再会と絶叫と
朝露に撓んだ草の上から、一滴の雫が滴り落ちた。
それはぴしゃりとカインの鼻の頭で弾け、静かに覚醒を促してくる。
突然鼻に触れた冷たさと微々たる衝撃に、カインは「う」と呻きながら眉を寄せた。そうしてゆっくりと瞼を開けば、視界には白い曇天と、それを覆い隠さんばかりに茂る木々の枝葉が映り込む。
「……? ここは……」
ぼやけていた意識が徐々に輪郭を取り戻し、カインはよろよろと体を起こした。見渡せば辺りには背の高い木々や灌木が所狭しと生い茂っている。どうやら森の中のようだ。
ちょうど夜が明けたところなのか、森には薄い朝霧がかかっていた。俺は、助かったのか。その朝霧にしっとりと肌や衣服を濡らされながら、カインはしばし茫然とする。
ヘウリスコ村で悪魔に襲われ、逃げる途中でヒポグリフの背を落ちたことは覚えていた。だがあれほどの高さから落下して、自分は何故無事だったのか。
普通なら間違いなく死んでいるところだろう、と思いながら再度辺りを見回して、そのときカインは、それまで自分が横たわっていた場所に一枚の布が敷かれていることに気が付いた。
それだけではない。昨夜はベイジルらの奇襲を受け、裸足のまま逃げたはずなのに、カインの両足はいつの間にかしっかりとブーツを履いている。
更に驚いたのは、昨晩悪魔の攻撃を受けて負ったはずの傷が、どれも綺麗に癒えていることだった。試しにその場で左右に体を拈ってみたが、不思議と痛む箇所は一つも無い。
加えてカインの傍らには、唯一の記憶の手がかりであるあの橙色の荷袋が置かれていた。が、何気無く手に取ってみると、留め具で繋いでいたはずの帯が無惨にも千切れてしまっている。
思い当たる節はあった。昨夜、あの少女の姿をした悪魔から逃げる途中、脇腹を掠めた一撃が荷袋の帯まで切ったような感触があったのだ。
しかしあのときはまだ、帯は辛うじて繋がっていた。完全に千切れてしまったのは、恐らくカインが森へ向け、真っ逆さまに落下している最中のことだろう。
ひとまず中身が無事であることを確認し、それからカインは一度荷袋を置いてその場に立ち上がった。そうしてここがどこなのか確かめるべく、適当な方角を向いて歩き出す。
頭は少しふらふらしたが、体は問題無く動いた。行く手には霧が漂っているものの、視界は思ったほど悪くない。
静かな森だった。既に日は射しているというのに、鳥の鳴き声すらしない。それでいて、森を包む静寂に不思議と不気味さは感じなかった。むしろ何か神聖なものが、この森全体を包み込んでいるような気がする。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に開けた場所へ出た。森の中にぽっかりと開いた大きな穴に、澄んだ水が溜まっている。
湖だった。ヘウリスコ村にあるベイジルの家を三軒ほど並べた大きさで、静かな湖面を漂う霧が幻想的な雰囲気を醸し出している。
ところがそのとき、視界の端で何かが動いたのを認め、カインはびくりと跳び上がった。反射的に振り向くと、そこには木に繋がれた一頭の馬がいる。
「こんな所に……馬?」
まるで人気の無い森に突如として現れたその馬は、手綱を木の枝にかけられ、背中には鞍も乗せていた。それはつまり、彼(または彼女)は人の手によってここまで導かれてきたということだ。
カインはその馬にそろそろと近づき、試しに鼻面へ手を伸ばしてみた。大人しい馬のようで、突然現れたカインにも驚くことなく、素直に鼻を触らせてくれる。
よし、よし、と無意識に声をかけながら、カインはわずかに安堵していた。馬が暴れなかったことに、ではない。ここまでまるで生き物の気配が感じられなかったこの森で、自分以外の生きているものに出会い触れられたことが、やけにカインを和ませたのだ。
(けど、この馬の主人はどこにいるんだ?)
と、カインが思ったそのとき、ふと湖から微かな水音が聞こえた。それは小魚が水面を跳ねたような、本当にささやかな水音だ。
カインはその音につられ、再び湖へと視線を戻した。魚でもいるのだろうか、と思って見やった先に、ぼんやりと人影が見える。
一瞬どきりとしながらも、霧でぼやけたその人影にカインはじっと目を凝らした。いるのはこの馬の主人だろうか。湖の中に腰まで浸かり、腕を洗うような仕草をしている。
無論、問題の人物は裸だった。こちらに背を向けてはいるが、滑らかな腰のくびれが目に入る。
次いでカインの視線が捉えたのは、濡れた灰被り薔薇の色の髪だった。その後ろ姿に、カインは見覚えがある。
「――グレイシィ?」
気付いたときには、思わずそう声をかけていた。瞬間、それまで無心に体を洗っていた人影が跳び上がり、こちらを振り向いてくる。
やはりグレイシィだった。湖の中に立ち尽くした彼女は、愕然とカインを見つめていた。
ほとんど体ごとこちらを振り向いたため、白く小ぶりな乳房が見える。カインの目線は自然、見慣れたグレイシィの顔よりもそちらに釘付けになる。
「あ」
と短く声を上げ、カインはそこでようやく自分の置かれた状況を理解した。
刹那、全身を強張らせたグレイシィが、「きっ……」と引き攣ったような声を上げる。途端に彼女の顔は真っ赤に染まり、胸元まで赤い花弁を散らしたように紅潮していく。
「きゃああああああ!!」
次の瞬間、グレイシィの上げた盛大な悲鳴が、神聖な森の静寂を叩き割った。
どこに隠れていたのだろうか。森からはその絶叫に驚いた鳥達が、ばたばたと飛び立っていく。




