終わりのナイフ
「ただいまー」
玄関のドアをくぐるなり、美世は手探りで壁にあるスイッチを探した。それをパチリと押してやれば、暗かった廊下に電気が灯る。
職場の制服に合わせた黒のパンプスを脱ぎ、家に上がった。ストッキング越しに感じるフローリングの冷たさが、今は少しだけ心地好い。
自分の部屋へ向かう途中で、リビングの前を通った。扉の無いリビングの入り口には、暖色系のビーズを繋いで作られた簾がかかっており、美世はそれをちょっと開いてリビングを覗き込む。
入り口の傍にあるスイッチを押し、リビングにも明かりをつけると、テーブルに乗った数品の料理が目についた。どれも皿には丁寧にラップがかけられており、美世の帰りを行儀よく待っていたようだ。
今日の晩飯は茄子・ピーマン・挽き肉の味噌炒めと焼き鮭、昨日のサラダの余りにきのこの味噌汁。漬物も冷蔵庫に有。食いたきゃどーぞ。
夕方、スマホにそんなメールが届いていたことを思い出し、美世は口元を綻ばせた。メールの差出人は、言わずもがな朔也だ。朔也は自分が食事担当の日になると、必ずその日の献立をメールで送りつけてくる。
美世と朔也が一緒に暮らすようになって、三年が経っていた。初めて出会ったときには反発し合っていた二人も、今では実の姉弟のような、それでいて友人のような関係になっている。
あれから美世は、祖母と共に暮らしたあの家を離れ、朔也を連れて遠い町へと引っ越した。朔也がそれまでの過去を捨て、新たな人生を生きるためには、誰も彼を知らない土地へ移った方がいいと考えたからだ。
長年慣れ親しんだ土地を離れるのはやはり寂しかったが、それも朔也のためなら耐えられると思った。今は三棟建ての新築アパートの一室に住んでおり、立地がいいこともあって住み心地は大変良い。
新居の場所は、朔也の父親や栄子には知らせなかった。連絡先も知らなかったし、あるいは今も美世達が引っ越したことすら知らずに過ごしているかもしれない。
そもそも朔也の父と栄子がまだ続いているのかどうかも怪しかったが、そんなことはもうどうでも良かった。今はただ、朔也と二人で穏やかな日々を送れればそれでいい。何の変哲も無い毎日だが、今の美世にはそれが何よりの幸福なのだ。
それから美世は自室で着替えを済ませると、夕食を取るべくリビングへと戻った。朔也は中学を卒業後すぐに働き始め、今は飲食店とガソリンスタンドでのアルバイトを掛け持ちしている。
本音を言えば朔也のことは高校まで通わせてやりたかったが、本人がそれを断った。どうも朔也は学生の頃から〝美世に養われている〟という意識を強く持っていたらしく、今度は自分が美世を助ける番だと言って進学を拒否したのだ。
美世はそれを残念に思う一方で、そんな朔也の気持ちが嬉しくもあった。そうして互いに支え合い、助け合って生きていると、自分達は本当の〝家族〟になれたのだという実感が美世の胸を満たしていく。
――ピンポーン。
そのとき、玄関から軽快なチャイムの音が響いた。ちょうど美世がダイニングキッチンで炒め物をレンジに入れ、『あたため』のボタンを押したときのことだ。
こんな時間に誰だろうと、美世は壁際に置かれた液晶テレビの上を見やった。そこにはシンプルなデザインの壁時計が掛けられており、針は夜の七時五十三分を指している。
美世はレンジのタイマーがまだ二分近く残っていることを確かめ、玄関に出た。英字がプリントされたTシャツにスウェットパンツという非常にラフな格好であることが気になったが、急な来客なのだから仕方がないと言い聞かせてドアを開ける。
「はい、どちら様ですか?」
相手が誰だか分からなかったので、念のためドアにはチェーンをかけたまま応対に出た。すると外には、見慣れた宅配会社の制服に身を包んだ男がいる。オリーブ色のキャップに刺繍された会社のロゴも、テレビCMなどでよく見かける有名なものだ。
「こんばんは。こちら、藤崎様のお宅でよろしいでしょうか?」
「はい、そうですけど」
「お荷物お届けに上がりました。受け取りのサインか印鑑をいただきたいのですが」
そう言って男が差し出してみせたのは、宅配会社の伝票が貼られた小さな段ボール箱だった。大きさはぎりぎり伝票の幅に収まる程度で、差出人の欄には美世が現在勤めている会社の住所と社名が印字されている。
「会社から?」
予想外の届け物に、美世は思わず目を丸くした。美世の自宅に荷物を送ったなどという話は、誰からも聞いていない。
が、美世には思い当たる節があった。明日は美世の誕生日なのだ。社内の親しい同僚にはそのことを話してある。ならばこれは、彼らが仕組んだサプライズプレゼントなのではないか。
夢にも思わなかった展開に驚きながらも、美世はひとまずチェーンを外し、ドアを開けて問題の荷物を受け取った。サインでも構わないと言うので男からボールペンを借り、受領印の欄に署名しようとする。
そうして美世の意識が荷物に釘付けになった、一瞬の隙だった。
突然、美世の体に強い衝撃が走った。不意打ちを食った美世はバランスを崩し、悲鳴を上げて尻から背後に倒れ込む。
転んだ拍子に、荷物もペンも投げ出してしまった。痛みに気を取られていると、家の玄関が勝手に閉まり、鍵のかかる音がする。
尻餅をついたまま、目の前にいる男を見上げた。いつの間にかキャップを外した男は若く、歳は二十四歳の美世とあまり変わらないように見えた。
が、キャップを外すと同時に零れ落ちた前髪は長く、黒いことも相俟って陰気な印象を与えてくる。加えて美世を見下ろした目はぞっとするほど冷たく、明らかな害意があることをはっきりと伝えてくる。
「あ……あなた、何――」
恐怖を感じる暇も無かった。いきなり掴みかかってきた男が美世を床に押し倒し、馬乗りになってTシャツを捲り上げてきた。
あまりにも唐突な出来事に、美世は一瞬言葉を失う。が、そこでようやく恐怖が全身を駆け巡り、美世は自らの下着に伸びてきた男の手を振り払う。
「いやっ、何するのよ! 離れて! 離れ――んぐっ」
「騒ぐな」
大きな男の手が、押さえつけるような力で美世の口を塞いできた。それでもなお声を上げ、美世は男を追い払おうと両手足をばたつかせる。
自らの口を塞ぐ男の手を払おうとし、それが無理だと分かると、手当たり次第に男を殴りまくった。すると、初めはそれを片手であしらっていた男もついに煩わしくなったのか、美世の衣服を剥ぐのをやめ、突如懐に手を入れる。
「――騒ぐなっつってんだろ。殺すぞ」
そのとき男が取り出したのは、一本のバタフライナイフだった。背筋が凍るほど研ぎ澄まされたそのナイフの輝きが、美世の体を硬直させる。
朔也の手料理を温めていた電子レンジが、任務の完了を示すアラームを誇らしげに鳴らして美世を呼んだ。
しかし返ってきたものは、美世の掠れた呻き声だけだった。




