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誰かの声

 床の軋む音がした。

 それも一度だけではない。二度、三度と不自然なリズムで、ドアの向こうから聞こえてくる。


 真夜中だった。いつものようにベイジルの家の客間で眠っていたカインは、その音で浅い眠りから覚めた。

 小さな物音だったので初めは何とも思わなかったのだが、こう何度も続くとさすがに違和感が睡魔を遠ざける。


(何だ……?)


 眠い目を擦り、寝台の上でわずかに体をもたげたカインはドアの方へと目をやった。部屋は闇に包まれていたが、寝台の向かいの窓から注ぐ月明かりが、うっすらと視界が利く程度に室内を照らし出している。

 床の軋む音はそれからも三度ほど続き、やがて止まった。一体何だったのだ、と思いながら耳をすますと、今度はドアの向こうから、ひそひそと人が言葉を交わしている気配が伝わってくる。


 ――誰かいる。それを直感し、カインはとっさに寝台の脇に置いていたあの荷袋を掴み上げた。こんな時間に、しかも気配や声をひそめながらやってくる相手など、とてもただの訪問者とは思えない。

 本能の警告に従い、カインは薄闇の中で急いで荷袋へと手を突っ込んだ。そうしてそこから手探りにナイフを取り出し、パチン、と刃を出しておく。


 姿の見えない相手への恐怖と緊張で、カインの呼吸は浅く速くなっていた。何かあったときのためにと、荷袋は二本の帯を体に巻き付け、先端の留め具を合わせて腰の辺りに下げておく。

 微かな軋みを上げ、ドアが開いた。体を硬くしたカインの視線の先で、闇に塗り潰された人影がドアの隙間から滑り込んでくる。


「誰だ?」


 手の中のナイフを握り締めながら、カインは尋ねた。瞬間、そろりとこちらへ歩み寄ろうとしていた人影が動きを止める。

 訪れた静寂に、カインは侵入者の動揺を感じ取った。両者の間には張り詰めた空気が流れ、カインの手にも汗が滲む。


「ちっ……起きていやがったか」


 聞き覚えのある声だった。まさかと思い、カインが慎重に目を凝らしたそのとき、一旦月にかかった雲が払われ、闇の中に見知った顔が浮かび上がる。


「ハングさん?」


 カインの視線が捉えたのは、蒼白い月明かりに正体を暴かれ、苦々しい顔をしたハングだった。その手に何か棒状のものが握られていることに気付いたカインは、そちらに目をやりぞっとする。

 ハングが右手に握り締めているのは、昨日彼が薪を割るのに使っていた斧だった。こんな時間にそんなものを携え、一体何の用だと尋ねようとしたとき、突然ハングの背後でドアが開く。


「ふむ……できることなら穏便に事を運びたかったのだが、そういうわけにもいかなくなったか」

「そ、村長? これは……そいつらは一体何ですか?」


 ハングに続いてドアの向こうから現れたのは、昼間、カインが初めて対面を果たしたばかりのベイジルだった。

 その背後にはハングの他にも数人の男達が控え、誰もが手に手に鋤や鍬、包丁など、使い方によっては充分凶器になり得る道具を握り締めている。


「カインとやら。いや、憐れな≪我失くし≫よ。すまぬが村の安寧のため、おぬしにはここで死んでもらわねばならぬ」

「な……何だよそれ? どういうことだ? 〝村の安寧のため〟って?」

「おぬしが知る必要は無い。ハング、やれ」


 低い声でベイジルが命じた。瞬間、ハングは深く頷き、大きく息を吸い込んでから床を蹴る。

 これは何の冗談だ。思いながら、カインは自分へ向けて振り上げられたハングの斧を凝視した。夜の静寂を叩き割るようなハングの雄叫びが響く。突然の出来事に思考が固まり、体がまるで動かない。


 このままじゃ殺される。

 動け。動け、動け動け動け動け動け!

 凍り付いた手足に、体中の全神経を使って命じた。鈍い風切り音を上げ、ハングの斧が振り下ろされる。

 膝にかかっていた毛布を一枚、とっさに高く跳ね上げた。それが頭からハングに被さり、くぐもった悲鳴が上がる。


 逃げろ、逃げろ、逃げろ! なおももたつく体を叱咤し、這うように寝台から転げ落ちた。

 あまりにも明確すぎる殺意に、腰が抜けてしまっている。どうしてこうなった? 何故自分が殺されなければならない?


「くそっ。村のために、大人しく死ね!」


 ほんの数瞬自身から視界を奪った毛布をかなぐり捨て、苛立った様子でハングが吼えた。その頃にはカインも何とか立ち上がり、月明かりの中でハングにナイフを向ける。

 しかし依然足は震え、腰にも力が入らなかった。背中を壁に預けることで、何とか立っているという状態だ。


 そのカインに狙いを定め、寝台を土足で踏み越えたハングが吼えながら襲いかかってきた。見るからに屈強な腕の筋肉が盛り上がり、闇の中でハングを人喰い鬼(オーガ)のような姿に見せる。


 ――来るぞ。


 そのとき、カインの頭にそう囁きかけてくる声があった。

 ハングが振りかぶった斧は、床と水平になっている。あれは左から右へ、斧を横に薙ぐサインだ。


 そう言えば、ハングの本職は樵だと言っていた。樵は木を切り倒すとき、斧を地面とは水平に使って幹に打ち込む。この男にはその癖があるはずだ。今の構えの高さから言って、ハングは間違いなくこちらの首を狙っている。

 そういうことを、何故か自分でも驚くほど冷静に分析することができた。ドクン、と、一際大きく心臓が鳴る。血が騒ぎ、体に力が漲ってくる。


 ハングの斧。読みどおり、左から来た。床と水平を保っている。本能的に、体が動いた。とっさに前屈の体勢を取り、ハングの渾身の一撃を躱す。そのまま床を蹴ってハングに突っ込み、右半身を正面からぶつけていく。


 右手に、鈍い感触が走った。握ったナイフが、刃の付け根の部分までハングの腹に突き立っていた。

 動きを止めたハングは、まるで信じられないものでも見るかのようにそのナイフを見下ろしてくる。瞬間、カインはハングの腹に刺さったままのナイフを拈り、内臓に致命的損傷を与えてから刃を抜く。


 ――これでいい。また、さっきと同じ囁き声が言った。ハングの逞しい体が崩れ落ちる。

 腹を押さえ、目を剥いて呻き声を漏らすハングの手から斧を奪った。右手に斧、左手にナイフ。両手に武装したカインの姿を見た男達が、怯んだように後ずさっていく。


「こやつ……見かけによらず戦い慣れておるな。おい、何をしておる! あやつが災いをもたらす前に、早う息の根を止めんか!」

「は、はい!」


 カインの鮮やかな反撃に圧倒されていた男達が、恐怖を跳ね返すように声を上げた。険しい顔をしたベイジルの背後には、三人の若い男達が控えている。


 その男達が一斉に部屋へ飛び込み、今度は三人がかりでカインへと襲いかかってきた。が、カインは自分が異様なほど冷静なのを自覚する。こちらが壁を背にしている今、たとえ三人がかりであろうとも、相手は正面から攻めかかってくるしかない。


 ――要は喧嘩と同じだ。頭の中に響く囁きを聞きながら、カインは斧を担ぐように持ち上げた。次の瞬間、こちらから踏み込むかのように見せかけて、振りかぶった斧を投げつける。


 よく磨かれたハングの斧が、三人のうち最も突出していた男の肩に突き刺さった。斧は骨を断つほど深く食い込み、悲鳴を上げた男が背後に倒れ込む。

 それを見て、残りの二人が怯んだ隙に付け込んだ。左の男に飛び蹴りを喰らわし、その反動を利用して右の男に殴りかかった。

 持っていたナイフの柄で、男の蟀谷を殴り付ける。反動をつけるための踏み台にされた男と、蟀谷に致命的な一撃を受けた男が、ほとんど同時に倒れ込む。


「ば、馬鹿な……」


 愕然としたベイジルの呻きが、薄い唇から漏れた。記憶を失くしたはずの青年に予想外の逆襲を受けた彼の体は、小刻みに震え出している。


 が、一方のカインもまた茫然としていた。自分はたった今、信じられないほど鮮やかに戦い、四人もの敵――しかも、自分より明らかに体格も形勢も勝っている――を軽々と打ち倒したのだ。


 何故、そんなことができたのか。ハングの血に濡れたナイフを見つめながら自問する。

 それはまるで、〝体が戦うことを知っている〟かのような現象だった。カインが何か思う前に、体が自然と相手の攻撃に反応し、身を守るために動いたのだ。先刻頭の中に聞こえた囁きは、きっと本能の囁きであったに違いない。


 ――否。あるいはあれは、失われた記憶に埋もれたもう一人の自分の声だったのか。だとすれば自分は、記憶を失う前にもこうして戦いに身を投じたことがあったのかもしれない。

 だからなのだろうか、他人の血を見ても、自ら人を傷つけても、カインの心はあまり動揺していなかった。


 ――こんな所でくたばるわけにはいかない。


 頭の隅でまた誰かが囁く。


 ――俺にはここで、やるべきことがあるんだ。


「お、おい、早くその男を何とかしろ! このままでは更なる犠牲者が出るぞ!」


 自分から襲撃をかけておきながら、ベイジルは激しく唾を飛ばし、まるでカインを殺人鬼か何かのように杖で示した。その叱咤を受けた男の一人がよろよろと立ち上がる。唯一まだ致命傷を負っていない、蹴り飛ばされただけの若い男だ。


「そ、村長ぉ……こいつ、強すぎます。おれはまだ死にたくない、死にたくねえよ……」

「何を言っておる。こやつを生かしておけば、どのみち村は滅びの道を歩むことになるやもしれんのだぞ。そうなる前に、何としてもこやつを――」

「――カインを生かしておくと村が滅びる? それってどういうこと、おじいちゃん?」


 そのときドアの向こうから、よく通る少女の声が聞こえた。次いで足音が聞こえ、新たに小柄な影が一つ、部屋の中へと踏み込んでくる。

 ドアの脇に置かれたクローゼットの陰を擦り抜け、やがて月光に照らし出されたのは、灰被り薔薇の色(アッシュローズ)の髪を一つに結い上げ、一振りの剣を鞘ぐるみ肩に担いだ少女――グレイシィだ。


「グレイシィ……! おぬし、何故ここにいる? 見張りにやった者共は何をしておるのだ」

「あのねえ、おじいちゃん。あんなへなちょこ連中に、このあたしが止められると思う? 大人も含めて、エルシド先生の道場で一番強かったのはあたしなんだよ? つまりこの村に、あたしより強い奴なんかいないってこと。なのにあたしの見張りがアルフとヨーランの二人だけなんて、馬鹿にしてるの?」

「くっ……これだからこのじゃじゃ馬は……」


 苦虫を噛み潰したような顔色で言い、ベイジルは憎々しげにグレイシィを睨み据えた。

 他方、突如として現れたグレイシィの豹変ぶりに、カインは部屋の真ん中でぽかんとしている。

 あれは本当に、あのしとやかで優しげだったグレイシィなのだろうか。髪を頭の後ろで結っているだけでもだいぶ雰囲気が違うのに、それに加えて剣まで担ぎ、口調はもはや別人のようになっている。


「で、これは一体どういうことなの、おじいちゃん? 理由をちゃんと説明して」

「黙れ、このたわけ者が。これはおぬしには関係の無いことじゃ。小娘は下がっておれ」

「関係なら充分あるわよ。そこにいるカインは、あたしが森から拾ってきたの。そのカインが村を滅ぼすなんて、何を根拠に言ってるわけ?」


 会話の中で、まるで自分が物のように扱われていることにいささかの傷心を覚えながらも、カインは概ねグレイシィの言い分に同調した。一体何故、こんな夜中に自分が暗殺まがいの襲撃を受けねばならなかったのか、カインもまだその理由を聞いていない。

 するとベイジルは、ついに観念したように目を伏せ、深く息を吐き出した。そうして床についた杖に皺だらけの両手を重ねると、あまり気が進まない様子ながらも口を開く。


「――『異国の服を纏い、記憶を失いし者、黒き翼の災いを招く』」

「え?」

「この国に古くから伝わる言い伝えじゃ。わしも文献で知っておる程度じゃが、この国には遥か昔から、そこにいるカインのように記憶を失い、己が何者かも分からず彷徨う≪我失くし≫が現れることがあった。そしてその≪我失くし≫の行く所、如何なる土地にも黒き翼の災いが降り注ぎ、巻き込まれた村が一夜にして滅び去ることもあったと言う」

「その〝黒き翼の災い〟っていうのは?」

「決まっておろう。悪魔じゃ。悪魔の仕業じゃ。≪我失くし≫は何故かこの世に悪魔を呼び寄せ、悪魔はどこまでも≪我失くし≫を追い続ける。ゆえに≪我失くし≫が逃げれば逃げるほど多くの者が巻き込まれ、夥しい血が流れるのじゃ。それは歴史が証明しておる」

「なるほどね。だからその≪我失くし≫のカインを殺して、悪魔がこの世に現れる前に防ごうってわけ。とっても合理的で非人道的な解決法ね。おじいちゃんらしいわ」

「グレイシィ、おぬしには分かるまい。人の上に立つ者は、百を救うために一を犠牲にするという決断もときには下さねばならぬのだ。おぬしに何と思われようが、わしにはヘウリスコ村の長として皆を守る義務がある。悪く思うな」

「勘違いしないでよね。あたしは別におじいちゃんを責めてるわけじゃないの。おじいちゃんが、村のみんなの命や生活を背負ってるんだってことは分かってる。だけど……」


 言って、グレイシィは一歩踏み出し、ベイジルの横を素通りした。

 そうしてつかつかと部屋の真ん中まで進み出たかと思うや、毅然と背を伸ばしてカインの傍らに立ち、はっとするほど澄んだ眼差しでベイジルを顧みる。


「だけどあたしは、やっぱりカインを殺すなんて許せない。カインには何の罪も無いんだよ? それどころか記憶を失くして、誰よりも心細い思いをしてる。そのカインに、〝村のために死ね〟だなんて」

「ならばどうする。やがて来る悪魔の代わりに、おぬしがここでわしを殺すか? おぬしがいくら嫌だと言っても、わしはその男を殺すぞ。それでもおぬしが村長であるわしに刃向かうと言うのなら……」


 睨み合った二人の間に、緊張が走った。当のカインは二人のやりとりに一言も口を挟めないまま、固唾を飲んで両者の姿を見比べる。

 不意に、グレイシィの横顔が、烟るような悲哀を帯びた。

 直後、グレイシィがぐるりとカインを振り返り、担いでいた剣を振りかぶる。剣は鞘こそ被っているが、グレイシィの目は真っ直ぐに、揺るぎなくカインを射抜いてくる。


「――カイン、伏せて!」


 グレイシィの烈声に、カインはすかさず上体を屈めた。とっさに頭を抱えたその上を、グレイシィの投げた剣が勢いよく掠めていく。

 ガラスが粉々に砕け散る音が、夜の闇を劈いた。グレイシィの投げた剣はカインが背にしていた唯一の窓を狙って放たれ、見事にそれを突き破ったのだ。


「行くよ!」


 空いた右手でカインの靴を拾い上げ、更にもう一方の手でグレイシィがカインの手を引いた。彼女はそのまま床を蹴って跳躍し、脆くなった窓ガラスを突き破って外に出る。

 カインもそれを真似て窓から飛び出し、地面の上を転がった。一瞬平衡感覚を失い、のろのろと体をもたげたところで、またしてもグレイシィに手を掴まれる。


 立ち上がり、素足のまま駆けた。靴はグレイシィがしっかりと持っているが、今はそれを悠長に身につけている暇は無い。

 まずは自らを狙う村人達から、一歩でも遠ざかることだった。しかし土地勘などまるで持ち合わせていないカインは、ただただグレイシィについていくしかない。

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