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グローリア  作者: 沢良木由香里
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四章 慟哭



■四章 慟哭



 シュワルビシェ国に雪の結晶が舞い落ちる。

 グローリアがクルマシオとなって初めての冬がやって来た。昨晩から降り続いた雪は、都を一面の銀世界へ塗り変えた。

 グローリアは自室の窓を開け放ち、真白い絨毯を敷き詰めたような地面から照り返してくる太陽の光に顔を輝かせる。

 他の赤目達はまだ眠っていた。グローリアは他の者達を起こさぬよう気をつけながら素早く着替えると、一目散に外へ踊り出した。

 雪雲は過ぎ去り、太陽の暖かさを受けて積雪は若干溶け始めている。グローリアは手袋もつけていない両手で雪をすくい上げた。それを一気に空へ放る。キラキラと白い雪が宝石の如く輝いた。

 雪を喜んでいたのは、グローリア一人だけではなかった。赤目の少年が木陰からグローリアの様子を窺っている。アーティだ。

 グローリアは彼に微笑みかけ、手招きした。

「アーティ、おいでよ。心配しなくても大丈夫。他の人はいないから」

 アーティは辺りを用心深く見回し、グローリアの他に誰もいないのを確認してから傍へ寄って来る。

 覚束ない足取りの彼は、雪に足を絡ませて盛大に転んだ。思い切り鼻の頭から雪へダイブしたダルテを見て、グローリアは軽やかに笑った。

 顔面に雪をつけたまま、アーティは他人からしたら微笑とも言えないような歪な微笑を垣間見せる。

 グローリアは彼に手を貸した。自分と同じ赤目の少年は、こわごわとグローリアの手を握る。

「……グローリア。僕、雪を食べちゃったかも」

 くりくりした赤い瞳を瞬かせ、彼はグローリアへ耳打ちする。

 グローリアは噴き出しそうになるのを堪えながら、「おいしい?」と訊いた。

「ううん。何も味がしない」

 アーティの少しだけ弾んだ声は、グローリアの頬をこれ以上なく緩ませた。

 そんな和やかな雰囲気の中、ふっと目の前にいる少年の瞳に影が差す。

「ねえ、グローリア。ぼく……変じゃない?」

「え?」

 唐突過ぎる問いに、グローリアは小首を傾げる。グローリアが見る限り、アーティに別段変わった様子もない。

「変じゃないと思うけど……」

 そう答えると、アーティは懇願に似た表情を垣間見せた。

「本当に? 変じゃない?」

「う、うん……」

「なら良いんだ」

 アーティは小さな掌で自身の胸を押さえ、きゅっと目を瞑った。まるで何かを堪えるかのように。グローリアは、眉をひそめる。

「――アーティ。一体どうしたの……?」

 ゆるゆると首を左右に振り、アーティは取り繕うような笑顔を見せた。

「何でもない」


 食堂で不味い朝ご飯を摂りつつ、グローリアはぼんやりとしていた。銀製のスプーンに、彼女の思案顔が映り込んでいる。

(本当は思い悩んでいる暇なんてないんだけど……)

 最近、ようやくグローリア達赤目部隊にも任務が回って来るようになっていた。

 悪魔祓いの任務に当たることはなかったが、スラム通りの清掃や孤児院の慰問など、ちょっとした――しかし、大事な任務をグローリアはこなしていた。

(アーティ、何か悩んでるのかな……)

「グローリアとダルテ。食事が終わったら談話室に来いっ」

 スプーンと皿が擦れ合う音の満ちる食堂内にやって来た副隊長・ジャンは大声を張り上げた。

 急に下った招集命令に、ちょうどはす向かいで食事を摂っていたグローリアとダルテは視線を交わし合う。

 何か大きな任務が回ってきたのだと直感が告げる。グローリア達は速やかにトレイをコックへ返却し、続々と食堂を後にした。

 大部屋は部隊員達の体温で熱気立っていた。部屋の中央にはラザファムとヘンリーがいる。彼らの少し後ろに、副隊長ら四名が緊張した面持ちで整列していた。

 召集した者が全て揃ったところで、シェパード隊長が小さく息を吸い込む。

「赤目捕獲の任務が入った」

 単刀直入に、隊長は切り出した。

「呪われた街に双子の赤目が侵入したと連絡が入った。積み荷に紛れていたらしい。通報内容は赤目ということ以外に、船舶侵入罪、窃盗罪――船の中で食べ物でも拝借したんだろう――。そして、肌の色からしてシュワルビシェ国外の者の可能性が高いということで、不法入国の罪もついている」

「赤目達は街教会の司教達の説得に抵抗し、司祭や街民を傷付け、小屋に立て篭もっているらしい。どれほどの力を秘めているか不明のため、赤目部隊の主要メンバーへ出動要請が来た」

 シェパード隊長の言葉を、ベン副隊長が補う。その横で、ジャンとコーンが溜め息混じりに肩を竦めた。

「本来ならば、特殊部隊の仕事なんだけどなあ」

「そうだよ。去年までの僕達がやってた仕事だよ」

 気乗りしなさそうに、ジャンとコーンは髪を掻き上げる。

 ぼやく彼らを諌めるように、ヘンリーは冷えた視線を送った。副隊長達のやる気のなさに、ラザファムは嘆息する。

「なにぶん、生きて捕らえよとのお達しだ。あちらが無抵抗の場合は傷付けないように」

 シェパード隊長の念押しを聞いているのかいないのか、グローリア以外の召集された赤目達は終始無言だった。


 馬やロバに荷車を引かせ、赤目部隊は呪われた街へ向かう。

 ――以前訪れたポリーンの町とは真逆の方角にある、呪われた街。

 街の正式名称はとうの昔に廃れ、“呪われた街”という不穏過ぎる通称がついた街。大教会のある地域から丸一日馬車に揺られた先にある街。

 殺風景なところだ。海沿いの町独特の、異国語が混じったような訛りのある言葉が飛び交っている。

 そんな街へ、グローリア達クルマシオは足を踏み入れた。

 グローリアの他には、ヘンリーやラザファム、ダルテというお馴染みの顔ぶれ。

 そして――。

 カツン、と黒光りする革靴を高らかに鳴らし、同じ顔をした三つ子の副隊長が馬車から降り立った。そんな彼らの後に、アーティを含む四人の赤目とシェパード隊長が続く。

 街全体に活気はなく、陰鬱な雰囲気に呑まれ……人影はまばら。強い死のにおいが充満している。

 この街は、貴族が住まう地域と庶民が住まう地域がしっかりと線引きされているらしい。

 選挙の季節だからだろうか。街のいたるところに議員の肖像画が貼り付けられている。

 演説を行う声もそこかしこから聞こえる――が、それでも人のにぎわいを感じることはない。

 細い路地を見やれば、骨と皮になった老人や子供達が壁に寄りかかっていた。手には、古びた貨幣が握りしめている。

 ……もう、使うことができない貨幣を。

 国共通の貨幣以外に、街独自の貨幣を製造しているところは多くある。独自の通貨を製造する理由はただ一つ。領主の絶対的な権力を誇示するためだ。

 だが、独自の通貨は領主が交代すると共に新しいものに変わっていくもので。見たところ、さほど古びた通貨には見えないのだが……。

(この街、どのくらいの頻度で領主が変わってるんだろう)

 庶民の生活を圧迫させるとわかっていて、独自の貨幣を作ることをやめない領主など、いなくなってしまえば良いと思わずにはいられない。

「呪われた街、か」

 言い得て妙だな、とグローリアの隣にいたラザファムが呟いた。

「ようこそ、クルマシオ」

 うっそりとした声で、街教会の司教達がこちらへ頭を下げる。そして、彼らは双子の赤目が立て篭もっていたという小屋へ案内してくれた。

 司教の一人は左腕を負傷している。しかし、それは軽傷だった。命に関わる怪我ではない。

「あまり酷い怪我ではなさそうですね」

 ヘンリーが言うと、司教は首肯した。

「はい、そう大教会庁へもお伝えしたのですが、どこかで情報が錯綜したのでしょう。軽傷です」

 司教達や街人に攻撃を仕掛けてきた双子の赤目の居所は、不明らしい。隙をついて逃げられたという。

 ……彼女達がここへやって来た理由はただ一つ。クルマシオの仕事――【赤目の捕縛】を行うためである。

 赤目部隊の役割は悪魔憑きの対応だけではない。通報を受け、赤目を迎えに行くという任務を与えられることもある。

「……あー、めんどくさ」

「こら、ジャン」

 頭を掻きつつ舌打ちするジャンをベンが諫める。

「だってさ、ただの赤目捕縛だろ? そんな依頼にこの人数」

 言っとくけど、特殊部隊なら二人くらいしか派遣しないぜ、とジャンは不服げに述べた。

 グローリアはざっと周囲にいる者達を見渡した。赤目部隊に属する者が、十二人。

 その中には、アーティの姿もあった。

 アーティは恐縮したように俯き加減でジャンのすぐ後ろを歩いている。先ほど知ったばかりなのだが、アーティはジャンとペアを組んでいるらしい。副隊長のペアになれるということは、それだけ有能な赤目と認められているからに違いない。

 自分よりかなり年下のアーティ。しかし、赤目部隊としての勤務年数はとても長い。

(ていうか、本当に人数が多すぎない?)

 ――たった二人の赤目に、ベテランを含む大勢のクルマシオ。これは――はたして普通のことなのだろうか。

 グローリアは、ちらりとヘンリーの横顔を見た。「赤目の捕縛って、こんなに大人数で行うものなの?」と訊ねたい。訊ねたいが――……。

 先日、ヘンリーの瞳から零れる赤黒いものを見た時から、グローリアは彼から意識的に避けられていた。こうして見つめても、視線を感じてはいるだろうにこちらを見向きもしない。

「どうした、グローリア」

 と、グローリアが何か言いたげな表情をしていることに気づいてくれたのだろう。ラザファムが声をかけてくれた。

「いつもこんな大人数で、赤目を捕縛しに行くのかと思って……」

 ああ、とラザファムは得心がいったように首肯する。

「いや、いつもはこれほど大人数で行動することはない。今回は手が空いてる者が多かったから、こうなっただけで――」

「手が空いてるって、副隊長にはお前達にない業務もあるんだぜ? 勘弁してほし――」

「ジャン、お前は他の二人にそれを押しつけてるだろ、いつも」

「…………へいへい」

 ラザファムの声を遮って文句を垂れるジャンに対し、シェパード隊長の鋭い突っ込みが炸裂する。

「あーあ……。ちゃっちゃと終わらせて帰ろうぜ」

「だから。どうしてジャンはそういう言い方しかできないの?」

「そういう性格だから」

「隊長、双子の赤目はどうやって探し出すつもりでしょうか」

 ジャンとコーンのやり取りが聞こえていないのか、坦々とした口調でダルテはシェパード隊長へ問いかけた。

 隊長は慣れた様子で顎ヒゲを擦りつつ、視線を町の果てへ向ける。

「ここは呪われた街だ。ここのことは、ハンミルの丘にいる赤目に訊けばわかる」

 ぴくり、とグローリアを除き皆が反応した。

 双子の赤目以外に赤目がいるとは、訊いていない。シェパード隊長を目がかち合う。彼は柔らかに微笑んだ。

「ああ――ハンミルの丘にいる赤目は異質なんだ。彼は捕縛する必要がない――いわば、教会の情報提供者という感じだ」

「ボクはあの場所へ、近づきたくもないけど」

 ヘンリーは投げやりに言葉を放つ。

「文句を言うな」

 ラザファムの叱責を受けても、ヘンリーは憮然とした表情を崩さない。

「ラザファムはあの赤目に会ったことがないから、そんな風に言えるんだよ。……これまで数年クルマシオをしているにも関わらず、あの赤目と対話せずに済んできたキミが、ボクは心底羨ましい」

 すいっとヘンリーは憂鬱な眼差しを、ハンミルの丘の頂へやった。

 ――呪われたこの街は、その異名にふさわしく、悪魔憑きが頻繁に発生する土地として教会庁でも有名で。そのため、グローリアなどの今年から新しくクルマシオとして働き出した者達以外、一度くらいは訪れたことがある場所らしい。

「それほど、癖のある人物なのか?」

 ラザファムの問いに、ヘンリーを含む古参達は嘆息する。

「食えないヤツだな」

「そうですね……会話しているにも関わらず、謎かけをされているような気にさせる人物です」

 苦々しげに、コーンはベンの言葉を引き継いだ。彼らの言に対し、シェパード隊長とジャン、そしてヘンリーは深く頷いた。

 グローリアは変色メガネのブリッジを押し上げる。外出する際は必ずかけているこのメガネ、鬱陶しいことこの上ない。

 間近に迫る、丘を仰ぐ。

 薄汚れた陰鬱な町の果てにある、ハンミルの丘。

 ――ハンミルの丘には銀髪赤目の青年が住み着いている。赤目でありながら、決して教会から捕縛されない赤目が住み着いている丘。

 その赤目は、百余年前から変わらぬ姿で存在しているらしい。

 グローリア達はその丘へ続く道を黙々と歩いていた。

 ハンミルの丘には所狭しとたくさんの墓がある。どれもこれも、年季が入ったものばかりで。今にも墓下から呪いの言葉を吐きつつ亡者が現れそうだ。

 グローリアは肌寒い空気に、ぶるりと身を震わせた。

 ――ハンミルの丘の頂上には、寂れた小屋があった。

 グローリア達は小屋の戸をノックするでもなく、小窓にかかったカーテンの隙間から、家主がいるか確認しようとする。しかし、小屋内は真っ暗だった。

「留守……?」

「ここにいるよ」

 頭上から声が降ってきたと思ったら、するりと樹の幹を滑り降り……燕尾服を纏った青年が姿を現した。

 青年は、目深に被っていたシルクハットを取り払う。

 ――真紅の瞳と、透けるような銀髪。

 全てを見透かすような双眸をこちらへ向ける青年は、異様な雰囲気を醸し出していた。

 グローリアは、こくりと唾を嚥下する。赤目という異質さだけではない何かが彼からは滲んでいて。肌が粟立った。



 青年は口角を吊り上げる。

「何の用だい。クルマシオ」

 僕を捕縛することは出来ないはずだけど、と彼は歌うように言葉を紡ぐ。ビリビリと肌が痺れた。

 グローリアは一歩後退した。ヘンリーはそんな彼女の前に進み出る。

「ドラクロア=ハンミル。双子の赤目はどこにいる」

 おやおや、とドラクロアと呼ばれた赤目の青年はクルクルとシルクハットを回し、唇を弓なりにしならせた。

「いきなり過ぎるな。……と、ああ……新人の赤目達が不思議そうな目で見ているよ。ちゃんと僕について説明したの?」

 ドラクロアは慇懃無礼に、グローリアへ頭を下げる。

「初めまして、新しく囚われた赤目の子供」

「…………」

 グローリアはぐっと顎を引いてドラクロアから距離を取った。

 すっとドラクロアは両手を挙げて、降参のポーズを取る。

「やれやれ、同じ赤目にここまで警戒されるとは。本当に……嫌な時代になったものだ」

「何だか変に警戒されてるけど、僕はただの墓守。ハンミルの丘に眠る人々を抑えるためにいる番人だよ」

 青年の言葉に、グローリアは眉を顰める。

「そんな特例、聞いたことない」

 グローリアの反論に青年は目を眇めた。煉獄の瞳は、グローリアがいつか見たヘンリーの瞳そっくりで。

「特例だからね。ねえ、スーザン」

 青年はそう言い、小屋の影へ目を向ける。

 グローリアがハッとしてそちらに視線を転じると、そこには一人の少女が突っ立っていた。ペリドット色の双眸を持つ少女。グローリアと同年くらいだろうか。豊かな髪が、柔らかそうな頬にかかっている。

 少女――スーザンは無言のまま、ドラクロアの横に並んだ。

「恐れるな」

 凛とした声が後ろからしたと思ったら、怯むグローリアの両肩に温かな手が乗った。後ろを見やれば、そこにはラザファムがいて。銀髪青目の彼は、厳しい表情でドラクロアとスーザンを睨みつける。

 ――と。

 ラザファムを目にした途端、ドラクロアは瞳孔を妖しく光らせた。彼の隣にいるスーザンもまた、瞳に当惑の色を浮かべる。

「これはまた……。君はどうして、そうも舞台に立ってしまうのか」

 ドラクロアは、そう苦々しげに呟いた。彼の吐いた言葉の意味が理解できず、グローリアは小首を傾げる。それはドラクロアとスーザンを除く全員がそうだったようで、一同は視線を交わし合った。

 美しい銀髪を冷えた風に遊ばせ、赤目の青年はラザファムを見つめる。

「――せっかく、輪廻に戻してやったのに」

 言いつつ、ドラクロアは目深にシルクハットを被った。彼の表情は見えない。

「は……?」

 ドラクロアの謎めいた言葉に対し、困惑した様子でラザファムは眉尻を撥ねる。

 スーザンはドラクロアの隣でじっと地面を見つめていた。決して、ラザファムの方を見ないとでも言いたげに。

「まあ、いい」

 シルクハットを目深に被ったまま、ドラクロアはすっと丘の下を指差した。

「赤目の双子は身を寄せ合って、小さな港に身を潜めているよ」

「具体的な場所は?」

 まどろっこしいやり取りに苛立ちを隠さず、ジャンは端的に問うた。そんな彼に対し、ドラクロアは嘆息する。

「さあね」

「……ちっ、相変わらず肝心な情報は教えねえ……」

 悪態を吐きながら、ジャンは踵を返す。同じように、ドラクロアもグローリア達から背を向けた。

 シェパード隊長は慌てたように皮袋をドラクロアへ突き出す。

「待て、報酬を――」

「いらない」

 素っ気なく言い、ドラクロアは朱い瞳をぐるりと動かしてグローリア達を見据える。彼の薄い唇の端が吊り上がった。

「……ここが僻地だったら、赤目の子供も、悪魔憑きも発生しないだろうにね」

「僻地だったら……発生しない……?」

 思わず、グローリアはドラクロアの呟きに問い返した。そうだよ、とドラクロアは薄ら嗤う。

「神を信仰していない――自然崇拝をおこなっている地域では、悪魔憑きはもちろん、赤目生まれない」

「何言ってんだ。皆、さっさと行こうぜ」

 付き合ってらんねえ、とばかりベンは丘を下りだす。その後にコーンとジャン、赤目達が続く。その後に、グローリアやヘンリー達も続こうとしたが――……。

「…………ヘンリー=アメディック」

 厳かな声色で、自身を墓守と名乗った赤目の青年は、ヘンリーの名を呼んだ。

「君は知ってるはずだよ。人間――悪魔の存在を知る者がいて初めて、悪魔憑きは誕生する。概念がない僻地では、絶対に発生しない」

 ヘンリーは足を止め、ドラクロアと対峙する。赤と黒の瞳がぶつかる。対比的な色合いであるのに、どちらも似たものを孕んでいるように見えるのは何故だろうか。

「意味不明なことを並べ立てるな」

 ラザファムはドラクロアとヘンリーの間に割って入り、ばっさりと言い捨てた。蒼の瞳には強い光が宿っている。

「そのようなこと、教会では――」

「いずれわかる」

 ドラクロアの赤い瞳が細まった。

「…………どういうこと?」

「さあ、どういうことだろうね」

 質問に答えようとしないドラクロア。彼の微笑に寒々しいものを感じ取ったグローリアは身震いした。

 しん、と空気の流れが止まる。

 それを切ったのは、ペリドットの双眸と豊かな髪を持つ少女の言葉だった。

「ドラクロアはいつもこうなの。気にしないで」

 スーザンは、じっとグローリアを見つめてくる。彼女の瞳の奥には憐憫が浮かんでいた。

「グローリア、ボク達は下がっていた方が良い」

 ぼそりと耳許でダルテが囁いてきた。グローリアはたしかに自分がしゃしゃり出るのもおかしいと思い、その言葉に従って数歩後退った。

 と、何がおかしいのかドラクロアは突然嗤い出す。

「“覚醒”が近い者の気配がする――」

 そう言い残し、ドラクロアはその場から跡形もなく姿を消した。

 グローリアは動揺が隠せなかった。いくら常人とは違う赤目だとしても、姿形を消すなどという芸当ができるはずもない。まるで異次元に呑み込まれたとでも表現すれば良いのだろうか。忽然と、ドラクロアは姿をくらませた。

 それに――……。

(“覚醒”って何?)

 自身が知らない単語。しかし、他の者達はその単語が持つ意味を知っているようで、シェパード隊長やラザファムは動揺していた。

「迷い言を――……行くぞ」

 咳払いすることで動揺を引っ込ませたラザファムは、ダルテへ声をかける。ダルテは彼の言に首肯する。

 ヘンリーもシェパード隊長も皆、その後を追って行った。

「待ってくださ――」

「今度こそ、舞台を降りて……幸せにあって、欲しかったのに」

 慌てて皆を追いかけようとするグローリアの鼓膜を、至極小さな声が揺さぶった。振り返れば、無表情の少女――スーザンが佇んでいて。

 少女の頬には、一筋の涙が伝っていた。


 ハンミルの丘を下り終え、街の中心地にある噴水広場へ辿り着いた一行は、言葉を失った。

「これは……」

 一足先に丘を下りたジャン達もそこにはいて。

 噴水広場には、発狂している街人がいた。それを司教達が取り押さえている。司教達はもちろん、広場を通り過ぎていく者誰しも動揺していない。

 発狂している街人は、悪魔憑きだと明白であるにも関わらず。街人の妻だろうか。司教達に「乱暴にはしないでください」と必死に懇願している。

 見たところ、発狂している者は悪魔が憑いてから日が経っているようだ。何も処置しないままでいたのだろう。

 と、ジャンが携えていた銀製のレイピアを引き抜いた。

「ジャン、やめろよ! 赤目部隊は特殊部隊じゃねえぞ。気安く殺戮なんて――」

「ベン……だが、見てみろよ」

 そう言って、ジャンは狂った悪魔憑きを顎でしゃくった。

「あれは末期の悪魔憑きだぜ。人としての理性も何もかも吹っ飛んじまってる」

「少し話して来る。ちょっと待っていろ」

 ジャンの肩を叩き、シェパード隊長は司教達に状況を聞くため足を踏み出した。

 やがて、隊長はこちらへ向かって頷くと教会がある方角を指差す。

 ジャンは不服そうに髪を掻き毟った。

「あの状態で悪魔祓いするのかよ。……無謀にも程がある」

 ――口端から泡を噴いている悪魔憑きとともに、グローリア達は教会へ足を向けた。


 街教会内は、以前グローリアが赴いたポリーンの町教会とは違って小綺麗で宿場もきっちり整備されていた。食卓には質素ではあるものの、パンにスープ、主菜と副菜が並んでいる。

 カチャカチャと銀製の食器とナイフやフォークがぶつかる小さな音が響いている。誰も声を発そうとしない。

 グローリアは胡乱な目をした司教達を見やる。すぐにわかる。彼らは疲れ切っているのだと。

 ガタッと大きな音を立て、ジャンがイスを引いて立ち上がる。彼はきついエメラルド色をした瞳で場にいる者達を見回した。

「さっきの悪魔憑きは、今からオレが対応する」

「え? ちょ、ちょっと待ってよジャン……っ」

「オマエ、どれだけ自分勝手なことを――」

「コーンもベンも相変わらず、うるせえなあ。……あ、アーティ。今回はオマエの助けはいらねえから、明日に備えて休んでおけ」

 オマエらも赤目捕獲任務のためにじゅうぶん休息を摂っておけよ、と言い捨て、ジャンはその場を去った。

 一連のやり取りを静観していたラザファムは食事を摂っていた手を休め、視線を落とす。

「ジャン副隊長は、単独行動が多すぎる」

 彼は仏頂面で言い放った。

 それに対し、ベンは身を乗り出して頷く。

「そうなんだよなあ。オレらも困ってるんだ。なあ、コーン」

「そうなのです。僕やベンとはあまり性格も似ていなくて……」

「……コーンとオレも性格似てないけど。オレ、オマエみたいな弱虫じゃないし」

「ひ、酷い……」

 少しだけ、場の空気が緩んだ。

 初めて顔を見た時は「三人とも同じように見える」と思っていた三つ子の副隊長。しかし、何かしら言葉を交わしたり彼らの行動を見ているうちに、三人とも性格はもちろん、顔立ちも少しずつ違っていることに気がついた。

(ジャン副隊長はきつい感じで、ベン副隊長は子供みたいで、コーン隊長はお金持ちのお坊ちゃまのような……)

 それぞれ、性格がそうさせたのか目元が若干違う。ジャンは冴えたエメラルド色をしたつり目だし、ベンは丸みを帯びた深い森のような目。そして、コーンは紺碧の海を湛えたような優しげな垂れ目だ。

 そんな三つ子の違いについて、しきりに考えていたグローリアの横にいたヘンリーとダルテは、ただ黙々と食事を摂っている。

「それでは、ベン様が悪魔祓いの準備をしている間に……私は悪魔憑きへ食事を持って行ってきます」

 一人の司教はそう言うと、自身の分であるパンやスープを手に持ち立ち上がる。よくよく見れば、彼は一口たりとも食事を口にしていなかった。

「司教が行くのは危険だ。俺が食事を届けよう」

 クルマシオと違い、司教には悪魔を祓うための知識があまりない。司教はあくまで神の祝福を人々へ届けるため、説法をおこなったりするのが役目である。悪魔と対峙するための訓練を積むクルマシオとは習う知識の域が違う。

 うら若き司教は、ラザファムの申し出に否と首を横に振った。

「あの者は、我々が守らねばならない街人です。だから、私が食事を運びます」

「しかし――」

「大丈夫です。聖水を振りかけ、近づきすぎないよう気をつけます」

 それに、と彼は表情暗くした。

「……もう、慣れていますから」


「あの」

 冷たい回廊。グローリアは、うら若き司教を呼び止めた。ゆっくりと、司教は振り返る。

「あの……大丈夫ですか?」

 グローリアがそう問えば、弱々しく司教は首肯した。

「お優しい方だ。あなたは、新人のクルマシオでしょうか」

「はい」

「クルマシオの学校を卒業されて……?」

「いえ……私は、赤目なので」

 色付きメガネを取り去って、グローリアは答えた。

「そうか……ああ、色付きメガネをしている者は赤目でしたね。失念していました」

 ここ最近、この街へやって来るのは討伐部隊ばかりでしたから、と司教は顔を歪ませた。

「――とすると、あなたは教会の暗部を知らないのですね」

「え……?」

 何でもないです、と司教は視線を逸らす。

 そして……。

「この街は――」

 彼は重苦しい声で、唸るように言葉を紡ぐ。

「この街は、赤目発祥の地と呼ばれています。ハンミルの丘に住まうドラクロア=ハンミル。彼がこの世界で初めて誕生した、赤目だから」

「…………」

「悪魔憑きが現れる理由、ご存じでしょうか」

 グローリアは首を横に振った。悪魔憑きが現れる原因は明確にわかっていないと、シェパード隊長やラザファムから習っている。流行病のようなものだ、と。

 ふっと司教は溜め息を吐き零した。

 グローリアは、ごくりと唾を呑み込んだ。うら若き司教は、何か知っている気がする。

 司教の唇が薄く開き――きゅっと引き結ばれた。

「……やめておきましょう。知れば、あなたも教会の抱える暗部に囚われることとなる」

 そう言い残し、司教は闇に続く回廊へ溶け込んでいった。

 グローリアは彼を見送る。

 ――聞き縋った方が良いという声と、聞かないでおいた方が良いという声がグローリアの中でせめぎ合っていた。


 爪の形をした白い月が、ちょうど中天にあった。

 変な時間に目が醒めてしまったグローリアは、水を飲みたいと思ってベッドを抜け出す。シェパード隊長のペアである赤目の女性と、コーン副隊長のペアである赤目の少女と相部屋なため、彼女達を起こさぬよう、息を潜めてドアを開ける。

 最近の任務は日帰りが多かったし、女性と同じ任務は初めてだ。だから、少しは女同士普通の会話をすることができると思っていた……のだが。

(無理無理)

 まったくもって、できなかった。グローリアが話しかけたところで完全に無視される。大教会内の相部屋も同じような感じだから、こうなることは予想できていたが、やはり寂しいものがある。

 そう思うと、ダルテやアーティは異質だな、とグローリアは彼らを思い浮かべた。ダルテ達はグローリアを無視したり、邪険にしたりしない。


「ヘンリー、赤目が“覚醒”したら……苦しいものなのかな?」

 回廊の角を曲がろうとしたその時、幼い声が聞こえてきた。それは、今ちょうど思い浮かべていたアーティの声で。

 ヘンリー、という名前が出たということは、ヘンリーとともにいるのだろう。真剣な色を含んだ、切迫したようなアーティの声。それは先日雪遊びをした時に聞いた声に似ていて。

 自然、グローリアは息を潜めていた。角から少しだけ顔を出し、アーティとヘンリーの様子を窺う。彼らは壁に寄りかかりながら小さな窓の外を見つめていた。

「いや――それは、ない」

 先ほどアーティが質問したことへの答え。たっぷり数分経ってからヘンリーはそう口にした。しかし、若干言葉が濁っている。そして……ヘンリーは目を伏せた。

「苦痛を感じることなくこの世を離れることができる」

「……そっか。うん、ありがとう」

 アーティはきゅっと拳を握りしめて頷いた。遠目から見てもわかる。彼は震えていて。

 どうしたというのだろうか。

 ふっと、ヘンリーの視線がグローリアを射貫いた。

「……!」

 黒曜石の双眸は、最初からここにグローリアがいることはわかっていたと言いたげに静かなもので。

 バツが悪いと思いながら、グローリアは一歩踏み出した。

「グローリア……?」

 目を丸くするアーティに対し、グローリアは引き攣った笑みを浮かべて軽く手を振った。

「こんばんは、アーティ。ちょっと目が覚めちゃって水を飲みに――」

 皆まで言うことはできなかった。アーティが、ぎゅっとグローリアへ縋り付いていたからだ。

 彼は、泣いていた。

「…………アーティ……?」

 名前を呼ぶが、反応はない。何があったのかと、ヘンリーに目で訴えかけるが……ヘンリーはグローリアから視線を外し、頑なに合わせようとしない。探られたくないことがあるかのように。

「ん? オマエらどうしてこんな時間に――」

 ぼうっとしたオレンジ色の灯りが、回廊の奥に揺れた。ほのかな星明かりと頼りない蝋燭の灯り。回廊の奥から現れたのは、クルマシオの正装を着込んだジャンだった。

 彼は泣き腫らしたアーティの顔を見、表情を硬くした。そして、ぐっとかがみ込んでアーティの頭を撫でる。

「大丈夫だ。オマエの尊厳は、オレが守ってやる」。

「…………っ。はい……はい……っ」

 ジャンが何を言っているのかわからない。わからないが、彼の力強い言葉がアーティの涙腺を刺激したということだけは、はっきりとわかる。

「とりあえず、お子様はもう寝ろ」

 ジャンはアーティの両脇に手を差し入れて抱き上げ、割り当てられた部屋がある方にポイッと放った。

「はい、お休みなさい」

「おう」

 アーティの姿が完全に見えなくなってから、ジャンは口火を切った。

「――――悪魔憑きを殺した」

 グローリアの瞳孔が開く。ジャンの言葉が示す、“悪魔憑き”というのは――昼間遭遇したあの悪魔憑きのことだと瞬時に理解し、戦慄した。

 この短時間で、たった一人で悪魔祓いを遂行したことも、殺したことも。どちらも実力がないと決してできないことだ。

「殺す必要がないのに、殺した……ということはないよね?」

「あるわけないだろ。……滞りなく、手順通り遂行したが……」

 ジャンは親指の爪をぎゅっと噛みしめる。

「さすが末期の悪魔憑き。尋常じゃないくらいの悪魔が憑いていた」

 悪魔が仲間を呼び集めたんだろうな、と彼は早口に呟いて髪を掻き上げた。

 ――と、彼の手から金色のチェーンが揺れる。それは、筒状のトップがついたペンダントで。

「…………」

 異様なオーラを醸し出しているペンダント。視線を引き剥がすことができない。

 そんなグローリアの視線に気付いたジャンは、ふっと笑った。そして彼は、筒になったペンダントトップの蓋を回す。中には――……。

「そ、れは……」

 禍々しい悪魔の気配が滲んだ紙切れ。気分が悪くなるほどの、むわっとした陰鬱な空気が辺りを包み込んだ。

 反射的に口許を押さえた。

 ジャンは、ゆらゆらと振り子のようにペンダントを揺らす。

「そのペンダント、悪魔憑きになる前に商人が贈ったものだと。……合間に正気づいた時、聞き出した」

「…………っ」

 ジャンが持っている紙切れには、悪魔を表す図柄と生贄の血と思われる赤い斑点が沁みている。

 ――悪魔憑きの発生源ははっきりしていない。そう、今までずっと思っていたしそう習った。

『悪魔憑きが現れる理由、ご存じでしょうか』

 夕飯が終わったあと、うら若き司教が尋ねてきたことの答えが今、明かされようとしている。

(悪魔憑きは……作られているの……?)

 グローリアは力なく頭を振った。

(人が、悪魔を呼び出してるの? 悪魔憑きは流行病のように広がってるんじゃなくて……人が人を呪って、悪魔憑きにしているの……?)

 動悸がする。しかし問えない。問うことは許されない。うら若き司教も言っていた。知れば教会の暗部に囚われることになる、と。

「――“覚醒”の近いヤツがいるって、ドラクロアが言ってたとコーンから訊いた」

 グローリアが心の中で葛藤しているうちに、すぐに話題は移ろう。

「うん」

 ジャンの言葉に対し、ヘンリーは首肯した。

 ジャンはアーティにあてがわれた部屋を見つめる。その横顔には哀傷が浮かんでいた。

「――アーティだな」

 そう確信しているのか、ジャンは断定的に言葉を紡いだ。

「アーティが、覚醒する」

 ヘンリーは腕を組んで、所々ヒビが入った壁にもたれかかる。

「…………そう、だね。多分、きっと」

 ふっとヘンリーと目が合った。彼はグローリアが“覚醒”についての知識を持ち得ないことを察してくれた。

「赤目というのは、突然狂う。それを教会の人間は“覚醒”と呼んでるんだ。覚醒したら、段々と理性が消えていって……。一週間から一ヶ月間苦しみ続けたあと、人間の皮を剥ぎ捨て――完全なる悪魔として咆哮を上げる」

「悪魔に……なる……?」

 うん、とヘンリーは皮肉げに笑んだ。

「近いうちにアーティは覚醒する。彼自身もうすうすそれに気づいているようだし、もう――その時は近い」

 彼が何を言っているのか、理解できない。いや、理解したくないと言った方が正しいだろう。冷や汗が背筋を伝っていく。

「オマエ、アーティと仲良いんだろ。……覚悟しとけ」

 ジャンはそう言うと踵を返した。

「待って……待ってください、ジャン副隊長!」

「……あ?」

「それって、どうにもならな――」

「ならねえ」

 ジャンはグローリアの声を遮った。凍えるような冷たい瞳。ずっと特殊部隊に所属し、数々の悪魔憑きを殺してきた青年。でも、彼の瞳にはたしかな温度があるように思えた。

「だから――俺は……」

 声を詰め、ジャンはペンダントをポケットに突っ込むと手に持っていた蝋燭を吹き消してその場を去った。

 取り残されたグローリアの脳内で、様々な事柄が巡り巡る。

 そんな彼女の肩を、誰かが叩いた。ハッと振り返ればそこにはヘンリーがいて。

「あ、わたし……もう水はいいや。おやすみ」

 そう言ってヘンリーの手を払う。

「グローリア」

 赤茶けた髪が、窓の隙間より入ってきた夜風に靡く。

 ぴたりとグローリアは動きを止め、ヘンリーの方を振り向いた。

「パンドラの箱は、開けちゃ駄目だよ」

 ――何を考えているのか分からない、黒曜石の瞳。空虚な瞳。

 見つめ続ければ囚われてしまいかねない、底知れない闇色の瞳。

 ぞくりと悪寒が走った。

「……はい」

 返事はそれしか、許されなかった。



 翌朝、街人達の目撃情報によって、双子の赤目がどこにいるかが知れた。

「双子はまだ、どちらも罪を犯してないんだって。だから、説得から試みるらしい」

 シェパード隊長の命令を、ヘンリーはグローリアへ端的に伝えてくれた。

 グローリアは、ラザファムとダルテの方を見やる。ラザファムは相当事細かにダルテへ指示を出しているようだ。あそこまで細かく指示をしてくれなくても良いが、もう少し詳しい説明が欲しい、と思っていると――……。

「言っておくけど」

 ヘンリーはグローリアを見下ろし、目を伏せた。

「任務は予想外のことばかり起きるものだから。指示してそれに縛られない方が良い」

「ベテランクルマシオだったらそれで良いかもしれないけど、わたしはまだ新人よ。指示がない方が慌てちゃう」

「……そう。じゃあ、一つだけ指示を出そうかな」

 言って、ヘンリーはグローリアの額を人差し指で突いた。

「何が起こっても絶対に、感情的にならないで」

 どういうことかと考えあぐねていると、ヘンリーは黒衣をひらめかせる。

「捕獲任務は、穏便に事が運ぶことの方が少ないから」


 小さな浜辺に、異国から来た船が停泊していた。今にも崩れてしまいそうなくらい、古い船だ。

 油断は禁物ということで、グローリア達は隊長や副隊長の指示に従い、小屋の周囲を固める。

 グローリアは塩が附着した節の曲がった海木の影に身を隠し、合図を待った。

 シェパード隊長が石を小屋の前に投げたのを封切りに、クルマシオ達は一斉に小屋へ雪崩れ込む。

 グローリアも我先にと飛び込む隊員達にもみくちゃにされながら、中へ押し入った。

 ほどなくして、赤目の双子は捕らえられた。赤目が赤目を押さえている光景はなんともシュールだ。双子の赤目の少女は棒切れのような体つきをしている。こけた頬が憐れさを誘った。

 無表情な少女達の説得を担当したのは、意外なことにヘンリーで。

「シュワルビシェ国の言葉はわかるか?」

 どちらも似た雰囲気だからだろうか。双子の赤目はヘンリーが声をかけると、好戦的に構えていたナイフを下ろし……。

「はい」

「どうして、船に忍び込んだ」

「シュワルビシェ国の方が、祖国よりも赤目の待遇が良いと聞いたから」

「祖国はどこだ」

「モンモルド国」

 無表情な少女達は、ヘンリーの問いかけに素直に応じる。

 抵抗一つしない双子を取り囲んでいる自分達は、双子にとってみたら悪魔のように見えるに違いない。

「彼はああ見えて、交渉が素晴らしくうまいんだ」

 シェパード隊長は満足げに頷く。

 無表情のヘンリーと、双子の赤目。

 不穏過ぎる昨晩のヘンリーの発言に反し、双子の赤目捕縛は比較的すんなりと済んだ。

 赤目部隊に入るならば殺さない、とヘンリーは坦々と言い紡いだ結果、双子は何もかも喪失した者特有の――赤目部隊に配属されている赤目達と同じ瞳をして、捕縛に応じた。

「呆気ないな。異様過ぎる」

 ゾッとするぜ、とジャンは肩を竦めた。特殊部隊にいた頃は交渉などあってなかったようなものだったらしい。

「そうなんですか?」

「ああ。……実質、討伐部隊みたいなもんだったからな、特殊部隊は。交渉術に長けたヤツなんていやしねえ」

「ジャン、あの部隊のことはあまり口外しては――」

「今さらだろ、ベン」

 蔑むような顔をし、ジャンはベンに反論する。

「皆知ってるよ。特殊部隊がどんな部隊なのかなんて」

「こら! 副隊長が、そう険悪なムードを作るもんじゃないぞ」

 シェパード隊長はラザファムとともに双子の赤目に拘束具をつけながら笑った。

「君達も、安心してくれ。赤目部隊の隊長は俺だ。赤目だからと言って過酷な訓練を強いたりはしない」

「俺は容赦しないがな」

「ラザファム――やめてくれ。俺の説得力がなくなるから」

 シェパード隊長とラザファムの掛け合いに、場の空気が少しだけ和やかになる。

「ったく、こんな大人数で来なくても良かったなあ」

「うんうん、同意するよ」

 ベンとコーンは、やれやれと首を振った。


 ――刹那。


 キーンとした音が響いた。金属的が甲高い声で鳴くような音が、場を圧する。

 少年は、艶めく髪の合間から見える赤い双眸を燻らせた。

「てめ…………っ」

 ジャンは空中に浮いている。いや、浮いているのではない。彼は、細身の少年によって、首を絞め上げられていた。

 甲高い音はボリュームを上げ、場に鳴り響く。何だ何だと貧困層に住まう街人達も集まってきた。

 音の発生源は、ジャンだった。彼のつけているピアス。それが啼いている。

「アー、ティ」

 ジャンの呼びかけに少年――アーティはハッとした様子で、ジャンの拘束を解いた。

 アーティは瞠目したまま地面に突っ伏し、頭を抱える。彼は苦しそうに荒い呼吸を繰り返した。

「アーティ!」

 ダルテが声を荒げた。しかし、アーティはダルテの声に反応を示さない。あんなに慕っていたにも関わらず。

 見知った人物の凶行に、グローリアは激しく動揺していた。

 アーティは周囲の人々を遠ざけようとしているのか、腕を振り回す。


 信じられなかった。


 ――……覚悟しとけ。

 昨晩、ジャンが口にした言葉が脳裏に蘇った。


パンをあげたら、美味しそうに頬張っていた。雪を食べてしまった、と、はにかんでいた。

 まだあどけない面影が残る、純粋な少年。

 彼がこんな凶行に走るなんて誰が予想できようか。

 アーティの手の甲の血管が浮かび上がる。何かを必死に抑えつけるように、彼は自分の肩口に爪を立てた。

「何、あれ……」

 グローリアの横にヘンリーが並んだ。

「あれが、“覚醒”さ」

 見慣れた光景なのか、ヘンリーは動揺することなくアーティを見つめた。しかし、凪いでいるように見える彼の双眸には少しだけ揺らぎが見えて。


 ……いずれ、自分もアーティのように狂うのだ。ああなったら、自分の意識は死んだも同然で、思考回路は遮断されて安穏とした闇へ意識が沈んで行く。

 それが、“覚醒”。突然やって来る、赤目が悪魔として目覚める瞬間。

 グローリアも“覚醒”という言葉は知らなかっただけで、それがどういうものか、知っていた。彼女の中で這いずっている“何か”が、それを知っているから。

「…………っ。隊長、街人が……っ」

 焦燥を孕んだ声で、ラザファムが叫んだ。

 騒ぎを聞きつけた街人達が、どんどん集まってきている。このままでは、暴れているアーティが人を傷つけてしまう可能性も――……。

「とりあえず、ラザファムとベン・コーンは街人を安全な場所へ連れて行け! 赤目達はアーティを取り押さえろ!」

「はい!」

 シェパード隊長の命令を受け、グローリアはアーティのもとへ駆け寄ろうとする――が。

 誰かが彼女の肩を引いた。ブルネットの巻き髪が舞う。彼女以外にアーティへ近寄ろうとしていた赤目達も次々と張り倒される。

 そして、アーティのもとへ唯一人辿り着いたのは――……。

「ジャン! 何してんだバカ!」

 ベンの激昂が飛んだ。

 しかし、ジャンはそれに頓着することなくアーティへタックルした。彼は腕を振り回していたアーティを地面に押しつけ、「落ち着け! アーティ、オマエはまだ大丈夫だ!」と必死に言い募っている。

 ジャンの言葉が届いたのか、アーティの双眸に落ち着きが宿った。だが、ジャンの右腕から止めどなく流れ出る血を見、アーティはわなわなと唇を震わせる。

「ジャン副隊長――――それ、僕が――……」

「油断したオレの落ち度だ。気にするんじゃねえ」

 グローリアを含め、赤目の覚醒を目の当たりにしたことがある者はその場にほとんどいない。そのため、皆、ひどく混乱していた。

 その混乱と恐れは、嫌な方向へ群衆を誘う。

「大人しくしろよ! 悪魔の子!」

「そうだそうだ!」

 暴れることをやめたアーティに、街人達は吐き捨てた。

 アーティは彼らの言葉を聞いていない。ただぼんやりと、虚空を見ている。真正面にジャンがいるにも関わらず、彼の瞳には何も映っていなかった。

「赤目は色付きメガネを外し、アーティを抑えてくれ」

 シェパード隊長の指示が飛ぶ。グローリアやダルテ達はすぐさま色付きメガネを外し、アーティのもとへ駆け寄ろうとした。

 しかし。

 街人達の間に、ざわりと波紋が広がる。

「赤目があんなに――」

「教会は赤目を野放しにしているのか?」

「信じてたのに」

「その双子の赤目ともども、赤目など殺してしまえ!」

「この街に悪魔憑きがたくさん出るのは、赤目がいるからだ」

「赤目が悪魔の種をまき散らしてるに違いない」

「死んでしまえ」

「死んでしまえ」

「神の名のもとに裁きを」

 無気力に動向を見つめていた街人達は、日頃の鬱憤を晴らすかのように色めき立った。

「違うの! わたし達は赤目部隊に所属する赤目で――」

「赤目部隊なんて物騒な部隊がどうしてあるんだ!」

 グローリアの言葉を遮り、血走った目で老婆が叫んだ。

「あたしの娘は先月、悪魔憑きになってしまった。手遅れってことで殺されたよ。なのにどうして、もとから悪魔のおまえ達赤目が生きながらえているの」

 ぐさりと、心臓を抉られたような感じを覚えた。

「覚醒が……もう……生きている意味が……ない」

 アーティは苦しげに息を吐き出し、切れ切れにそう口にした。

「生意気に『生きている意味』なんて口にするな。おまえら赤目にはそんなもの最初から存在しない!」

「そうだ、赤目のくせに!」

「不幸ぶるなよ。虫唾が走る」

 言葉の暴力は止まない。熱気は最高潮に膨らみ、人々を加虐へと走らせる。

 誰かが大きな石が投げた。一つ、二つ。投石の量はふくれあがっていく。

「バカが! 一般人が手を出すんじゃねえ!」

 街人達はアーティを取り囲んで暴行を加え出した。アーティは頭を抱えて蹲る。

 ジャンは制止をするも、街人の波に押されてアーティから離れてしまい……。

 ――制止の声は、たちまち歓声に掻き消されてしまう。

 グローリアの赤い目に、狩りを楽しむ残虐な人間の顔が映った。

 無垢な雪が、散り始める。

「ちょうど良かった。最近何も楽しいことがなくて、退屈してたんだ」

「おらおら、赤目だから痛くないよなぁ?」

 あまりに一方的過ぎる攻撃に、グローリアは愕然とした。足が地面に縫い止められたように、動かない。

 ヘンリーやダルテなど、クルマシオ達は街人達を止めようと行動を起こすが、多勢に無勢。しかも、一般人を傷つけてはならないという教会の掟を前にして、クルマシオ達はただただ制止の声を飛ばすしかなかった。

「お前達、いい加減にしろ!」

「やめろ、やめるんだ! 落ち着きを取り戻せ!」

 ラザファムやシェパード隊長が怒鳴るが、暴動はおさまる気配を見せない。暴走した街人達は執拗にアーティをなぶる。

 一人の街人が、短剣を振り上げた。その刃がぎらつく。街人の目は、完全に飛んでいた。

 グローリアの体はようやく自由を取り戻した。彼女は縫うように群衆を掻き分け、アーティの手を引くとぎゅっと抱き込む。

 短剣を振り上げたまま、街人は舌打ちした。

「お涙ちょうだいだな、赤目よ! 原罪を背負いし者同士、傷のなめ合いってか?」

「赤目は大人しく殺されれば良いんだ!」

 短剣を振り上げている者に続いて、他の街人達も口汚く罵ってくる。

 異様な熱気が場を支配していた。

 グローリアのこめかみに冷や汗が伝う。

 人間達はアーティを庇った上、同じく赤目であるグローリアも敵と見なしたらしい。

 躊躇うことなく、みぞおちに重い蹴りを打ち込んできた。グローリアは片膝をつき、せり上がってくる嘔吐感を必死に堪える。

 おおっ、と街人達はグローリアとの間合いを詰めてきた。密集した団体は、彼女を追い詰めるように小石や何やらを投げてくる。殺す気はないのだろう。皆、グローリアの手足を狙ってくる。それらのうちの一つが後頭部に命中し、視界が歪んだ。

「やめろ!」

 ヘンリーの声がした。

 グローリアは痛む後頭部を押さえてアーティを庇いながら、縋る思いでヘンリー(助け)を探す。ぐるりとグローリアを取り囲む人間達に阻まれ、彼の姿はまったく見えない。

 途切れ途切れに、ヘンリーの罵声が聞こえてくる。何事にも興味を示さないヘンリーが悪態をついていることに対し、切迫した状態に置かれながらもグローリアは驚いていた。

 赤髪は目立つ。人と人の隙間から、ちらちらと赤い髪が見え隠れする。

 しかし、状況が悪すぎた。いくらヘンリーでも赤目を何十人相手にして押さえつけることはできないはずで。他のクルマシオ達も奮戦しているようだが、人々を傷つけることなくアーティやグローリアを助け出すことは不可能に近い。

 グローリアは誰からか耳を強く掴まれ、立ち上がることを強要される。

 自分の耳を引っ張る街人を睨み据える。街人は狂気を孕んだ笑みを浮かべ、舌舐めずりした。

 もしここでグローリアが退けば、この理性を失い狂った集団は、アーティに攻撃を集中させるだろう。必死に自身を抑制しようとしているアーティを、彼らは面白がって加虐する。それがわかっているのに、おめおめと引き下がるわけにはいかなかった。

「攻撃を今すぐ中止するんだ! 一般人が手を出しては――」

「死ね――――――――……!」

 シェパード隊長の攻撃中止を叫ぶ声を遮り、グローリアを殺さんと、街人が短剣を突き立てた。

(避けられない……っ)

 避ければ、刃はアーティを貫いてしまう。グローリアはぎゅっと目を瞑った。心臓を貫かれない限り、赤目は死なない。痛いだけだ。だから、大丈夫大丈夫大丈夫。呪文のように心の中でそう唱える。

 ――瞬間。

 生温かいものが、グローリアの頬に散った。

 痛みは、ない。

 刺されたはずなのに、痛みがないなどおかしい。そう思って薄く目を開けると、グローリアの前にはダルテの姿があった。

「……ダルテ……?」

「ぼんやりしないで、逃げて」

 背中を短剣で深々と刺されているにも関わらず、ダルテは冷静な声色でグローリアに言った。しかし、逃げようにも街人達が取り囲んでいるため、逃げることはままならず。

「……一般人を攻撃した赤目は、処刑される」

 ダルテの小さな呟き。グローリアへの牽制だ。絶対に攻撃するな、と。しかし、その牽制を無視してグローリアはこちらを傷つけようとしてくる街人達を幾人かなぎ払う。

 グローリアは強くなってくる攻撃を懸命に受け止めながら、頭を抱えたまま震えるアーティに囁いた。

「死なせないから」

 アーティは目線を上げた。グローリアの顔を見た瞬間、生きたい、と彼の唇は象った。

「殺せ!」

「叩き潰せ!」

 グローリアは無数に伸ばされる手を必死に避けようとするが、非情にも街人達によってグローリア達はちりぢりにされてしまった。

 絶望に突き落とされたアーティの瞳に、グローリアが映る。手を伸ばす。しかし、届かなかった。

 必死にグローリアの手を掴もうとするアーティの手を、誰かが思いきり突き刺した。骨と肉のちょうど境目を貫通したナイフが生々しくぎらつく。

 それに触発されたのか、複数の男達がアーティの腕や首筋を短剣で刺し始める。アーティの体からコポリと赤黒い血が浮いた。何かが身の内からせり出てくるのを恐れるように、彼は悲鳴も何も言わない。

 そしてその横で、誰かが助走をつけて飛び上がる。彼は複数の街人に手足を押さえつけられているダルテの顔面に、思いきり蹴りを入れた。

 雪が降る中、ダルテのうめき声がし――赤が飛び散る。

 彼の鼻はおかしな角度に曲がっていた。それを見て周囲は腹を抱えて笑い転げている。

「こいつはいい。そっちの小さな赤目にも同じことしようぜ」

 ダルテの耳鼻からは、絶えず血が流れている。それと同じことを、群衆はアーティにもやってのけた。まだ年端もいかない、少年に。

「こっちの生意気な赤目の娘にも」

 グローリアの腕を誰かが掴んでくる。

 グローリアは唇が白くなるまで噛みしめ、小刻みに震えていた。自分の腕を抱き込み、彼女は瞑目する。

 止まれ、止まれ、止まれ。

 隊長に言われたとおり、自制する。しかし、もう一人のグローリアが悲痛な咆哮を上げた。

 ――何故止めなければならない。ダルテやアーティが玩具のように扱われているのに!


 そんな中、グギッと大きな音がした。


 グローリア達を囲む輪の中央に、幾人かが押し出される。そこには口から泡を吹いた、幾人かの街人の姿があった。

 ゆらりと、ヘンリーの赤髪が揺れた。彼は冷徹な黒い瞳を光らせて、しんと静まり返った周囲を見渡す。彼の右腕がブラブラと覚束なく揺れている。指先には、血が滴っていた。彼の流した血なのか、他人の血なのかの判別はつかない。

「…………これ以上、やってみろ。何をするか、ボク自身わからない」

 低く言うヘンリーを中心にし、細波の如く人垣が割れた。

 ヘンリーの気迫に圧されて正気に戻ったのだろうか。街人達は後ろめたそうに、それぞれが握っていた短剣や小石を後ろ手に隠した。

 ラザファムはヘンリーが気絶させたであろう幾人かの街人を器用に(執拗にと言った方が良いかもしれない)蹴飛ばし、グローリアのもとへ駆けてくる。

 打ち身や裂傷で、全身が燃えそうだった。グローリアは拳を握って砂を掴む。

 ヘンリーは、ラザファムがグローリアに近寄ろうとするのを片手で制した。

「何故止める! 傷の手当てを……」

「怒りによって赤目の力が暴走する可能性がある。無闇に近寄らない方がいい」

 もっとも過ぎる言葉を受けたラザファムは、眉根を寄せて身を引いた。

 ヘンリーがラザファム達を止めてくれたことに、グローリアは感謝した。

 自分の内部を何かが這っている。それは血液の循環とともに体中に行き渡り、触れる者全てを殺す、と牙を剥こうとしていた。そんな彼女に、ヘンリーは手を差し伸べてくる。

 グローリアはその手を払いのけ、無理矢理上腕に力を入れて上半身を起こした。咥内が砂と血の味で満ちる。

 立ち上がったグローリアの目に飛び込んできたのは、仰向けに倒れているダルテとアーティだった。

 彼らは耳鼻から血を流し、ぴくりとも動かない。

 アーティの方は、耳鼻と同じように滾々と湧き出る泉の如く、手足からも血液が流れ出ていた。その手足は、ぐにゃりと伸縮素材か何かのように地面へ貼りついている。骨が砕かれているのだろう。

「どちらもまだ息がある。ダルテは教会の医務室へ。アーティは教会の隔離部屋へ連れ帰る」

 シェパード隊長はダルテ達の脈拍を確認し、クルマシオ達へそう言った。覚醒した者は、殺すことなく教会にて最期まで看取るのが常だという。

 しかし――……。

「ジャン、テメエ何を勝手な真似しようとしてんだ!」

 ベンが怒り狂ってジャンを思いきり殴るのが横目見えた。ジャンは銀製の剣を握りしめている。

 どくん、と心臓が大きな音を立てた。

 決意を孕んだ瞳で、ジャンはおぼつかなく立ちあがり、ベンとシェパード隊長を突き飛ばした。

 そして、アーティの胸元に剣をかざす。

「これが俺のやり方だ! 生きながらえたところで、アーティには苦しみしかねえ……ならっ」

 滂沱の涙が、ジャンの目尻から流れ落ちていく。

「こんなになるまで加虐するなんて。……悪魔はどっちだ。赤目を悪魔と罵り虐げ、利用する人間の方が、よっぽど悪魔だろ!」

 ジャンが嬉々としてアーティを殺そうとしているわけでないのは、グローリアもよくわかっている。

 赤目は銀製の剣で心臓を貫かれない限り死なない。

 ジャンは衰弱して苦しみながらも、死に辿り着けないアーティを哀れに思ったのか。教会へ連れ帰ったとしても、隔離部屋に入れられる彼を哀れに思ったのか。だからこうして、アーティを殺さんと剣を構えているのか。

 わからない。グローリアには、わからない。

「……悪魔……」

 グローリアは小さく呟いた。

 赤目は悪魔の子供と人は言う。しかしこの惨状の中、悪魔のような行ないをしたのは赤目ではなく人間の方だ。

 アーティはか細い息を吐き、ジャンを見ると強く頷いた。殺してくれ、という意思を孕んだ、諦念を内包したその表情。

 アーティの唇や手、肩は小刻みに震えていた。

「赤目部隊のメンバーとして、お前はよく働いてくれた。――安らかに」

 最期の労い。ジャンはそう口にした。そして銀の剣を振り仰ぐ。

 グローリアは緩く首を左右に振りながら、そのまま座り込んだ。

 視線を剥がせないでいるグローリアを、アーティが見た。彼は歯を食いしばって、大粒の涙を零す。

 ――誰か、たすけて。

 ――本当は僕、まだ死にたくない!

 アーティの嘆きが聞こえた。それは声にならない救いを求める声。グローリアが何度も上げ続けた、救済を求める声。

 ジャンの剣がアーティの心臓を突き刺した。綺麗に心臓へ貫通した剣は、まだ若い少年の血を啜りながらも気高く輝く。ジャンは一気にそれを引き抜いた。

 スローモーションで見ているような、光景だった。

 弓形ゆみなりにしなるアーティは、まるで操り人形のように地面で跳ね、表面にあった粉雪が砂塵の如く舞い上がる。

 無言で地面に横たわる彼の体から何かが抜け出て行くのを、グローリアは見た。


 それは――まったき光。天から注がれる神の聖なる光のような美しい光。


 グローリアは喉元を両手で押さえた。呼吸が、苦しい。

 いつか見た映像が視界一面に広がり、アーティの最期と重なる。

 頭の中が空っぽになり、何も考えられない。

 吐き気がする。

「…………グロー……」

 グローリアの顔を覗き込んだヘンリーが絶句した。彼女の赤い瞳は、揺れていた。せわしなく、上下左右にぐらぐらと揺れ続ける。

「グローリア?」

 ヘンリーがグローリアの肩を揺さぶる。

「……ヘンリー。アーティに言った、じゃない」

「え……?」

「“覚醒”しても、苦しむことなくこの世を去れるって」

 グローリアの言葉に、ヘンリーはぐっと顎を引いた。

 ――嘘つき。

「……ヘンリーの嘘つきっ」

 グローリアの肩を揺さぶっていたヘンリーの動きが、ぴたりと止まる。

 グローリアは両耳を塞いだ。消えたはずの笑い声と姿がフラッシュバックする。彼女の眼孔が、目玉が零れてきそうなくらいに開いた。

「いや……! 行かないで――っ」

 グローリアは髪を振り乱して発狂した。


 目前に迫る、赤、赤、赤。

 破られた日記帳。火にかけられたスープ鍋。

 壁に立てかけてある銀のレイピア。

 カーテン代わりのパッチワーク。

 耳鳴り。聖なる光。回る世界。


 …………空に掻き消えた、何か。


 近くにいた者達がグローリアを掴み上げる。

 叫び続けるグローリアに他の赤目達から平手が飛んだ。それでも、喉が潰れるほど叫んだ。

 血の涙が、ボタボタと地面に染みる。

「乱暴な真似をするなっ」

 ラザファムが恫喝するのが遠くで聞こえる。

 意識が遠のいていく。

 ――――グローリア グローリア グローリア――――――

 優しく、残酷な子守歌が、脳内に鳴り響いた。



 カビ臭い地下牢の最奥にグローリアは蹲っていた。

「……ひっく……また、お嬢ちゃんか」

 番人はキセル片手に、歯の抜けた間抜けな笑顔を見せる。

 グローリアは縮こまったまま答えず、きゅっと唇を結んだまま俯いていた。豊かな黒髪は砂埃で汚れ、べとついている。

「おいおい、折角死刑を免れたってのに……今度は何したんだよ!」

「うおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおっ」

「また誰か殺したのか? こりゃ、生きたまま火あぶりだな」

「その前に、僕を殺してくれえええ!」

「お前ら、黙らんかい!」

 番人は興奮する罪人達を怒鳴りつけた。彼は頭を掻き、どこからともなく小さな丸イスを引きずってくる。

 一年前とまるで同じ光景に、グローリアは嘆息した。

 もとから淀んでいる地下牢の空気が、番人の吹き上げるキセルの煙によってますます濁る。

 カツン、と音がした。音は次第にこちらに近づいてくる。

 何となく、グローリアには靴音の主が誰か想像がついていた。彼に合わせる顔などない。だから、俯いたままじっとしていた。

「ありゃ……あなたですか。こりゃまたこんな迷宮みたいな地下牢を、よくもまあ一人で辿り着けましたなあ」

「一度足を運んだ場所は忘れないんだ。…………番人、鍵を渡せ」

 至極穏やかな口調で、ヘンリーが番人と話している。

 グローリアは少しだけ視線を持ち上げた。ヘンリーの細い首筋が目に入った。

 番人は大きく両腕を振りまわし、首を横に振る。

「いんや、今回ばかりは渡せません。私、きつく言われてるんですから。……大体、兵士達も何やってるんだか。誰も入れるなと言われているのに」

「そんなの――少しばかり眠ってもらったに決まってるじゃないか」

 背筋がぞくりとする言葉を、ヘンリーは言い放った。

 あわわ、と番人は慌て出す。そんな番人の腰からヘンリーは鍵の束をもぎ取ると、三重に施錠されたグローリアの独房を開けた。

 ヘンリーの靴先が目に入る。

「……さあ」

 立ち上がろうとしないグローリアの腕を右手掴んで無理矢理引き上げる。

 呪われた街の住人の暴走を止めるため犠牲になった彼の右腕は、何事もなかったかのように平常通りの動きをしている。

 手錠をしていたためバランスを崩して倒れそうになったが、上手い具合にヘンリーが支えてくれた。

「ヘンリー様……こんなことしたら、あなた様がお叱りを受けますよ……」

 心配そうに番人が声をかけてきた。

「わかってる。わかった上で、ここへ来た」

 ヘンリーの潔い発言に、罪人達は盛り上がる。

「やるな、兄ちゃん! お姫様奪還ってか?」

「若いもんはいいねぇ。俺もそんな風にかっこよく女を助けてやりてぇぜ」

「おれ達には無理だろ。逆に助けに来てくれる胆っ玉据わった女を見つけなきゃいけねぇや」

 何とも言いたい放題だ。

 グローリアは無言のまま、異臭のする石床を凝視していた。

 これからヘンリーがどこに行こうとしているのか、グローリアにはわからない。知りたくもない。

 グローリアは自分が今、本当に生きているのかわからなかった。全てが浮遊しているように感じていた。

「……手錠の鍵は?」

「それは守衛が持ってるんじゃないですか。わたしゃ知りませんよ」

「そう――――」

 ヘンリーは嘆息し、グローリアの手を引いて歩き始める。

「ヘンリー様! 私、知りませんからね!」

 湿気た地下牢内で、番人の声はよく響いた。

 ヘンリーの足取りは迷いなく、地下牢から出ると直進する。その先にあるのは、大教会だ。

 さすがのグローリアも目を見開いた。グローリアが覚醒した赤目アーティを庇った挙句、暴れたという話はクルマシオ達全員に知れ渡っているはずである。そんな中、大教会へ出向けばどんな罵声を浴びせられるかわかったものではない。

「ちょっと……」

「いいから」

 文句を言おうとするグローリアの声をヘンリーは遮った。

「ねえ、ダルテは大丈夫なの?」

「うん。医務室で処置を受けてるけど、大事ないみたい。常人だったら致命傷ものだけど」

「……そう」

 楼門を守る兵達が驚愕の眼差しでグローリアとヘンリーを凝視してくる。ヘンリーはその視線に臆することなく大教会へ足を踏み入れた。

「なぜ、あの赤目が?」

「うそでしょ。どのツラ下げてここへ戻って来たっていうの」

「見ろよ、あの薄汚れた身なり。媚でも売ったんじゃないか?」

 批判や非難、そして不躾な声が殺到する。

 ヘンリーは眉一つ動かさず、中央にある教会庁本部へ向かった。螺旋階段を上がり、突き当たりにある大仰な両開きの豪奢な扉のノッカーを鳴らす。部屋の主は「入るがいい」と優しげな口調で言った。

 ヘンリーとグローリアが部屋へ入ると、部屋の窓際にある回転イスに腰かけた老人は目を細めた。彼は鳶色をした立派な髭を撫でつける。

 グローリアは唖然として、その老人を見つめた。

 大司教だ。

 そんな馬鹿な、と小声で呟いてしまった。

 何故、ヘンリーは大司教のもとへグローリアを連れて来たのだろうか。大司教の前で罪を懺悔させる気なのか。頭がパニックを起こしそうになる。

「……ヘンリー、どうしたというのだ」

 大司教はじっとヘンリーを見つめる。

「地下牢付きの兵士達が皆、負傷したと連絡が入った。そなたがやったのだろう」

「――はい」

 臆面もなくヘンリーは首肯した。

 大司教は大きな溜め息を吐き、イスに凭れかかる。

「そなたには信を置いていたのだが……わしの見誤りだったか……」

「大司教様、グローリアは混乱していただけなのです。ボクは彼女の近くにいたから、わかります。初めて見る同胞の覚醒を前に、錯乱状態に陥っただけで――」

「他の者の骨を折ったという報告が上がっているが?」

「それは、ボクが――」

「あのまま集団で暴行を続けてアーティを苦しめることを防ぐため、やむを得ない判断だと思います」

 言葉に詰まるヘンリーのかわりに、明朗な声が答えた。

 グローリアとヘンリーが扉の方を振り返ると、そこには悠然と佇むラザファムの姿があった。

「ビエロフカ……そなたまで」

 大司教は指を組んで、困ったように眉尻を下げた。

 ラザファムは申し開きを続ける。

「大司教様、あの場でグローリアが行動を起こさねば、抵抗をしていなかったアーティを苦しめ続けていたかもしれません」

「ふむ…………では問おう。何故、隊長や副隊長はそれを未然に防げなかった。のう? シェパード」

 ラザファムの後ろから、のそりとシェパード隊長が顔を覗かせた。彼は目の下に青黒いクマをこしらえている。

「……完全に、私の監督不十分が原因です。グローリアは悪くない。処罰ならば、赤目部隊長である私が取りましょう。ですからどうか、グローリアの助命を」

「ボクも――」

 隊長の嘆願に後押しされる形で、ヘンリーは口を開いた。

「グローリアをクルマシオにと推薦したのはボクです。降格でも何でも、どんな処罰も受けます。だから……彼女の助命を切にお願いしたい」

「私からも、お願い致します」

 ラザファムも直角に腰を曲げて懇願した。

「ふむ………………………………いいだろう。前向きに検討する」

 たっぷり間を開けて大司教は述べた。明朝に会合を開くから、今日のところはそれで収めてくれ、と彼は言った。

 再び地下牢に舞い戻ったグローリアは眠れぬ夜を過ごし、気付いた時には朝がやって来た。もうすぐ、会合の結果が出る頃だろう。

「お嬢ちゃんっ」

 丸いお腹を震わせて番人がグローリアのもとへ走り寄ってくる。その後ろにはシェパード隊長とラザファムの姿があった。隊長は硬い表情で、会議の決定事項と思われる書面を読み上げた。

「『今回の件において、街人二名を負傷させたグローリアには減給と謝罪文面の提出、そして彼女を推薦したヘンリーには半年間の減給処分を言い渡す。以上』」

 隊長が読み上げ終わると、さっさとグローリアを牢から出せ、とラザファムは番人に命令する。番人はすぐさま牢の鍵を開けて手錠も外してくれた。

 目を瞬せ、自分の掌を握ったり開いたりするグローリアにラザファムは小言を垂れてくる。

「今回は大事にならなかったから良かったものを……いいか。今度何かしでかしたら、赤目部隊から追放してやるからな」

 グローリアは首を竦めた。

「――良かったな、グローリア」

 シェパード隊長は濃い笑い皺をことさら深くし、優しい眼差しをくれた。

「…………ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

 グローリアは俯き加減で謝罪を述べた。

 ラザファムは地下牢の鬱屈とした雰囲気が心底嫌なのだろう。速やかにもと来た道を戻り始める。

 グローリアは番人や罪人を振り返り、お辞儀をした。彼らは顔を見合わせてグローリアに手を振ってくれる。罪人達はグローリアに「もうここには来るなよ」と言ってくれた。

 苔むした階段を上りながら、ラザファムは独りごちる。

「全く……仮にもペアなんだ。アメディックも迎えに来てやればいいものを」

 彼の言葉はぶっきらぼうながらも労りに満ちている。それがグローリアには辛かった。自分は、そんなに目をかけてもらえるような者じゃない。

 クルマシオになる前に三名もの人を殺し、今回だってアーティを守りきれなかった。

 グローリアは無言のまま地上へ足を踏み出した。


 グローリアの赤目部隊復帰を受けて、談話室には冷たい空気が流れていた。

 シェパード隊長に召集された一同は、どうして狂人がここに戻ってきたんだと言いたげだ。

 その中で唯一ラザファムだけが、お前は何も間違っていない、と力強く頷いてくれる。

 ヘンリーは一同から少し離れた窓際に佇んでいた。大司教へ直訴しに行った時の必死さは見る影もなく、気だるげに腕を組んでいる。

 グローリアの肌に、突き刺さるようないくつもの視線が向けられている。まるで、針のむしろだ。

 シェパード隊長はぐるりと皆を見回し、口火を切った。

「今回のことは、街人が独断で覚醒した赤目を殺そうとしたことが発端だ。それをグローリアは止めようと抗ってくれた。決して、クルマシオとしての本分を忘れて敵に回ろうとしたわけでないことは、大司教も納得済みだ」

「甘いと思います」

 ぴくりと隊長の眉が上がる。

 隊長へ意見をした少年は、狂気を孕んだ瞳を爛々と輝かせた。彼は両腕を広げて声を大きくする。

「今回の件でもわかるとおり、赤目は何をしでかすかわかりません。なのに、シェパード隊長はそれを野放しにするおつもりですか?」

 ラザファムはソファから腰を浮かせ、厳しい表情で少年を睨みつけた。

「何の罪も犯していない者を罰するのは法治国家としてあるまじき行為だ」

 ラザファムの言葉に、少年は皮肉げに応戦する。

「赤目は人間じゃないのに、どうして殺してはいけないんですか?」

 ざわりと部隊全体が揺れた。赤目達さえ喉を鳴らす。

 周囲の動揺が心を煽ったのか、少年は言葉を続けた。

「ほとんどの赤目は生まれてすぐ――目が開いた瞬間に殺されるのが普通です。今ここにいる赤目も含めて、現存する赤目は全て排斥するべきだ」

 調子に乗った少年は声高に叫ぶ。

「赤目を殺さなかった親も同罪です! 皆、死刑にすればいい!」

「異動だ」

 瞬間、シェパード隊長は冷酷な眼差しを彼に送った。その青い怒りにグローリアは息を詰める。

「お前はこの赤目部隊には、要らない。他の部隊へ異動しろ」

 場の時間が止まった。

 少年はポカンと口を開いたまま、固まっている。

 隊長はダンッと床を蹴った。

「――クルマシオは殺戮集団か何かか」

 少年の顔が歪に引き攣る。何か言おうとしているのか口を開いたり閉じたりしているが、初めて見る隊長の怒りを前に、完全に意気地をなくしている。

「人を救うためにあるのではないのか?」

 部隊内がざわめく中、隊長は鼻を鳴らした。

「よくもまあ……そんなことを自慢げに言えたものだな」

 皆に緊張が走る。シェパード隊長からは静かな怒りが迸っていた。

「聖職に就きし者が、そんな狂気じみた発言をするなど品位に欠ける。……今すぐ出て行け」

「シェパード隊――」

「二度と俺の前に顔を見せるな」

 救いを求めて周囲を見渡す少年に対し、皆の扱いは厳しかった。

「そ、そうだ! シェパードさんの言うとおりだ!」

「隊長に反論するなんて……馬鹿じゃないのか」

 少年に非難が集中する。

 誰しも、心から隊長の言うことを共感しているわけではない。自分が少年と同じ立場に立たされるのが怖くて、共感しているようにポーズを取っているだけだ。

 少年は悔しげに肩を落とし、大部屋から出て行った。

 皆、少年を罵倒することで自らの罪を軽くしようとしている。

 その様に、グローリアは強い不快感を抱いた。それは隊長も同じようだった。

「言っておくが、ここにいるお前達も同じだからな」

 彼の冷えた声に、ぴたりとお喋りが止む。

「同じようなことをお前達が考え、今度勝手な真似をしてみろ。大司教が許したとしても、俺が許さない」

 その言葉には重みがあった。

 こうして気まずい空気のまま、グローリア復帰の報告会は終わりを告げた。

 部隊の者達が解散する中、グローリアのもとへラザファムがやって来た。

「……良かったな」

「リーダー、ありがとう」

「別に、俺は何もしていない」

 素気なく言いながらも、ラザファムは嬉しそうに眉を上げて青い瞳を煌めかせて口の端を上げた。

 グローリアは笑い返すことが出来なかった。ラザファムはグローリアの様子に首を傾げる。

「ほら、一週間後までに提出しろよ?」

 シェパード隊長はそう言って、いつも通りの柔和な笑顔でグローリアの頭に何かを乗せる。何だろうかとそれを手に取ると、まっさらな紙束だった。

「……反省文だ。空白なく埋めてこい。――それと、街の集団墓地にアーティの墓をたてた。あとで参ってやってくれ」

 シェパード隊長の言葉に、グローリアは重々しく頷いた。

 そこへ、ヘンリーもやって来る。彼の黒曜石のような瞳は、全てを見透かす色合いを醸し出していて。グローリアは思わず目を逸らした。

「具合でも悪いの?」

「ううん……どうして?」

「…………何か、様子が違ったから。別に何もないならいいけど」

「うん、わたしは大丈夫だよ」

 ヘンリーの問いに対してグローリアはつとめて明るい口調で答えた。

 そして、グローリアは無表情のまま壁に貼ってある皮紙を見る。今日の予定は朝にある雪かきだけのようだ。彼女はそれを見て、じっと考え込んでいた。


 太陽はやや東の空にあった。南塔の下にはシェパード隊長と副隊長達が整列している。隊長は笑顔で皆に雪かきについて説明し出す。皆で親睦を深め合うのが目的だと彼は言った。

 ペア同士でシャベルで雪をかく係と手押し車に雪をのせて運ぶ係とに分かれてくれ、と隊長はさも名案とばかり腰に手を当てて白い歯を見せて笑っている。

 赤目部隊の者達はうんざりとしながらも隊長の命令に従っていた。ただ、どのペアも和気藹々と作業をしてはいない。

 グローリアは頬に伝う汗を腕で乱雑に拭う。

 雪は重い。

シャベルを雪の中にめり込ませるだけでも、かなりの重労働だ。

 ヘンリーはグローリアの掬い上げたそれを手押し車にのせ、隊長が指定した場所へ運んでいく。彼の顔にやる気など微塵も感じられるわけもなく。

 粉末状だった雪は、太陽の熱を帯びて溶け出してきていた。この暖かさが続くようであれば、夕方には全部水となってしまうだろう。。

 こんなこと、無意味なことだ。

 それに――……。

 この場には、ダルテの姿はない。アーティも、もちろんいない。

『グローリア。僕、雪を食べちゃったみたい』

 粉雪が煌めいた拍子に、アーティの笑顔が蜃気楼のように揺れた。もう、見ることができない彼の笑顔が。

 グローリアは口許を押さえ、俯いた。 

 ――そんな彼女の様子を、ヘンリーは静かに見守っていた。


 集団演習を終えた赤目部隊の者達は一斉に食堂へ駆け込む。

 グローリアは誰とも喋らず、一人でぶよぶよの皮靴のような肉を噛んでいた。

 ラザファムは自分の食事を少し分けようかと申し出てくれたのだが、グローリアはそれを突っぱねた。

 グローリアは木窓を開け放つ。ぶるりと体が震えた。

 雲ひとつない空は果てなく続いている。厳しい冬の寒さの合間に現れる晴天とまろやかな陽射しを赤い瞳に焼きつけた。

 昼食を終え、自室に戻ったグローリアは衣装ケースの荷物をくたびれた大きめのバッグに入れてコートを羽織る。そして、その足で医務室へ足を運んだ。

 真白いベッドで眠っているダルテ。目を閉じていると、グローリアよりも年下だということが如実にわかる、まだ幼さが残る顔をしている。彼の顔に残った生々しい加虐の痕を、グローリアはそっと撫でた。

「やめ……やめろ……」

 ダルテはうわごとを言う。アーティを喪った光景を思い出しているのだろうか。目尻には涙が浮かんでいる。

 彼の左手が、アーティを探すかのように虚空を掴む。

「ダルテ、ごめんね……」

 彼の白い手をそっと握り呟くと、グローリアは足早に教会庁本部の人事統括部へと向かった。

 真冬だからか、外出許可証を発行する窓口は空いている。窓口の前に佇むと、メガネをかけた女性が片眉を上げた。

「行き先は?」

「墓地へ。お墓参りに行きます」

「はあ……あなたは身だしなみをもっと整えた方がよろしいですよ」

 女性は小言を付け加えつつ、許可証に印章を押す。

 女性が言う身だしなみとは、グローリアの服装をさしているわけではない。色つきメガネを着用していないことをさしているのだ。

 案の定、市街に出たグローリアは人々から好奇の目線を注がれた。

 ――構わなかった。もう、どうでも良かった。


 共同墓地として使われている一角。一番日当たりが悪く、そして一般人の墓から離れた位置に、赤目達の墓はたっている。

 そこには、真新しい小さな墓標があった。

 アーティの墓だ。

 グローリアは、近くの花畑で摘んできた花を墓前へ捧げる。

「その墓、オレや隊長が作ったんだぜ」

 グローリアの隣に、声の主は佇んだ。

「ジャン副隊長……」

 ジャンはぼんやりとアーティの墓を見つめ、そっと墓標に触れた。

「……どうすれば、良かったんだろうな」

 グローリアに尋ねているようで、自分自身に問いかけているような彼の言葉。

 アーティとジャンの関係性など、グローリアにはわからない。しかし、人間と赤目という枠組み以上の交流があったことは明白で。ジャンにとって、アーティは弟のような存在だったのかもしれない。尋ねたところで、答えてはもらえないだろうけれど。

 別れのあいさつもできた。ジャンとアーティを二人にしてあげた方が良いと思ったグローリアは、静かにその場を去った。

 そして彼女はコートの襟を立て、歩調を早めて徐々に走り始めた。

 そのまま、通行手形を呈示している行商人の後ろに続いてグローリアは都の外へと飛び出した。



 夕陽がシュワルビシェ国の都を幻想的に染め上げている。王城がなくなった首都の中でも随一の大きさを誇るハムギュスト教会庁を取り囲む四つ尖塔の先が光を集約し、乱反射させていた。

 教会庁の中の南塔にある大部屋で、ヘンリーはボードゲームをしていた。軽快なリズムで駒を動かす彼に声をかける者は誰一人いない――はずだった。

「…………どうしたの?」

 丸テーブルの真横に立つジャンに、ヘンリーは平坦な声で尋ねた。ジャンはテーブルに腰掛けると、ヘンリーが持っている駒を奪い取った。

「グローリアのことなんだけど」

 グローリア、という単語にヘンリーは背筋を伸ばし、ここで初めてジャンの顔をまじまじと見た。

「グローリアが……どうした」

「アイツ、まだ戻ってきてねえか?」

 ヘンリーの表情があからさまに曇った。

 ジャンは何も言わないヘンリーに向かって言葉を連ねる。

「昼頃、アーティの墓で会ったんだ。なんか、酷く無口だった。……この前の件でアイツ、思い詰めているんじゃねえのか」

「わかった。早急に居場所を調べてみる」

「ああ、早くしろ。……都の外に出てなきゃ良いけど」

 二人は他の者達に聞かれぬよう、小さな声で言葉を交わし合った。

 部隊の者達が呑気に今晩のメニューを予想し合っている中、ヘンリーは左耳朶につけた紫石のピアスを触る。

 瞑目すると、真っ赤な夕陽が浮かんだ。

 ――都ではない。映像が上下に動いていることを見るに、走っているのだろう。

 ヘンリーは素早く立ち上がり、談話室を飛び出した。

 急に立ち上がった反動で盤上の駒が床に散らばったが、拾っている余裕はない。

「おい、ヘンリー!」

 ジャンの呼びかけを無視し、ヘンリーはそのまま回廊を走り抜けると、ラザファムの部屋へ続く階段を駆け上がる。

 ノックもなしにドアノブを捻り、中へ押し入った。いきなりのヘンリーの来訪にラザファムは目を点にする。彼は高価そうな美術品を磨いている最中だった。

「何を焦っている。非常事態か?」

 息せきって肩を上下させるヘンリーに異常を感じたのか、ラザファムは美術品を慎重に脇に置く。

「グローリアが――――いなくなった――」

 ガタッとラザファムは皮張りのイスから立ち上がった。彼は額に手を当てて舌打ちする。

「あいつは……もう庇えないぞ! 至急、隊長に連絡を。アメディック、居場所は掴めたのか?」

 ラザファムは顔を顰め、壁に打ち据えられた釘に無造作にかけたコートを羽織って部屋を出ようとする。それをヘンリーが止めた。

「――何故止める」

「いや……。逃亡したグローリアを庇うためにまた動いたとなると、たとえキミでも処分を受けかねない。キミはこのことを極秘に隊長へ伝えて欲しい」

「しかし! 俺が行かなければ、誰が行くと言うんだ!」

 焦燥感に満ち足りたラザファムの顔が苦しげに歪んだ。ヘンリーは奥歯を食いしばる。

「ボクが――……」

 ラザファムの言葉を遮り、ヘンリーは瞳を揺らした。

「……ボクが行く」

「何?」

 予想外過ぎるとでも言うように、ラザファムは聞き返してきた。ダルテも目を見張っている。

「もともと、グローリアはボクがここへ連れて来たんだ。全ての責任はボクにある。絶対にあの子は連れて帰るから、それまで何とかしらばっくれて」

「馬鹿な……既にお前は減給処分を受けてるんだ。行ったらますます重い処罰が……おい!」

 ラザファムが止めるのも聞かずに、ヘンリーは赤髪を翻し、踵を返した。


 自分はずっと、逃げ続けてきた。しかし、もう――……。

『一緒だね』

 あの時グローリアがくれた言葉と笑顔が心にこびりついて、離れない。


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