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アレセイア記

 冷たい床に崩れるように倒れ、荒い息をした朔也の意識が、ようやく現実に戻ってきた。

 思い出した。すべての記憶。本当は忘れてしまいたいほど苦く重々しかった、すべての記憶が還ってきた。


「どう、して……」

「何だい?」

「どうして、急に記憶が……」

「それは、僕が君の真名を呼んだからさ。『死の世界では真実の名を呼ばれることで、生の世界での記憶が蘇る』。これも『異界見聞録』の中にユニアヌスが残した言葉だよ。彼の残した功績は本当に偉大だ。恐らく彼は当時、最も神に近づき愛された人間だったんじゃないかな」

「けど……お前は、どうして俺の名前を……」

「朔也。魔術や呪術っていうのはね、古くから人の名前を介して履行されることが多かったんだよ。だから魔術を極めた者は、人に会うだけでその魂に刻まれた真実の名や、それに付随する記憶を読み解くことができる。――ま、もっとも、君の場合はそんな大層な仕掛けを用いなくても済んだのだけどね」


 そのとき、朔也の前にしゃみ込んだ悪魔――ハヤトが、一枚の紙を摘まむように示し、それをひらりと手放した。

 それは空気の抵抗を受けてゆらゆらと左右に揺れながら、朔也の目の前に舞い落ちる。――『渡瀬朔也。十七歳。××県××市在住。A型』。その紙の冒頭にはそう書かれている。筆跡は朔也のものだ。どうやら荷袋に入っていたそれを、ハヤトは先程後ろへ回り込んだ一瞬のうちに盗み取り、朔也の素性を本人より先に暴いていたらしい。


「〝世界を渡った者は記憶を失う〟なんて、僕はサイトに書いた覚えは無いのだけれどね。こんなメモ書きを事前に用意してたってことは、君はその事実を知ってたのかな?」

「ああ……お前のサイトに、儀式に成功して〝あの世〟に渡ってから、もう一度儀式をして元の世界に帰ってきたって奴が書き込みしてた。だからこっちに来てもすぐに記憶を取り戻せるように、必要なことは全部メモしてきたんだ。まさか日本語まで読めなくなっちまうなんて、夢にも思わなかったけどな」

「あはは、だろうねえ。あの魔法陣は、術者の知っている言語をこちらの世界の言語に置き換えてしまうから、嫌でも母国語を忘れてしまうんだよ。ヘリオ――つまり君達が言うところの〝元の世界〟での記憶を完璧に保ったままセレンへ来るには、今のところ僕みたいに悪魔になるしか方法は無いんだ。〝セレンに渡ろうとする術者の生け贄になることで〟、ね」


 にこり、と人の好い――それでいて人の悪い――笑みを浮かべ、ハヤトはなおも朔也を見下ろしていた。

 その視線の先で、朔也はゆっくりと体を起こす。直前まで頭を叩き割りそうな勢いで暴れていた頭痛と記憶の波は、まるで薬でも打ったかのように今はもう鎮まっている。


「つまりお前は、自分から儀式の生け贄になってこっちに来たってわけか」

「そういうこと。僕はその悲願を達成するためにあのサイトを設立し、アレセイア記の存在を世に広めて、儀式を実行しようという有志を募ったんだよ。そして記念すべき二○○九年のクリスマス、僕は晴れて悪魔に転生した」

「変わった奴だな……お前、何でそこまでしてこの世界に来たかったんだ?」

「それはさっきも言ったとおり、僕が生粋のオカルトマニアだからさ」


 何故か衒うような口振りで言うと、ハヤトは翼を羽ばたかせ、再び宙へと躍り上がった。

 そうして空中で両手を広げ、周囲を埋め尽くす本達を示しながら、ハヤトは至極陶然と言う。


「見てくれたまえ、僕が百年をかけて集めた、この素晴らしいコレクションの数々を。ここには古代ヘリオの研究者達がこちらで残した学術書や、セレンの研究者達の著書、そしてヘリオでは架空の生き物と嘲弄された幻想生物達の研究書も揃っている。やはり僕の推論は正しかったんだ。ドラゴンやペガサス、グリフォン、スフィンクス、人魚、精霊といった幻想生物の伝承は、このセレンに渡ったことのある人間の口からヘリオへ伝わったに違いない」

「おい、ちょっと待て。その百年ってのはどういうことだ? お前がこっちに渡ってきたのは四年前のことだろ?」

「おっと失礼。説明し忘れていたね。セレンとヘリオではまず、時間の流れる速さが違うんだ。こちらの一日は向こうの二日、つまり向こうはこちらの二倍の速さで時が流れてるってことになる。お陰でこちらの世界はまだ、僕らの世界で言うところの中世に入ったばかりなんだ。分かりやすく向こうの世界史で例えれば、ヨーロッパに神聖ローマ帝国が建国され、東洋では後に有名な『水滸伝』の舞台となる宋が天下統一を成し遂げた頃ってことになるね」

「……つまり?」

「つまりこの地域に限定して言えば、ここは僕らの世界で言うところの中世ヨーロッパに酷似した世界だってことさ。君も学校で習っただろ? オットー一世とか、ユーグ・カペーとか」

「……悪い。俺、中卒なんだ」

「嘆かわしい! 実に嘆かわしいよ! 何故高校に進学しなかったんだい? 学生時代に学べるもので、世界史ほど有意義かつ興味深い教科は無いというのに!」

「家庭の事情だよ。で、それとお前が百年もこっちの世界にいるってのと、一体どういう関係があるんだ?」

「ああ、そうだったね。実を言うと僕は儀式の際、こちらの世界に落ちる時間を少々調整したんだ。来世へ渡る旅というのは、そのとき通った道によって向こうに落ちる時間が変わる。そうしないと天災や戦争で一度に多くの死者が出たとき、大量の魂が一度に押し寄せることになるからね。そこで僕は魔法陣にちょっとした細工をして、現世と平行した時間に落ちる道じゃなく、過去に落ちる道を選んだのさ。本当なら時間だけじゃなく場所も指定したかったのだけれどね、それにはなかなか高度な知識と技術が要る。何せ魂は、〝過去世で縁の深かったものに引っ張られる〟性質を持つようだから」

「……! それはつまり、あっちの世界で親しかった奴の傍に落ちるとか、そういうことか?」

「おや。なかなか頭は回るようだね。話の分かる相手で嬉しいよ」


 空中で見えない椅子に腰かけながら、腕を組んだハヤトがくすりと笑った。

 その表情はやけに妖しく、中性的なものに見える。だがその顔立ちは紛れもなく〝現世〟の東洋人――ひいては〝日本人〟のものだ。


「それで? 君は誰を探して遥々〝死後の世界〟まで旅してきたのかな、朔也君?」


 多分に演技がかった、それでいてしかつめらしい態度と口調でハヤトは言った。


 死後の世界。

 そう、ここは朔也が美世と共に過ごした世界とは違う、死後の世界なのだ。


 朔也はその事実を比較的冷静に受け止めていた。〝あの儀式〟を行うまでは、そんなフィクションじみた話が本当にあるのかと疑いを抱いていたものの、実際に世界の境界を飛び越え、朔也のいた世界では考えられなかったものをいくつも目にした今ならば納得できる。


 自分は生者でありながら、儀式を通じて死後の世界に侵入した。その実感が、数日の時差を以て朔也の身に降りかかった。

 『この世には二つの世界がある』。そう説いていたのは他ならぬ目の前の悪魔――否、あの『アレセイア記』というサイトの管理人、ハヤトだ。


 〝二つの世界〟とは即ち生と死をそれぞれに司る世界、朔也の元いた世界で言うところの〝あの世とこの世〟であり、アレセイア記という失われた書物には〝セレンとヘリオ〟という名で記されていたという。


 その書物によれば、人の魂は肉体の死後も滅びることなく、二つの世界を交互に行き来して転生し、永久に循環し続けるのだそうだ。

 つまり朔也達が〝あの世〟と呼ぶこの世界が、この世界の住人にとっては紛れもない〝この世〟であり、彼らは朔也達が元いた世界を指して〝あの世〟と呼ぶ。どちらの世界にとってもその片割れは死後の魂が行き着く世界であり、生きている人間にとっては単なるお伽噺に過ぎない存在でもあった。


 だが、朔也は違う。


「俺は……俺の姉貴が、去年の夏に殺された。連続強盗殺人犯にレイプされた上、体を四ヶ所も刺されて……」

「それはお気の毒に。じゃあ君は、そのお姉さんを連れ戻しに来たってわけだ」

「ああ、そうだ。お前、あのサイトの管理人だったなら知ってるだろ? 死んだ人間をもう一度元の世界に連れて帰るには、俺がこっちに来たときと同じ魔法陣を作って儀式を行えばいい。そのとき連れて帰る人間と一緒に儀式を行えば、二人で元の世界に戻れる。それで間違いないんだよな?」

「ご名答。だけどそれが至極簡単なようでいて、実は難しいことなんだ。人間は死後次の世界に転生すると、前の世界とまったく同じ姿というわけではなくなってしまう。まあ、その点についても僕ら悪魔は例外なんだけどさ。とにかく君の〝愛しい人〟を現世に連れて帰りたければ、その人の魂を持った人間を正確に嗅ぎ当てなくてはならない。あの儀式で魔法陣を通り抜けられるのは、〝魔法陣に魂の名が記された人間だけ〟だからね」

「その〝魂の名〟ってのは?」

「人の魂っていうのはね、アレセイア記とその先行研究によれば、さながら遺伝子のごとく過去の記憶を蓄積していくんだそうだ。つまり遺伝子が肉体の設計図なら、魂はその持ち主の人格・傾向・運命の設計図ってことになる。そしてそれらの大部分は、〝名前〟という圧縮された情報によって魂に刻まれるんだよ。つまり人の魂には、これまで何百、何千、何万と転生を繰り返す度に刻まれてきた、膨大な量の人の名前が記憶されている」

「なら、その中にある名前の一つと魔法陣に書かれた名前が一致すれば、その人間は魔法陣を通れるってわけだな」

「うん、君は実に物分かりがいいね。簡単に言うなれば、名前とは魂を個別化・認識するための〝ID〟であり、魔法陣はそのIDと対応していなければ弾かれる〝パスワード〟と同じだ。無事に向こうの世界へ〝ログイン〟するためには、どちらも正しいものを用意しなければならない。けれど今の君には、パスワードは用意できているんだ。それなら、あとは……」

「美世の……姉貴の〝ID〟を持ってる人間を見つけて、一緒に〝ログイン〟すればいい、だな」


 ある一点を見つめ、低い声で言った朔也に、ハヤトは満足そうな頷きを返した。

 そうだ。自分が〝あんな儀式〟を実行してまで〝あの世〟に渡った理由はただ一つ――殺された美世を再び現世に連れ戻し、満ち足りていた二人の暮らしを取り戻すためだ。


 そしてそのとき朔也の脳裏には、既にハヤトが言うところの〝ID〟の持ち主の姿が浮かんでいた。


 ――ライラルティア。ハヤトの言うとおり、生前の美世とまったく同じ姿というわけではないが、よく似た容姿と奇妙な偶然による出会いが、〝自分と美世の魂が呼び合ったのだ〟という確証を朔也にもたらしてくれる。


「さて、それじゃあ話が落ち着いたところでお茶でもどうだい? せっかくこうして会えたんだ、僕が旅立った後の日本の話なんかを聞かせておくれよ」

「いや、その前にもう一つ訊きたいことがある。さっきの話の続きだが、もし目的の人物を見つけて一緒に向こうに戻った場合、そいつの記憶はどうなる? 見た目はこっちの姿のままか?」

「そりゃあ、君がこちらに来たときの状況を、そっくりそのまま再現するわけだからね。当然、初めて魔法陣をくぐる相手は、君と同じように――」

「――カイン、無事!?」


 そのとき、ハヤトの言葉を遮って、俄然切迫した声が響き渡った。

 ここは天井が高いせいか、人の声がよく響く。それと同時に聞こえたのは、蹴破らんばかりの勢いで開かれた木製の扉が上げた悲鳴だ。


「グレイシィ。それにライも……」

「これはまた、不躾なお客様がいらしたものだね。彼女達は君の連れかい?」


 飛び込んできたのは言うまでも無く、なかなか戻らない朔也の身を案じたグレイシィとライの二人だった。

 彼女らはその視界に、不愉快そうな顔で自分達を見下ろした悪魔ハヤトの姿を捉えると、即座に戦闘態勢に入る。


「あ、悪魔……! やっぱりここにいたのね!」

「カイン、下がれ。そいつは今ここで仕留める!」


 言うが早いか、ライが腰から素早く弓を外し、そこに矢を番えてハヤトを狙った。

 悪魔の唯一の弱点とも言える、純銀製の矢である。それを見たハヤトはさすがに慌てたようで、いきなりその場から急降下すると、何を思ったか朔也を盾にする位置にすっぽりと体を隠す。


「お、おいハヤト、お前何やって……」

「それはこっちの台詞だよ、早くあのお嬢さん方を落ち着かせてくれなきゃ! 何のために僕が不老の体を手に入れたと思ってるんだ。こんな所であっさり命を落とすなんて死んでも御免だよ!」


 何やら後半の物言いが矛盾しているような気もしたが、それだけハヤトも狼狽しているということだろう。どうやら銀製の武器というのは、悪魔にとってそれほどまでに脅威的な存在らしい。


 それを証明するかのように、ハヤトは体を小さくしたままがっしりと朔也の両腕を掴むと、その体をずるずると背後の壁――と言っても本棚なのだが――まで強引に連行した。

 恐らく後ろに回り込まれないようにするための作戦なのだろうが、それを見たグレイシィやライは朔也が人質に取られたと受け取ったようだ。


「くっ……おのれ、悪魔め……! カインを盾に取るとは卑劣な……!」

「ちょっとそこの悪魔、カインを放しなさいよ! 仮にも悪魔なら、正面から正々堂々かかってきたらどうなの!?」

「いや、そもそも悪魔は正々堂々してないと思うが……」


 自分の脳内にある悪魔のイメージを再確認しながら、朔也はこの状況に呆れのため息をつかざるを得なかった。

 が、銀の矢にすっかり怯えたハヤトが手を放してくれないので、グレイシィ達の誤解も解けない。そこで朔也は「あー」とまずやる気の無い声を出すと、険しい表情をした彼女達を見据えて言う。


「とりあえず、ライ。まずはその矢を収ってくれ。悪魔こいつが怯えて話にならねえ」

「何を言っているんだ、カイン。そんなことをすれば君が……!」

「俺なら大丈夫だから。こいつはお前らが思ってるような悪魔じゃねーよ。あと、俺の名前も〝カイン〟じゃねえ。――朔也。本当の名前は渡瀬朔也だ」

「何?」

「……! 待って……〝本当の名前〟って、カイン、あなた記憶が戻ったの?」


 まるで状況が呑み込めていない様子のライとは裏腹に、剣を下ろしたグレイシィが、驚きを禁じ得ない様子で言った。

 だから自分はもうカインではないと言っているのに、と微妙な笑みを浮かべつつ、朔也はそれに頷いてみせる。


「ああ。それもこれも、この悪魔……ハヤトのお陰だ。こいつが俺の記憶を呼び戻してくれた。こいつはこの間、ヘウリスコ村を襲った悪魔とは違う。ただのオカルトマニアだよ」

「お……おかるとまにあ?」


 一体何のことかと言いたげに、グレイシィとライが互いの顔を見合わせた。が、彼女達も朔也がやけに落ち着き払っているのを見て、ようやく冷静になってくれたようだ。

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