悪魔の棲む谷
ごつごつと、巨大な岩がいくつも地表に突き出していた。
かつてはその岩と岩の間を、数本の川が流れていたらしい。
それが今ではすっかり干上がり、辺りは緑も無い殺風景な景色と成り果てていた。今でも多量の雨が降れば一時的に川が現れると言うが、残念ながらカインらがそこに足を踏み入れたときには、連日の晴天で谷はからからに乾いてしまっている。
「こんな所に、本当に悪魔がいるのか?」
三人が問題の涸れ谷に入ってから、既にかなりの時間が経過していた。初めはいつ悪魔に遭遇するかと緊張していたカインも、赤茶色の岩と砂しかない場所を延々歩き回ることに飽き、ついそんな愚痴を零してしまう。
三人というのは言わずもがな、カイン、グレイシィ、そしてこの仕事を請け負った張本人であるライラルティアだった。ライの弟アベルはまだ幼く、とても悪魔退治などには連れていけないという理由で、レオフォロスの宿に預けてある。
正直なところ、今回の旅にアベルの姿が無いことは、カインにとってささやかな救いだった。どうも自分は、子供というものが苦手なようだ。それも、子供の姿をした悪魔に襲われたから、というのだけが理由ではないらしい。
アベルが姉であるライに甘えている姿を見ると、カインは何故か苛々と無性に気が立ってしまうのだった。その理由が自分でも分からず困惑しているのだが、とにかくアベルの姿を視界に入れなくて済むのなら、それに越したことは無い。
「どう、ライ? 何か見える?」
と、ときに岩の上を見上げたグレイシィが、声を励まして尋ねた。そこには周囲の様子を見渡すべく、適当な高さの岩を見繕ってよじ登ったライの姿がある。
そのライの背には依然一条の戦斧が、そして腰には小さな弓と細い矢筒が吊られていた。矢筒の中に入っているのは、三本の銀の矢だ。鏃も矢柄もすべてが純銀で作られ、矢羽だけが通常の弓矢同様鳥の羽根で作られている。
「うーん……やはりどこもかしこも岩ばかりで、あまり全体の様子を掴めないな。役所では、〝悪魔の棲み処は谷を移動している〟としか言われなかったし……」
「移動する棲み処って何だよ……あいつら鳥に似てるから、どっかの岩の天辺に巣でも作ってるのか?」
「いや、説明してくれた役人の話では、〝その入り口は人間の住み処に似て、魔術によって移動している〟そうだ。棲み処自体は、いつも岩の中にあるらしい。恐らくはこちらに居場所を覚られないよう、定期的に場所を移しているんだろうが……ん?」
「どうかした?」
「あれは……向こうに何かある。この方角に真っ直ぐ、岩を一つ越えた先だ」
冷静な声色で、ライはカイン達の前方にある背の低い岩を指差した。背の低い岩、と言っても、それは〝この涸れ谷の中で〟という意味だ。
谷にはいくつもの岩が重なったような、かなり巨大な岩石群も少なくなく、カイン達の行く手に立ち塞がるそれは周りと比べていくらか低いという程度だった。当然よじ登って越えられるような代物ではなく、カイン達はひとまず問題の岩の外周を伝って向こう側へ出ることにする。
お陰でかなりの遠回りを強いられることにはなったが、岩陰を抜けたとき、〝それ〟ははっきりとカインの目にも映り込んだ。
一つ岩を越えた先に、わずかな平地を挟んでまたも大地が隆起している。その巨大な岩の麓、そこに周囲の景色から明らかに浮いているものがある。
「何だ、あのドア? ……もしかしてあれが〝悪魔の棲み処〟か?」
大地に横たわった岩の真ん中に、ぽつんと備え付けられた木製のドア。大自然のパノラマの中に忽然と姿を現したその人工物は、まさに不自然としか言いようのないものだった。
だがあれがもし本当に悪魔の棲み処なのだとしたら、拍子抜けも甚だしい。カインはもっと、闇への入り口のような禍々しいものを想像していたのだが、あれでは何も知らない者がこの谷に迷い込んだら、人が住んでいるのかと思って普通にお邪魔してしまいそうだ。
「ど、どうする? あれなら確かに、ライが言ってた〝入り口は人の住み処に似てる〟っていうのに当て嵌まるけど……」
「仮にあれが悪魔の巣への入り口だとしたら、中がどうなっているのかここからは分からないな。見たところ窓などは無いようだし、中は真っ暗という可能性もある」
「それじゃあ弓では狙えないし、そこで戦り合うのはかなり危険ね。あんまり狭いと、こっちも身動きが取れなくなるし……」
「なら、まず誰か一人が中に入ってみて、もし悪魔がいれば外まで誘き出すってのはどうだ? 一旦外に出ちまえば、ここには身を隠す場所なんていくらでもあるし、高い場所も多いから弓で狙いやすいだろ?」
と、そこで提案したのは他ならぬカインだった。残りの二人はほとんど同時にそんなカインを振り向いてくる。
「確かにそれは名案だが、危険な賭けだ。さっきも言ったとおり、あのドアの向こうがどうなっているのかはまったく分からないし、下手をしたらその場で取り殺されてしまうかもしれない」
「かと言って、全員仲良く飛び込んでいって全滅するよりはいいだろ。グレイシィ、あんたはここでライと隠れてろ。偵察には俺が行ってくる」
「えっ。ま、待って、カイン! そんな、一人で乗り込むなんて無茶だよ!」
「大丈夫だ。俺には一度、悪魔の追跡を振り切った実績がある。仮にいつまで経っても俺が戻らなかったら、それはあの中に悪魔がいるってことだ。そのときは俺の仇討ち、よろしく頼むぜ」
「カイン!」
引き止めようとするグレイシィをそれ以上は振り向かず、カインは単身、問題のドアに向かって歩き始めた。グレイシィはそれを追おうとしたようだが、後ろでライが止めた気配がある。
とは言え二人の前では努めて冷静に振る舞ってみせたものの、カインは既に膝から力が抜けないように歩くだけで精一杯だった。もしもあのドアの向こうからいきなり悪魔が飛び出してきたらと思うと、想像しただけで腰が抜けそうになる。
耐えろ。耐えろ耐えろ耐えろ。何度もそう念じながら、カインは自身の首から下がったあの銀の指輪を掴んだ。そうしていると少しだけ――本当に少しだけだが――恐怖が和らぐような気がする。
男が一人に女が二人。このパーティならば自分がやるしかないだろうと大見得を切ったは良かったが、いざ問題のドアの前に立つと、カインは数瞬緊張で動けなくなった。
今度こそ、自分は死ぬかもしれない。だが生き残れば、もう二度とあの悪魔に追われずに済む。そう考えて意を決し、一思いにドアを開ける。
――ボッ。
「うわっ!?」
突然の効果音に、カインは自分でも情けなくなるような悲鳴を上げてしまった。見ればドアを開けた先の暗闇で、左右の壁に取り付けられた燭台がひとりでに火を灯したようだ。
それは訪問者であるカインを歓迎するかのように、そして更に奥へと誘うように、次々と通路の先へ向かって灯り始めた。誰もいない通路で勝手に燭台に火が灯るなど、そんなものはどう考えても魔術の類だ。
だとすればこの中には、悪魔がいる可能性が非常に高い。その推測に全身を強張らせ、カインはごくりと唾を飲んだ。
通路の先には、少し遠いがもう一枚扉が用意されているのが見える。それをじっと見据えたカインは、一度背後を振り返り、岩陰に隠れたグレイシィとライを見やる。
奥まで行ってみる、という意思を、束の間手振りで二人に伝えた。それを見たライとグレイシィが揃って頷きを返してくる。〝気を付けて〟という言葉を、グレイシィが声には出さず、されど叫ぶように口を開けて紡いだのが分かる。
祈るような目をしたグレイシィに、カインは笑って頷いた。こんな状況で笑えたことが自分でも不思議だったが、それで少しはグレイシィを安心させてやれたかもしれない。
ふー、と一つ長めの息を吐き、それからカインは覚悟を決めて通路へと踏み込んだ。
武器は、グレイシィがレオフォロスを出る前に手渡してくれた一本の短剣だけだ。街で馬を売った金で、ナイフを失くしたカインのために購入してくれたらしい。
(開けるぞ)
と自分の心に前置きをして、カインは奥の扉を開いた。刹那、暗い通路を照らしていた灯明かりとは比べ物にならないほど眩しい光が、カインの目を突き刺してくる。
「う、わ……っ!?」
まるで日の光にも似たそれに一瞬怯みながらも、次の瞬間カインは驚愕に目を見張った。
本。本、本、本、本、本。
見渡す限りの本。そこには壁一面に本とそれを収める本棚を並べた、円形の広間が広がっている。
「こ、これは……」
にわかには信じられない光景に、カインは唖然として周囲を見渡した。
広間は円柱状に高く伸び、本棚の上に更に本棚が乗せられている。それは仰ぎ見るほど高く三段にもなり、そのすべてにぎっしりと無数の書物が詰め込まれている。
これは一体何だ。まるで小さな図書館のようなその場所で、カインは茫然と立ち尽くした。
広間がやけに明るいのは、真ん中の宙空に擬似太陽のような小さな光体が浮かんでいるためで、その光は燦々とカインにも惜しみなく降り注いでいる。
「――やあ。僕の城に何か用かな?」
瞬間、頭上から聞こえた男の声に、カインは我に返ってびくりと体を震わせた。
と同時に、背後でバタンと扉の閉まる音がする。驚いて振り向くと、カインが開け放していたはずの扉がひとりでに閉じてしまっている。
「扉は開けたら即閉める。それを徹底してもらわないとさ、困るんだよね。外から入り込んだ湿気で、僕の大事なコレクションが傷んでしまったらどうしてくれるんだい。この中にはヘリオに持って帰れば数千万、いや、あるいは数億の値が付く貴重な資料もあるんだから、もっと慎重に扱ってくれたまえよ」
またしても声が降ってきた。直前に聞こえたものと同じ、男にしてはやや高めの、それでいて若い声だ。
その声の主を探して顔を真上に向けたとき、カインの全身に衝撃が走った。
羽毛に覆われた黒い翼。衣服のように全身を包む黒の体毛。先の尖った尾。発達した手足の爪。深黒の髪。赤い瞳。
カインの頭上に浮遊していたのは、まさしくカインがヘウリスコ村で見た悪魔と同じ特徴を持った、男の姿の悪魔だった。
年齢は人間にすれば二十がらみと見え、村で会った悪魔のときは長い髪で隠れていた尖った耳も見えている。
だが奇妙なのは、その悪魔が黒縁の眼鏡をかけてカインを見下ろしていることだった。悪魔に視力の良不良などあるのだろうか。
おまけに今回の悪魔は空中で優雅に足を組み、膝の上に一冊の本を開いていた。どうやら読書中だったようだ。村で出会った悪魔に比べ、見た目には禍々しさも無く、何やら妙に人間くさい。
「お、お前は……」
「何だい。人の家に勝手に上がり込んできて挨拶も謝罪も無しなんて、これまた無教養なお客様がいらしたものだ。まったく、昨今の人間界の教育はどうなってるんだか……ん?」
と、そこまで一気に捲し立てるように言ったところで、悪魔は何かに気が付いたようにカインを見つめた。
かと思えば、こちらを見下ろしたまま手の中で本を閉じ、それを見もせずにすぐ傍の棚の中へとしまう。直後、悪魔はぐるりと頭を下にしながら空中を滑り落ち、カインの背後へ舞い降りてくる。
「わお、これは驚いた。ヘリオからいらしたお客様だ」
「なっ、お、お前……!」
「しかも君、日本人だね? ってことは僕のサイトを見て来てくれた人かな? ははっ、こりゃいいや、何十年ぶりだろう! 僕の計算だと、日本は今二○一三年の十月九日になったところだから、少なくとも君がこちらに来たのであろう二○一三年の九月時点ではまだあのサイトが残っていたということだね。嬉しいなあ、まさかまたこうして同郷の士に会えるとは」
逆さまになってカインの背後に浮いた悪魔は、どうやらカインが腰に巻いた荷袋を見て話しているようだった。
が、背後を取られたカインはとっさに腰の短剣を抜き、その場から飛び退いて悪魔との距離を取る。
「おや、そんなに露骨に避けなくてもいいじゃないか。せっかくこうして出会えた〝アレセイア・メイト〟なんだからさ」
「さっきから何訳の分からないこと言ってんだ。お前がこの谷に棲んでるって言う悪魔だな」
「あ、そうか。君、まだ記憶が戻ってないのか。じゃあ、いくらこの喜びを分かち合おうとしたところで詮無いことだね」
「……!? お前、どうしてそれを……」
自分にはヘウリスコ村でグレイシィと出会うまでの記憶が無い。そのことをさも当然のごとく悪魔に見抜かれていたことに、カインは激しい動揺を覚えた。
すると悪魔は、それまで逆しまだった姿勢をくるりと反転させ、再び宙に座るような格好をして得意気に言う。
「『生きて生と死の国境を渡る者は、肉体を持ち込む代償として記憶を失う』。ユニアヌス・リウィウス・コッタ著、『異界見聞録』にある記述だ。ユニアヌスは数いるアレセイア記研究家の中で、初めてセレンでの記憶を保持したままヘリオへ帰還することに成功した偉大な人物だよ。彼のお陰で、古代ローマにおけるアレセイア記研究は飛躍的な進歩を遂げたと言っていい」
「こ、こだいろーま……?」
「そう。かの巨大宗教が世界に勃興する前は、アレセイア記の研究は古代ローマを中心に盛んに行われていたんだ。ほら、これがその『異界見聞録』だよ。ユニアヌスが二十八世紀も前に書き残したものが、こんな最高の保存状態でこっちに残されていたんだ。ちなみにさっきの記述はここ。君、ギリシャ語読める?」
「ぎ、〝ぎりしゃご〟って……?」
「って、そうか、そうだった。ギリシャ語云々以前に、今の君は日本語すら読めないんだっけ。ごめん、僕としたことがちょっとはしゃぎすぎたよ。何せこっちでまた日本人に会えるなんて思ってなかったからさ。君には分からないと思うけど、これって結構奇跡的な確率なんだよ」
悪魔はやはりよく分からないことをぺらぺらと饒舌に喋りまくった。その度にカインの頭上には、次々と疑問符が増えていく。
「えーと……それで、つまり、お前は悪魔なんだよな?」
「まあ、そう呼ばれても仕方のない外貌ではあるね。種族としても一応は悪魔だし」
「はあ……つまり、悪魔ってことだよな?」
「そう受け取ってくれて構わないよ。だけど僕にはハヤトって名前がある。こっちに来てからは、この見てくれのせいで≪破滅へ導く者≫なんて不名誉な呼び名を付けられちゃったんだけどね。まあ、それはそれでかっこいいかな、と最近では思い始めたよ」
「全然悪魔っぽくないぞこいつ……」
「そりゃそうさ。僕はセレンで不老の体を手に入れるために、自らの意思で悪魔に転生しただけなんだからね。見た目はこんなでも、中身はただのオカルトマニアさ。っと、それじゃあそろそろ君の記憶も戻してあげようか――〝渡瀬朔也〟君?」
ドクン、と、全身が脈動した。
頭の中で、ざらざらと音がする。カインの中に、何かが流れ込んでくる。
それは一瞬も止まることなく、やがて全身を駆け巡り、膨大な量の情報となってカインの頭に集まった。
全身の血が沸騰する。視界が揺れる。頭を貫くような耳鳴りがする。
「う……あっ……うあああああああ!!」
脳が弾け飛びそうなほど膨大な記憶の洪水に、カインは頭を抱えて悲鳴を上げた。
――否、違う。自分は〝カイン〟などではない。
渡瀬朔也。
それが本当の名前だった。
生まれてから今日までの、すべての記憶が渦を巻く。嵐のような暴力。一人だけ逃げ出した母親。殺伐とした日々。美世との出会い。髪を染め直した日。バースデーソング。贈られた指輪。幸福だった日。薄桃色の箱。
誰かの精液を浴びて死んでいた、美世の死体。
「――全部思い出したかい、朔也」




