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カインとアベル

 それから三人は、まるで親子のような体で宿を出た。幼いアベルを真ん中に置き、右手にライ、左手に朔也がつく。

 やはりアベルは、明日から開催されるという祭に多大な興味を抱いているようだった。旅の行程は元より、路銀にもあまり余裕が無いことを知って我慢していたようだが、露店商や観光客で賑わう通りへ出るなり、その表情は隠しようもなく弾んだものになる。


 祭の集客を当て込んで各地から集まった商人達は、実に様々な品を通りに並べていた。それは食べ物から装飾品、手回り品など多岐に渡り、中には他の大陸から取り寄せたという舶来品や、掘り出し物と銘打たれた怪しい骨董品まで揃っている。


「ライ姉、ライ姉、あれ食べたい!」


 と、アベルが頻りにせがんだのは、とある小さな屋台で売られている菓子だった。どんなものかと思って見てみると、驚いたことに綿菓子である。

 日本でも祭などでよく見かける馴染み深い菓子が売られていることに、朔也は感心を禁じ得なかった。が、どうやら綿菓子はこちらでは相当に珍しいものらしく、屋台の前には老若男女を問わず長蛇の列ができている。


「驚いたな……あれは本当に食べ物なのか?」

「ああ、綿飴だろ? 俺の国でも祭になるとよく売ってたよ」

「わたあめ? あれは飴なのか? とてもそうは見えないが……」

「食ってみりゃ分かる。甘くて、口に入れるとすぐ溶けるんだ」

「すごい! ねえ、ライ姉、一本だけ! いいでしょう?」


 ここまで度々物欲しそうな顔こそすれど、決して〝欲しい〟とは言わなかったアベルが、綿菓子にだけは異様なほどの興味を示していた。見たこともないふわふわの菓子を口に運んで感嘆の声を上げている人々の姿が、幼いアベルの目にはひどく羨ましく映ったらしい。

 しかしライは、アベルにねだられて屋台の方を見るなり、少しだけ困ったような顔をした。アベルに得体の知れない物体を食べさせることを躊躇しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。


 朔也がそれに気が付いたのは、少し離れた所で盛大な泣き声が上がったときだった。見ればアベルと同じ年頃と思しい少女が、嫌だ嫌だと首を振りながら泣き喚き、母親らしい女をすっかり困らせている。

 女は弱り果てた様子で娘の前に膝をつくと、何度も謝罪の言葉を口にしていた。――ごめんね。だけどあんなに高いお菓子は買えないの。そんな言葉が聞こえてくる。駄々をこねた少女がそれでも指差しているのは、綿菓子を売る屋台だ。それを見た朔也はなるほど、と呟き、ライが困り顔をしている理由を悟る。


 それもそのはずだ。綿菓子がそれほど珍しい食べ物であるのなら、当然その価値も跳ね上がるに決まっている。日本でさえ祭の屋台に並ぶ綿菓子は五百円もすることがあるのだ。綿菓子を作る技術からして貴重なこちらの世界では、それが何倍の値段になるのか想像もつかない。


「すまない、アベル。買ってやりたいのは山々だが、あの菓子は――」

「――いや、大丈夫だ、ライ。ちょっと待ってろ」


 言うが早いか朔也は身を翻し、驚いている二人を置いて元来た道を引き返した。

 通りを行き交う人波に揉まれながら、忙しなく左右に並ぶ露店を確認する。確か途中で、いくつかの美術品を扱っている店を見かけたはずだ。

 ――あった。高級そうな紺染めの布を被せた台の上に、精巧な彫像や絵画を並べた露店商がいる。ここがいい。


「なあ、あんた。珍しい品があるんだが、買い取ってもらえねーかな」


 店の前に立つなり朔也がそう声をかけると、商人は露骨に不審そうな顔をした。無理も無い。

 年齢からしても身なりからしても、朔也はとても美術品を扱うような人間には見えないはずだった。事実、そのとおりである。が、朔也はそんな気後れなどおくびにも出さず、腰のボディバッグに手を突っ込んで、自らの財布を取り出しながら言う。


「これ、ここよりずっと東の国で手に入れたもんなんだけど、光に翳すと真ん中に絵が浮かび上がってくるんだ。こういうの、この辺りじゃあんまり見ないんじゃねーかと思って」


 そう言って朔也が差し出したのは何の変哲も無い、ただの千円札だった。しかし朔也は知っている。この国にはそもそも紙幣というものが存在しないのだ。

 オロス帝国の貨幣はすべて金、銀、銅などの硬貨であり、朔也も記憶を失っていた頃は、財布の中の紙幣をただの紙切れだと思っていた。ただそれを見たグレイシィが、すごい肖像画ですね、と頻りに感心していたのを思い出したのだ。


 初めは胡散臭そうにその紙幣を受け取った美術商も、実物を見るなり目の色を変えた。もっとも彼は、透かしの技術は元より、恐ろしく細かい線によって描かれた絵柄や肖像画に度胆を抜かれたようだ。


「いくらなら売ってくれる」


 と、商人は千円札を持つ手を震わせながら尋ねてきた。それほどの美術的価値を、この商人は日本の千円札に見出だしたらしい。

 が、そう言われてみれば朔也は、この世界の物価というものをいまいちよく把握していなかった。とりあえず、グレイシィがレオフォロスで売った馬は銀貨十枚になったと聞いたような気がしたのでその額を提示すると、商人は目を剥いて驚愕を露わにする。


「ぎ、ぎ、銀貨十枚? たったそれだけでいいのか?」

「少ないのか? それじゃあ……」

「い、いや! あんたが十枚でいいって言うなら十枚で売るよ! その代わり、ここにある品ならどれでも一つ、タダで持っていってくれていい」

「いや、いらねーよ。だったらこれをもう一枚やるから、銀貨二十枚と交換してくれ」


 言いながら朔也がもう一枚千円札を渡すと、商人は跳び上がって喜んだ。相好を崩し、少しも惜しむ素振りを見せずに銀貨を入れた袋を差し出してくる。

 その中身がきっちり二十枚あるのを確認し、朔也は商人と別れた。正直、得をしたのか損をしたのかはよく分からない。

 だが日本で考えれば、たった二千円で馬を二頭も買えるわけがないので、きっと得をしたのだろう。そう思うことにする。


「お待たせ」


 かくして金を手に入れた朔也は、屋台の前で待っていたライ達と合流し、銀貨の詰まった袋を渡した。中身を見たライは驚きで言葉を失っていたが、朔也は笑って二人を屋台の列に並ばせる。

 一体どうやってこれほどの金を手に入れたのだ、と戸惑うライに、朔也は半ばきょとんとしてそんな大金なのかと尋ねた。ライが言うには、ごく一般的な家族が二ヶ月は生活できる額だと言う。

 それが多いのか少ないのか朔也にはやはり判断がつかなかったが、綿菓子一本が銀貨一枚と聞いたとき、それが法外な値段だということだけは分かった。宿屋で三泊は泊まれる額だ。もっともそれは朔也達が泊まっている宿ならの話だが、しがない旅人がおいそれと支払える額でないことだけは確かだろう。


「やったあ、やったあ! ありがとう、ライ姉!」

「礼なら私じゃなく、サクヤに言いなさい。サクヤがお前のために大事な持ち物を売って買ってくれたものなのだから」

「いや、別にそんな大したもんを売ったわけじゃねーよ。俺の国の金をこの国の金に替えただけだ、気にすんな」


 長い列に並び、ようやく念願の綿菓子を手にすると、アベルは声を上げて喜んだ。それを微笑ましげに見守る一方で、ライは朔也に申し訳なさそうな顔を向けたが、そんな顔をされるとかえって居心地が悪くなる。

 対応に困った朔也がそっぽを向いていると、ときにアベルが、手元の綿菓子と朔也とを見比べた。そうしてしばらくもじもじとしてから、不意に朔也の足元へ走り寄り、精一杯の背伸びをして朔也に綿菓子を差し出してくる。


「な、何だ?」

「ひとくちめは、サクヤにあげる。サクヤが買ってくれたものだから」

「いらねーよ。俺、前にも食ったことあるし」

「でも……」

「変な気遣うな。ガキはガキらしく、大人に甘えときゃいいんだよ」

「うん……ありがとう、サクヤ」


 ぞんざいに返したつもりだったが、礼を言ったアベルは満面の笑みだった。朔也はますます居心地が悪くなり、意味も無く頭を掻いて誤魔化しておく。

 それから三人は、大通りの先にある中央広場へと向かった。立ったまま物を食べるのは行儀が悪い、とライがアベルを叱ったからだ。


 街の中心にある古王国の城は巨大な円の中にあり、城の敷地の外は憩いの広場になっていた。

 そこにも人は溢れていたが、幸い花壇の側に一つだけ空いているベンチがある。


「どうだ、アベル。うまいか?」

「うん! サクヤが言ってたとおりだよ。あまくてふわふわで、まるで雲を食べてるみたい!」


 赤い花が咲き乱れた花壇を背にして座り、綿菓子を口にしたアベルは大はしゃぎで声を弾ませた。アベルに食べてみろとせがまれたライも、わずかに千切ったそれを恐る恐るといった様子で口に運んでいたが、やがてその味に目を丸くして驚いている。


「甘い。これは、本当に飴だな」

「ああ。俺も詳しくは知らねーけど、確か砂糖を溶かしたやつをぐるぐる回すと綿みたいになるんだよ。それを棒にくっつけて集めるとこうなるらしい」

「すごいや、サクヤって物知りなんだね。こんなの、ぼくの生まれた国にはなかったよ。これってサクヤの国の食べものなの?」

「さあ……日本の食い物かどうかは知らねーな。発明したのは別の国かもしれねーし」

「ニホン? それがサクヤの国の名前? どこにあるの?」

「そうだな……たぶん、ここよりずっと東の方だな。海の向こうにある島国なんだ」

「この大陸の外ってこと? すごい! サクヤって、そんな遠くから旅してきたんだ!」


 ライと同じ若葉色の瞳を爛々と輝かせながら、アベルは日本の話や朔也の旅の話を聞きたがった。実際には旅らしい旅などしていないので話せることはごくわずかだが、朔也はぽつぽつと訊かれたことに答えていく。

 そんな二人の会話を聞きながら、ときにライが、ふっと静かな笑みを零した。かと思えば不意に立ち上がり、ぐるりと広場を見回して言う。


「サクヤ。私はこの辺りでグレイシィを見た者がいないか、少し聞き込みをしてくるよ。悪いがその間、弟のことを頼む」

「え? お、おい、ライ……」

「アベルがその菓子を食べ終わる頃には戻る。アベル、サクヤの傍を離れるなよ」

「うん、ライ姉」


 姉の言葉に健気に頷き、アベルはライを見送った。

 取り残された朔也はそんなライの背中をしばし唖然と見つめていたが、やがてため息混じりに言う。


「お前の姉ちゃんってさ、すげえタフだよな」

「え? 〝たふ〟って?」

「あー、〝タフ〟ってのはつまり、根性があるってことだ。これだけあちこち旅してるのに疲れた顔一つしねーし、武器を持つとめちゃくちゃ強えし」

「へへへ、そりゃそうだよ。ライ姉は昔から、兄弟の中で一番強かったもの」

「兄弟? お前、ライの他にも兄弟がいるのか?」

「うん。ぼく、本当は七人兄弟なんだ。ライ姉が一番上で、ぼくが一番下。だけどライ姉は、サム兄たちにはもう会えないって……」

「会えない? 何で?」

「ライ姉は、サム兄たちが戦いに行ってしまったからって言ってたけど……ぼく、知ってるんだ。サム兄たちは、ライ姉とぼくが屋敷から逃げ出した夜に死んじゃったんだって。ぜんぶ、ぜんぶ、ヘカトンのやつらが悪いんだよ……ぼくたちは悪いことなんて何もしてないのに。父上が大王さまをだましたってうそついて、大王さまを怒らせたんだ。あいつらがあんなうそをつかなければ、ライ姉はいまごろアンモスの将軍になってた。サム兄やモル兄だって……」


 次第に俯きがちになっていくアベルを見ながら、しかし朔也は困惑していた。

 アベルの口から漏れた唐突な話に頭がついていかない。ライにはアベルの他五人の兄弟がいたということは分かったが、そこに〝大王〟や〝将軍〟という言葉が飛び出してくるのは一体どういうことなのか。


「お、おい、アベル……お前の父親って、もしかして国の偉い人だったのか?」

「うん。父上はアンモスで一番の将軍だったんだ。それに母上は大王さまの妹で、次の大王にえらばれるのはきっと父上だって言われてた。ヘカトンのやつらはそれが気に入らなかったんだよ。お姫さまと結婚した自分たちの長を大王にしたかったから……」


 それはつまり、ライはアンモスの王族の娘であり、アベルもまたそれに連なる者だということではないのか。混乱した思考がやっとのことでその答えに辿り着いたとき、朔也は図らずも気が遠くなった。


 今のアベルの話を要約するならば、ライとその一族は祖国での権力争いに敗れ、故郷を追われたということだろう。その過程でライとアベル以外の家族は皆殺しにされ、生き残った二人は命辛々隣国へ亡命してきた。

 ライが抜きん出た武術の才に恵まれているのも、将軍の娘として育てられたからだ。他にもアベルの話を聞いて納得のいったことがいくつもある。


 しかしまさか、ライやアベルがそこまで高貴な家柄の出身であったとは夢にも思わず、朔也はしばし茫然とした。あの美世が一国の王侯貴族に転生していたのかと思うと、あまりのギャップに眩暈がする。


 美世は確かに気が強く男勝りな部分もあったが、その本質は庶民的で都会の喧騒や争い事を嫌う女だった。

 そんな美世が、何故波瀾に満ちた王族の娘などに生まれ変わったのだろうと思うと朔也は首を傾げたくなったが、神が実在すると言うのなら、こういうことを〝神の気まぐれ〟と言うのだろうか。


(まあ、そんなこと、向こうに連れ帰っちまえば全部関係無くなるんだけどな)


 そう思いながら、朔也はちらと隣で綿菓子を頬張るアベルに一瞥をくれた。失った家族の話をしたためか、アベルの表情は翳り、先程までの元気も萎れてしまったように見える。


 だが彼もじきに、そんなことなど何も気にならなくなるだろう、と、朔也は視線を目の前の広場へ戻した。

 二人が座るベンチの正面には、今も賑わう街の目抜き通りが見える。そこでは市民だけでなく、遠方からの客を運ぶ馬車もひっきりなしに行き来していた。

 朔也はしばしそんな通りの景色を眺めた後、頃合いを見計らってアベルに声をかける。


「よう、アベル。食い終わったか?」

「うん。おいしかったよ、サクヤ。でも、手がべたべたになっちゃった」

「なら、どっかで洗ってくるか。さっきあっちの方に井戸があったぞ。確かあの横道を入ったとこだ。ライはまだ来ねーみたいだし、今のうちに行ってこようぜ」


 朔也が誘うと、アベルは何の疑いも無く頷いて立ち上がった。朔也はそのアベルを連れ、直前に示した大通りの横道へと歩いていく。

 気分は不思議と落ち着いていた。百メートルほど先からこちらへ向かってくる馬車を、冷静に見つめることができた。

 先程朔也が宿で見かけたのと同じ二頭立て馬車だ。唯一違うのは、乗車席が箱型ではないことだろうか。黒塗りの大きなソリに車輪を取り付けたような見た目で、並んで座った男女の上に、申し訳程度の覆いが付いている。


「お。おいアベル、あれ見てみろよ」

「え? どれ?」

「ジャグラーだ。さっきはいなかったから、これから芸でも始めるんじゃないか?」

「じゃぐらーって何? 曲芸みたいなもの?」

「ああ。色んなもんをお手玉みたいに投げたり取ったりするやつだよ。見てろ」


 言って、朔也は通りの向かいに見える人垣を指差した。その真ん中では、これぞ道化師といった仮装に身を包んだ一人の男が、色とりどりのボールを手に口上を述べている。

 ジャグラーが現れたのは、朔也にとって好都合だった。いなければいないで、もっと別の口実を考えるつもりでいた。

 だが幸運なことに、どうやらアベルはああいった曲芸を見るのは初めてのようだ。奇妙な姿の男を見た途端、好奇心を吸い寄せられたようにそちらへ見入っている。


 馬車の音が近づいてきた。神はきっと自分に味方してくれているのだと、このとき朔也は確信した。

 でなければ朔也が危険に満ちたこちらの世界でしぶとく生き延び、ここまで順調に事が運ぶことも無かっただろう。


「さあ、お立ち会いお立ち会い! それではこれより、お集まりの紳士淑女の皆様に、わたくしの華麗なる曲芸をご覧に入れましょう!」


 軽妙な口上が聞こえた。複数のボールが道化師の手を離れ、華やかな色が宙を舞う。

 瞳を輝かせたアベルが、魔法のような曲芸に思わず身を乗り出した。すぐそこに馬車が迫っている。


 瞬間、朔也は目の前の小さな背中を、とん、と軽く押しやった。


 甲高い馬の嘶きが、街中に響き渡った。

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