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ざわめき

「――はい、どうぞ召し上がれ!」


 そう言って差し出された山盛りの食事を前に、カインは内心閉口していた。

 どうにかそれを覚られまいと笑みを作ってはいるものの、表情はいささか引き攣ってしまっている。

 対するグレイシィは、向かいの席でにこにことそんなカインの様子を見守っていた。無論悪意など毛ほども無い彼女は、カインの笑みがどこか歪んでしまっていることにも気付かない。ただ純粋に、カインがお腹いっぱいの食事を取れるように、と配慮したつもりでいるようだ。


「え、えっと……それじゃあ、いただきます……」

「いっぱい食べて下さいね」


 豪快に盛り付けられた食事を前に、グレイシィは早くも上機嫌だった。が、一方のカインの胸中には、みるみる暗雲が立ち込めていく。今日も朝からこの料理達と闘わなければならないのかと思うと、額には嫌な汗まで滲んでくる。


 カインがグレイシィに拾われてから、三日目の朝だった。突っ支い棒によって開けられた窓の外には、爽やかな陽気の青空が広がっている。

 その空とは対照的なまでに暗く沈み込んでいく気持ちを奮い起こし、カインは意を決して目の前の黒い塊へとフォークを伸ばした。それは本当に〝黒い塊〟と形容するしかない物体で、一体何がどうなってこんな見た目になってしまったのかは見当もつかない。


 さく、と小さな音を立て、フォークが黒い山に刺さった。そのままフォークを持ち上げれば、一口大に切られた芋らしきものに、謎の黒いネバネバがみよーんと効果音が付きそうなほど伸びながらついてくる。


 これは一体何だ。尋ねたくなる気持ちを抑え、カインはその物体を恐る恐る口へ運んだ。

 しょっぱい。何故か凄まじくしょっぱい。そのあまりの塩気にカインの舌は一口で音を上げ、水を寄越せと叫んでくる。


 直後、カインは迷わず水の注がれたカップを手に取り、一気にそれを飲み干した。塩分に水気を奪われ、一瞬にしてからからになった口内に何とか潤いが戻ってくる。

 まず一口目。いや、〝まだ一口目〟だ。仮にこの黒い芋の山を制したところで、背後には謎の物体が浮いた真緑のスープと、丸焼きにされたヤモリのような生き物が乗った皿が残っている。


 おまけに唯一まともに見える野菜の盛り合わせには、目を疑うほど真っ赤なソースがかけられていた。あれは死ぬほど辛いに違いない。

 現に昨晩、大きな器にたっぷり注がれて出てきた同じ色のスープは、意識が遠のくほど辛かった。だが無償で世話になっている身でありながら、食事に贅沢を言って残すわけにはいかないと、そのスープを根性で飲み干し倒れた自分を今はただ褒めてやりたい。


「どうですか? そのレーコン芋は、ハルスの実を擂り潰した粉と、イャム鳥の卵を混ぜたもので味付けしてみたんですけど……」

「う、うん……なかなかインパクトのある味と見た目だな……」

「いんぱくと、ですか?」

「ああ、〝インパクト〟っていうのはつまり、その……独創的かつ衝撃的ってことだ。何となく、俺の体が覚えてる料理とは違うような……」

「そうなんですか。実はこれ、『レーコン芋のハルスの実とイャム卵のソース仕立て』っていうんですけど、私が自分で考えた料理なんです。だからきっと、他では食べられないものだと思いますよ」

「へ、へえ……そ、それじゃあゆっくり味わって食べないとな……」


 既にギブアップしたい、という言葉を何とか呑み込み、カインは再び黒い山――グレイシィが言うところの『レーコン芋のハルスの実とイャム卵のソース仕立て』――へとフォークを伸ばした。

 他方、向かいのグレイシィはと言えば、カインのものとも変わらないほど山盛りに盛られたそれをぱくぱくと美味しそうに食べている。


 昨夜一度食事を共にして分かったことだが、グレイシィは見かけによらず大食だった。たった今テーブルに上がっている程度の量の食事なら、あっという間にぺろりとたいらげてしまう。

 おまけに作る料理はどれも豪快で、材料はごろごろと大雑把に切られ、盛り付けは良く言えば大胆、味付けに至ってはどれも極端すぎるほどだった。味の種類は三つだけで、しょっぱい、辛い、素材の味が活きている、のうちのどれかだ。

 それもひどく偏りがあり、しょっぱいものは喉が悲鳴を上げるほどに、辛いものは口から火が出るほどに辛かった。それ以外の味付けについては、不思議なほど味がしない。


 そうした料理の数々は、およそしとやかなグレイシィの印象にそぐわなかったが、本人はそれを気にしている素振りも無かった。否、むしろ彼女は、自分の作る料理が普通の料理とはどこか違うことに気付いてすらいないに違いない。

 あるいはこの村では、こういう料理がごく一般的なものなのだろうかという切実な疑問を抱きつつ、カインは虫が這うような早さで少しずつ目の前の山を崩していった。

 他の三品については、今のところまったく手を出す気が起きない。少なくとも激辛サラダ(予想)は最後に回さなければ、また意識を失って魘されるかもしれないという恐怖がある。


「そう言えばその服、着心地はいかがですか? 父のものだから、カインには少し大きいかもしれないと思ったんですけど……」


 と、そこで不意に食事とは別の話題を振られ、カインはふと自分が身に纏っている衣服に目を落とした。たった今カインが着ているのは、淡い藤色に染められたチュニックと前開きのチョッキ、そして少々くたびれた綿製の脚衣だ。

 膝上まで丈のあるチュニックは腰の辺りでベルトを締め、脚衣も今は摺り切れた裾を足首で縛ってブーツの中に入れていた。そのブーツや衣服は今朝グレイシィが用意してくれたもので、着こなし方も彼女が細かく指南してくれたのだ。


「ああ、いや、大きさはそこまで気にならないかな。むしろゆったりしてて着やすいよ」

「そうですか、良かった。だけど、思った以上によく似合ってますね。今の格好なら、村に出ても違和感無く馴染めそうです」

「昨日の格好はそんなに変だったか?」

「あ、いえ、そういうわけじゃ……ただ、この村の人達が着ている服とはだいぶ雰囲気が違ったから、あのまま村に出ていったら浮いてしまうんじゃないかなって思ったんです。服の素材も、綿や麻とは何となく違うみたいでしたし……」


 確かにそうだ、と思いながら、カインは改めて自身の着ている服を見やった。自分は服飾のことには詳しくないが、触った感じも昨日まで着ていた服とはどこか違う気がする。

 今日はこれから、グレイシィと二人で外を歩いてみようという話になっていた。村の中を回ったり、昨日カインが倒れていたという場所へ行ってみたりすれば、記憶を取り戻すための手がかりが何か見つかるかもしれない、とグレイシィが言い出したのだ。


「だけどこれ、親父さんの服だったんだな。確かここでは、じいさんと二人暮らしだって言ってたけど……」

「ええ。父は今、レオフォロスで南部統轄官をやっているんです。一昨年に任命を受けたので、再来年には村に帰ってくる予定なんですけど……」

「南部統轄官?」

「あ、えっと、統轄官というのは、各地方にある〝ゲー〟をまとめる役人で、四年ごとにそれぞれのゲーから国に選ばれるんです。いわば、国とゲーとを繋ぐ仲介役、みたいなものですね」

「その〝ゲー〟ってのは?」

「ゲーは、国が線引きした地域ごとの村の集まりです。大抵は五つか六つくらいの村が集まって、一つのゲーを作っています。そのゲーを構成する村の長同士が集まって、利水のこととか、税のこととか、難しいことを話し合うんです。それをゲーの代表である統轄官に繋いで、最終的な国の判断を仰ぐというのがこの国の決まりなんですよ」

「ふうん。つまりあんたの父親は、地方のお偉いさんってことか」

「帝国全体から見れば、末端の役人に過ぎませんけどね。それでも統轄官に選ばれるということは、とても名誉なことなんです。その分村の評判を一身に背負うことにもなるので、荷が重いと父は愚痴を零していましたが、死んだ母もきっと父の統轄官就任を喜んでいると思います」


 グレイシィは誇らしげにそう話してみせたものの、母親は死んだと聞いて、カインはそれ以上両親の話に触れるのはやめた。彼女の母がいつ、どのようにして亡くなったのかは知らないが、親の死について話すのは決して気分のいいことではないだろう。


 それから長い時間をかけて、カインはようやく大量かつ殺人的な味付けの料理達を完食した。全体の半分ほどまで食べ進めた頃には無我の境地に入り、最後の方はほとんど水で流し込んだようなものだが、完食したという事実に変わりは無い。

 グレイシィはそれを喜び、昼食も腕によりをかけて作りますね、と無邪気な笑顔を見せた。さすがのカインも、三度目はいよいよ死ぬかもしれない。かと言ってやめてくれとも言えず、カインは青い顔のまま、楽しみにしてるよ、と弱々しい社交辞令を返しておく。


 食事が済むと、出かける前に片付けを済ませてしまうと言い、グレイシィは食事の後片付けを始めた。

 が、その手際がまたしても豪快で、カインは唖然としてしまう。石の流し台に立ったグレイシィは、水を張った大きな桶に使い終えた食器をまとめてぶち込み、洗っているのか壊しているのか分からない勢いでがしゃがしゃと水を撒き散らしている。


 その水が流し台を飛び出して木造の床に飛び散るのも構わず、グレイシィは食器を洗い終えると、今度はそれらを桶から取り出して拭き始めた。

 しかしその手つきがどこか危なっかしい。後ろの席で作業が終わるのを待ちながら様子を見ていたカインは内心ハラハラしていたが、案の定グレイシィは途中で陶製の皿を落とし、粉々に割ってしまう。


「あーん、また割っちゃった。おじいちゃんに怒られる……」

「だ、大丈夫か?」


 〝また〟ということはやはり過去にも大量の皿を割っているのかと思いつつ、これにはカインも腰を上げてグレイシィの手伝いに入った。グレイシィは一人で大丈夫だと言ったが、破片を素手で集めようとし出した辺り、とても大丈夫とは思えない。

 カインは慌ててその暴挙を止め、まずは箒とちりとりを持ってくるよう言った。それを聞いたグレイシィは目から鱗が落ちたような顔で頷き、家の奥へと駆け込んでいく。それからグレイシィが箒を持って戻ってくるまでの間に、何か物が倒れる音や、新たに陶器が割れるような音が次々と響き渡ったが、カインは何も聞かなかったことにする。


「すみません。お客様にこんなことをさせてしまって……」

「いや、いいよ。俺は客って言うより居候みたいなもんだし、ただ世話になってるだけじゃ気が引けるから」

「ありがとうございます。私、よくこうして皿や壺を割ってしまうんですけど、その度に破片を手で集めて血まみれになっていたので、カインがいてくれて助かりました」

「そ、そうか……それは災難だったな……」

「そのせいで、おじいちゃんにはいつも皿を割ったのがバレてしまって……陶器の皿は高いんだから触るなってよく叱られるんですけど、お客様に出す料理には、やっぱり立派な食器を使った方がいいかなって……」

「そ、その気遣いはいいと思うが、俺にはそこまで気を遣ってくれなくていいよ。むしろ居候なのに客みたいな扱いをされると、余計に肩身が狭いっていうか……」

「そうですか? では申し訳ありませんが、次からは木の皿で食事をお出ししますね。それも時々割っちゃうんですけど……」

「……」


 もはやこれ以上は触れまいと誓い、カインは黙々と皿の破片を片付けた。それが終わると、食事を馳走になったことを口実に、後片付けも横から手伝ってやる。

 高価な皿を自分のために何枚も割られては堪らないので、食器拭きはカインが、皿を棚へしまうのはグレイシィがそれぞれ担当することにした。カインは隣で待つグレイシィが手持ち無沙汰にならないよう、せっせと皿を拭いて彼女に手渡していく。


「カイン、何だか手慣れてますね」

「そうか?」

「そうですよ。私なんかよりずっと手際がいいです。お皿も全然割らないですし」

「う、うん……もしかしたら記憶を失くす前は、どこかでこんなことをやってたのかもな」


 普通はそう何枚も皿を割る方がおかしいのだ、とは言えず、カインは当たり障り無く皿の話題を受け流した。そんなカインを、グレイシィは横から尊敬の籠もった眼差しで見つめている。

 その後は一枚の皿も割ることなく片付けが済み、二人は早速村へ出ることにした。二日前にカインが倒れていたという森も、村からはそう遠くないらしい。


「――うわっ!」


 ところがそうして家を出た直後、カインは予想外の突風に煽られて悲鳴を上げた。

 それもただの突風ではない。地上に影を落としながら、何かが猛スピードで頭上を駆け抜けたのだ。


「な、何だ?」


 驚いたカインがその影を目で追うと、不意に空から大きな羽音が降ってきた。

 その羽音の主が、ゆっくりと二人の傍へ降りてくる。真っ先に見えたのは、鋭い鉤爪。

 しかしそれはただの鉤爪ではなく、その生き物の前脚なのだとカインはすぐに理解した。後ろ脚は、馬のそれに似ている。蹄があるのだ。

 そして背中には、羽毛に覆われた巨大な翼。次いでカインの目に飛び込んできたのは、人間の頭くらいなら簡単に咥えられそうなほど大きな嘴と、ぞっとするほど鋭い猛禽の目だ。


「な、何だこいつ……!?」


 突如として現れた謎の巨大生物に、カインは本能的な恐怖を覚えて後ずさった。

 が、同じくその生物を前にしたグレイシィは、平然としている。それどころか怯えた様子のカインを見てきょとんとし、何をそんなに恐れているのか、という顔さえしている。


「カイン、ひょっとしてヒポグリフを見るのは初めてですか?」

「ひ、ヒポグリフ……!?」

「ええ。グリフォンと馬の合いの子ですよ。グリフォンみたいに凶暴じゃありませんし、人懐っこいので、この辺りじゃ普通に家畜として飼われてるんです。かわいいでしょう?」

「か、かわいいって、これが? どう見ても肉食だろ? そもそもグリフォンって何だよ……!」

「グリフォンも知らないんですか? まさか、それも記憶喪失のせいで……」

「やあ、グレイシィ。そっちにいるのは誰だい?」


 そのとき、俄然若い男の声が聞こえ、グレイシィがヒポグリフと呼んだ生物の背中から男が一人下りてくるのが見えた。

 年齢は、カインやグレイシィよりいくつか上だろうか。たった今カインが着ているのと同じようなチュニックを着て、背中には弓を背負っている。

 髪はカインよりもずっと短く、柔らかそうな蜂蜜色をしていた。頬にはそばかすが散らばり、カインを見つめたスカイブルーの瞳には、子供のような好奇心が見え隠れしている。


「こんにちは、ラッセ。彼はカイン、うちの客人です。カイン、こちらは村の猟師のラッセ。私の幼馴染みでもあります」

「ど、どうも……」

「カインか、よろしくな。しかし、こんな辺鄙な村に客人とは珍しい。村長に用があって来たのか?」

「あー、えっと……」

「そんなところです。それよりラッセ、また狩りに行っていたんですか?」


 カインが返答に困っていると、それを察したらしいグレイシィが、さりげなく助け船を出してくれた。

 実は自分には記憶が無く、グレイシィに助けられて彼女の家に居候している。そんなことを軽々しく口に出していいものかどうか迷っていたカインは、グレイシィの機転に胸中で感謝する。


「ああ、そうだよ。だけど今日は、何だか森が騒がしくてな。あちこち獲物を探し回ったんだが、結局角兎(ジャッカロープ)二匹しか獲れなかった」

「森が騒がしかった? どんな風に?」

「うーん、何て言ったらいいのか……例えるなら、まるで森全体が何かに怯えてるみたいだった。動物の姿もほとんど見当たらなかったし、いつもより北まで飛んでみようと思ったら、こいつまで言うことを聞かなくなってな。それで仕方なく戻ってきたんだよ。もしかしたら森に、何かやばい魔物でも入り込んだのかもしれない」


 言いながら、ラッセは少し困ったような顔で、隣にいるヒポグリフの頭に手をやった。ラッセの言う〝こいつ〟とは、どうやらそのヒポグリフのことらしい。


「それは困りましたね。私達、これから森へ行こうと思っていたのに……」

「そうなのか? なら、今日はやめといた方がいい。もし魔物に襲われたりしたら大変だからな。まあ、よっぽど凶暴な魔物でもない限り、お前なら心配無用だろうが」

「え?」


 と、ときにラッセが意味深な言葉を吐いたので、カインは思わず隣のグレイシィを振り向いた。

 一方のグレイシィは、ラッセの発言にぴくりと肩を震わせ固まっている。ラッセもそんなグレイシィの反応に気が付いたのか、急に口元をにやつかせ、どこか白々しい素振りで言う。


「あれ? 何だ、その様子じゃ客人にはまだ話してないのか。そうだよな、あのことをバラしたりしたら、また村長にこっぴどく怒られるもんな」

「〝あのこと〟って?」

「あ、あー! そ、そんなことよりカイン、あなたにはぜひ紹介したい方がいるんです! ここからだと少し歩かないといけないので早く行きましょう! ね!」

「お、おい、グレイシィ?」


 言うが早いか、グレイシィはいきなりカインの手を掴むと、逃げるような足取りでその場を離れた。カインはそんなグレイシィに引っ張られるがまま、慌てて彼女についていく。

 そうしてラッセの視界から外れる所まで駆けてくると、グレイシィはようやく足を止め、深い深いため息をついた。その横顔は憮然としていて、心なしか口を尖らせているようにも見える。


「もう、ラッセったら。いつも余計なことばっかり言うんだから……」

「あ、あのさ、グレイシィ……」

「あっ、その、さっきのは気にしないで下さいね! あれはラッセがふざけて適当なことを言っていただけで……」

「あ、ああ、それはいいんだけどさ……手」

「え?」

「手、そろそろ放してもらってもいいか?」

「……あっ! ご、ごめんなさい……!」


 いつの間にか自分がカインの手を握っていたことに気が付くと、グレイシィは弾かれたようにその手を放した。

 途端にグレイシィの頬は紅潮し、突然同じ年頃の少女に手を握られて気まずかったカインも、それを見てますます居心地が悪くなる。


「わ、私としたことが、無意識に男性の手を握ってしまうだなんて……は、はしたないですね。すみません」

「い、いや、気にするなよ。それより、俺に紹介したい人って?」

「え?」

「さっき言ってたろ? 俺にぜひ紹介したい人がいるって」

「あ、そ、そっか……そんなこと言ったかもしれませんね。えっと、そ、それじゃあ行きましょう。ついてきて下さい」


 まだどこかぎこちない口調で言うとグレイシィは身を翻し、前に立って歩き始めた。が、その顔が未だに熱を持っていることは、後ろにいても耳が赤いことで分かる。


 ヘウリスコ村は、あちこちにぽつぽつと民家が建ち並ぶ小さな村だった。建物はどれもグレイシィの家と同じ丸太造りで、側を通る度に濃い木の匂いが鼻をくすぐってくる。

 北には森があると言うがここからは見えず、村は広大な平地の上に築かれているようだった。村の真ん中には小さな川が通っており、グレイシィはその上に掛けられたアーチ型の橋を渡っていく。


「あ、いたいた。ハングさん!」


 と、やがてグレイシィが声を上げたのは、橋を渡って少し歩いた先でのことだった。彼女が手を振った先には、とある民家の横で薪割りをしている壮年の男がいる。

 ハングと呼ばれたその男はグレイシィの声に気が付くと、汗を拭いながらこちらを振り向いてきた。袖の無いチュニックから覗いた両腕は逞しい筋肉で覆われ、天に向かって立った黒い髪と分厚い唇の線が、そこはかとなく頑固そうな印象を見る者に与えてくる。


「おう、グレイシィか。そっちのは、この間拾ってきた若造だな」

「はい。カイン、こちらは樵のハングさん。二日前、森で見つけたあなたを村まで運んで下さったのが、このハングさんなんです」


 男の素性を聞いて、カインはようやくグレイシィが彼を紹介したいと言っていた理由を理解した。思えば自分より一回りほど体の小さいグレイシィが、森から一人でその身柄を運んできたと考えるのは無理がある。


 聞けばグレイシィは二日前、森で倒れていたカインを見つけると、たまたま同じ森へ木を切りに来ていたハングと出会い、彼にカインを運んでくれるよう頼んだのだという。

 あそこでもしハングと出会わなければ、自分は自力でカインを引きずっていかねばならなかったとグレイシィは言い、自分が擦り傷だらけにならずに済んだのはこの男のお陰か、とカインも納得する。


「どうも、その節はありがとうございました」

「いや。俺はグレイシィに頼まれただけだ。礼ならグレイシィに言え」

「もう、ハングさんったら。そんな言い方しかできないから、村のみんなに怖い人だと思われちゃうんですよ」

「そう思いたいなら、好きに思わせておけばいい。しかしお前、名前がカインとは奇遇だな。昔グレイシィが飼ってた犬と同じ名前だ」

「あ、いや、これは……」


 愛想の無いハングの応対に戸惑いながら、カインはちらと隣のグレイシィへ目をやった。

 先程のラッセという青年には記憶喪失の事実を隠したが、今回はどうすればいいか。そういう意味の視線をグレイシィに送ると、彼女はちょっと肩を竦め、森へ行けないのなら仕方がないといった様子で口を開く。


「ハングさん。実は彼、私の家で目を覚ますまでの記憶がまったく無いんです。そのせいで自分の名前も分からないと言うので、記憶が戻るまでの間、一時的にカインと呼ぶことにしました」

「……何? 記憶が無いだと?」


 そのとき、カインはそう尋ねたハングの表情が、不意に強張ったような気がした。

 元々無表情だったので大きく変化したわけではないが、カインを見つめた鈍色の目が、急に険しくなったような気がする。


「おい、お前。そいつは本当なのか。本当に、目を覚ますまでの記憶が何も無いのか」

「は、はあ……グレイシィの家で気が付いた直後は、自分の名前どころか顔も思い出せませんでした。鏡を見ても、そこに映ってるのが自分だとは思えない始末で……」

「何てこった……まさか、こんなことが本当に有り得るとは……」


 カインが正直に自分の置かれた状況を説明すると、ハングはにわかに横を向き、低い声でぶつぶつと何かを呟き始めた。

 その様子がどうにも異様だったので、カインはまたしてもグレイシィへと視線を送る。どうやら彼女も思ったことは一緒のようで、困惑の乗った眼差しをカインへと返してくる。


「グレイシィ。村長は今、隣村にいるんだったな?」

「えっ? あ、は、はい、そうです。寄り合いが問題無く進んでいれば、あと二、三日で戻ってくると思いますけど……」

「それでは遅い。ならば、ラッセを使者にやるか……」


 自分で尋ねておきながら、ハングはほとんど上の空といった様子で、またしても何か呟いていた。ハングの声は元々低く、それを更に低めて呟いているので、カインにはその呟きの内容が聞き取れない。


 骨張ったハングの横顔が、不意に微かな狂気を帯びたように、カインには見えた。それが悪寒となってカインの背中を駆け上がったとき、薪割り用の斧を握ったままのハングが、鋭い視線をカインへと向けてくる。


「もう一度訊く。本当に、何も覚えていないんだな?」

「は、はい……そうです」

「……そうか。もういい。仕事の邪魔だ、行ってくれ」


 最後まで愛想の無い声でハングは言った。そのまま彼は薪割りの作業へと戻り、黙々と斧を振るい出す。

 背筋に不気味なものを感じながら、カインはグレイシィと顔を見合わせた。今は一秒でも早くここを離れたい。そう思い、行こう、とグレイシィを促し歩き出す。


 元来た道を引き返し始めたカインの背中に、ハングの視線が突き立った。


 あれほど晴れていた空に、少しずつ雲が出始めている。



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