五章 幸せが降り注ぐ刻
■五章 幸せが降り注ぐ刻
1
藍色の夜空には数多の星が浮かんでいた。今にも零れそうな星の光は爪の形をしたか細い月の光を圧し、ただ煌めく。
都から北西にある平野を越えた先にあるだだっ広い草原。その距離は徒歩で四時間程度。グローリアは足の向くまま、ここまで歩いて来た。
黒い巻き髪は鋭い風になぶられて収まり悪く四方八方に跳ねる。
小屋の周囲にはただただ平野が横たわるばかり。グローリアは平野の真ん中にぽつねんと積み上げられていた丸太に腰を下ろし、何時間も身じろぎ一つせずそこにいた。次第に茜色だった空は漆黒へ移り変わっていって。
一年ぶりに踏みしめたここは、何も変わっていない。家の玄関口の土は赤黒く変色したまま、あの時から時間を止めたかのようで。
グローリアは夜空を仰いだ。首の後ろに痛みを覚えるが、そのまま空を見上げていた。
――――流星群がやって来る。
人の気配も何もない平野の上を、流星がひっきりなしに通過していく。グローリアの赤い瞳が瞬いた。
一年に一度、真冬の晴れた日。ここら一帯の地域では流星群が観測出来る。
グローリアは去年、ここで見たこの光景を瞼の裏に思い浮かべた。真白い息を吹きながら、彼女は笑っていた。あの時、世界中で自分こそ一番幸せだと心から思っていた。
グローリアは寒さによってかさついた唇を舐める。そして、静寂を切り裂いて儚い旋律を風に乗せる。
ねえ 神様
この世にある全ての魂は 等しく生きることを許されているのでしょう?
ならば 私は願います
生を全うし 死に流れるその瞬間まで
空に流れる星達の如く 我々に幸せが…………
いつも耳にしていた子守歌。意識しなくても歌えるはずの子守歌。なのに、言葉が出て来ない。
グローリアは俯き、丸太に投げ出した両手を握りしめた。一陣の風が寂しげに鳴く。
かさり、と湿った土を踏みしめる音がした。
「……どうして、ここにいるってわかったの?」
グローリアは俯いたまま、気配に向かって言葉を投げた。
「ピアス(拘束具)」
あ、とグローリアは顔を顰める。血の交換を行なったことにより、グローリアの居場所はヘンリーには筒抜けなのだ。そんなこと、すっかり忘れていた。
ヘンリーはグローリアと少し距離を開けて丸太に腰かける。彼は膝に腕を乗せて肩を竦めた。
「脱走しようとしたのなら、詰めが甘いね」
「ボードゲームと一緒で?」
うん、とヘンリーは素っ気なく答えた。
「別に、脱走しようとしたわけじゃないわ」
「じゃあ、どうしてお菓子を買いに行くと嘘を吐いてまで大教会を出た」
グローリアは穏やかな表情で夜空へ視線を送った。
「…………見て、綺麗でしょ」
「ああ……そうだね」
虚を突かれたようにヘンリーは空を見上げる。
「命が零れていくみたい」
ぽつりと呟くグローリアに、ヘンリーは何も言わない。
黄色、青、赤。さまざまな色合いの流星が遠くの山や谷へ落ちて行く。大きさも種類も、燃え尽き方だって違う星のかけら。
「色は違っても、全部おんなじ。……なのに……」
グローリアは言葉を切る。喉の奥に大きな塊が詰まったような息苦しさに、彼女は首を押さえた。
「同じ命なのに、どうして……赤目はないがしろにされるの?」
何度そう思っただろう。抗議しただろう。
誰の耳にも止まらない――止まるはずのない嘆きは、白い吐息の結晶となって空気中に霧散する。
「赤目は悪魔の子供と皆言う。人の皮を被っただけの悪魔だって。でも、ならどうしてこんなに苦しいの」
グローリアの問いかけは別に答えを求めるものではない。
「…………ヘンリー、わたし……わからなくなった。アーティが覚醒した時、あの子は……助けてって心で叫んでた」
「…………」
「死にたくないって泣いてた」
「それは……」
ヘンリーの言葉が途切れる。
「なのに、赤目だからしょうがないって……皆……赤目本人だって思ってるわ。殺されることがしょうがないことだと。何の罪も犯していないうちから、そう思ってる」
グローリアは硬い表情のまま呟いた。
たしかに、アーティは暴れた。しかし、すぐに我に返って自分自身を制御したじゃないか。
あの場で耳鼻から血を流すほど痛めつけることなどなかった。そんなことしなければ、あの場で殺さなくて済んだのに。
もっと穏やかに、安らかなる場所で、眠るように……一思いで旅立たせてもらえたかもしれないのに。
ダルテも、どうして赤目というだけであれほど――……。
クルマシオとして人の暮らしを守るため働いていた彼らを、人はどうしてあそこまで傷付けることが出来るのだ。
――赤目だから。
人々は赤目というのを免罪符にして、同じ“人間”を虐げている。
それを赤目であるグローリアが糾弾したところで事態は何も変わらない。
しかし、言わずにはいられなかった。おかしい、と。間違ってる、と。
「……ほとんどの赤目は自分自身が人でないと思っている。だから、殺されることは仕方ないと諦めているんだ」
ヘンリーは言葉を吟味しながら言った。
「何故そう思うのか、わたしにはわからない」
グローリアの中で、魔物が体中を縦横無尽に蠢くような揺らめきが起こる。
普通に扱えとは言わない。
ただ、身の内に眠る悪魔が目覚める時までは安らかに暮らすことを許してほしい。
生きる権利と、人間としての誇りを与えて欲しい。
「…………キミは家族に恵まれた」
ヘンリーは静かな口調で言った。
「グローリア、多分キミは気づいてるだろう。ボクはキミと同じ――――赤目だ」
反吐が出るとでも言いたげに彼は言い捨てる。
「ボクは点眼薬で赤い目を変色させ人間に紛れてクルマシオという職種についた、姑息な赤目なんだ」
ヘンリーは胸ポケットからガラスの小瓶を取り出し、地面に落下させた。それは小さな破裂音とともに粉々に砕け散った。毒々しい液体が地面に染みた。
「あ……」
「『お前が原罪を背負いし忌み嫌われる赤目でも――私はお前を生かしてやろう』」
彼の発した、呪いのような言葉にグローリアの瞳孔が縮まる。
「――幼い頃からそう言われて、ボクは育った」
「……家族に……?」
ヘンリーは何も言わない。ただ、その横顔は酷く無表情だった。
「ボクの父親は、大教会お抱えの研究所の所長でさ。自分の子が赤目として生まれたことに落胆するどころか、いい実験材料が手に入ったと嬉しがったらしい」
燃える赤毛を掻き上げ、ヘンリーは瞑目する。
「失明の恐れがある薬品を子供の目に点眼する父親……。それを見た母親は、父親を止めるでもなく点眼薬によって黒目になったボクを聖学校へ入れた。彼女の家系は代々高名なクルマシオを輩出している名家でね。赤目であることを隠し通し、クルマシオとして有名になれと言い放った」
グローリアは居たたまれなくなって視線を落とした。
「点眼薬の効き目は数時間。スパルタな授業の合間にトイレへ駆け込んでは、激痛に耐えながら点眼したよ。どうしてここまでしなくちゃいけないんだ、という疑問さえ浮かばなかった」
それが当然のことだと思っていたから、と彼は蝋人形のような無表情さで呟く。
「……ボクが今まで出会ってきた赤目はね。ボクと同じように家族から人間として見られていなかったり、忌み嫌われていたり、覚醒しかけだったり……はたまた、全てをなくしてここへ辿り着いた者ばかりだったんだ。グローリアみたいに普通の人間と同じ思考を持つ赤目、初めてだった」
ふっと目を閉じたまま、ヘンリーは微笑した。
「キミが怒りを爆発させた時、びっくりしたよ。赤目にも感情があるのだと、あのとき実感した」
「ヘンリーも、笑うじゃない」
「ああ、偽りの笑みは学習したさ。……人間として生きるために」
その言葉は酷く悲しい響きを持っていた。
「……怒ったことは、あるでしょう?」
「ないよ」
ヘンリーは目を開き、痛ましげに腕を抱え込んだ。彼の視線とグローリアの視線がかち合う。
「心から他人を思いやったり、憎んだり、仲間が死んで悲しいと思ったりしたことなんてなかった」
「…………」
「でも、キミを見ているうちに……ボクは無意識に感情を抑え込んでいたんじゃないかって思うようになった。そして、アーティの涙を見て確信したよ。赤目も感情があるんだって」
「当……たり前よ。ヘンリーだって、他の赤目だって、感情はあるわ」
声が震えてしまった。
ヘンリーは今まで、どんな思いで生きてきたのだろう。感情などないと自らに暗示をかけて、ずっと孤独に生きてきたのだろうか。
グローリアはこの時、初めてヘンリーの心に触れることができた気がした。
――しかし。
グローリアはヘンリーから顔を背けた。彼は脱走したグローリアを連れ戻しに来たのだ。そんな彼に何を言っても無駄だろう。
「ねえ、ヘンリー。わたし、連れ戻されたら死刑になるんじゃないの?」
「え?」
「問題行動を多発する赤目なんか要らないって、処刑してしまえって、上層部の人が言ってるって皆が耳打ちしてた」
「それは――」
「……いいよ」
言い淀むヘンリーに、グローリアは笑顔を見せた。
「その覚悟でここへ来たんだから」
ヘンリーの顔が強張る。
グローリアは、大教会から逃げおおせることができるなど到底思っていなかった。ただ、最期にこの景色を目に焼きつけておきたい一心でここまで歩いてきたのだ。
「――――――あのね、わたし……一つだけ嘘を吐いてたことがあるの」
グローリアはそう言うと、丸太から飛び降りて胸の前に拳を握った。
「わたしは、ここで三人の人間を殺したわ。生き倒れていたわたしを介抱してくれた優しい人達をね」
「知ってるよ。目が覚めた時に赤い目を見られ、通報されると思ったんだろう?」
「――嘘なの」
「…………何だって?」
自分の死刑は決まったようなものだ。別にあのことが嘘だったことを告白したところで状況は変わらない。だから、最期に……ヘンリーには言っておきたかった。心の底に沈めた、鈍く光る真実を。
――蘇ってくる優しい記憶の中で、三人がグローリアへ微笑んだ。
「あの三人は他人なんかじゃない。…………家族よ」
誰にも言うまいと思っていたことを吐露したグローリアを前に、ヘンリーは言葉を失くした。
2
グローリアは自身がかつて住んでいた小屋を見つめ、つとめて明るく言う。
「お兄ちゃんがクルマシオになった影響で、わたしもクルマシオになるんだって聖典の詠唱を練習してたわ。お父さんとお母さんは司教をしていてね、この近くの村教会に務めてた」
グローリアは一生懸命クルマシオになるための勉強をし、聖典の詠唱に励んでいた。家族は皆、そんな彼女を応援してくれて。
両親は司教の仕事をしながら、教会にある書物をこっそりグローリアに読み聞かせてくれた。クルマシオとして大教会で暮らす兄は、休暇の度に家へ帰宅し、グローリアの聖典の詠唱は天下一だと褒めてくれた。
「きっと、グローリアは他人の痛みがわかるクルマシオになれるよって……言ってくれてた」
肩叩きをしながら聖典の内容を暗唱するグローリアを、繰り返し褒めてくれる母の笑顔が嬉しくて仕方なかった。
しかしある時、グローリアは残酷な現実を突きつけられたのだ。
赤目は悪魔の子供。
その旨の記述を見つけたのはたしか、こっそり村教会で教本を漁った時だったか。
信じられない思いで、目を皿のようにして何度も何度も『赤目』について述べられたページを読んだ。
それまで両親や兄からもらっていた教本内には、ところどころ黒く塗りつぶしたページがあった。それらは全て、赤目のことが記されていた箇所で。
――赤目は母胎に宿っていた胎児とすり替わり、人の子の外見を持ちうる悪魔。その証が、常人の持ち得ることのない赤い瞳。
――人々に危害を加える赤目はクルマシオによって捕獲され、然るべき手続きを踏んだ上で隔離される。
それらの記述を読んで、グローリアはようやく理解した。町へ出る時に色つきメガネを着用させられるわけを。学校に通うことを許されなかったわけを。
「…………何故、家族を手にかけたんだ……?」
「――三人共、悪魔憑きになったの」
いまだ、当時の記憶がグローリアを苛み続ける。
グローリアが外出先から帰ると、家中が荒らされていて。泥棒でも入ったのだろうかと小首を傾げたグローリアの後ろに、三つの影が佇んでいた。酷薄に、三つの影は嗤った。
「おぞましい程の悪魔が彼らに取り憑いていたわ。とてもじゃないけど、祓い切れなかった」
夕方のオレンジに溢れ返る部屋に三つの伸びた影。あの、つんざくような甲高い笑い声を忘れられるはずもない。
『――――――――』
声をなくした少女に三つの影は笑いかけた。
『そなたは可哀想な子供。我らがいとし子』
『弾圧され、このまま隠れていることを強要されて朽ちゆく運命にある子供よ』
『我らはそなたを助けに来たのだ』
三つの影がランプの明かりに照らされて壁に映る。少女は唇を引き結び、決然とした面持ちで言った。
『騙されない』
ぴたりと三つの影は動きを止める。そして、うず高い哄笑が巻き起こした。
三つの影は肩を震わせて笑い続けながら、だらりと垂らした舌から涎を零して目を剥く。
『ハムギュスト神が何をしてくれた? ただ、見守るだけ。そなたを助けようとしてくれたことが一度でもあるか?』
『……っ。神様、どうして答えてくれないの! 助けて、助けて、助けて!』
金切り声で叫んだ。雷鳴が轟く。
神の祝福の光が降り注ぐ気配は一切ない。
必死で聖典を詠唱し、聖水を振りかけた。なのに、神はグローリアの味方についてくれなかった。
グローリアは為す術もなく、へたり込んだ。
兄は悪魔に取り憑かれて薄れゆく意識下で、グローリアに懇願する。
『グローリア……頼む』
悲痛な響きを持つ声色にグローリアは戸惑った。兄が言わんとしていることは彼女にも理解できたが、そんなことできるわけがなかった。
兄は奇声を発してグローリアの腕を捻り潰す。嫌な音を立てて彼女の骨が折れた。それでも、反撃する気など起きない。
父親は自らの頭を押さえつけながら叫んだ。
『早く…………っ』
これ以上、三人の苦しみを長引かせたくない。
その思いを胸に、グローリアは涙で歪む視界の端に映った銀のレイピアを握りしめた。彼女はそれを閃かせ、三人の心臓を次々と突き刺した。
轟く叫びと共に、何かが三人から抜け出て行く。
ランタンが揺れた。
一人取り残されたグローリアは、三人の後を追いかけるために銀のレイピアを自らの心臓へ向ける。その手を、細い手が止めた。
『グ……ア…………』
苦痛に歪む息の中、母親が首を横に振る。
『――…………っ』
安らかな顔で、三人は息絶えた。
嘘だと言って欲しかった。しかし、目の前に広がる光景は消えてくれない。グローリアは絶叫して床を叩いた。
過去を思い返し、憂鬱な気持ちでグローリアは目を伏せる。
「ハムギュスト神に仕える者は人々の安息を守るのが役目でしょう?」
「ああ」
「もし、そんな彼らが忌まれる赤目を故意的に庇った挙句、赤目それに殺されたと人々に知られたら、どんな扱いをされるか……ヘンリーには想像できるはず」
ハムギュスト神に仕える身でありながら赤目を隠匿し、悪魔憑きとなった挙句、赤目に殺された。そんなことが知れ渡れば、家族は丁重に弔ってもらえない。野に打ち捨てられるかもしれない。
「キミは……だから、嘘を吐いたのか」
ヘンリーは驚愕の眼差しでグローリアを見つめる。
そう、グローリアは嘘を吐いた。家族の名誉と安らかなる死を守るために。
彼らは家族ではない、知らない人達だと。自らの悲しみを押し殺して審判長達にそう告げた。
「…………わたし、疲れちゃった」
自然と言葉が口についた。
「もう、わたしの家族は世界中のどこにもいない。幸せなんて、どこにもない」
グローリアは流れ星を見上げた。家族を失った時より潰えていたはずの涙が、彼女の頬を滑り落ちる。
『幸せは、信じた者のところに舞い降りるの。どんな境遇を抱えている者でもね』
「――嘘つき」
降り注ぐのはたくさんの命だけで。どんなに不幸を乗り越えたとしても幸せなんてやって来ない。
頑張ってみた。気丈に自分を励ましてやって来た。
しかし、現実はあまりに辛く惨い。
奴隷の人達だって自分のように辛い思いをしているのだから、こんな世界なんかに負けないと思ってやってきた。だが、家族を手にかけた罪はグローリアに重くのしかかり、しこりとなり。
『……殺された三人の無念は彼らのものであって、俺のものではない。神の名のもと、犯した罪相応の贖いを受けるのが正当なことだろう』
父と叔父、そして親友を赤目によって殺されたラザファムはそう言っていた。
だが、グローリアの場合はどうすればいいのだろう。家族を殺したのは、自分なのだ。
憎い、憎い。
誰が? ――――自分が。
感触が、においが、視覚が覚えている。
全てがグローリアを責め立てる。お前に生きる価値はない、と。三人の後を追え、と。
「もう、無理だよ」
グローリアは顔をくしゃくしゃにして座り込んだ。
この目玉を抉ればいいのか。体ごと取り変えればいいのか。全て忘れてしまえばいいのか。
俯くグローリアに、ヘンリーは手を伸ばした。拒絶するが、彼は強引にグローリアの手を握りしめる。
涙に濡れたグローリアの頬に左手を添えた。彼は黒い瞳でこちらを覗き込んでくる。
「キミをここで見つけた時、ボクはキミを殺そうとしていた。人間を手にかけた赤目は死刑になる。なら、今この場で殺してやった方がいいんじゃないかと思ったから。でも……出来なかった」
静寂の中、夜空が淡く輝く。
「キミは覚えているかい。ここで初めて会った時、キミはボクに手を伸ばして笑ってくれた。それがずっと瞼の裏に焼きついて離れなくて。いつもなら罪を犯した赤目のことなんてすぐでも忘れられるのに……キミのことは忘れられなかった。だから、わざわざ地下牢まで会いに行ったんだ」
そしたら、とヘンリーはその時のことを思い出しているのか、目を細める。
「そして実際会ってみたら、キミは地下牢に入れたボクに対して『ありがとう』と、また笑っただろう? 不思議な気持ちになったよ」
ヘンリーの漆黒の双眸が赤く揺らめき、こめかみに血管が浮き出た。彼は穏やかな表情をしている。
「どう接すればいいかわからなくて、突き放してみた。近づくなって。でも、突き放しながらもキミのことを心配している自分がいて……。正直、この一年ずっと戸惑いっぱなしだった」
彼の黒と真紅が混ざり合い、やがて美しい薔薇色に変化する。
「――……今ならそのワケがわかる。キミは、ボクにとって初めての光だったんだ」
「……ひ……かり……?」
流星が音もなく二人の頭上に行き交う。
「一緒だね、と笑ってくれた。……赤目には感情なんてないと思っていたのに……」
ヘンリーはそう言ってグローリアをきつく抱きしめた。
「もう、嘘は吐かない。ボクはキミと一緒に生きて行く」
耳を疑った。
「ボクが、今日からキミの家族になる」
グローリアはヘンリーの顔を見上げる。かち合った赤の双眸は真剣そのもので、聞き間違いではないことは明白で。
「キミにたくさんの幸せが降り注ぐように、ボクがキミを守るから」
――一緒に帰ろう。
グローリアの頬に、新しい涙が浮かぶ。彼女はヘンリーにしがみつき、顔を埋めた。
3
暗がりの中、医務室にあるベッドが軋んだ。
「い…………っ」
ダルテは非常に強い痛みを顔面に感じ、右手で顔を押さえようとした。しかし、全く腕に力が入らない。
何故かと思って右腕を見れば、包帯でグルグル巻きにされていて。内側は石膏で固定されているようだった。
あらためて、自由に動かすことができる左手で顔を押さえてみる。すると、顔にも包帯が巻いてあることがわかる。
ダルテは嘆息した。自分は常人とは違うのだから、こんな頑丈に固めなくても良いのにと思いつつベッドから上体を起こした。
どうやら、自分はアーティが覚醒したあと気を失っていたらしい。ここが教会庁にある医務室だということはすぐに判断がついた。ぷんと薬品のにおいが鼻孔をくすぐる。
「…………」
グローリアは、あのあとどうしただろうか。
アーティが殺されたまでのことは、薄い意識下で朧気ではあるが覚えている。
そして意識が完全に沈む直前に見た、グローリアの発狂。目裏に焼きついて離れない、あの悲痛な叫び。
胸騒ぎがする。ダルテはまだ痛みの残る足を動かし、ベッドを抜け出した。
壁伝いに足を引きずりつつ、ダルテは赤目部隊の談話室まで辿り着いた。階段を上る際にひどく足首に負担をかけてしまったようで、ズキズキと骨が脈を打つ。
窓ガラスの向こうに広がる夜闇は深い。もう誰しも寝静まっているかもしれない。しかし……。
(誰でも良いから、起きていてくれ)
医務員が医務室にいてくれれば状況を聞くことができたのに、と小さく毒づく。大教会庁の医務員は日勤のみ。夜は誰もいないのが常である。
(グローリアはきっと、僕の意識が戻らないことを気にしてるはず)
彼女はそんな人だ。今まで出会ったことがないタイプの、同じ赤目。まるで人間と同じように泣き笑い、怒る。ダルテが喪失してしまった“感情”を持った赤目。
「存じ上げません」
「ビエロフカ!」
「隊長候補ともあろうものが、そんなことで良いと思っているのか!」
と、談話室のドアノブに手をかけたダルテの耳に、そんな声が飛び込んできた。ドアの隙間より中を見れば、ラザファムに向かって黒衣に身を包んだ司教達が唾を撒き散らして叫んでいる。
司教達の中には、人事統括部のローレンの姿もあった。
◆
「ラザファム、赤目を庇って何になるというのです。赤目は道具。主人に歯向かう道具は廃棄してしまえばいいのです。あなたとヘンリーがグローリアの話をしていたのは、わかっているのですよ」
ラザファムは舌打ちしたいのを必死に堪える。どうやら、ヘンリーとラザファムが部屋で交わした会話を誰かが聞いていたらしい。非常にまずい状況だった。
それにしてもローレンの厭味は度を超えるものがあるとラザファムは思う。いくら赤目が悪魔の子供だと言っても、それではまるで生きる権利を有していないと言っているも同じではないか。
ラザファムの脳裏にグローリアの顔が霞む。くるくる表情を変え、彼女は意思を持って行動していた。そんなグローリアは果たして道具と呼べるのか。
「ラザファム……これは……まずいかもしれない。庇いきれるか……」
顔色一つ変えず、シェパード隊長はラザファムへ囁いた。
飄々とした態度で司教達を諫めている隊長だが、そのこめかみには冷や汗が伝っている。
ラザファムは窓から洩れてくる月明かりを見ていた。隊長と同じく表面には表わしていないが、内心かなり焦っていた。
南塔の大部屋には、十数名の司教が押しかけてきていた。
事の深刻さを察知したのだろう。赤目部隊の者達はラザファムとシェパード隊長、ジャンやコーン・ベン副隊長以外、そそくさと自室へ戻っていった。
ローレンは司教達の中から一歩進み出た。彼は隊長の顔をじっと見つめる。
「グローリア(赤目)が帰ってきていないという報告は、あなたも受けているはずです」
「はい」
「彼女のペアであるヘンリーもいないと聞きました」
「はい」
すっと、ローレンは隊長から目を逸らして、今度はラザファムを見つめた。
「ラザファム。あなたはヘンリーが彼女を探しに行くことを聞いていたという証言は取れています。……彼女が今どこにいるか、ヘンリーから聞いて知っているはずです。早く居場所を言いなさい」
「さあ、わかりません」
ラザファムは坦々と事実を述べた。本当にグローリアの居場所を知らないのだから、嘘ではない。
彼のすました返答が癪に障ったのか、ローレンの微笑が引き攣った。ローレンは無理矢理口角を引き上げて言う。
「すぐに、居場所を、言いなさい」
「お言葉ですが、ローレンさん」
ベンが横から口を挟んだ。彼は金色の髪を乱暴に掻き毟り、苦虫を潰したような顔をしてみせる。
「あんたラザファムがグローリアの居場所を吐いたら、特殊部隊を派遣させる気だろ?」
「……それが、何か?」
冷淡に聞き返してくるローレンにコーンが心底嘆かわしいと言わんばかりによろめく。
「嗚呼、あんな幼気な一人の少女を、殺すおつもりなのですか?」
司教達はコーンの発言に、ギョッと目を丸くする。
「べべべべ別に、我々は殺すとは一言も――」
「ええ、殺すつもりです。何を今更……ずっと特殊部隊にいたというのに、あなた方お三方は甘さが消えていないようですね」
弁解しようとした司教の一人を押さえ、ローレンは明朗な声で答えた。
「――チッ。だったら、なおさらだ。ラザファム、絶っっっ対教えんなよ。おれはこれ以上、仲間が削れんの、見たくないからな」
ジャンは強い口調で挑むように言った。
というか、そもそも本当にグローリアの居場所を知らないんです、とラザファムは言うが、誰も信用してくれていない。
時計は真夜中を回っていた。
グローリアとヘンリーが戻ってくる気配はない。
夕方から今の今まで、二人の居場所を知らぬ存ぜぬでのらりくらりかわしていたが、ここらが限界だった。
「グローリア達はちゃんと外出許可証をもらっているのでしょう。なら、問題ないのではないですか」
いつもより幾分か大きな声でコーンが司教達に噛みついた。優男の彼にしては勇気を振り絞った方だ。それを一人の司祭が盛大な溜め息を以ってして制す。
「コーン副隊長。君は何年ここにいるのかね。……外出許可の効力はその日限り。夜になっても戻らぬとなると職務放棄と見なされる」
そう言って、司教達は埒が明かないと言いたげに視線を交わした。
「仕方ない。場所は判明していませんが……特殊部隊に依頼を……」
「そうですね……緊急事態です。大司教様もお許しを下さることでしょう」
不穏過ぎる司教達の会話にラザファムは目を剥いた。
「少々お待ちを。特殊部隊とは大仰な――」
シェパード隊長の制止をローレンは鬱陶しげに払いのける。
「要注意の赤目が一匹逃げたのですよ。大げさではありません」
「お待ち下さい、ローレン様。二人は必ず帰ってきます。ですから、あともう少し――」
さすがのラザファムもこれには動揺してしまった。思わずローレンの腕を掴んでしまう。
ローレンの目が猛禽類のようにぎらついた。
「……だから、私は言ったのです。一度でも暴れたことのある赤目は全て死刑に処すべきと! そうすれば、このような事態に陥ることはなかったはず!」
狂気を孕んだ彼はしきりに前髪を撫でつける。
「特殊部隊に命令を出します。忌まわしき赤目を血祭りに上げろ、と。ラザファム、手をお離しなさい。これはお願いではありません。命令です」
反吐が出そうだ。
ラザファムの蒼穹の双眸に、隊長や副隊長達の衝撃に満ちた顔が映り込む。自分達が所属していた教会は、こんな腐った考えに染まっているのかと、彼らの顔には落胆が浮かんでいた。
ラザファムは拳を握りしめ、下唇を噛みしめた。ぷつ、と唇が切れて赤い血が流れる。
「ローレン! 貴様――――」
「まあ、待ちなさい。そのように取り乱すものではない」
ローレンの胸倉を強く掴んだラザファムの行動を、穏やかな声が押しとどめた。
腰の辺りに後ろ手を組んだ老人がゆっくりと大部屋へ入って来た。彼は鳶色の口髭を蓄え、聖職者の証である黒の法衣を着用している。――大司教だ。
ラザファムはローレンの胸倉を掴んでいた手を慌てて放した。
人の良さそうな微笑を湛えた彼は、面白そうにラザファムを見、次に場にいる皆を眺めた。
「彼らは脱走したわけじゃない。わしが視察に行くよう頼んだだけだ」
「大司教様が……ですか?」
疑心に満ちたローレンの言葉に大司教は首肯する。
「うむ。安心しなさい。明日にはこちらへ戻ってくるだろうから。……ダルテもそうグローリアから聞いたと証言している。のう、ダルテ」
「…………はい」
ラザファムは目を丸くした。
「ダルテ、お前ずっと眠っていたはずじゃ――……」
「グローリアが昼に見舞ってくれた際、意識を取り戻したんです。その際に、大司教から視察へ行くように指示を受けたと言うことを聞きました」
「そのとおり。彼らは視察に行っているだけ。大事にするでない」
胸を張る大司教だったが、その言葉に誰も納得していない。
大司教に歯向かうことを最も嫌うローレン達さえ、不審げに顔を見合わせている。
「もし、明日になってもヘンリー達が帰らぬことがあったら――わしが直々に特殊部隊出動命令を出す。……さあさ、取るにたらんことで騒ぐでない。夜も深い。各自、就寝しなさい」
大司教はそう言い、手を二回叩いた。
「は、はい!」
司教達は慌てて赤目部隊の拠点から去って行く。ローレンはラザファム達を一睨みすると、大司教に恭しく一礼しつつ場を辞した。
コーン副隊長は緊張の糸が切れたのか、マリオネットの如く床にへたり込んだ。過呼吸気味になっている彼の背中をジャンとベンが心配そうにさすっている。
ラザファムも床に崩れ落ちたい気分にあったが、大司教の手前、それは憚られた。
「シェパード、それに他の者も……司教達が迷惑をかけてしまってすまんの」
「いいえ。滅相もありません」
隊長は緊張した面持ちで言い、この窮地を救ってくれた大司教に礼を述べた。
大司教は苦笑した。
「ダルテにも感謝しておきなさい。病み上がりだというのに、わしの行動にとっさに機転を利かせて合わせてくれた」
「はっ」
隊長や副隊長らは、感謝の言葉をしきりに口にする。
大司教はそんな一同の様子に肩を竦めた。彼は髪を掻き上げた拍子に左耳が露わとなる。
ラザファムは「あっ」と声を上げそうになった。大司教の左耳朶には逆十字の形をした大ぶりのピアスが揺れていた。それはヘンリーがしているのと同じピアスで。
(何故、大司教がヘンリーと同じピアスを? いや、似ているだけ……?)
「シェパード。二人の処罰はお前に任せる」
シェパード隊長は弾けるように大司教を見、頭を下げた。
大司教は窓辺に寄って微かな笑みを浮かべる。夜空を呑み込む程の星の輝きに向かって、彼は手を伸ばし、ぐっと拳を握りしめて手首を捻った。
「……赤目に対して、赤目が『たくさんの幸せを降り注ぐ』……ね。ハハッ、面白いじゃないか」
歌うように、彼は呟いた。
大司教の表情は窺い知れない。
4
鼻先がつんとした。
「…………ん……」
グローリアはまだ閉じたままの瞼を擦って上体を起こす。その拍子に、ふわりと何かが肩から滑り落ちた。それは薄い毛布だった。きっと、いつの間にか眠ってしまったグローリアに、ヘンリーがかけてくれたのだろう。毛布を口許に寄せ、グローリアは笑みを零した。
小窓からは朝陽が射し込んでいた。遠くにある地平線と太陽の光が熔け合い、混ざり合っている。
部屋の中に視線をやると、ヘンリーが竈で火を焚いているのが目に入った。彼は火掻き棒で炭と化した角材と紙くずをいじっている。
グローリアが少しでも暖を取れるよう配慮してくれたに違いない。
もう一年近く使っていない竈で火を焚くのは大変な作業だったろう。
グローリアが起きたことに気づいたヘンリーは竈の前から立ち上がった。
「おはよう」
「あ……おはよう」
「非常食で申し訳ないけど……食べる?」
「うん」
ヘンリーが差し出したのは、穀物と水砂糖を混ぜて固めたものだった。それはとても硬く、美味しいと思える代物ではない。口に含むと微かな甘味が脳の覚醒を促してくれる。
「それを食べたら出立しよう。…………今頃、大教会は大騒ぎだろうね」
「――ごめんなさい」
「構わない。気にしなくていい」
ヘンリーは、たいそうなことをしでかしたグローリアを笑って許してくれた。
グローリアには、さっぱりわからなかった。
どうして、彼がここまでグローリアに対してよくしてくれるのか。家族になると言ってくれたのか。
『一緒だね』
あの時そう言って笑いかけたことが心の琴線に触れたのだと言われても、グローリアからしてみれば思ったことを口にしただけで。
――きっと、誰にもわからない。どんなことが固く閉じた心をこじ開ける鍵になるかなんて。他人の心を覗ける者などいないのだから。グローリアの考えていることだって、わからないはずだから。
ヘンリーの赤い瞳を見つめてみる。その目の奥には幾千もの星屑が散りばめられていた。
全てが赤かった。オレンジ色の朝焼けの中ではグローリア達の赤い瞳も同化して溶け込む。人間達はグローリア達が赤目だと気付かず、呑気に朝の挨拶をしてくる。
グローリアはヘンリーの影を踏みつけながら歩いていた。一歩前に踏み出すごとに、かつて家族と過ごした家が遠ざかって行く。
もう、ここへ来ることはないだろう。これが最後だと自身に言い聞かせ、うらぶれた小屋を振り返った。
靄の海に沈む家は金色に輝いていた。
「グローリア」
佇んだまま動かないグローリアを、ヘンリーが呼んだ。彼は手を伸べた。
陽炎がちらつく。
ヘンリーの後ろに、両親と兄の姿を見た。笑顔を見た。
グローリアはヘンリーから差し出された手を、壊れ物でも扱うかのように慎重に握り返す。
「もう少し歩けば町に着く。そうしたら、馬車を拾うから」
「うん」
繋いだ手はそのままに朝焼けの中を歩いた。
「さて、言い訳を考えないとね。隊長やビエロフカが何とかごまかしてくれていることを願うよ」
「…………」
グローリアの脳裏に、ラザファムの顔が浮かび上がる。
彼はグローリアの失態に怒り心頭していることだろう。
今度何かしでかしたら赤目部隊から追放してやる、と言っていた彼の険しい口調を思い出し、項垂れる。
そんなグローリアの手をヘンリーが力強く握った。
「大丈夫さ」
絶対にキミを死刑になんてさせないから、と彼は続ける。ヘンリーの言葉は説得力で満ち溢れていた。
グローリアはヘンリーの横顔を見つめる。彼の視線は真っすぐ前を向いていた。
「ヘンリー」
「何?」
朝陽を照らされ、ヘンリーは眩しそうにグローリアの方へ向き直る。
――ありがとう。
その一言は言えそうにない。
言ってしまえば、グローリアの今抱えている深い感謝の念が一気に陳腐なものへと変質してしまうような気がした。
「なんでもない」
「…………そう」
ヘンリーは全てを見透かしているかのように笑った。
グローリアはそんな彼から視線を剥がし、歌を口ずさむ。
ねえ 神様
信ずる者は報われると あなたは赤土の上にひれ伏す私に仰ってくれたでしょう?
だから 私は祈ります
不幸を乗り越えた先にあるだろう 幸福を
空に流れる星達の如く 我々に幸せが降り注ぎますように
グローリア グローリア グローリア
明日を乞う存在全てに栄光あれ
朝焼けに沈む広大な大地は、全てを許すように横たわっていた。