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目撃

 グレイシィは、目を疑った。


 数瞬、まるで時間の流れが鈍化したかのように、すべての光景が緩やかに流れていく。


 ぐしゃりと鈍い音が聞こえた。次いで響いた女の悲鳴と嘶きが、グレイシィの頬を叩いた。

 世界の時が加速する。正気に戻ったグレイシィは、しかし茫然と立ち尽くす。


「アベル!」


 一人の青年が、路上に横たわる少年の名を呼び駆け寄っていくのが見えた。人が飛び出してきたことに驚き、暴れそうになった馬を何とか鎮めた若い馭者も、蒼白な顔で馬車を下りてくる。

 医者を呼べ、と誰かが叫んだのが聞こえた。不幸な事故を目撃した人々は祭の前の高揚も忘れ、恐慌に陥りかけていた。

 青年が何度も名を呼びながら、抱き上げた少年の体を揺すっている。その腕の中でぐったりとした少年は頭から血を流し、ぴくりとも動かない。


「アベル!!」


 別の呼び声が聞こえた。あまりにも凄惨な事故現場に騒然とする人々を押し退け、飛び出していく背の高い女が見えた。

 女は血相を変えて少年を腕に掻き抱き、悲痛な声で名前を呼ぶ。されどやはり反応は無い。


 白い石畳が赤く染まっていた。

 嘘だ、と腹の底から絶叫する女の声が聞こえてくる。


「嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だ!! どうして……どうしてこんな……!!」

「悪い、ライ……俺が目を離したせいだ。俺がちょっと余所見をした隙に、アベルが路上に飛び出したんだ。たぶん、向こうでやってた曲芸に気を取られたんだと思う。そこに馬車が突っ込んできて……」


 嘘だ。零したのは女ではなく、立ち尽くしたままのグレイシィだった。


 グレイシィは、確かに見たのだ。〝見てしまった〟と言った方が正しい。

 あの青年が少年を――朔也がアベルを路上へ突き飛ばした瞬間を。


 だが信じられない。信じたくない。あの朔也が、そんな真似をするはずがない。

 震え始めたグレイシィの視線の先で、再び人垣が割れた。医者らしい初老の男が駆けつける。

 男はライに抱かれたアベルの傍に膝をつき、脈を取り始めた。先生、と縋るようにライが呼ぶ。数秒の沈黙の後、男はアベルから手を離し、目を伏せて首を振る。


 泣き叫ぶライの声が、獣の咆吼のように木霊した。その咆吼に打たれた街が静まり返る。

 アベルの亡骸に縋り、慟哭するライの肩を、朔也がそっと抱くのが見えた。途端にグレイシィの全身を、ぞくりと悪寒が駆け抜けていく。


 怒声が聞こえた。槍を手にした数人の衛兵が、人混みを掻き分けてくるのが見えた。事故の知らせを受け、役所から駆けつけたようだ。被害者が既に息を引き取ったことを知ると、運んできた戸板に遺体を乗せ、粛々とどこかへ持ち去っていく。

 事故の経緯を聞くためだろう。アベルを轢いた馬車の馭者と乗客、そして朔也とライが、衛兵に連れられアベルの遺体に続くのが見えた。


 追わなくては。とっさにそう思ったが、体がまるで動かない。


 遺体が持ち運ばれ、事故の当事者も現場からいなくなってしまうと、通りにはまた人々のざわめきが戻ってきた。

 その中に残った数人の衛兵が、再び怒声を上げて野次馬を追い散らしている。事故に遭い破損した馬車を、衛兵達が慎重に押していく。


 ほどなく現れた別の衛兵が、水に浸したモップで石畳を拭い始めた。辺り一面に飛び散っていた赤黒い色が消えてゆく。

 それらの情景を、グレイシィはただ茫然と眺めていることしかできなかった。すべての作業が終わり、衛兵達が去った後も、グレイシィはそこから動かなかった。


 動けなかった。



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