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罅割れの音

 目の前にある焚き火の明かりの中で、朔也はじっとメモに目を落としていた。

 そこには朔也が〝あちらの世界〟で、ハヤトのサイトを眺めながら書き留めてきたいくつかのルールが記されている。



 ①あの世へ行くと記憶を失う。

 ②儀式を行ったとき身に付けていたものはすべてあの世に持っていける。

 ③あの世からこの世へ戻るときには、あの世へ行くときと同じ儀式をすれば良い。

 ④儀式に捧げる生け贄は人間でなければならない。

 ⑤生け贄に使った人間はあの世で悪魔になり、どこまでも追ってくる。



 それらはすべて、ハヤトのブログに書き込まれていた〝成功者〟のコメントから抜粋したものだった。

 ハヤトのサイトには、儀式の手順と必要な条件こそ記載されていたものの、記憶を失うことや生け贄が人間でなければならないこと、更にはその生け贄がこちらの世界で悪魔となり追ってくるなどということは一切記されていなかったのだ。


 だが今になってみて、朔也はすべての発端となった『アレセイア記』という古代の伝説が、何故世界から抹消されたのかを理解することができた。朔也がアレセイア記の存在を知るきっかけとなったあの掲示板には、〝世界に混沌を招くという理由で消し去られた〟とあったが、それも道理だ。

 生と死の境界を飛び越える儀式を行い、更にその儀式には生け贄を必要とする。そんなことが平然と行われ続ければ、ハヤトが言っていたように世界は歪み、儀式を繰り返す人間のために多くの犠牲者が出ていたことだろう。


(けど、それでも俺はやらなきゃならなかったんだ)


 これもすべては美世のためだ。そう思いながら朔也はもう一枚の、血まみれのメモにも目を落とした。

 そこに記された魔法陣こそが、朔也がこちらの世界へ来る際に使った魔法陣だ。円の内部に記された文字のほとんどはギリシャ文字だが、その中に一箇所だけ、朔也と美世の名が漢字で記されている部分がある。


 それがハヤトの言っていた〝パスワード〟というわけだった。魔法陣のメモが血まみれなのは、一度そのメモを見ながら緋雨の血で魔法陣を描いたからだ。

 あの後朔也は事前に廃墟の中へ運び込んでいた水を使って血を洗い流し、緋雨の血にまみれた衣服も着替えてこちらへ来た。殺人の証拠となりそうなものはすべて燃やし、燃やせなかったものも廃墟のあちこちに転がった多種多様なゴミの中に紛れさせてある。


 計画は完璧であり、そして順調だった。

 あとは残りの問題を片付け、早々に現世へ戻るだけだ。改めてそう心に誓い、持ち物の中にあった美世の写真へ手を伸ばした。


 『藤崎美世 二十四歳』。


 写真の裏には、朔也の字で確かにそう記されている。


「――カイン、ごはんできたよ」


 と、ときに聞こえたグレイシィの声が、朔也を現実へと引き戻した。が、そうしてふと目を向けた先には、思わず眉を顰めたくなるようなおぞましい光景が待っている。

 火にかけられた小さな鍋の中で、ぐつぐつと煮える黒い液体。それを木の匙で念入りに攪拌するグレイシィの姿が、今はさながら怪しい魔女のように見えた。無論、本人に悪意は微塵も無い。


「あ、ご、ごめん。またカインって呼んじゃった」


 そのとき朔也が浮かべた渋面の意味を誤解したらしく、グレイシィが慌てて謝ってきた。

 問題はそこではない、と言いたかったが鼻を突く刺激臭にそれすら億劫になり、朔也は一つため息をつく。


(ライの奴、早く戻ってこねーかな)


 と、朔也は姉の生き写しであり、恐らくは死に別れた姉その人であろうライの手料理に思いを馳せた。

 ライはあの男らしい見かけに寄らず料理が得意で、こちらへ渡ってきてからこの方、グレイシィの手にかかり無惨な姿となった食材か木の実しか口にしてこなかった朔也などは、昨夜の野営で振る舞われた彼女の手料理に激しい感動を覚えたものだ。


 そのライは目下、レオフォロスに置いてきたアベルを連れてくるという理由で朔也達とは別行動を取っていた。ハヤトが谷を立ち退く代わりに要求してきた新居について、ライには一つ思い当たる場所があるらしく、合流後は四人でそちらへ向かうことになっている。


 ときに朔也は、愛用のボディバッグに入れていた自身のスマートフォンを取り出し、電源を入れてみた。

 二○一三年十月九日、午後三時十二分。待受画面に表示されたデジタル時計は今も現世側の時間を刻んでいる。こちらは今夜だというのに、まったくちぐはぐな時間だ。


 それを見ると、別れ際にハヤトから聞いたあの話は紛れもない事実なのだと、嫌でも信じざるを得なかった。

 時計の進みは朔也の体感時間よりずっと早い。こちらでは谷でハヤトと別れてからまだ数時間しか経っていないはずなのに、現世では既に半日近い時間が流れているのだ。


「はい、これがサクヤの分」


 と、そこへグレイシィが、粘性の黒い液体をなみなみと注いだ器を差し出してきた。グレイシィの料理を食べていて学んだことだが、どうやらこちらの世界では、黒とは塩味に直結する色のようだ。

 だとすればこのスープ(のようなもの)は例のごとく凄まじいしょっぱさなのだろう。食べる前からその味が想像できてしまった朔也はげんなりとして、遠慮の意を仕草で示す。


「いや、俺はいいわ。自分で用意してきた食いもんがあるから」


 そう言って朔也が取り出したのは、流れるような英字フォントで『カロリーフレンド』と書かれた黄色の紙箱だった。その箱に入っていた金色の袋を開ければ、中にはチーズ味のショートブレッドが入っている。


「え? そ、それ、食べ物だったの?」

「ああ。俺の国じゃ、いつでもどこでも手軽に食えるって人気で、大抵どこの店にも置いてある。こっちは『ウィナー・イン・ゼリー』。まあ、飲むゼリーみたいなもんだな」

「で、でも、それってサクヤが国を出るときに買ってきたものなんでしょ? だとしたらもう随分日が経ってるはずだし、腐ってるんじゃない?」

「いや、どっちも賞味期限長いから大丈夫だろ。そんな簡単に腐んねーよ」


 言いながら、朔也はカロリーフレンドを一本口に咥え、空いた両手でウィナー・イン・ゼリーのキャップを開けた。昨夜のライの手料理と比べると随分味気無い夕食だが、現世で食べ慣れた味ということもあり、何やら無性にほっとする。

 そんな朔也が得体の知れない物体をもぐもぐと咀嚼する様を、グレイシィはしばらく興味深げに眺めていた。が、やがて自分も食事をする気になったのか、先刻朔也に差し出した器を――ほんの少し寂しそうに――そのまま自身の口へと運ぶ。


「でも良かったね、無事に記憶が戻って」

「ああ。まさか、こんなに早く何もかも思い出せるとは思ってなかったけどな」

「それもあの悪魔のお陰、か。悪魔にもいい奴がいるなんて、考えたこともなかったな。あれは〝いい奴〟って言うより〝変な奴〟だったけど……」

「まあな。けど本人が俺達に危害を加えるつもりはねえって言ってんだし、今はそれでいいだろ」

「うん……そう言えばサクヤ、谷を出てくる前に、あの悪魔と何を話してたの? 時間がどうとか死者がどうとか、何だか難しい話をしてたみたいだったけど」

「ああ、あれか。こっちの話だよ。お前には関係無い」


 いちいち説明するのも面倒なので、朔也はあっさりとそう言ってその話題を打ち切った。瞬間、それを聞いたグレイシィが、何故かひどく傷ついたような顔をする。

 そんなグレイシィの反応を朔也が不思議に思っていると、彼女は食事をする手を止めて俯いた。それからしばしの沈黙の後、グレイシィはわずかに言葉を迷った様子で言う。


「サクヤ、さ……記憶が戻ってから、何となく雰囲気変わったよね」

「そうか? 俺はこれが普通だけど。それよりお前、これからどうすんだ?」

「どうする、って?」

「俺の記憶は戻ったんだから、これでもう俺に付き合う必要もねーだろ。緋雨……俺を追いかけてくる悪魔のことも、ライが役所からもらった銀の矢があれば何とかなる。なら、お前はレオフォロスに戻ったら? あのとき騒ぎを起こしたのは俺だし、お前一人なら親父さんも許してくれんじゃね?」


 朔也はグレイシィが父親を慕っていた様子を思い出し、善意でそう言ったつもりだった。

 が、次の瞬間、朔也を見つめたグレイシィの顔がみるみる失望に彩られていく。彼女は数瞬言葉を失い、やがて微かに唇を震わせながら言う。


「何、それ……記憶が戻ったら、あたしはもう用無しってこと? あたしがいなくなってもいいってこと?」

「は? 誰もそうは言ってねーだろ。ただその方がお前のためにいいんじゃねーかと思っただけだよ」

「あたしは村をあんな目に遭わせたんだよ? おまけにレオフォロスでもあんな騒ぎを起こして、きっとお父さんに失望された。今更戻って謝ったって許してもらえるわけないよ。サクヤはそれでも戻った方がいいって言うの?」

「じゃあ好きにすれば? 俺はライと一緒に行くつもりだから、ついてきたいならついてくればいいだろ。その後どうするかはお前の勝手だし」

「勝手って何よ。それじゃあサクヤはどうするつもりなの?」

「俺はハヤトの一件が片付いた後も、ライと行動しようと思ってる。あいつには色々訊きたいことがあるし、美世と……写真の女とも無関係ってわけじゃなさそうだしな」


 その答えを聞いたグレイシィが、またも絶句したのが分かった。愕然としているグレイシィを見た朔也は、何をそんなに驚いているのかと眉をひそめる。

 だがそんな朔也の反応が、余計にグレイシィの感情を逆撫でしたようだった。彼女は不快そうに顔を顰めると、まるで卑俗なものを見るような目で朔也を見据えてくる。


「ひどい……あなたがそんな人だなんて思わなかった」

「何が?」

「初めからライと一緒に行こうと思ってたなら、〝お前も一緒に行くか?〟って誘ってくれればいいじゃない。あたしにはもう帰る場所が無いことくらい、サクヤにだって分かってるでしょ? それともそんなにライとの二人旅がいいの? そりゃそうよね、ライの方があたしなんかより強いし美人だし胸も大きいし料理だって上手だもんね!」

「はあ? 意味分かんねえ。お前、何一人でキレてんだよ」

「サクヤはあたしのこと何とも思ってないの? たった数日かもしれないけど、何があっても今日まで一緒に頑張ってきたのに、ちょっとあの絵の人に似てるからってあっさりライに靡くなんて……!」


 ざわ、と、風が騒いだ。朔也達が今夜の野営地に選んだ森の木々が、闇の中で黒い枝葉を震わせる。

 眠っていたはずの鳥達が、その風に追われるように飛び立っていくのが分かった。夜の森は、彼らが上げる悲鳴にも似た鳴き声で瞬く間に騒然としていく。


「何だ……?」


 異変を察知したのは、直前まで激昂していたグレイシィも同じのようだった。

 二人は頭上で群を成し、まるで何かから逃げるように飛び去っていく鳥達を立ち上がって仰ぎ見る。


「……何か来る」

「何かって?」

「分からないけど、こんなの普通じゃない。あたし達もここから離れなきゃ」

「待てよ、ライにはここで待ってろって言われたんだ。なのにここを離れたりしたら、あいつと合流できなくなる」

「じゃあ好きなだけここにいれば? あたしは――」


 そこから先のグレイシィの言葉が、意識の外に放り出された。


 闇が来る。

 突風のような速さで森を引き裂き、真っ直ぐこちらへ突っ込んでくる。

 その向こうで光る、二つの赤。


 悪魔だ。


 そう判じた瞬間、朔也はとっさに大地を蹴り、側にあった岩の陰へと身を投げる。


「きゃ――」


 一瞬の悲鳴。森を駆け抜けた突風が、触れたものすべてを切り裂いた。

 それは体を縮めた朔也の頭上をも猛烈な勢いで吹き過ぎていく。次の瞬間、顔を上げた朔也の目に映ったのは、横一文字に断ち割られ、ずり落ちていく岩の姿だった。


 どうやら悪魔の放つ刃の風は、岩であろうと鉄であろうと簡単に切り裂いてしまうらしい。朔也は半分になった岩の陰から這うようにして逃げ出した。


 そこに、黒い羽音が降ってくる。


「おニイちゃン、みーつけタ」


 無邪気な――それでいて背筋の凍るような、幼い少女の声が聞こえた。


 緋雨。やはり来た。顔を上げられない。真上にいる。


「おニイちゃン、ドウしてにゲルの? やっぱリヒサメのこトきライにナッたノ? ヒサメはおニイちゃンのこトダイすキダッたのニ……ドウして? ねエ、ドウして?」

「緋雨……悪かった。けど、こうするしかなかったんだ。美世を取り戻すためには、こうするしか……」

「〝ミヨ〟ってだレ? おニイちゃンのたイせつナひト?」

「ああ、そうだよ。世界中の誰より大事な女だ」

「セかいジュウ……ヒサメよリもたイせつナひト?」

「ああ。じゃなきゃあんなことをしてまで取り戻そうとしたりしない」

「ジャあおニイちゃンは、ヒサメのこトなんテドウでもヨカッたんダ……ヒサメよりたイせつナひトをエらんダンだ……そんナの、ひドイ……ひドイ、ひドイ、ひドイひドイひドイひドイひドイィィィ!!!!!」


 割れるように叫んだ緋雨の声が、夜の森を震撼させた。甲高い叫びと共に起こった突風を浴び、森の木々が枝葉を引き千切られそうになっている。

 その突風に、朔也も体を飛ばされた。近くに見えた木の根に数瞬掴まったが、それも敢えなく引き離され、五メートルほど離れた地面に容赦無く叩き付けられる。


「づっ……いって……」


 背骨に沿って走った痛みに、朔也は体を起こしながら小さく呻いた。が、完全に体を起こすよりも早く、右手を大きく振りかぶった緋雨が頭上に肉薄してくる。

 思わず悲鳴を上げそうになり、すんでのところで呑み込んだ。振り下ろされた緋雨の爪を左へ転がって躱し、そこでようやく朔也は体勢を立て直す。


「――サクヤ、これ!」


 そのときグレイシィの声が響き、暗い虚空を何かが弧を描いて飛んできた。朔也はとっさに駆け出してそれを受け止める。ライが置いていった銀の矢だ。しかし肝心の弓が無い。


 どうやら先程の突風で弓もどこかへ飛ばされてしまったらしく、グレイシィが必死に探し回っているのが見えた。

 だがよくよく考えれば、朔也は弓の使い方など知らない。弓道など齧ったことも無ければ、弓を触ったことすら無い。


 ならばここは、自分のやり方で戦った方が早い。そう判断した朔也は矢筒から一本の矢を引き抜き、緋雨へ向けて振りかぶった。

 そのまま勢いをつけ、ダーツよろしく銀の矢を投げつける。躱された。緋雨もそれが自らに唯一傷を与える武器だと認識しているらしく、怒りと憎悪の籠もった目で朔也を睨み据えてくる。


「ヒサメのこトきライなおニイちゃンなんテ、シんじゃエ!」


 緋雨が振り翳した右手の先に、黒い揺らめきが見えた。刃の風が来る。それを察した朔也は駆け出し、可能な限り緋雨から距離を取る。

 生い茂る木々の間を蛇行し、茂みの中へ飛び込んだ。そのすぐ上を、巨大な刃の風が飛び過ぎていく。


 朔也は地面に俯せに倒れたまま、矢筒から再び銀の矢を掴み出した。残っている矢は、たった今朔也の手中にあるそれも含めて二本だけだ。

 が、茂みの中で息をひそめ、緋雨が自分を探して接近してくるのを待つことにした朔也は、やがてある異変に気が付いた。緋雨が後を追ってこない。罠か、それとも。一瞬の迷いと不安に体を硬くしたそのとき、森の中に裂帛の悲鳴が響き渡る。


「きゃあああああ!」


 グレイシィの声だった。はっとして、朔也はその場に跳び起きた。

 矢を握ったまま茂みを飛び出し、悲鳴が聞こえた方角へ走る。グレイシィ。いた。何故か緋雨の標的にされている。


「あンタのせイ、あンタのせイ!! おニイちゃンをカエしテ!!」

「グレイシィ!」


 どうやら緋雨は、ヘウリスコ村でも見かけたグレイシィが朔也を取ったと思い込んだらしい。絶叫と共に憎しみを撒き散らし、彼女は眼下を逃げ惑うグレイシィへ次々と刃の風を放っていた。

 その一つがグレイシィの肩を掠め、ブラウスが赤く染まる。よろけたグレイシィが木の根に躓いて転倒し、その上に爪を振り翳した緋雨が迫る。


(まずい――)


 銀の矢を手に駆け出したが、とても間に合う距離ではなかった。体を起こしたグレイシィの眼前に、研ぎ澄まされた緋雨の爪が迫る。

 無理だ。本能がそう叫び、朔也の足は自然と止まった。肉の抉られる音と、断末魔の叫びを覚悟する。


「――邪悪なる者よ、立ち去れ!」


 俄然、立ち止まった朔也の視界を、銀色の光が横切った。

 その光を翼に受けた緋雨が悲鳴を上げる。――光ではない。矢だ。銀色の矢。鏃が突き立った部分から、黒い煙が上がっている。まるで翼が溶けているようだ。緋雨は獣の唸りにも似た呻きを上げて、空高く飛び立っていく。


 ややあって、朔也はようやく緋雨が逃げたのだということに気付いた。

 その頃には既に羽音も遠ざかり、森には元の静寂が戻ってきている。


「グレイシィ、無事か!?」


 朔也の視線の先でグレイシィに駆け寄ったのは、弓を手にしたライラルティアだった。

 傍にはアベルの姿もある。どうやら二人は、朔也達が襲われている真っ只中にレオフォロスから戻ってきたらしい。


「あ、ありがとう、ライ……助かったわ」

「いや、間に合って良かった。さっきそこで、偶然この弓と銀の矢を拾ったんだ。あれは私が役所から譲り受けてきたものかい?」

「ああ。弓が手元に無かったから、俺が苦し紛れに投げたやつがその辺に転がってたんだろう。そう言うライは? 怪我してねーか?」

「私なら大丈夫だ。それよりグレイシィが負傷している。これは手当てが必要だな」


 言って、グレイシィの傍にしゃがみ込んだライが、裂けたブラウスの下にある傷を確かめ始めた。傷は思ったほど深くないようだが、ライに心配されたグレイシィは少しだけばつが悪そうにしている。

 幸い焚き火は消えていなかったので、ライはグレイシィをそちらへ誘導し、有り合わせの薬や包帯で傷の応急処置をした。その間にアベルはあちこちを駆け回り、森の中に散乱した朔也達の荷物を掻き集めてくる。


「よし、ひとまずこれで大丈夫だろう。よく効く軟膏を塗り込んでおいたから、すぐに痛みも引くはずだ」

「うん……ありがとう」

「ライ姉、さっきので悪魔はやっつけたの? あいつ、もう襲ってこない?」

「いや。悪魔を確実に仕留めるには、銀の武器で心臓を貫くしかないと言われている。私の矢が当たったのは奴の翼だったから、息の根を止めるまでには至らなかっただろうな」

「そ、それじゃあまた襲ってくるの?」

「その可能性は高いだろう。しかし、驚いたな。まさか君達が本当に悪魔に追われていたとは……あの悪魔は何故君達を狙っているんだ?」

「さあ、知らねーな。ただヘウリスコ村に現れたときから、あの悪魔は俺を誰かと勘違いしてるみたいだった。あいつはその〝誰か〟に相当な恨みを持ってるみてーだな」

「ふむ……何とも厄介なことだ。まともに話して通じる相手でもなさそうだしな。まあしかし、銀の矢は残り二本ある。次にまた奴が現れたとき確実に仕留めれば、その後の心配は無用だろう」


 自らの弓の腕によほどの自信があるのか、あるいは隣で不安顔をしているアベルを安心させるためか、ライは余裕すら感じられる口振りでそう言った。

 幸い先程の朔也と緋雨のやりとりもグレイシィには聞こえていなかったらしく、このまま緋雨の誤解ということで押し通してしまおう、と朔也はひそかに心に誓う。


「二人とも、あのような禍々しき者に追われて疲れただろう。今夜はもう休むといい。見張りは私がやっておく。明日の朝、夜明けと共に出発しよう」


 自分もレオフォロスと野営地を往復して疲れているだろうに、ライはそのような素振りは微塵も見せず朔也達を気遣った。

 そう言えば生前の美世にも、そういうところがあったような気がする。朔也のためならば多少の疲れや不調は押し隠し、いつも明るく笑っていたのだ。


 だが朔也も、三年の付き合いで美世の空元気を見抜く程度の観察力は身に付けた。

 今のライはそこまで無理をしているというわけではなさそうだが、やはりいくらか疲れているように見える。それを察した朔也は軽く首を振り、さりげなくライの前に進み出て言う。


「いや、ライ、お前こそ休めよ。見張りなら俺がやっておく。あんな奴に襲われた後だ、一緒に寝てやった方がアベルも安心するだろ」

「サクヤ……その心遣いは有り難いが、しかし……」

「じゃあ、適当な時間になったら起こすからさ、そしたら俺と見張りを交代してくれよ。その頃にはアベルも寝付いてるだろうし、俺もいくらか休めれば助かる」

「そうか、ではそうしよう。月が西へ傾き始めたら起こしてくれ。こう見えて寝起きはいい方だから、心配はしなくていいぞ」


 冗談めかして言いながら、ライは朗らかに笑った。それが直前まで悪魔と戦っていた自分の緊張を解すためだということはすぐに分かり、朔也も笑みを返しておく。


 そんな二人のやりとりを、グレイシィが何とも言えない表情で見つめていた。


 やがて目を伏せた彼女の横顔には、物憂げな影が浮かんでいる。



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