あの世とこの世
「――つまり君は、これまでグレイシィと二人で自分の記憶を取り戻す旅をしていた。そしてこの悪魔の魔術によって、すべての記憶を取り戻した。本当の名前は〝サクヤ〟と言い、あの絵の女性を探してこの地へやってきた旅人だった……というわけだな?」
それから朔也は、ハヤトと二人で交々にこれまでの経緯を説明した。多少真実とは異なる話も含まれてはいるが、今はあの世だのこの世だのとややこしい話をしてグレイシィ達を混乱させない方がいい。
その頃にはライも一度矢を収い、グレイシィも剣を鞘に収めていた。それでようやくハヤトも安心できたらしく、今は朔也を解放してのんびりと宙に浮いている。
「だけど、それじゃあカイン……じゃなくて、サクヤはどうしてあの森で倒れてたの? おまけに記憶まで失って……」
「あー、それは……悪魔、そう、悪魔に追われてたんだ。この間ヘウリスコ村を襲った悪魔に、あの森に入った途端襲われて、何とか逃げ切ったはいいがショックで倒れちまって……」
「そのときの悪魔の攻撃で、一時的に記憶を失っていたということか。だが、もう一つ疑問がある。そのサクヤを襲ったという悪魔と同族であるはずのお前が、何故サクヤを救うような真似をしたんだ?」
と、ときにライが怪訝な顔で見上げたのは、言わずもがな頭上に浮いたハヤトであった。
対するハヤトは、自らに注がれる疑惑の眼差しなどどこ吹く風と言った様子で、暢気に寝そべるような体勢まで取っている。
「んー、まあ、その辺の事情を君達人間に話しても理解は得られないと思うけど、一言で言うなら、悪魔にも色んな奴がいるってことさ。それは朔也の言う悪魔のように人を襲うことを快楽とする悪魔であったり、僕のように人を襲ってる暇があったら研究をしたいと思う悪魔であったりする。君ら人間の中にも、いい人間と悪い人間がいるようにね」
「つまりお前は、サクヤを救ったことで〝自分はいい悪魔だ〟と主張している、ということか?」
「そう受け取ってくれると有り難いなあ。僕には端から人に危害を加えるつもりなんてこれっぽっちも無いんだよ。この見てくれのせいでよく誤解されるけど、僕はただ少しでも神に近づきたいだけなんだ。この世のあらゆる真理を極め、世界を創りたもうた偉大な神に少しでも愛されたい。かつてのアレセイア記研究の権威、ユニアヌスのようにね」
「……。〝神に愛されたがる悪魔〟だなんて、見たことも聞いたことも無いな……」
「ねえ、サクヤ。こいつの言うこと、本当に信じるの? 何だかすごく胡散臭いし、そもそも悪魔は≪人を惑わす者≫よ。悪魔の言うことを信じるなんて、男がユニコーンを誘い出そうとするくらい馬鹿げてる」
「その〝馬鹿げてる〟の度合いがいまいちよく分かんねーんだけど……とりあえず、こいつは俺の恩人だ。他の悪魔はどうだか知らねーが、こいつは特別なんだよ。人間に敵意はねえっつってんだし、今回は見逃してやってもいいんじゃねーの? レオフォロスの役所には、悪魔は無事退治しましたっつってさ」
気楽な朔也の提案に、グレイシィとライの二人は、今度はいささか不安げに顔を見合わせた。
もっともそれは至極当然な反応で、朔也はハヤトの正体を知っているからこそあっさりとそんなことが言えるのだが、そうでない二人は本来〝邪悪〟の象徴である悪魔を簡単に信頼することなどできないだろう。
「だが、そのサクヤの案を容れるとして、だ。仮にレオフォロスの役所へ悪魔退治成功の報告をすれば、確認の部隊がこの谷に送られてこないとも限らない。そうなればハヤトが生きていることはすぐに露見し、我々は国を騙したということで罰せられてしまうだろう。そうなっては少々都合が悪いのだが……」
「なら、引っ越し先を探してよ。この谷は適度に乾燥してるし、地形が入り組んでて見つかりにくいからお気に入りだったんだけど、君達が僕を見逃してくれるって言うなら僕もこの谷から出ていってあげる。そうすれば国のお役人さんとやらも、君達の報告を信じて報酬を払ってくれるだろ? あとはお互い平和に暮らせてめでたしめでたしってわけだ」
まるで散歩に行こうとでも誘うような軽い口振りで、空中に寝そべったハヤトが言った。
その提案を聞いた三人の視線が、一斉にハヤトへ集まる。ハヤトはそんな三人の反応が愉しくて堪らないと言った様子だ。
「そうか。それなら確かにお互いの利害が一致するな」
「えっ。か、カイン、じゃなくてサクヤ、信じるの?」
「俺は暴力には懲りたんだよ。平和的に解決できるならそれに越したことはねーだろ。けど引っ越すったってお前、この量の本をどうやって……」
「ああ、それならご心配無く。僕の魔力を以てすれば、この程度の空間なら簡単に転移させることができるよ。問題は引っ越し先の方だ。これだけの空間がすっぽり収まって、尚且つ人があんまり寄り付かなくて、日が当たらないか適度に乾燥した所がいいね。僕の大事なコレクションの保存状態を最良に保っておきたいから」
言いながら不意に頭をもたげ、ハヤトはうっとりとした様子で近くにある本棚の書物に触れた。
それを見たグレイシィやライも、ようやくこの悪魔がただの〝オタク〟だと思える境地に入ったらしい。地上からハヤトを見上げる眼差しは実に冷ややかだ。
「こいつ、本当に悪魔なのかしら。だんだんそれすら怪しく思えてきたわ。何だか妙に人間くさいし……」
「それは致し方のないことだね。何しろ僕は元々人間で、しかも人間だった頃の記憶が他の悪魔より鮮明なんだ。自然と人間くささが滲み出てしまうのは自明の理というものさ」
「え?」
「それで、どうするんだい? ここで〝悪魔〟と手を取り合うか、それを人としての堕落と見て拒絶するか。僕としてはぜひ前者を選択してもらいたいところだけれど、君達がどうしても後者を選ぶと言うのなら仕方がない。お相手するよ」
ハヤトの言動は終始芝居がかっていたが、その一瞬はっきりと、黒い悪寒がぞくりと朔也の背中を撫でた。
ハヤトが最後に添えた一言だけは、恐らく〝悪魔として〟紡がれた言葉だったのだろう。それは明確な殺気と共に朔也達へ降り注ぎ、三人は見えない槍に体を貫かれたような気分になる。
「……分かった、手を貸そう」
「ライ!? 本気!?」
「サクヤの言うとおり、一滴の血も流さずにこの件を解決できるのなら、それに越したことはないよ。人は私を指して臆病者と嗤うかもしれないが、私にはアベルがいる。あの子を守るためなら、どんな汚名であろうと甘んじて受けるさ」
今の威嚇でハヤトが相当の力の持ち主だと感じ取ったのだろう。ライは横顔に微かな悔しさを滲ませながらも俯いた。
しかしそのとき、ライが何気無く口にしたアベルの名に、朔也の蟀谷がぴくりと動く。それと同時に全身を包んだこの不快な感情の正体も、記憶が戻った今ならはっきりと分かる。
「では、交渉成立だね。生憎僕は引っ越しまでに空間転移の準備を済ませなきゃいけないから、君達と一緒には行けない。だから代わりに、こいつを連れていってくれたまえ」
と、ときにハヤトが、不意に眼鏡を外しながら、ふわりと朔也の傍へ舞い降りた。そうして何を思ったか、自身の左目を隠すように手を当てる。
直後、ハヤトの手の内側から黒い光が炸裂した。それは〝黒い光〟としか形容のしようが無い現象で――実際には黒い光などこの世には存在しないのだが――、放射状に噴き出した闇がハヤトの掌から漏れている。
だがそれも一瞬の出来事で、次にハヤトが手を下ろしたとき、朔也達は愕然と息を呑んだ。
それまで確かにあったはずのハヤトの左目が、無くなっている。直前まで彼の眼球が収まっていた場所は真っ暗な空洞となり、されどハヤトはまるで何でも無いと言った風に、朔也へ何か差し出してくる。
その状況に狼狽しながらも朔也がつられて手を出せば、ぼとり、と、そこに小さな球体が落とされた。
否、それはただの球体などではない。――目玉だ。そのことに気が付いた瞬間、朔也は「うわっ!」と裏返った声を上げ、思わず目玉を放り投げてしまう。
が、それを見て慌てたのはハヤトだった。彼は空中に投げ出された目玉をとっさに両手で受け止めると、わずかにほっとした表情の後、すぐに非難がましい視線を朔也へと投げかけてくる。
「おい、君。いきなり放り投げるだなんてひどいじゃないか。もっと大切に扱ってくれたまえよ、僕の大事な左目なんだから」
「ひ、左目ってお前、それ……!」
「さっきも行ったとおり、僕は君達と一緒には行けない。だけど自分が住む場所は自分で見て決めたいからね、候補地を見つけたらそれをこの目玉に見せて呼びかけておくれよ。そうすれば僕もそこが新居に相応しい場所かどうか、その場で判断することができる。どうだい、実に効率的な考えだろう?」
「こ、効率的かどうかって以前に無茶苦茶だぞ……」
「おや、これは異なことを言うね。そう言う君だって、セレン(ここ)へはかなり無茶苦茶なことをやって来たはずだ。なら、僕の話だって受け入れられるだろう? 〝真実の友〟よ」
再び目玉を差し出しながら、ハヤトはうっすらと意味深な笑みを浮かべた。
無茶苦茶なこと。ハヤトが口にしたその言葉が何を指しているのかは、朔也にもすぐに察しがつく。
が、それについて踏み込んだ話をする気にはなれず、むしろその話題はしたくないという一心で、朔也は黙ってハヤトの目を受け取った。
人の――ではなく、正確には〝悪魔の〟だが――眼球が自らの手に乗っているというその光景は何ともおぞましいものだったが、幸いと言おうか、ハヤトの眼球はまるでガラス玉のような触り心地で、とても人の肉体の一部だとは思えない。
それを何度か手の上でころころと転がしてみてから、朔也はこれは人の目玉ではなくそれを模した悪趣味な玩具だと思い込むことにした。もっとも目玉を意味も無く転がされたハヤトは、目が回るからやめてくれと苦言を呈していたが。
「それじゃあ、諸君。お互いの利害のために、一日も早く僕に素晴らしいねぐらを提供してくれることを願っているよ。それから何度も言うようだけれども、預けた目は一度失うと再生までに時間がかかるのだから、あくまで鄭重に扱ってくれたまえ」
その一点だけ何度も念を押し、隻眼になったハヤトは彼の私設図書館とも言うべきその空間から立ち去る朔也達を見送った。
と言っても、彼が見送りに来たのは外へ続く通路の半ばまでだ。どうやら悪魔は日の光を嫌うらしく、できることならば浴びたくないとハヤトは頑なに首を振る。
「ああ、そうだ、朔也」
と、そのハヤトに一度別れを告げ、背を向けた朔也を呼び止める声があった。
通路に立ったハヤトは何事か思い出したように形のいい顎に触れ、ちょっと考え込む仕草をしてから言う。
「同郷の誼だ、最後にもう一つ教えておくよ。というかこれは一種の警告なのだけれど、さっき僕が話した時間の流れのことは覚えてるよね?」
「あ? ああ、あの、こっちの一日はあっちの二日って話か?」
「うん。君は察しがいいようだから細かい説明は省くけれどね、君もあのサイトを見たのならば知ってるはずだ。魔術などとは縁遠い向こうの世界の僕らがこちらの世界と繋がるには、ごく限られた期間内にそれを実行しなければならないことを」
ちろちろと揺れる燭台の灯りに照らされながら、ハヤトが何を言おうとしているのかは朔也にもすぐに分かった。
これは彼が作ったサイトに書かれていたことだが、本来次元の違う二つの世界を行き来するなどという大それた儀式には、高度な魔術の知識とそれに見合う魔力が必要になる。しかしそもそも魔術というものがお伽噺の中にしか存在しない現世において、その儀式を成功させるにはある条件を満たすことが必須となるのだ。
それが、〝接界〟と呼ばれる一年の内のごく限られた期間――たとえば彼岸だとか盂蘭盆だとか、いわゆる〝死者にまつわる時期〟に儀式を行うということだった。
ハヤト曰く、世界各地の様々な宗教に存在する死者にまつわる日というのは、あの世とこの世が繋がる日であり、ゆえに次元を超える儀式が成功しやすくなると言うのだ。
日本ではよく〝盆には死者の霊が黄泉から戻る〟などということが言われるが、それは単なる迷信ではなく、あの世との境界が薄れることによって起こる様々な現象が人々にそう信じさせているのだとハヤトは主張していた。
先人達はそれによってあの世とそこに暮らす死者達の存在を感じ、古くから死者やその霊魂を祀る習慣を残してきたに違いないと彼は言うのである。
「だから君もこちらへ来るときは、二つの世界が繋がる時期を狙ったはずだ。けれどね、そもそも生きている者が、本来であれば魂しか通ることのできない道を肉体ごと渡って死者の国へ来るだなんて荒業は、当然ながら神の定めた理を歪めてしまう。そこで世界はその歪みを正そうと、やがて自浄を始めるんだ。それはさながら、人が口に入った異物を吐き出すようにね」
「つまり?」
「朔也、君はヘリオとセレンという世界が、何故周期的に接界なんて未知なる行動を繰り返すと思う? そんなことをすれば生と死の境界が曖昧になり、余計に理を歪めてしまう危険さえ孕んでいるのに」
「それは……二つの世界を一時的に繋いで、異物を元の場所に押し戻すため、か?」
そのとき脳裏を過ぎった推測を朔也がそのまま口に出すと、ハヤトは満足そうに笑った。
それから彼は、その異様に長い爪で軽く自身の頬を掻き、やけに機嫌のいい声で言う。
「さすがだね。まったくもってそのとおりさ。そして世界の自浄作用により、本来在るべき場所へ強制送還された者は、自らが歪めた理の記憶を失う。つまり、こちらの世界に関わる記憶のすべてをね」
「……! ってことは、次の接界までに儀式を成功させて日本に戻らなきゃ、俺の苦労は全部無駄になるってことか……だけど今、向こうは十月九日なんだろ? だったら次の接界は……お前がこっちに来たクリスマス?」
「残念。確かにクリスマスの時期にも接界は起こるよ。これは古代北欧で行われていた〝ユール〟という祭を見れば分かることだけれどね。でもその前にもう一つ、接界が起こる時期があるんだ。日本でも割と有名な日だから、君も知っていると思うけど?」
「彼岸の後の……死んだ人間にまつわる日?」
「ああ。――ハロウィンだよ」
「――!」
ハロウィン。朔也も日本では一度ならず耳にしたことのあるその言葉に、思わず目を丸くした。
ハロウィンと言えば、ヨーロッパやアメリカで十月三十一日に広く行われるという有名なイベントの一つだ。近年では宗教的関連性などまったく見られない日本でもメジャーになっているイベントで、毎年シーズンが近づくと、町はどこでもお化けカボチャだらけの奇妙なお祭り騒ぎとなる。
「い、いや、けど待てよ、ハロウィンって死んだ人間と関係のある祭だったのか? 単に変な仮装をして、ガキが大人からお菓子をもらうだけのイベントだろ?」
「何言ってるんだい。ハロウィンと言ったら、死者の霊が家族のもとに帰ってくると信じられてる海外版のお盆みたいなものじゃないか。更に十一月二日には、〝死者の日〟と呼ばれるキリスト教圏の祭日がある。つまり次の接界は、向こうの時間で言うところの十月三十一日から十一月二日にかけて起きるってことさ。ここまで言えば、僕の言いたいことはもう分かるよね?」
立ち尽くした朔也の背に、冷たい汗が流れた。時間が無い。真っ先に思ったことはそれだ。
仮にハヤトの言うことが事実なら、次の接界まで――即ち朔也がこの世界を追放されるまで――は、現世の時間であと二十二日しかないということだった。
しかも厄介なことに、向こうは時間の流れが速い。朔也がこちらの世界で一日を過ごす間に、向こうでは二日の時が流れると言うのなら、今の朔也に残された時間は実質十一日ということになる。
それまでに朔也は何としても儀式を成功させ、ライと――美世と共に現世へ帰らなければならなかった。だが美世であった頃の記憶を持たない彼女に、一体どうやって〝あんな儀式〟を行うことを納得させればいいのか。
そもそも今の状況では、儀式を行うにしてもその条件を揃えることは極めて困難に思えた。そこに横たわるすべての問題を、あと十一日の間に何とか解決しなくてはならない。
「僕から君に助言できるのはここまでさ。幸運を祈るよ、〝真実の友〟」
愕然としている朔也の気配を見て取ったのか、ひょいと片手を挙げてハヤトが言った。
その口元に、うっすらと妖しい笑みが浮かんでいる。頭の中で計画を練り直すことに躍起になっていた朔也は、その笑みの意味に気付かない。




