真実を知るために
「立て、サクヤ! 逃げるぞ!」
ライの力強い腕に引かれ、何とか立ち上がった朔也は足を縺れさせながらも逃げ出した。
もはやグレイシィを気にかけている余裕など無い。怒り狂った緋雨の放つ黒い刃が、背後から次々と襲いかかってくる。朔也が避けたそれは石積みの建物を鮮やかに両断し、数瞬の後に崩壊させる。
「くそっ! 時間がねえってのに……!」
このままでは最悪、緋雨から逃げ回っているうちに現世へと強制送還されてしまう。それだけは勘弁してくれと心の中で叫びながら、朔也はライと肩を並べ、路地から路地へ駆け抜けた。
幸いなのは、そうして二人が逃げ込んだ先が、迷路のように入り組んだ居住区だったということだ。大きな通りを逸れ、狭い路地ばかりが複雑に交差するその一角へ駆け込んだ朔也とライは、何とか緋雨の追跡を振り切り、一時的に物陰へと身を隠す。
「ちくしょう。あと少しだってのに、何でこうなるんだよ……」
二人が身を潜めたのは、とある民家の脇に設けられた階段の下だった。何か上空からの視線を遮るものが無いと、頭上を徘徊している緋雨にはすぐに見つかってしまう。
二人の隠れ家となった階段は、どうやら民家の屋上へと伸びているようだった。その上を、まさしく悪魔のような声で朔也を呼びながら、緋雨が通り過ぎていく。
「どうする? このままじゃとても儀式どころではないぞ」
微かに息を上げたライが、声を潜めながら言った。
対する朔也も乱れた呼吸を整える一方で、しばし苦い思案に沈む。
「……。ライ。お前、レオフォロスの役所からもらった矢、まだ持ってるよな?」
「ああ。だが残りは一本だけだ。これで奴を射るにしても、確実に仕留めないと……」
「よし。それならさっき、この家の向こうに少しだけ開けた場所が見えただろ? 俺がそこで悪魔の気を引く。お前はこの家の屋上に上がって、そこから奴を狙い撃ってくれ」
「君を囮にすると言うのか?」
「奴の狙いはそもそも俺だ。俺が出ていけば奴は完全に釘付けになる。それを利用しない手はねーだろ。ただ、俺もそこまで長時間逃げ切れる自信はねえ。やるなら迅速に、確実に仕留めてくれよ」
お前の弓の腕だけが頼りだ。そう言って朔也は笑ってみせたが、上手く笑えたかどうかは分からなかった。
そんな朔也を見て、ライがわずかに目を伏せる。やはり笑えていなかったのだろうか。朔也がそう思って自らの頬に触れたとき、不意に顔を上げたライが、迷いに揺れた眼差しで朔也をじっと見つめてくる。
「サクヤ……」
「何だ?」
「君を、信じてもいいんだな?」
ドクン、と朔也の心臓が鳴った。それが緋雨との対決に対する問いでないことは、すぐに分かった。
朔也はただ、頷くしかない。そのとき自分がどんな表情を浮かべていたのか、まるで見当もつかなかった。
だが、それを見たライは迷いを断ち切るように弓を手に取ると、そろそろと階段の下を出ていく。朔也もそれに続いて路地へと這い出し、ライが慎重に階段を上がっていくのを横目に見ながら走り出す。
大丈夫だ。緊張に震える自身の胸に、朔也はそう言い聞かせた。
どうせライが朔也に疑いを持ったところで、そんなものは儀式が終われば関係無くなる。現世へ戻れば、ライはこちらの世界での記憶を失うのだ。
その後は〝ライラルティア〟としての記憶を呼び覚まさぬよう注意しながら、〝美世〟としての記憶を刷り込んでいけばいいだけの話だった。
あるいはその過程で、ライは本当に美世の記憶を取り戻すかもしれない。そうなれば自分達はまた、現世でのあの満ち足りた暮らしをも取り戻すことができる。
「――緋雨、出てこい! 俺はここだ!」
やがて目的地へと辿り着いた朔也は、明け方の空へ向かって勇ましく吼えた。
側に立つ民家の屋上に、俯せて身を隠したライの姿をはっきりと認める。緋雨はこんなときに限って、あらぬ方角へ朔也を探しに行ってしまったようだ。
が、朔也は焦らず、じっと緋雨が来るのを待った。そこはいくつかの路地が交差した場所で、広場と呼べるほどの広さも無いが家を建てるにはいささか狭い、といった空間が手持ち無沙汰に広がっている。
ここならば儀式を行うのにもちょうどいいかもしれない。緋雨が現れるのを待ちながら朔也がそんなことを考えたとき、不意に背後から近づいてくる足音が聞こえた。
緋雨か、と一瞬身構えたが、よくよく考えれば空を飛ぶ緋雨が足音を立てるというのはおかしい。そこで朔也が目を凝らせば、とある路地の物陰から、見慣れた灰被り薔薇の色が飛び出してくる。
「グレイシィ……」
拍子抜けしたような、それでいて苦々しい響きを孕んだ声で、朔也は現れた少女の名を呼んだ。
グレイシィはそこに朔也の姿を見つけると、真っ直ぐにこちらを向いて歩み寄ってくる。彼女も全速力で駆けてきたのか、多少息は乱れていたが、その表情に揺るぎは無い。
「朔也……ライはどこ?」
「何回も言わせるな。てめえには関係ねえよ」
「関係無くはないの。ねえ、朔也。お願い。ライに本当のことを話して。それはライのためでもあるし、何よりあなたのためでもあるの。あんな恐ろしい嘘をいつまでも貫き続けても、あなたが不幸になるだけよ」
「何の話だ。〝恐ろしい嘘〟をつきまくってんのはてめえだろ。そんなに俺のことが気に食わねえのかよ。それともライが憎いのか? あ?」
「朔也、聞いて。あなたに言わなきゃならないことがあるの。あなたは完全に誤解してる。あなたが探してる〝藤崎美世〟は――」
――頭上。悪魔の影が、はっきりと朔也の上に落ちた。
緋雨。いる。自分の真上だ。早く射て。屋上にいるはずのライに念じる。
しかし、なかなか矢が来ない。何やってるんだ。恐怖と緊張で全身が固まる。
射てよ、早く。
早く、早く、早く、
「ドうしタノ、おニイちゃン? モうニげなイの?」
「……っ!」
「つまンなイなぁ。モうすコシ、おニイちゃンとオニごっコ――シたかっタのにナァ!」
狂気に満ちた笑みと共に、緋雨が黒い刃を放った。
至近距離だ。避けられない。目の前が真っ暗になる。
衝撃。血の臭い。何かが噴き出す音。衝撃。仰向けに倒れた。生温かい。緋雨の高笑いが聞こえる。聞こえる。はっきりと聞こえる。生きている。意識もある。しかし、無い。
痛みが、無い。
「――ぐ……」
目を開けて、目を疑った。倒れた朔也の上に、グレイシィが覆い被さっていた。
その右肩から先が無い。朔也の視界が真っ赤に染まる。
助けられた。その瞬間、すべてを悟った。名を呼ぼうとしたが、声にならない。何故だ。全身が打ち震える。
何故、自分を助けたのだ。
「アハハハハハハ!! アーあ、カワいソうだネ、おニイちゃン。おニイちゃンはマた〝ダイじナひト〟ヲうシナうンだネ。でモ、ダイじょウぶダよ。イまスぐヒサメがラくにシてアげルからサァ!!」
裂けるような笑みを浮かべ、空中で頭を下にした緋雨が、地上へ向けて急降下した。
彼女が右手を振り翳した先には、言わずもがな朔也がいる。目が合った。動けない朔也の頭を目がけ、漆黒の爪を振り下ろす。
銀色の矢が、緋雨の薄い胸を貫いた。
朔也の瞳に爪が刺さる寸前で、ぴたりと緋雨の動きが止まる。そうして彼女が見やった胸から、銀の鏃が突き出している。
ウ、と、緋雨の口から低い呻きが漏れた。直後、彼女は頭を抱えて背を仰け反らせ、大地が震えるほどの絶叫を上げる。
緋雨の胸から覗いた銀の鏃が、放射状の光を放った。その光が触れた箇所から緋雨の体がぼろぼろと崩れ、まるで脆くなった土塊のように瓦解していく。
崩れ去った緋雨の体は、地に落ちる前に塵となってやがて消えた。緋雨の絶叫が去った朝の街には、再び静寂が還ってくる。
「グ……レイ、シィ」
ようやくグレイシィの名が呼べた。しかし彼女からの返事は無かった。グレイシィの右半身から溢れ出た血が、彼女と朔也の服を真っ赤に染めながら石畳に広がっていく。
あなたが探してる〝藤崎美世〟は。あのとき、グレイシィは何を言いかけたのだろうか。何故美世のフルネームを知っていたのだろうか。
その答えは、もう聞けないのだと悟った。一つだけ、頭をもたげた推測がある。しかし朔也はそれを深く考えぬよう、瞬時に心に蓋をして、胸の底へと沈めてしまう。
「サクヤ!」
ライの呼び声がした。その頃になって、街がようやく目覚め始めた。
先程までの騒ぎを聞き付けた人々が家の窓や路地から顔を覗かせ、通りの惨状に思い思いの悲鳴を上げる。その悲鳴の間を縫って駆け寄ってきたライもまた、血の海に沈んだ二人を見やり、茫然と立ち尽くす。
「そん、な……グレイシィ……」
「……」
「すまない……すまない、サクヤ。私は君を疑った。もしもグレイシィの言葉の方が正しかったらと、矢を射るのを躊躇ってしまった。私のせいだ。私のせいだ……!」
「……いいんだよ、もう。そんなことより、儀式を始めよう」
虚ろな声で言い、朔也はグレイシィの下から抜け出して立ち上がった。石畳についた左手が血で滑る。
朔也の左半身は、既に真っ赤になっていた。そんな朔也の姿を、ライがいささか戸惑ったように見つめてくる。
「儀式? 何を言っているんだ。そんなことより、今はグレイシィを……」
「時間がねーんだよ。今やらなきゃ……確かめなきゃ……そんなはずねーんだ。そんなはず……」
譫言のように言い、朔也はボディバッグから魔法陣のメモを取り出した。それを見ながら路傍に転がっていたグレイシィの右腕を拾い、その断面から滴る血で地面に円を描いていく。
まるで何かに憑かれたようなその行動に、皆が唖然と立ち尽くしていた。
誰もが目の前のおぞましい光景に慄き、凍りついたように動かない。再び訪れた静寂の真ん中で、朔也は淡々と魔法陣を描き上げていく。
そんなはずはない。そんなはずは。何度も浮上しようとする答えを沈めて、朔也は繰り返しそう呟いた。
俺は帰るんだ。美世と二人で。そしてあの日常を取り戻す。何の変哲も屈託も無い、とびきり幸福なあの日常を。
魔法陣は、三十分ほどをかけてようやく完成した。空が明るくなっている。
朔也はその真ん中の円の中に立ち、ライを呼んだ。茫然自失していたライは名を呼ばれるとびくりと震え、明らかに怯えの混じった眼差しを向けてくる。
それでも朔也は、ライの名を呼び続けた。ライが隣にやってくるまで、ひたすらに呼び続けた。
青い顔をしたライが、朔也の隣に立つ。その手を握り、もう片方の手で短剣を抜いた。
〝向こう側〟へ渡るためには、この魔法陣に自らの血を垂らすのだ。そう言って繋いだ二人の手を、それぞれに切りつける。
両者の手を伝った血が終着点で混ざり合い、雫となって地面に落ちた。
途端に赤い魔法陣が、淡い光を放ち出す。光は徐々に力を増し、あたかも白い壁のように空へ向かって伸びていく。
「行くぞ」
その壁の麓にある自分と美世の名前を見つめ、朔也は低く、短く言った。
ライの手を引き、もう一歩前へと踏み出す。魔法陣の中心はそこだ。
光が、




