいて幼い少女を思わせるような、不可思議な声だった。
が、その声が孕んだ禍々しい気配が、背後から漂う黒い狂気が、カインの体を凍らせる。
「カイン……」
そのとき、カインの手を握ったグレイシィの手に、微かな力が込められた。見やったグレイシィの横顔もまた、青ざめている。とても後ろを振り返る気にはなれないようだ。
また、ばさりと一つ羽音が鳴った。カイン達と向き合う形で立ち尽くした村人達は、皆が目を見開いて慄いたまま、声一つ上げようとしない。
「サがシタよ、おニイちゃン」
再びあの声が聞こえた。カインの体に震えが走る。
しかしカインは、何重にも重なった声の合間に聞こえる少女のそれに、何故か聞き覚えがあるような気がした。
誰の声だ。そう思いを巡らせたが、極度の恐怖と混乱で頭が上手く回らない。
「ねエ、おニイちゃン。こッチむイテよ。ドウしてヒサメをダまシタの? ドウしてヒサメをころシタの?」
「え……?」
――〝ヒサメ〟。
不気味な声が告げたその名前が、またしても頭に引っ掛かった。
だが、〝騙した〟とはどういうことだ。〝殺した〟とはどういうことだ。〝ヒサメ〟とは一体誰のことなのか。混乱した頭に次々とそんな疑問が浮かび、カインはついに声の正体を振り返る。
屋根の上に、膝を折って舞い降りた一匹の悪魔がいた。
夜の闇よりも濃い黒に染められた羽。黒い体毛に覆われた体。異様に発達した爪を持つ手足。小さな体を巻くように垂れた細長い尾。
しかし何よりカインを凍り付かせたのは、闇の中で赤く光る少女の目だった。
そう、それは悪魔の姿をした少女だ。深黒の髪は重力に従って真っ直ぐに垂れ、前髪も顔の半分を覆っている。それでも人間の少女のように幼い輪郭ははっきりと認めることができ、人で言えば七、八歳くらいの顔立ちだろうかと推測することができる。
全身を覆う体毛は、何故か顔と胸元だけには生えておらず、女らしい膨らみなどあるはずもない幼い胸が半分ほど覗いていた。
だが長い前髪の間からこちらを見下ろす赤い目が、その幼い姿に計り知れないほどの狂気を与えており、カインの体は声も上げられぬほどに震え出す。
「ねエ、おニイちゃン。コたえテよ。ドウしてヒサメをダまシタの? ドウしてヒサメをころシタの?」
「お……俺は、そんな奴知らない……〝ヒサメ〟なんて奴のことは、何も知らない……!」
「ウソつキ。ドウしてウそツクの? ヒサメのこト、きライになッタの? ウソつキ……ヒサメはシンじテタのに。おニイちゃンダけはヒサメのミカタだッテ――シンじテタのに!!!!!!」
刹那、少女の咆吼と共に、凄まじい烈風がカイン達へと襲いかかった。高周波の絶叫を伴ったその風は叩きつけるようにカイン達の全身を打ち、カインは危うくグレイシィ諸共吹き飛ばされそうになる。
それを何とか踏ん張って堪え、カインは金属を細い爪で引っ掻いたような音にやられた耳を押さえた。
あまりにも甲高い声に鼓膜を貫かれたせいで、尋常ではない耳鳴りがする。おまけに意識はぐらぐらと揺らぎ、頭の奥では警報のような頭痛まで起こっている。
「――カイン、危ない!」
そのとき意識が朦朧としていたカインを、グレイシィが自らの体ごと押し倒した。瞬間、それまで二人が立っていた場所を、巨大な漆黒の鎌が疾り抜けていく。
それは一陣の風が黒色を帯びたような、想像を絶する勢いの攻撃だった。
が、カインという標的を捉え損ねたその風は先端でがりがりと地面を引き裂きながら、カイン達の行く手に立ち塞がっていたラッセ達へと襲いかかる。
「かっ」
悲鳴らしい悲鳴も無く、黒い刃の届く範囲にいた村人は、一瞬にして体を輪切りにされた。
刃に触れられた者達は目を剥いたまま静まり返り、やがて切断された腕や上半身が、ぼたぼたと地面に落下していく。
「い……いや、ラッセ……ラッセ!!」
体をもたげ、悲痛な声を上げたグレイシィの視線の先で、ラッセが下半身だけになっていた。赤黒い断面を晒した腰からは大量の血が噴き出し、残された両脚も、やがてゆっくりと倒れ込んでいく。
辛うじて刃の直撃を免れた村人が、仲間の血を頭から浴び、狂ったような絶叫を上げて逃げ出した。
〝黒き翼の災い〟。すべてベイジルの言ったとおりだ。隣でグレイシィが泣き崩れている。
俺のせいなのか。腰を抜かしたままカインは自問する。
俺が悪魔を呼び寄せたのか。何故。どうして。
何も考えられないまま、ふらふらと立ち上がった。見上げた先で、幼い悪魔が宙へと舞い上がっている。
憎悪。怨み。怒り。悲しみ。カインを見つめる悪魔の赤い瞳には、そういう負の感情が渦巻いていた。全部、俺のせいなのか。空っぽになった頭の中で呟き、カインは足元に踞ったグレイシィに目を向ける。
俺のせいだ。その瞬間、はっきりとそう思った。グレイシィの零す嗚咽が、カインの意識を覚醒させる。
俺のせいだ。俺のせいで、無関係の人達を巻き込んだ。俺を守ろうとしてくれたグレイシィにまで、こんな思いをさせてしまった。奪ってしまった。泣かせてしまった。
そう思った刹那、はっきりと憎悪の燃えた目で、カインは悪魔を睨み返した。直後、カインは素早く身を翻し、地を蹴って北へと駆け始める。
「カイン!」
グレイシィの呼ぶ声が聞こえた気がした。しかしカインは振り向かなかった。足も止めなかった。
背後から、またあの〝刃の風〟が迫ってくる。音で距離を判断し、すんでのところで右へ躱した。そこからまた跳ね起きて、一目散に森へ向かう。とにかくここを離れるのだ。これ以上村人達を巻き込んでしまう前に、悪魔を村から引き離すのだ。
だが逃げるカインを次々と追ってくる刃の風は、どこまでも容赦が無かった。右へ跳び、左へ跳び、ときには正面に飛び込んで転がり躱したが、その度に刃の先端がカインの体を掠めていく。
肩が裂け、右の脇腹もやられた。四度目の風を躱したとき、ついに左足を切り裂かれた。
激痛に悲鳴を上げる。それでも何とか立ち上がり、駆け出そうとした。
足の傷に痛みが走る。駄目だ。逃げられない。そう思ったとき、カインは偶然傍に見えた馬小屋のような建物に、渾身の力で飛び込んでいく。
苦しかった。小屋の中で俯せに倒れたまま、カインは鞴のように息をした。血の味が喉に込み上げてくる。これ以上は走れない。ここで死ぬのか。すぐ傍で大きな羽音がする。
追いつかれた。諦めの境地に足を踏み入れ、カインは荒い息のまま顔を上げた。
疲労で視界が霞んでいる。しかしそのとき、カインの目に映り込んだ羽音の主は、悪魔ではない。
一際巨大な刃の風が、世界を引き裂くような音を上げ、カインの逃げ込んだ馬小屋を真っ二つに断ち割った。すべてを上下に割られた小屋は瞬く間に崩れ落ち、中に積まれていた干し草が火の粉のように舞い上がる。
ところがその干し草の中から、俄然、空へ向かって飛び出した影があった。――ヒポグリフだ。カインはその背にしがみつき、歯を食い縛って風圧に耐える。
ヒポグリフの飛翔速度は、カインの想像を遥かに超えていた。悪魔に追われ、ヒポグリフもまた生命の危機を感じているためか、彼(または彼女)は甲高い鳴き声を上げながら、矢のように夜空を駆け抜けていく。
これにはさすがの悪魔も追いつくことができないようで、凄まじい風圧の中何とか背後を振り向くと、両者の距離がぐんぐん開いていくのが分かった。
やがて悪魔の姿は空に浮かんだ点のようになり、あっという間に肉眼では確認できなくなる。
「は、はは、やった……やったぞ! 悪魔を撒いてやった! ざまあみろ! おい、よくやったな、お前のお陰だ。もうそんなに急がなくてもいいぞ。おい……おい?」
自分の窮地を救ってくれたヒポグリフの働きを褒め称え、カインはその背にしがみつきながら声をかけた。ところが空を翔けるヒポグリフは、一向に速度を落とそうとしない。激しい恐慌状態のまま、悲鳴にも似た声を上げてどこまでも飛び続ける。
そんなヒポグリフを落ち着かせようとカインは声をかけ続けたが、事態が良くなる兆候は微塵も無かった。それどころか、強烈な風圧に晒され続けたカインの体は徐々に後ろへ流されていき、ついには下半身がヒポグリフの背をずり落ちてしまう。
「わーーーっ! おい頼む止まれ、止まってくれ! 巻き込んで悪かった! 謝る、全力で謝るから! そうだ、お詫びに何かたらふく食わせてやるよ! 何がいいんだ? 肉か? 魚か? 肉だな? よおし! それなら俺があの森でとっておきの獲物を仕留めてやる! 嘘じゃないぞ、約束だ! だから頼む、今すぐ止まっ――て?」
そのとき、ヒポグリフの背に必死にしがみついていたカインの手から、柔らかな毛皮がするりと抜けた。
その手が再び彼(または彼女)の毛皮を掴むことは無く、カインの体は暗い虚空に投げ出される。
手を伸ばせば届くのではないかと思うほど、星が近かった。カインは試しにそれを掴むような仕草をしてみたが、その手の先をヒポグリフが飛び去っていく。
掴めそうだと思った星が、あっという間に遠のいた。
静まり返った夜の世界に、風の音だけが聞こえていた。