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悪魔のみぞ知る

 すべてが雨で煙っていた。

 耳を打つのは、猛烈に地面を叩く雨の音だけだ。分厚い雲に覆われた空は暗く、日は高いはずなのに夕刻と錯覚してしまいそうになる。


 その雨の中を、グレイシィは一人で黙々と歩いていた。どこかで雨が過ぎるのを待とうという考えは既に無い。

 全身ずぶ濡れになりながら、ある場所を目指してひたすらに歩き続けた。森を抜け、草原に出る。雨に打たれて俯いた草花が、無感情に進むグレイシィに踏まれ、泥の中へと沈んでいく。


 それは、再び姿を現していた。

 ああして姿を隠すこともできるのに、何故わざわざ人目につくような体をしているのか、その理由が今ならよく分かる。

 グレイシィは迷わず、目の前のドアに手を伸ばした。先刻悪魔ハヤトがドラゴンの襲来を避けるために逃げ込んだ、あのドアだった。


 軋みを上げて開いたドアの向こうには、見覚えのある光景が広がっている。闇に包まれた細い通路。その両脇の壁に並んだ燭台が次々と火を灯し、グレイシィを奥の扉へと誘うように明滅する。


 剣を抜いた。


「やあ。誰かと思ったら君か。さっきのドラゴンは、無事に撒いたみたいだね」


 奥の扉を潜ると、真っ先に聞こえたのは気が抜けるような暢気な声だった。


 声の主は言わずもがな、ハヤトだ。数日前グレイシィ達が目にしたのとまったく同じ円柱状の空間に浮遊したハヤトは、早速移り住んだ新居の真ん中で悠々と横になり、手にした本のページをぱらぱらと捲っている。

 何も無い空中にいるはずなのに横になって頬杖をつき、更に本まで置いているその様は、まるで見えない床がそこにあるかのようだった。

 が、グレイシィはそれに感心する素振りも無く、頭上のハヤトを見上げたまま剣をきつく握り締める。


「どうしたんだい、ずぶ濡れじゃないか。それに、怖い顔だ」

「……全部あんたのせいよ。あんたがカインをおかしくした」

「いきなり現れて何の話かな。僕もこう見えて暇じゃあないのだけれどね」

「やっぱりあんたは悪魔よ。あんたがカインに何かしたんでしょう? でなきゃあんなに優しかったカインが、突然あんな風になるわけないもの」

「君が言うその〝カイン〟というのは、もしかしなくても朔也のことかな。だとしたら僕がそんな中傷を浴びせられる謂れは無いね」


 言いながら一つため息をつき、ハヤトは物憂げに手元の本をぱたりと閉じた。

 そうして軽く眼鏡のブリッジを上げ、冷ややかな視線をグレイシィへと注いでくる。


「僕が彼に何かしたと言うのなら、〝記憶を取り戻す手伝いをした〟、ただそれだけさ。朔也はその記憶と共に本来の自分を取り戻したに過ぎない。偽りだったのは記憶を失っていた頃の彼の方で、その彼を返せと言うのは酷な話だよ。朔也はすべてを取り戻すことを望んでいたのだからね」

「だけど、あんなのはサクヤじゃない。あたしには分かるの。サクヤの記憶を呼び戻すとき、あんたが余計な術をかけた。だからおかしくなったんだ。そうに決まってる」

「妄信かい? それともそれは、魂の記憶から出てくる言葉なのかな」

「は? 魂?」

「いや、こっちの話だよ。何にせよ、今の君が怒りだけで僕に向かってきたところで、その剣一本じゃどうにもならないと思うけれどね」


 気怠そうに横たわった姿勢はそのままに、ハヤトはグレイシィが握り締めている剣を長い爪で指差した。その剣は彼女が村にいた頃から愛用しているもので、無論、銀の武器ではない。

 それを見透かしたように余裕の表情すら浮かべているハヤトを、グレイシィは忌々しげに睨み上げた。

 対するハヤトはその口元にうっすらと笑みを刻む。それはグレイシィを憐れんだようにも、嘲笑ったようにも見える笑みだ。


「そんなことよりさ、グレイシィ。君は地獄の存在を信じるかい?」

「……地獄?」

「そう。生前、あまりにも重い罪を犯した人間の魂が送られるという死後の世界さ。そこに閉じ込められた魂は生きている間に犯した罪の報いを受け、永遠の苦しみに晒されるという。針の筵に座らされたり、煮え滾った釜の中に突き落とされたり、凄まじい業火に身を焼かれたりね」

「もしそんな場所があるとしたら、それはあんた達みたいな邪悪な存在が行く所よ。人を惑わし、狂わせた罪の重さを死んで味わうといいわ」

「残念。どちらかと言うと僕達は、その罪人達によって生み出された、言わば〝被害者〟だからね。この世は悪魔でさえも死ねば転生が許される。だけどこの百年の研究で、僕はついに突き止めたんだ。地獄は確かに存在するということをね」


 どこか得意げな口振りで言うと、ときにハヤトがふわりと更なる高みへ上昇した。そうして堆く積まれた本棚の、最も高い位置まで飛び上がると、そこにある一冊の本を手に取って舞い降りてくる。


「ほら、ご覧よ。これは僕がヘリオから持ち込んだ『地獄大全』。ヘリオにおける様々な宗教の地獄を描き、解説した本なんだけど、これを見たときからずっと疑問に思ってたんだ。世界にはたくさんの宗教があって、その起こりはそれぞれ違うはずなのに、何故地獄という概念はどんな宗教にも存在しているのだろうって。その謎がようやく解けたんだよ」


 言いながらハヤトが見せつけてきたのは、本の中に白黒で描かれた絵画だった。そこでは裸の男達が魔物のようなものに追われ、恐怖と苦悶の表情を浮かべながら炎に焼かれている様が描かれている。

 グレイシィが思わずその本に手を伸ばそうとすると、ハヤトはそれを寸前でひょいと取り上げた。

 どうやら濡れた手で彼の〝コレクション〟に触れるのはご法度らしい。代わりにハヤトはぱらぱらと慣れた手つきで紙を捲り、先程示したのとは別の地獄が描かれたページを開くと、それを再びグレイシィの前に掲げてくる。


「どうだい、おぞましいだろう。だけどこれらはすべて、ヘリオの古い画家達が想像で描いた地獄の姿だ。本当の地獄はもっと恐ろしい。この僕でさえ身の毛がよだつほどにね」

「悪魔が恐れるほどおぞましいだなんて、よっぽどなのね」

「ああ、よっぽどさ。何せそこにあるものは――完全な〝無〟だ」


 言って、ハヤトは両手で挟み込むように分厚い『地獄大全』を閉じた。『地獄大全』はその表紙にまで薄暗い地獄の姿が描かれ、闇の中で炎に追われた人々が、血を流しながら逃げ惑っている。


「グレイシィ、君には想像できるかい? 見渡す限り何も無く、音も聞こえない。ただひたすらに闇ばかりが続く世界で、自分が一体何者であるのかも、何故そこにいるのかも分からないまま永遠に彷徨い続ける恐怖……生きた人間ならば間違いなく気が狂うだろうその空間こそが地獄なのさ。それは二つの世界の狭間、あの世とこの世のどちらにも属さぬ場所にある」

「そんな世界が……本当に存在するの? 罪を犯した人間の魂は、必ずそこへ送られるってこと?」

「人は多かれ少なかれ、生きている限り罪を犯す生き物だ。アレセイアの神もそれをお許しにならないほど無慈悲ではないよ。あの方は人の愚かさを誰よりもよく知っておられるからね。だけど、その神でさえ目を瞑ることができないほどの罪を重ねた者には、例外無く裁きが下る。たとえば前世の君を殺した――サイトウマサキとか、ね」

「え?」


 前世の自分。それは一体どういうことかと尋ねたグレイシィの視線に、ハヤトはただ微笑んだだけだった。

 その笑みはやけに優美であり、妖しくもある。赤く染まったハヤトの瞳に正面から見据えられると、グレイシィの意識がぐらりと揺れる。


 頭の奥――深い記憶の水底で、何かが淡く明滅していた。それは次第にはっきりと、そして大きな光となってグレイシィを呑み込もうとする。


 やめて。その光を呼んでいるのがハヤトだと悟り、グレイシィは掠れた声で訴えた。


 思わず後ずさった足が震える。それ以上体が動かない。


 両端を細く吊り上げたハヤトの口が、何かを唱えた。

 たった六文字のその言葉が、真実を恐れたグレイシィの意識を、光の中へと突き落とした。

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