苛立ち
オロス帝国西端の街、プルーリオン。
それが、目下朔也達が目指す土地の名だった。
否、もっと正確に言えば、目的地はその街の更に西にある。
――トイコス山脈。
ライの故郷であるアンモス汗国とオロス帝国の国境沿いに長く伸びる、広大な山岳地帯だ。
そのトイコス山脈をつい一月ほど前に越えてきたというライが言うには、トイコス山脈は巨大な岩山が連なる一帯であり、気候も環境もハヤトの隠れ家を築くにはちょうどいい場所なのではないかということだった。
と言うのもトイコス山脈には道と呼べるような道も無く、更に山頂付近には凶暴なドラゴン達が暮らしているという理由で、まったく人が寄り付かないと言うのだ。
「ドラゴンって、本当にそんなのまでいるのかよ……まるでゲームの世界だな」
と、最初にその話を聞いたとき、朔也はげんなりとしてぼやいたものだが、今は他に宛も無く、贅沢を言っている場合ではなかった。
何より朔也にとって、当座の問題はドラゴンの存在云々よりも如何にして一日も早く現世に帰り着くかであり、そのためにもまずはハヤトの件を早急に片づけてしまいたい。
緋雨に襲われたあの夜から、既に二日が経っていた。朔也達はプルーリオンにも立ち寄ったことがあるというライの先導で、レオフォロスから西へ伸びる街道を進んでいる。
見上げると太陽は既に中天を退き、徐々に朔也達の行く手へ落ち始めていた。ライの話では、急げば今日中にはプルーリオンに着けるということだったが、未だ前方にそれらしい街影は見えてこない。
「ねえ、ライ姉。ちょっと休もうよ。ぼく、疲れちゃった……」
その最たる原因は、幼いアベルにあった。初めの一日は元気についてきていたアベルも、さすがに急ぐ大人三人の歩幅に合わせて歩くのは大変らしく、昨日から度々休みたいと弱音を吐くようになったのだ。
ライもそんなアベルの体調を気にするようになり、一日目と比べると明らかに歩調を落としていた。加えてアベルが声を上げればその度に立ち止まり、適当な場所を見つけては休憩を挟む、の繰り返しになっている。
お陰で旅の行程は遅々として進まず、朔也の苛立ちは募るばかりだった。
旅が予定より遅れているというのはもちろんのこと、アベルがライに甘えてばかりいることにも腹が立つ。
美世の弟はお前じゃなく俺だ、と、怒鳴りつけてやりたくなることもしばしばだった。
が、そんなことをすれば、美世だった頃の記憶を持たないライは、少なからず朔也への心証を悪くするに違いない。
「大丈夫か、アベル? 顔色があまり良くないな……サクヤ、グレイシィ、すまない。また少しこの辺りで休憩しても構わないかな」
「あたしは別に構わないけど……」
と、ときにグレイシィが歯切れの悪い返答をしたのは、隣にいる朔也の気色を察したからだろう。ここまで来ると朔也もついに苛立ちを隠すことができなくなり、ライに抱え上げられたアベルを露骨に睨みつける。
「おい、ライ。お前、いくら何でも過保護すぎじゃねーのか? プルーリオンまではあと少しなんだ。アベルも一応男なんだし、ちょっとくらい我慢して歩かせればいいだろ」
「無茶を言わないでくれ。同じ道のりでも、大人と子供では体にかかる負担が違うんだ。それにアベルは、昔からあまり体が強くなくてな。無理をさせるわけにはいかない」
「けどこのままじゃ、今日中に街に着くのが難しくなるぞ。街からその山までは、更に丸一日歩かなきゃなんねーんだろ?」
「そうだが、何もそこまで急ぐ必要も無いだろう。ハヤトも特に〝いつまで〟とは言っていなかったし」
「ハヤトの方は良くても、あんまりのんびりしてたらレオフォロスの役人に怪しまれるだろ。谷で悪魔の巣を見つけるのに手間取ったって言うにしても限度があるぞ」
「そこは私が上手くやるさ。とにかく今は休もう。ちょうどあそこに木陰がある。少し休んだらまた頑張れるな、アベル?」
「うん……がんばるよ、ライ姉」
と、このときは答えたものの、アベルはその後熱を出し、朔也達は結局その日も野営をすることになった。
地方都市プルーリオンに到着したのは、翌日も日が高くなってからのことだ。プルーリオンとその周辺地域一帯は元々小さな王国であったらしく、城壁に囲まれた都市の中心にはその頃の名残である荘厳な城が残されている。
城は当時王族が暮らしていたもので、オロス帝国が街を制圧した後にいくらか解体されたと言うが、それでも王城としての気品と貫禄は失っていなかった。その城は現在領主の住居兼役所となっているらしく、ある一定の区画内ならば自由に見学することも許されているようだ。
「やれやれ……やっと着いたな。本当なら昨日のうちに到着するはずだったのに」
その城の姿を大通りの向こうに見ながら、しかし少しの感慨も無く、朔也はただ皮肉を言った。
そんな朔也に横目で冷ややかな視線を注がれたアベルは、怯えたようにライの後ろに隠れている。その行動が朔也を余計に苛立たせるとは知らず、何かあればライが庇ってくれると信じ切っているようだ。
「そ、それはそうと、すごい人出ね。プルーリオンは元々王国の都だったとは聞いてたけど、こんなにたくさん人がいるとは思わなかったわ」
と、ときにグレイシィが、朔也と彼の言葉にわずかな不快感を示したライを取りなすように、殊更明るい声を上げた。
するとそのとき、たまたま傍を通りがかった一人の男が、足を止めて四人に声をかけてくる。
「何だい君達、この街には来たばかりかね?」
「え? あ、はい。後ろの二人は前にもこの街に立ち寄ったことがあるらしいんですけど、彼とあたしは初めて来ました」
「そうかい、そうかい。それならいい時期に来たな。この街では五日後に祭があるんだ。古王国の神、ソーテリアー神に祈りと感謝を捧げる祭がな」
「祭?」
どうりで街に人が溢れているわけだ、と思いながら、朔也達は賑やかな通りにそれぞれの視線を巡らせた。声をかけてきた男の話では、祭は五日後から三日三晩続き、各地から多くの客が集まってくるという。
既に祭の準備は始まっていて、街の通りという通りには不思議な紋章が描かれた色とりどりの旗が飾られていた。太陽と月を重ねたような形のその紋章は、どうやら古王国の神を示すものらしい。
かつてこの街を都としていた王国は、王国の信仰を未来永劫許してくれるのなら従うという条件で、オロス帝国に降伏したのだと男は言った。朔也は正直、そんな歴史や信仰には何の浪漫も興味も感じなかったが、ライなどは頻りと感心した様子で頷いている。
「そうか。民の信仰を守り、屈辱を呑んで強敵に服した王国か……当時の王は、自らの矜持よりも民の安寧を選択できる聡明な王だったのだろうな」
「おい、そんなことよりまずは宿を取ろうぜ。アベルを休ませるんだろ?」
あまりにどうでもいい話題だったので、朔也は多少強引に話の流れを切り替えた。こんなときばかりアベルの名を使うのは、ライの行動原理の大部分が、たった一人の弟の存在に占められていることを知っているからだ。
朔也達は祭の歴史を聞かせてくれた男に宿の場所を聞き、街の大通りから幾許か外れた小さな宿に部屋を取った。大通りにもいくつか宿はあるようだが、今は祭のために各地から集まってきた旅客でそのほとんどが埋まっているらしい。
おまけに朔也達の手元にはあまり金が無く、派手な宿には泊まれなかった。
朔也達が選んだ宿は、レオフォロスでライとアベルが泊まっていたボロ宿よりほんの少しマシという程度の、古く寂れた安宿だ。
「出発は明日の朝。早朝に出れば、明後日の朝には目的地に到着できるだろう。それまでに各自、旅の準備を整えておいてくれ。最低でも二晩は野営することになる」
宿で四人分の部屋が取れると、ライは手短にそう言って、アベルと共に宛がわれた部屋へと引き取ってしまった。連日の朔也のふてぶてしい態度に腹を立てていたのかもしれないが、何より体調の悪いアベルを気遣ったようにも見える。
一方の朔也は、必然的にグレイシィと同室という扱いになった。今この宿は二人部屋しか空いていないと主人が言い、しかしその部屋をわざわざ三部屋も借りるには金銭的不安があったからだ。
そこで経費を抑えるために、借りるのは二部屋だけにしようという話になったのだが、途端にアベルがライと同室がいいと声を上げたため、その一声で部屋割りが決まってしまった。朔也もちょうど、同性だからという理由でアベルと同室にされるのだけは御免だと思っていたから、このときばかりはアベルの忌々しい言動にも寛容になれた。
とは言えグレイシィと二人きり、しかも密室で一夜を過ごすというのにも少々気まずいものがある。それは年頃の男女二人の色めいた空気を呼び起こすため、ではなく、朔也はそもそも森で緋雨に襲われたあの夜から、グレイシィとはまともに口を利いていなかった。
旅の途中、グレイシィがちらちらと朔也のことを気にしていたのは分かっている。と同時に彼女から避けられているような気もしたので、そっちがその気ならと朔也も極力関わらないことにした。
が、ライから朔也と相部屋をしてくれと言われた直後は、さすがのグレイシィも動揺したようだ。二人揃って部屋に入ると、やけにそわそわと落ち着かない様子を見せている。
「ね、ねえ、サクヤ。あたし、プルーリオンは初めてなんだけど、買い出しついでにちょっと街を見てこない?」
と、そのグレイシィが堪りかねたように声を上げたのは、二人が部屋に入って三十分ほどが経過したときのことだった。
その頃朔也はと言えば、既に寝台に横になり、片手でスマートフォンを操作している。――十月十七日、午前一時五十二分。アベルのせいで、貴重な時間を浪費した。接界のときは刻一刻と近づいている。
どうやって美世を現世に連れ帰るか。
一秒でも早く、その方法を考え出さなければならなかった。
必要なものは儀式を実行するための生け贄。
そしてそれを行うことをライに納得させるための理由だ。
「ちょっと、サクヤ。聞いてる?」
そのとき無反応のサクヤを見たグレイシィが、いささか苛立ったように問い重ねてきた。
が、彼女はすぐに、朔也が何かを無心に見つめていることに気が付いたらしい。そそくさと朔也のいる寝台まで歩み寄ってくると、横から――それも朔也の頬に髪が触れるほどの至近距離で――手元のスマホを覗き込んでくる。
「それ、何見てるの?」
「何だっていいだろ。お前には関係無い」
さわさわと頬を撫でるグレイシィの髪が煩わしく、朔也は彼女に背を向ける形で寝返りを打った。ゆえに、グレイシィが再び見せた悲愴に彩られた表情に、朔也は気付くことができなかった。
「悪ぃけど、街に行くなら一人で行ってきてくれ。ちょっと考え事をしたいんだ」
そう言いながら朔也が見つめているのは、スマホに元から備わっているカレンダーの画面だった。
それを見ながら今後の計画を練る、というのはもちろんだが、さすがの朔也も、慣れない野営と何日も歩き通しの旅が少しも身に堪えていないと言えば嘘になる。
そのせいで今は、体を起こすことさえ億劫に感じた。できることならすぐにでも風呂に入り、そのまま倒れて朝まで眠ってしまいたいところだ。
「……分かった。じゃあ行ってくる」
と、いつもより一段低い声色で言い、グレイシィは静かに部屋を出ていった。
それさえも朔也は気付かない。
グレイシィの声や彼女の立てる物音は、既にすべてが意識の外だ。




