表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/30

ありがとう

「――……いや、だからさ、〝悪かった〟って謝っただろ?」


 不満げにそう訴えたカインの左頬には、見事なまでにくっきりと赤い手形が付いていた。

 隣でブーツの準備をしながら、頭頂の髪をつんつんと引っ張るグレイシィは、未だ不機嫌な顔をしている。胸の形、綺麗だったな。先刻グレイシィの怒りを少しでも鎮めようととっさに拈り出したその言葉が、かえって彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。


 焦るあまり、言葉の選び方を完全に誤ってしまったことはカインも認めていた。しかしそれも一応は褒め言葉のつもりでかけたものなのだから、何も思いきり平手を張ることはないのではないかと思う。


「で、どうしてグレイシィがこんな所にいるんだ?」


 と、機嫌を損ねたグレイシィが一向に口を開こうとしないので、カインは内心恐々としながらも話題を振った。その間にもグレイシィは左の脚衣の裾を縛り、鞣し革を縫って作られた丈夫そうなブーツに足を入れる。

 白のブラウスにワンピース、という姿は以前と同じだが、後者はカインが前に見たものよりも丈が短く、膝上丈で渋い青鈍色に染められていた。スカートの正面真ん中には大きめのスリットが入っており、その下に動きやすそうな細身の脚衣を履いている。

 更に腰には、一振りの立派な剣を提げていた。昨夜ベイジルの前に姿を現したときも同じ格好をしていたので、どうやらグレイシィは村の異変に気付いた時点でこの服装に着替えていたようだ。


「あの後、あなたがラッセのヒポグリフに乗って北に飛んでいったのを見て、あたしも後を追ってきたの。自分の足じゃ絶対追いつけないと思ったから、村からあの馬を盗んで」

「〝盗んで〟って、穏やかじゃない言い方だな。あの村の馬なら、村長の孫娘がちょっと拝借するくらい問題無いだろ?」

「あたしはもう村長の孫娘なんかじゃない。村に災厄を招いた裏切り者だよ。あたしのせいで、たくさんの人が死んでしまった……あの村にはもう戻れない」

「グレイシィ……」


 そう答えたグレイシィの声色は静かだったが、横顔には悲壮な覚悟が滲んでいた。自分がカインを村に連れ込んだりしなければ、ラッセを始めとする村人達が命を落とすことは無かったはずだ。恐らくグレイシィの胸中には今、そんな罪悪感が渦巻いているのだろう。


「……。ありがとな」

「え?」

「それでもあんたは、村をあんな目に遭わせた俺を心配して、こうして探しに来てくれた。俺をあの場所に寝かせて介抱してくれたのも、あんただろ?」

「うん、まあ……だって、カインは何も悪くないもの。もし本当にあの悪魔を呼び寄せたのがあなただとしても、自分の意志でそうしたわけじゃないでしょう? なのにあなた一人を悪者にして責めるだなんて、そんなの絶対おかしいよ」

「それを言うなら、あんただって何も悪くないよ。村の人達はあんたのしたことを責めるかもしれないけど、あんたは伝承のことなんて何も知らなかったんだ。だったらそれは不可抗力だろ? 悪いのは、俺だけじゃなく村の人達まで巻き込みやがったあの悪魔だよ」

「カイン……そうだね。ありがとう」


 短くそう言って、グレイシィはカインへ向けていた視線を逸らした。そうしてやや俯いた彼女の瞳が、微かに潤んだような気がする。

 何となく見てはいけないものを見てしまったような気がして、カインもまた視線を外した。森に立ち込めていた霧はようやく晴れ、湖の水面みなもがきらきらと光を照り返している。


「だけど、よくここが分かったな。夜中に、しかもこれだけ広い森の中を一人で探し回るなんて、相当骨が折れただろ?」

「ううん、そんなに。実を言うとね、カインの居場所はニンフ達が教えてくれたの。あの湖に、空から落ちてきた人間がいるって」

「ニンフ? 誰だ、それ?」


 カインが思わず尋ねると、グレイシィは答える代わりに前方の湖を指差した。それを目で追った直後、カインはぎょっとして息を呑む。


 湖の真ん中から、じっとこちらを見つめている目があった。それもただ見つめているのではなく、水面みなもから顔の半分だけを出し、集団でこちらの様子を窺っている。


 初めは幽霊かと思ったが、そうではなかった。隣でグレイシィが手を振ると、謎の集団は無言で顔を見合わせ、やがて水上にその全貌を露わにする。


 水中からカイン達のことを見つめていたのは、数人の美しい女達だった。女達は皆一様に純白のローブを身に纏い、中には花や草で編んだ冠を被っている者もいる。

 彼女達は〝もう大丈夫〟というグレイシィからの合図を受けとると、にこやかに手を振り返してきた。かと思えば再び水中へと飛び込み、そのまま姿を消してしまう。


「い、今のは?」

「あれがニンフだよ。この湖に棲んでる精霊。彼女達は、人間の傷や病を癒す力を持ってるの。カインの怪我を治してくれたのもあのニンフ達だよ」

「精霊……そんなもんまでいるなんて……」

「そんなに珍しい? ニンフは比較的どこにでもいる精霊だと思うけど。彼女達は色んな土地で色んなものを守ってるの。清純な川の流れとか、樹齢数百年の神木とか、あんまり人が寄り付かない山とか谷とか……」

「そ、そうなのか……ところで、グレイシィ」

「何?」

「ずっと、いつ触れようか迷ってたんだが……あんた、急にキャラ変わったよな」

「〝きゃら〟って?」

「〝人格〟ってこと」

「ああ、そうだね。びっくりした?」


 悪戯っぽく尋ね、グレイシィは軽やかに笑った。今は髪が一つに結われていることもあり、その笑顔の印象は、やはりカインが知っている彼女とは違う。

 しかしこれこそが自分の本当の人格なのだとグレイシィは言った。これまでカインに見せていた姿は、〝猫を被っていただけだ〟と言うのだ。


「本当はね、あたし、剣術とか狩りが大好きな〝跳ねっ返り〟なんだ。小さい頃はラッセみたいな狩人か冒険者になりたかったんだけど、おじいちゃんが〝村長の孫がそんなんじゃ体裁が悪い〟って」

「だからわざわざあんな演技をしてたのか?」

「そ。だってそうしないと、おじいちゃんが目くじら立てて怒るんだもの。あんまりお転婆が過ぎると嫁の貰い手がいなくなるって。ひどい言い草だよね」

「は、はは……そうだな……」

「ほんとのこと言うと、森でカインを見つけたときも、本当は一人で狩りに行ってたんだ。〝おじいちゃんがいない今なら自由に好きなことができる!〟と思って」

「あー、なるほど……だからあのとき村長が、森にいた理由をやけに勘繰ってたんだな」

「うん。あのときは冷や汗ものだったわー。狩りに行ってたなんてことがバレたら、またあの〝おじいちゃん特製激苦汁〟を飲まされるところだった。……幻滅した?」

「え?」

「あたしの〝きゃら〟が急に変わって、幻滅した?」

「い、いや、まさか。確かに最初はびっくりしたけど、お陰で色々納得がいったよ」

「色々って?」

「そりゃあ――」


 ――料理のこととか皿のこととか壺のこととか。と、心の中で思いはしたが、カインはそれを口に出すことはしなかった。

 グレイシィが元々家事よりも武芸や狩りを好む少女だったなら、その言動が妙に野性的だったことにも納得がいく。だがそれを逐一指摘すれば、グレイシィはやはり幻滅されたと受け取り、下手をすれば落ち込んでしまうだろう。


「そ、それはそうと、俺達、これからどうするんだ? 村があんなことになった後じゃ、戻るわけにもいかないし……」

「うん……それなんだけどね。一度、レオフォロスに行こうかと思うの」

「レオフォロス? って、確かあんたの父親がいるって言ってた……」

「そう。あの悪魔がカインを追ってくる以上、何らかの対策が必要でしょ? それについて、お父さんなら何か智恵を貸してくれると思うの。悪魔や魔物を退治するのは軍の仕事だから、お父さんに相談すれば地方軍に口を利いてもらえるかもしれない。たとえそれが無理でも、聖職者か傭兵を雇ってもらえれば少しはあの悪魔に対抗できるかもしれないわ」


 落ち着いた様子で話すグレイシィの提案には、強い説得力があった。まずはあの悪魔を何とかしてしまわなければ、最悪の場合、ヘウリスコ村での悲劇を繰り返すことになってしまう。

 かくしてカインはグレイシィと共に、ここから遥か北にあるという地方都市レオフォロスへ向かうことになった。レオフォロスはオロス帝国の主要な街道が交わる交通の要衝であり、南の国境が近いこともあって多くの旅人が集まる街なのだと言う。


 二人はグレイシィが村から連れてきた馬に跨がり、丸一日をかけて街道を北上した。

 石畳によって整備された道の先に巨大な城郭都市が見えたのは、カインとグレイシィが再会を果たした日の翌日、ひる前のことだ。


「うう……尻が痛い……」


 ところが広大かつ悠美なレオフォロスの街並みを前にして、カインが上げた第一声はそれだった。

 あまりにもか細く情けない声であったが、無理も無い。今まで馬に乗ったことなど無い(と思われる)カインは一日中馬の背に揺られていたせいで、皮が擦り剥けるほどに尻を虐げてしまったのだ。


「もう、それでも男なの、情けない。たかが丸一日馬に乗ってたくらいで弱音を吐くなんて、だらしないわね」


 と、そんなカインの有り様を見たグレイシィは、憮然とした様子で吐き捨てた。手には馬を売って得た数枚の銀貨握り締めている。


 話に聞いていたとおり、レオフォロスは賑やかな街だった。象牙色の石を切り出して築かれた城壁は美しく、その中に広がる同じ色の街並みもまた美しい。

 通りという通りは人で溢れ、様々な土地の匂いが混ざり合っていた。道行く人々も多種多様な姿をしており、この辺りの土地柄に疎い者でも、ここにはあらゆる種類の人間が集まっているのだと一目で分かる。

 街の広さはヘウリスコ村の比ではなく、グレイシィの記憶が確かならば、この街には少なくとも二万人の人々が暮らしているとのことだった。その大半は交易を主な生業とする商人達であり、レオフォロスは商業の街としても名前が知られているのだという。


「帝国の南にあるシートス王国は、とっても豊かな国だって言うからね。この街の商人は、そのシートス王国から色んな物資を仕入れてくるの。で、そうやって集めた大量の物資を、ここから更に帝国の各地へばらまいてるってわけ。だからこの国では、〝レオフォロスで手に入らない物は無い〟なんて言われてるんだ」

「へえ。どおりであちこちに色んな露店が立ってるわけだ。あの丘の上にあるのは?」

「あれはこの地方を治めるクリノン様のお屋敷。帝国の領土は大きく七つに分かれてて、そのそれぞれを皇帝陛下に任命された領主様が統治してるの。クリノン様はその中でも、皇家に連なるえらーいお方なんだって。だから街でクリノン様の馬車を見かけたら、道の脇に避けて平伏しなきゃ駄目だからね」


 グレイシィとそんな雑談を交わしながら、カインは件の領主屋敷麓にあるという街の役所へと向かった。過去に何度もレオフォロスへ来たことがあるというグレイシィのガイドを聞いていると、この街には観光に来たのだったか、と思わず錯覚してしまいそうになる。


 レオフォロス地方官庁は、街の東側を占める巨大な建物だった。庁舎の周囲は高い塀で囲まれており、外側からその全貌を窺い知ることはできない。だが正門から中を覗けば、そこにあるのは神殿かと見紛うほど荘厳な建物だ。

 正面入り口には五本の円柱が立ち並び、その上下には精霊や草花を象った細やかな彫刻が施されていた。一階建てだが全体として天井が高く、二階建ての民家と比べても高さはほとんど変わらないのではないかと思う。

 その正面入り口をくぐった先は広間になっており、整然と並べられたいくつもの長椅子に市民や旅人と思しい人々が大勢腰かけていた。その更に正面には受付のようなものが置かれ、役人風の男達が順番に市民を呼び出している。


「ここは?」

「ここは相談所。庶民が色んな申請とか申告をしに来る場所よ。だけど律儀に順番なんか待ってたら、呼ばれる頃には日が暮れちゃう。――カイン、ちょっとこれ持ってて」

「え?」


 と、ときにグレイシィがカインに押し付けてきたのは、彼女が腰から外した剣だった。いきなりそんなものを渡され、カインが困惑していると、グレイシィは手振りだけで〝腰に差せ〟と指示してくる。

 剣など握ったことも無い(と思われる)カインは、当然その扱い方など知るはずも無かったが、ひとまず見様見真似で腰のベルトに剣を通した。グレイシィはそれを見て満足げに微笑むと、今度は〝ついてこい〟と言うように身を翻して歩き出す。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ