手を引いて
「――あれ? 君、グレイシィちゃんじゃないか? ヘウリスコ村の村長さんとこの」
そうしてグレイシィが向かったのは広間の右手、庁舎奥へ続く入り口の前だった。そこから先はどうやら役所の関係者しか立ち入ることができないらしく、部外者の侵入を防ぐためか、左右には槍を持った衛兵が二人控えている。
グレイシィに声をかけてきたのは、その衛兵の片割れだった。右の方の衛兵はきょとんとした顔をしているが、左の方の衛兵はグレイシィを見るなり表情を綻ばせている。
「こんにちは。お久しぶりです」
「いやー、久しぶり! またダリウス統轄官に会いに来たのかい? 今日はベイジル村長と一緒じゃないんだな」
「ええ、そうなんです。おじいちゃんったら、やっぱり歳には勝てないのか、先日腰を痛めてしまって……」
だから私が祖父の代理で来たんです、とにこやかに話すグレイシィはまさしくあの――カインがヘウリスコ村で出会った当初の――グレイシィだった。
つまり〝猫を被った〟状態の彼女だ。その表情は優しげで柔らかく、いかにも慎み深い良家の娘といった雰囲気を醸し出している。
「そうかい、それは気の毒にな。村に帰ったらお大事にと伝えといてくれよ。……それはそうと、そっちの彼は?」
「彼はカイン。おじいちゃんが、道中の護衛にと付けてくれた用心棒です。こう見えて結構腕が立つんですよ」
「ふうん……まだ若いのに、感心だな」
と、自分もまだ充分若いにも関わらず、衛兵はそう言ってまじまじとカインを眺めた。
が、そうしてカインへ注がれる彼の視線には、嫉妬や敵対心といった負の感情が露骨に含まれている。それは若いカインの才能に対して、ではないだろう。何となくそれを察してしまったカインは、謂れの無い非難の眼差しに居心地が悪くなり、思わず目を泳がせる。
「あの、ところで父は……今から取り次いでいただくことは可能でしょうか?」
「え? あ、ああ、もちろんだよ! おれにかかればそのくらい朝飯前さ!」
「……? えっと、それじゃあよろしくお願いします」
カインに対する対抗心ゆえか、よく分からない見栄と共に胸を張った衛兵に、グレイシィは首を傾げつつ微笑みかけた。その微笑が更に衛兵の心を射抜いたようだ。彼はたちまち顔を赤らめると、分かりやすいほどデレデレとした応対で二人を奥へ通してくれる。
そんな衛兵の様子を、気の毒な奴、と、カインは半ば同情的な思いで眺めていた。何しろ彼が今恋している相手は〝グレイシィであってグレイシィではない〟のだ。
その彼がもし本当のグレイシィの姿を知ってしまったら、と考えると、カインの脳裏には幻想を打ち砕かれ、茫然と立ち尽くす衛兵の姿が浮かんだ。世の中には知らない方がいいこともあると言うが、彼の恋路について言えば、まさしくそのとおりだろう。
「何でだろうな。胸が痛い……」
「え? カイン、何か言った?」
「いや、何でも……」
と、二人がそんな会話を交わしたのは、衛兵がひとまずここで待つようにと言って案内してくれた小部屋だった。小規模な打ち合わせのときなどに使われる部屋のようで、室内には真ん中を四角く刳り抜いた卓が置かれ、他に椅子が八つほど用意されている。
衛兵はグレイシィの父――ダリウスという名前らしい――を呼びに行き、朔也は今グレイシィと二人きりだった。そのせいか去り際の衛兵に〝変な真似はするなよ〟と言いたげな目で睨まれたのだが、そこまで純粋にグレイシィを慕う彼の気持ちを思うと、カインの胸はむしろ罪悪感で満たされる。
「そういや、あんたの父親ってどんな人なんだ? さっきのあいつみたいに、妙な誤解をされたりしないだろうな」
「なあに、妙な誤解って?」
「あんなに露骨だったのに気付いてないのか……」
「何の話をしてるのか分からないけど、お父さんはおじいちゃんよりは話が分かる人だよ。あのおじいちゃんの息子だから、頑固で頭が固いのは確かだけどね。それでもあたしが剣術とか馬術に夢中になるのは許してくれるし」
「やっぱり自分の娘だからな。男親なら可愛いんじゃないか」
「そうかなあ。うちのお父さん、いつもむっつりしてるから、娘のあたしでも何考えてるのかよく分からないんだよね。でも怖い人ではないから大丈夫。カインのことも、ちゃんと話せばきっと分かってくれるはずよ」
色々と小言を並べつつも、グレイシィは父親に対して全幅の信頼を寄せているように見えた。それは、彼女が父の話をしながら見せた笑顔が物語っている。
ほどなく部屋の外から足音が聞こえ、一人の男が無言で部屋に入ってきた。役人風のローブに身を包み、顎に風格のある黒髭を蓄えたその男こそが、グレイシィの父・ダリウスのようだ。
「お父さん! 久しぶり!」
「グレイシィか。よく来たな」
その男の姿を見るなり立ち上がって喜色を浮かべたグレイシィとは裏腹に、男――ダリウスはまったく表情を変えなかった。が、グレイシィがそれを気にした様子は無い。先刻グレイシィが言っていたとおり、どうやらこれがダリウスの平常運転のようだ。
「お父さん、また痩せたんじゃない? 毎日ちゃんとごはん食べてるの?」
「少なくとも、村にいた頃よりは健康的な食事をしている」
「何それ。それじゃまるで、あたしの作ってた食事が非健康的だったみたいじゃない」
「あながち否定はできないような……」
「カイン、何か言った?」
「いや、別に」
食べる度に拷問を受けているような思いをしたグレイシィの料理を回想しつつ、カインはさっと目を逸らした。村を出てからここまでは、幸いにして森の木の実などを食べていれば良かったため、カインもしばらくあの悪夢は見ていない。
するとそのとき、二人のやりとりを聞いたダリウスが、グレイシィの隣にいるカインへと目を向けてきた。その瞬間、てっきり不審者扱いを受けるのではないかとカインは肝を冷やしたが、次にダリウスが見せた反応は、意外にも薄い。
「……なるほど。そこにいるのが〝カイン〟か」
「え、お父さん、カインを知ってるの?」
「さっき私を呼びに来た衛兵から聞いた。娘が世話になったようだな」
「あ、いや、世話になってるのは俺の方で……」
と、答えたところで、カインは不意に背筋がぞくりとするのを感じた。
こちらを見つめたダリウスの目が、やけに冷たい。それは明らかに、〝娘に近づく不逞の輩〟を見る目ではない。
もっと別の、蔑むような、憎むような視線。
嫌な予感がする。
少し前に、自分はどこかで似たような視線を浴びた気がする。
「話では、若いのに随分と腕が立つそうではないか」
「あ、それなんだけどね、お父さん。実はカインがあたしの用心棒っていうのは嘘で……」
「知っている。≪我失くし≫だろう。その身の穢れをもって村に悪魔を呼び、更には事前に禍根を断とうとしたハング達まで殺したと聞いた。……あれはな、荒っぽい男ではあったが私の古い友人だった。村で一番親しかった男と言ってもいい」
「え?」
無表情なダリウスの口から淡々と紡がれた言葉に、グレイシィが目を見張って固まった。
対するカインの全身には、生き物のような悪寒が走る。やはり、予感は的中した。いや、今も膨れ上がっている。ここにいてはまずい。カインの本能が、頭の中でけたたましくそう警告している。
「お、お父さん、どうしてそれを……」
「あんな事件があった後で、父が黙っているとでも思ったのか、グレイシィ。経緯はすべて村から来た早馬に聞いた。お前が森で彼を助けたということも、その結果もな」
「な、なら話が早いわ。あたし達はその件でお父さんの力を借りたくて来たの。お父さんならレオフォロスにいる地方軍とも繋がりがあるでしょ? その軍に依頼して、カインを追ってくる悪魔を退治してもらえないかと思って……」
「悪魔退治なら、確かに軍や傭兵の仕事だ。だが軍は、人殺しの罪人を守るために動いたりはしない」
「え……」
「カインとやら。お前をヘウリスコ村住民殺害の罪で逮捕する。この地方では、故意に殺人を犯した者は例外無く死刑だ。大人しく縛につけ」
「ま……待って、お父さん! 何よそれ、あのときカインがハングさん達を傷つけたのは、先におじいちゃんが……!」
グレイシィの言葉をみなまで待たず、ダリウスが手を打った途端、部屋にはぞろぞろと武装した衛兵が押し掛けてきた。
逃げなければ。とっさにそう思ったが部屋は狭く、既に卓の周囲を回り込むようにして左右から衛兵がやってきている。彼らは淡々とカインに近づくと、腕を掴んで椅子から立たせ、そのまま外へ連れ出そうとする。
「ちょっと、待ちなさいよ! ねえ、お父さん、話を聞いて! カインは何も悪くないの、あれは身を守るために仕方なくしたことで……!」
「だとしても殺人は殺人だ。グレイシィ、それ以上騒ぐな。でないとお前まで罪人幇助の罪で捕らえなければならなくなる」
「お父さん、正気なの? ちょっと考えれば分かることでしょ!? どうしてみんなカインを悪者にしようとするのよ! あたしはそんなの納得できない!」
「グレイシィ」
窘めるダリウスの声を聞かず、激昂したグレイシィはカインを連行する衛兵に掴みかかろうとした。
が、ときにダリウスから「押さえろ」と命じられた別の衛兵が、すかさずグレイシィをカインから引き離す。グレイシィはその拘束を振りほどこうと暴れたが、衛兵はそんなグレイシィを二人がかりで押さえ込む。
「いや! 離して、離してってば!」
「大人しくしなさい。お父さんも、君のためを思って言っているんだよ」
「だからカインは悪くないって言ってるでしょ! 少しはこっちの話も聞きなさいよ!」
「いてっ! この……っ、暴れるんじゃない!」
「いっ……う、ぁ、痛っ……!」
そのとき、言うことを聞かずに暴れまくるグレイシィを、衛兵の一人が力任せに卓へと押し付けた。卓に叩きつけられたグレイシィは悲鳴を上げ、苦しげな声を漏らしている。
瞬間、カインの全身の血が沸騰した。燃えるような怒りが体中の血管を駆け巡る。
たった今自分を連行しようとしていた衛兵の足を、思いきり踏みしだいた。不意打ちを食った衛兵は悲鳴を上げ、思わずカインから手を放す。
それに気を取られた左の衛兵の隙を衝き、その腹に強烈な肘鉄を叩き込んだ。「うっ」と鈍い呻きを上げた衛兵は腹を押さえて倒れ込み、それを見た他の衛兵に動揺が走る。
慌ててカインを止めようと近づいてきた衛兵を、一人、二人と、傍にあった椅子で殴り倒した。あまりの衝撃に椅子の脚が折れ、卓に転がる。カインはとっさに本体を捨ててそちらを掴むや、右手で大きく振りかぶり、グレイシィを押さえた衛兵の顔面目がけて投げつける。
「ぶっ!」
絶妙なコントロールで飛んできた凶器を顔に受け、衛兵が間抜けな声を上げた。刹那、カインは卓の上に飛び乗るやその場から助走をつけ、問題の衛兵に追い討ちの飛び蹴りを食らわせる。
「お、おい、何をしている! 早くその男を止めろ!」
先程までは顔色一つ変えなかったダリウスが、さすがに焦った様子で声を荒げた。が、それを聞き、正面から突っ込んできた衛兵の腰に短剣がある。
瞬時にそれを認めたカインは、自ら衛兵の懐に飛び込んで体当たりを食らわし、瞬時に奪った短剣でよろけた衛兵の足を突き刺した。それを受けた衛兵が潰れたような悲鳴を上げている間に、カインはグレイシィの手を引き、部屋の窓から飛び出していく。
「か、カイン……!」
突然の出来事に、庁舎の中が騒然とするのが分かった。が、カインはそれを振り向くことなく、一目散に正門を目指して走る。
離すものかと、グレイシィの手を強く握った。地方官庁は周囲を塀で囲まれているため、出口は一つ、正門しかない。
「止まれっ、止まれぇ!」
そのとき、早くも騒ぎを聞き付けたのか、正門を大勢の衛兵が塞いでいるのが見えた。その中には先刻、カイン達をダリウスに取り次いだあの衛兵の姿もある。
「おいっ、貴様、自分が何をしてるか分かっとるのか? 無駄な抵抗はやめて、大人しく牢に入れ!」
集まった衛兵達の中から、年嵩の兵が出てきて怒鳴った。さすがのカインも、これだけの数の敵を相手に立ち回れる自信は無い。更に背後からは、増援の衛兵がこちらへ向けて次々と駆けてくるのが見える。
どうすればこの状況を切り抜けられるか。考えたのは一瞬だった。
直後、カインはいきなりグレイシィの体を引き寄せると、片腕で盾のように抱き、その首もとに腰から抜いた剣を突きつける。
「お前ら全員そこをどけ。こいつはダリウス統轄官の娘だ。俺の邪魔をするって言うなら、こいつを殺すぞ!」
「なっ、何ぃ?」
予想外の展開に、年嵩の兵が上擦った声を上げた。
が、彼にとって更に予想外の出来事が起きたのは、その直後のことだ。
「や、やめろぉ! みんな、早くそこをどけぇ! グレイシィちゃんが、グレイシィちゃんが殺されるぅぅぅ!!」
「うわっ! お、おいお前、何をする、やめろ!」
必死の形相で叫んだ先程の衛兵が、人質となったグレイシィを守るべく、突然槍を振り回して暴れ始めた。それに巻き込まれそうになった周囲の衛兵が算を乱し、わっと辺りに散っていく。
その隙を、カインが見逃すはずもなかった。カインは再びグレイシィの手を取り駆け始めた。脇目も振らず、逃げ惑う衛兵の間を駆け抜ける。それに気付いた兵達が指をさし、「追えっ、追えぇ!」と声を張り上げている。
「……へぇ、これはなかなか」
と、そのとき庁舎の入り口から、一連の騒動を眺めていた女がいた。
女は街へ逃げていくカインの後ろ姿を見つめ、意味深な笑みを浮かべている。




