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ただいまとさよなら

「お疲れ様でしたー」


 朝八時。朔也はいつもどおりの仕事を終え、アルバイト先である二十四時間営業のガソリンスタンドを後にした。

 スタンド脇に置いていた自転車に跨がり、帰路に着く。ここから自宅のアパートまでは、自転車で十五分ほどの距離だった。

 昨夜はバイト前に三時間しか仮眠を取れなかったため、自然と口から欠伸が漏れる。掛け持ちしている飲食店でのバイトが午後に入っていたせいで、どうしても寝る時間が取れなかったのだ。


 しかしバイトを掛け持ちするようになって一年近くが過ぎた今となっては、それも慣れたものだった。

 二つのバイトのシフトが運悪く重なると、満足に眠れないことも多い。バイトに入る時間帯も日によってまちまちなため、決まった時間に寝て起きるという生活が、今では縁遠いものになっていた。

 そんな生活を長く続けていることもあり、朔也の体は多少睡眠時間が不足しても、あまり堪えなくなっている。


 とは言え今日は、家に帰れば久々の休日が待っていた。どちらのバイトも一ヶ月前から店長の許可を取り、今日から明日にかけての二日間、休みをもらうことになっていたのだ。


 六月八日。美世の誕生日だった。

 朔也にとって、美世と出会った日の次に特別な日だ。


 急いで帰れば、出勤前の美世に会える。その思いだけで、朔也はいつもより力強くペダルを漕いだ。美世はいつも、八時半頃のバスに乗って職場へ向かう。自転車に乗る前に確認した時刻は八時三分だったから、今ならまだ間に合うはずだ。


 梅雨入りが近づいた初夏の陽気が、じりじりと朔也の肌を熱していた。車線と交通量の多い通りから横道へ曲がり、踏切を渡って閑静な住宅街へと入る。


 そこまで来れば、美世と二人で暮らすアパートはすぐそこだった。駐車場を迂回して駐輪場へ滑り込み、ゆっくりと愛車を停める。

 いつもより急いで帰宅したため、微かに上がった息を整えながら、朔也は腰に提げたオレンジ色のボディバッグを開けた。愛用の黒いスマートフォンを取り出し、時間を確認する。午前八時二十分。上出来だ。


 次いでスマホをしまいがてら、今度は薄桃色の包装紙でラッピングされた小さな箱を取り出した。左上の隅に誇らしく咲いた赤いリボンの花を見ていると、思わず口元が綻ぶ。昨日、アルバイトへ向かう前に買ってきた美世への誕生日プレゼントだ。


 美世は喜んでくれるだろうか。柄にも無くそんなことを考えている自分がこそばゆくなり、朔也は自身の黒髪をがしがしと掻いた。三年前、美世と出会うまでは髪を染めていたのだが、あれから引っ越して別の中学へ通うに当たり、色を元に戻したのだ。

 これからは心を入れ替え、美世の思いに応えたい。髪の色を戻したのは、胸に抱いた決意の表れでもあった。その思いはやがて、自分も美世を助けたいという思いに変わり、更には美世を愛し、愛されたいという思いにまで変わっていた。


 朔也にとって、美世は己のすべてだ。実の母親には捨てられ、父親には存在を否定され、生きる意味を見出だせず自暴自棄になっていた朔也を、美世は聖女のように優しくすくい上げてくれた。

 朔也はそんな美世にいつしか〝家族〟以上の想いを抱き、しかし今はまだその想いを伝えられずにいる。今年十六歳になったばかりの朔也には、その想いを伝えられるだけの勇気も、美世を守れるだけの力も無かった。


 それでも、いつかは。そう思いながら掌に乗せた箱を見やる。中身はシルバーの指輪だった。結婚指輪というわけにはいかないが、それでもこの指輪には特別な思い入れがある。


 朔也は家の玄関へ向けて歩き出しながら、自身が首から下げたシルバーの指輪を手に取った。入浴時と眠るとき以外は肌身離さず身に付けている、生まれて初めてもらった誕生日プレゼントだ。

 贈り主は、言わずもがな美世だった。二年前の誕生日、美世はそれまで自分の誕生日など祝ってもらったことも無ければ意識したことすら無かった朔也をサプライズで迎え、手作りのケーキや飾り付けで盛大にその日を祝ってくれた。


 指輪はそのとき美世から手渡されたものだ。内側には朔也の誕生日を示す数字と、『Thank you for coming into my life.(生まれてきてくれてありがとう)』の文字が刻まれている。


 あのときの気持ちを何という言葉で伝えれば良かったのか、朔也は未だに分からなかった。ただ美世のすべてが愛しいと思うようになったのは、間違いなくあの瞬間からだ。


 あのとき覚えた喜びと感動、そして感謝の気持ちを少しでも美世に伝えたいと、購入した指輪には自分のそれとまったく同じ言葉を刻んでもらった。

 あまりにも芸が無さすぎる、とは思ったが、中卒で学の浅い朔也には、他に〝これだ〟と思えるような言葉が思い浮かばなかったのだ。


(まあ、でもこれが、俺の正直な気持ちだし)


 自分の首から下がった指輪の文字を眺めながら、朔也はもう一度表情を綻ばせた。


 無邪気に喜ぶ美世の顔が目に浮かぶ。自宅の玄関はもうすぐそこだ。

 次第に動悸が早まってくる。ただ会って指輪を渡すだけなのに、何を緊張しているのか。自分にそう言い聞かせ、玄関のドアに手をかけた。


 着飾った言葉は要らない。誕生日おめでとう。

 たった一言そう言って、それとなくこの箱を手渡せばいいだけだ。


「――ただいま」


 声を上げながら、ドアを開けた。夜勤のときはいつもこのくらいの時間に帰ってくる朔也のために、美世は朝、必ず鍵を開けておいてくれる。


 しかし朔也は、ドアを開けたところで動きを止めた。住み慣れた家に足を踏み入れる前に、すべての思考が停止した。


 薄暗い家の廊下に、赤黒いものが広がっている。


 空気が重い。

 血の臭いが、鼻を突く。


「…………美世?」


 立ち尽くした朔也が紡ぎ出せた言葉は、それだけだった。

 地面に落ちた小さな箱が、カツン、と乾いた音を立てた。

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