敵意
ぱかり、と気持ちのいい音を立て、薪が真っ二つになった。
そのうちの一つを拾い上げ、薪割り台の上に立てる。振り翳した斧の狙いを定め、ここだ、という閃きと共に振り下ろす。
ようやく失敗を重ねることなく、一撃で薪を割れるようになってきた。
グレイシィに薪割りのやり方を習った直後は、斧を振り上げたままよろけたり、まったく見当違いの場所に斧を振り下ろしたり、薪に斧が刺さったまま抜けなくなったりと、とかく情けない失敗ばかりしていたのだ。
薪割りは、カインの方から手伝いたいとグレイシィに申し出た。記憶が無いからと言って、ただぼんやりと彼女の世話になっているだけでは気が引ける。そう思ったからだ。
昨日ハングが薪割りをしているのを見て、あれくらいなら自分にもできそうだと思った。力仕事は女のグレイシィには不向きだろうし、体を動かしていれば無償で世話になっているというカインの後ろ暗さも緩和される。
他にも、自分にできそうなことは見つけ次第手伝った。家事が苦手らしいグレイシィは、その度に笑顔で喜んでいる。
二十本目の薪を割り、斧を一旦置いたところで、カインはふう、と汗を拭った。辺りには、これまで無心に割り続けてきた薪が散らばっている。今度はそれを集めて、家の裏手にある薪置き場に積み上げていかねばならない。
単調な作業だが、なかなか体力の要る仕事だった。カインは薪割り台と薪置き場とを三度ほど往復し、ようやくすべての薪を積み終える。
そこでようやく一息入れようと、カインはちょうど日陰になっている家の西側へ回り込んだ。そこには革製の水筒と、カインが拾われたときに身に付けていたというあの荷袋が置いてある。
地べたに直接腰を下ろし、家の壁に背を凭れながら、カインはまず水筒の水を呷った。軽い運動の後で火照った体に、水の冷たさが心地好く染み渡っていく。
それから放置していた荷袋を取り上げ、中から一枚の絵を取り出した。謎の文字が綴られた紙の間に挟まっていた、あの女の描かれた絵だ。
(……俺は一体誰で、この女とどういう関係なんだろう)
絵の中にある女の笑顔を見つめていると、カインは胸を締め付けられるような、不思議な感覚に襲われた。自分は何か、重大なことを忘れてしまっているのではないか。忘れてはいけないことを忘れてしまったのではないか。この女の絵を見ていると、何故かそんな思いが次々と胸に湧いてくる。
なあ、お前は誰なんだ。この村で目を覚ましてから幾度となく繰り返してきた問いを、カインは今日もその絵に投げかけた。
俺は誰なんだ。お前は誰なんだ。どうして笑ってるんだ。そこはどこなんだ。何故何も分からないんだ。何も分からないのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだ――。
「――……イン……カイン!」
そのとき、不意に意識の隙間へ飛び込んできた声に驚き、カインははっと顔を上げた。
見やった先には、上体を屈めてこちらを見つめたグレイシィの姿がある。その表情は少し心配そうで、突然の出来事に呆けているカインへと、気遣わしげな視線を注いでくる。
「大丈夫ですか、カイン? さっきから何度も呼んでいるのに、まったく気付いてくれないからどうしたのかと思いましたよ」
「あ、ああ……悪い。ちょっと考え事をしててな。俺なら大丈夫だよ」
「なら、いいのですが……あ、それはそうと聞いて下さい。実はさっき、おじいちゃんが隣村から帰ってきたんです。それでぜひ一度、カインに会ってみたいって」
「え? 帰ってきたって、随分早くないか? 二、三日は戻らない予定だったんだろ?」
「ええ。ですがどうやら、寄り合いが予定より早く終わったみたいで、そのまま真っ直ぐ帰ってきたんだそうです。早速紹介しますから、ついてきて下さい」
そう言ってふわりと笑ったグレイシィは、どこか機嫌がいいように見えた。どうやらカインを祖父に紹介できるのが嬉しいようだ。
カインはそんなグレイシィに連れられて、早速家の中へと戻った。グレイシィの家の奥には、村人を集めて話し合いなどをする際に使われるというちょっとした広間があり、村長はそこで二人を待っている。
「おじいちゃん、カインを連れてきました」
広間に入ると、奥にある暖炉の前に座った老人の姿が真っ先に視界へ飛び込んできた。老人は頭に瘤の付いた木の杖をつきながら椅子に座り、じっとこちらを見つめている。
白い眉と口髭を豊かに蓄えた、見るからに〝長老〟といった風貌の老人だった。ただ、杖をついてはいるが、背中が曲がっているようには見えない。むしろしゃんと背筋を伸ばし、毅然とした姿勢でやってきた二人を出迎える。
「おぬしが、グレイシィが北の森で拾ってきたという〝カイン〟か?」
「はあ、そうです。お孫さんにはこの数日、大変お世話になってます」
「うむ。既に紹介は受けていると思うが、わしがこの村の長をしておるベイジルじゃ。聞いたところによると、おぬしはどうやらグレイシィに拾われるまでの記憶を失っておるそうじゃな?」
「はい。自分の名前も生い立ちも分からない状態で、どうしたものかと困ってます。この家で目を覚ました直後よりは、気持ちはだいぶ落ち着いてきましたが……」
「ふむ……自分の名前も生い立ちも、か。それは、未だに思い出せそうにないのじゃな?」
「ええ、まあ……一応思い出す努力はしてるんですけど、どうにも手がかりが少なくて」
「なるほど。それは重症じゃのう」
と、言いながら、ベイジルは視線をわずかに落とし、何やら物思いに耽るような顔をした。
グレイシィの祖父だというので、カインは勝手に気さくな老人なのだろうと想像していたのだが、ベイジルの表情は終始硬く、真意の読めない眼差しを白眉の下に隠している。
「おじいちゃん。今のままじゃ、カインはこの村を出ても行く所がありません。それならせめて記憶が戻るまで、彼をここに置いてあげるわけにはいきませんか?」
「……そうさのう。しかし、記憶を手繰り寄せるための手がかりが何も無いとなると、果たしてすべてを思い出すのは明日になるか、一年後になるか……」
「カインの記憶の手がかりは、私も一緒に探します。実はまだ、私がカインを見つけた場所へ彼を案内できていないんです。昨日森へ行ったラッセが、森の様子がおかしいからしばらくは近づくなって」
「その報告はわしも受けておる。しかし、グレイシィ。そもそもおぬしはカインを見つけたとき、何故あの森にいたんじゃ? ハングの話では、あやつと森で出会うまでは、一人でそこにおったそうではないか」
そのとき、そう尋ねたベイジルの声色が、急に尖ったのをカインは感じた。と同時にベイジルは、重そうな眉を片方だけ持ち上げて、目の前に立つグレイシィにやけに鋭い視線を送る。
その視線に捉えられたグレイシィが、にわかに体を硬くしたのが分かった。彼女はそうして目を泳がせると、あからさまに動揺の乗った言葉つきで言う。
「あ、え、えっと、それは……野草摘み、そう、野草摘みに行っていたんです。あの日は急にナマッカ草のソテーが食べたくなって、それなら森に集めに行こうと……」
「ほう、おぬしが料理のために〝野草摘み〟のう」
どことなく含みのある口調で言い、ベイジルはなおも探るようにグレイシィを見ていた。それは明らかに疑惑の眼差しで、ベイジルがグレイシィの言い分を完全には信じていないらしいことを伝えてくる。
それが何故かは分からないが、対するグレイシィはすっかり怯えた様子で肩を窄め、額には冷や汗までかいていた。今はベイジルを直視することもできないらしく、下を向いたまま顔を上げようともしない。
「まあ、良い。話は戻るが、グレイシィの言うことももっともじゃ。行く宛が無いのなら、しばらくはこの村に留まり、今後の身の処し方をゆっくりと考えるがいい。見るものなど何も無い村じゃが、それでも構わぬと言うのなら、好きなだけ逗留してゆくが良いぞ」
そこで初めてグレイシィへ注いでいた視線を切り、ベイジルは改めてカインへと目を向けてきた。カインはそんなベイジルの好意に礼を言い、ぺこりと頭を下げておく。
だが何か腑に落ちないものが、カインの腹の底で蠢いていた。それは形も無いのにはっきりと存在を主張し、まるでカインに警戒を促しているようにも思える。
この違和感は何だ。下腹部へ意識を集中し、その正体を探ることに気を取られたカインを、そのとき、ベイジルの冷徹な目が見つめていた。
それは彼が直前までグレイシィに向けていたのと同じ――否、それよりも更に鋭く重い〝敵意〟の眼差しだ。