三章 原罪の記憶
■三章 原罪の記憶
1
うだる暑さの夏を乗り越え、枯れ葉舞う季節となっても、仕事は一向に舞い込んで来ない。
グローリアが先の仕事を完了させてから、五ヶ月が経過していた。
よもや閑職なのではという思いが過ぎるが、副隊長達やベテランクルマシオのペアは忙しそうに任務へ出向いている。きっと、グローリア達新人が遂行可能な依頼が来ていないだけなのだろう。
ヘンリーはいまだ、グローリアへ訓練内容の指示をくれず。
それを見かねたラザファムが、ダルテとまとめて面倒を見てやると申し出てくれた。それはグローリアにとって大変ありがたいことで。
……ラザファムは、グローリアとダルテに棒術と護身術中心のプログラムを組んでくれた。実戦に備えた訓練である。
非常に嬉しい。本当に有り難い。
……有り難い、のだが。
グローリアに対し、ラザファムは鬼と見紛うほど厳しかった。
少しでも気を抜けば檄が飛ぶ。目の前に悪魔憑きがいると思ってレイピアを突き出せと言われても、目の前にあるのは人型に作られた藁。全く実感が湧かなかった。
今日もラザファムのしごきが待っていると思い、憂鬱な気分で談話室にいると……。
予期せぬことが起こった。
ラザファムが、
「今日は休暇を取るように」
と言ってきたのだ。
彼自身に急な用事が入ったらしい。
仕事ですか、と聞くと、「その方が幾分かマシだ」という返答が飛び出して。
仕事の方がマシなんて、余程嫌な用事に違いない。
何はともあれ、せっかくの休みだ。手持無沙汰は良くないとグローリアは自室に戻り、ベッドの下に入れた小さな衣装ケースを引っ張り出した。そして、中身を漁る。
「……ない」
ケース内にあったのはクルマシオの正装とも言える黒地のマントと洗い立てのシャツ、そしてキュロット。それから勉強の時に使う筆記用具だけ。
彼女が探していたもの――糸と布地はなかった。
グローリアは鼻息荒く意気込んだ。ちょうど給料も出たばかり。
折角、久しぶりに刺繍をやる気になったのだ。こうなったら、買いに行くしか選択肢はあるまい。
衣装ケースの底敷の裏に隠した給金の入った袋を取り出し、グローリアは片目を瞑って中身を確認した。
いつもながら、中身の少なさに嫌気が差す。
この間、こっそり同期の給料明細を盗み見た時は目玉が零れ落ちるかと思った。
同期の給与は、グローリアより十倍以上もの手残りがあったのだ。
赤目も人間も同じ給与額だと入隊式の日にローレンは言っていた。
が、実態は違う。
赤目は給料から、かなりの天引きを食らう。
食費や住居修繕費などはまだしも、維持費や赤目受入費、清掃費などその他諸々のこれみよがしにつけ足したような雑費の項目。嫌気が差す。
それはともかく。
グローリアは刺繍をする際に使う糸と布地を買うため、町に出る準備を始めた。変色メガネをポケットに入れてコートを着込む。
そして、彼女は大教会の中心部にある人事統括部へ足を伸ばした。
人事統括部のロビーは人で賑わっていた。受付窓口は長蛇の列が出来ている。
クルマシオ達は、誰しも自由に町へ繰り出せるわけではない。ちゃんとした教会の許可証を得た者だけが外出を許される。
ポリーンの町へ行く時はラザファムがその手続きを一手に引き受けてくれたので手続きをしなくとも良かったのだが、通常は任務と言えど自分で許可証をもらうのが通例だ。
……と、グローリアはラザファムに教えてもらっていた。
辛抱強く行列に並び、ようやくグローリアの順番が回ってきた。
赤いフレームのメガネをかけた受付の女性は視線を上げもせず、手もとの皮紙にペンで何事か書きつけながら問う。
「どちらまで?」
「市街へ」
ちらりと女性がグローリアを上目づかいで見た。
「所属と名前を」
「赤目部隊、グローリアです」
「ペアは?」
「ヘンリー=アメディックさんです」
「外出の用件は?」
「刺繍に使う糸と布地の買い出しです」
「よろしい。はい、次の方どうぞ」
女性は面倒くさそうに印章を押した皮紙をグローリアに押しつけ、グローリアの次に待つ者に大声で呼びかけた。
グローリアは頭を下げると大教会を後にした。
変色メガネをかけたグローリアは、ホクホク顔で茶色い紙袋を抱えて歩いていた。
刺繍屋の主は、グローリアが持ち合わせを気にしながら糸や布地を選んでいることに気付き、
どうせ余っているから、とカラフルな染料につけた糸玉と布の切れはしをおまけしてくれたのだ。
肌寒い風はショールを巻いていない首に痛いが、心は陽だまりに飛び込んだように暖かく感じる。
「ねえ、わたくし……あれが欲しいの」
甘ったるい声と香りがグローリアの横を通り過ぎた。
「ああ」
どこにでもいるお嬢様のわがままだと意識を外そうとしたが、聞き覚えのある男の声に、グローリアは目をぱちくりとさせてお嬢様と男を振り返る。
そこには、金髪巻き髪の女に巻きつかれて辟易中のラザファムがいた。
女はラザファムの困惑顔に気付かないまま、ショーウインドウに陳列されている高価そうな指輪を指差している。
「ラザファム。聞いていて?」
「ああ、聞いているさ。それくらい自分で買えるだろう」
「もう! あなたに買ってもらうことに意味があるのに」
「……リーダー……」
意外な光景に、思わず声を発してしまった。
ハッとして口許を押さえるが、時既に遅し。まさか聞きとられてはいないだろうと高を括って彼らの方を盗み見ると、ラザファムとグローリアの目が、ばっちり合ってしまい。
「グローリアっ。俺はお前のリーダーではないと……いや、待て……」
女に聞こえぬように配慮してか、ほとんど唇を動かさず喋っていたラザファムだったが、顎に手をやって何やら急に考え込む。
……と。
彼は次の瞬間、目を疑うほどの笑顔を振りまいた。
たった今、グローリアの存在に気付いたと言いたげに彼は大げさに驚いてみせる。
「やあ、グローリアじゃないか!」
両手を広げてラザファムはこちらへ近付いてきた。
彼から並々ならぬ気迫が感じられる。
本能的に危険を察知したグローリアは後ずさった。
しかし、ラザファムはグローリアを逃がしてくれそうにない。彼はグローリアの肩を強く掴んだ。
「ちょうど良かった。買い出しに来たんだろう? 同行しよう」
「いや……でも、わたし……」
もう買いました、とは言えない空気にしどろもどろになってしまう。
ラザファムは不審げにこちらを窺う女を横目見、グローリアに向かって小さく首を横に振ってみせる。
彼の目は、誘いを断るなと雄弁に語っていた。よほど女と二人きりなのが嫌なのだろう。
「……お邪魔じゃないのなら、ご一緒させて頂きます」
先輩の威圧に負けたグローリアは持っていた紙袋を抱え直しながら言った。
ラザファムは胸を撫で下ろし、女へ爽やか過ぎる笑顔を振りまいた。
「もちろん、邪魔なわけがない。ヴィオラ嬢、この子は俺と同じ部隊に所属するグローリアだ」
「グローリアです。どうぞよろしくお願い致します」
「…………ヴィオラ=トワーラーですわ。以後、お見知りおきを」
深く一礼するグローリアに、ヴィオラと紹介された女は優雅にお辞儀を返してくれた。
しかし、そのお辞儀の美しさとは反対に、その目は敵意に満ちていて。
――よくもデートを邪魔してくれたな、と無言の抗議が聞こえてくる。
……右にラザファム、左にヴィオラと両脇を固められ、グローリアは縮こまりながら歩いていた。
「ところでお前、何を買いにきたんだ?」
「刺繍用の糸と布地を買いにきました」
「あら、それならもうお買い物は済んでいるのでなくて?」
目ざとくヴィオラはグローリアの紙袋の中身を覗き込みながら言った。
「……いや、グローリア。他にもあるだろ?」
懇願に近いラザファムの問いかけに、グローリアは良い言い訳を必死に考える。
「――――あ、そう言えば……果物でもヘンリーに買って行ってあげようと思っていたんだった」
「ふうん……」
わざとらし過ぎるかと思ったが、ヴィオラは納得してくれたようだった。
果物を売っている露店で買い物をしながら、グローリアはヴィオラに聞こえないよう溜め息を吐いた。
予定外の出費にともない、一気に懐が寒くなる。
ヴィオラはグローリアの存在など忘れてしまったのか、果物を売っている露店の隣に軒を連ねる国外の調度品を売っている店に目を奪われている。
「すまんな」
こそりとラザファムが呟いた。彼はヴィオラの行動を遠い目をして見守っている。
「いえ」
「果物の代金は、あとで俺が払う。ひとまず、ここは付き合ってくれ」
「いいですけど……ヴィオラさんって何者なんですか?」
「…………婚約者だ」
「えっ?」
グローリアは目を丸くした。
ばつが悪そうにラザファムは己の前髪を掻き上げる。
「――別に嫌いなわけじゃない。悪い奴ではないんだが、何でもかんでもねだってくるから堪らなくてな。他人がいれば、少しは自重するだろうから……」
言葉どおり、ラザファムの目に嫌悪は浮かんでいない。別に嫌々婚約しているわけでもなさそうだ。
果物を買い終えたグローリアは、ラザファムの買い物についていくことになった。
出来ることなら今すぐにでも大教会へ帰りたかったが、まだラザファムはそれを許してくれそうにない。
一向が辿り着いたのは、市街地の中で富裕層と一般層の住まう地域のちょうど境目にある店。大きな看板には『仕立て屋』と金色の流れ文字で書いてある。
「仕立て屋っ?」
グローリアは素っ頓狂な声を上げた。
他国はどうか知らないが、シュワルビシェ国では自分で服を仕立てるのが普通だ。
そのため、仕立て屋を利用するのは金持ちのみである。そのため、仕立て屋は金額が高めに設定されている。
「ああ。ヴィオラ嬢の父君がパーティーを主催するから、それ用に」
「わ、わたし……外で待ってます」
「そうか?」
怪訝な顔をしてラザファムは首を捻った。グローリアはコクコクと頷く。
仕立て屋の敷居はとんでもなく高い。
他の高級店――たとえば宝石店よりも、仕立て屋に入ることは勇気のいることだ。とてもじゃないが、入れない。
よくよく見てみれば、ラザファムもヴィオラも品の良い高価そうな仕立ての服を着ている。どこにでもありそうな服を着ているグローリアとは大違いだ。
ラザファムとヴィオラが仕立て屋から出てくるまでの間、グローリアは手持無沙汰に購入した糸で遊んでいた。
その後も三人はとりとめもなく市街を回った。
途中、アーチ状の橋で第一部隊が修繕作業をしているところに出くわした。
彼らは汗を拭きつつ、修繕工事に精を出している。
自分も彼らのように町の役に立ちたい、と職務に対する熱い思いを滾らせているグローリアの横では、ラザファムとヴィオラの攻防が繰り広げられていた。
二人の会話は全く以って成立していない。
やれ、あの宝石は美術品の価値を上げるだの損なわせるだののたまっているヴィオラを、ラザファムは適当にあしらっている。
グローリアはそんな二人の間に挟まれ、窮屈な思いをしていた。
ここまで、他人と一緒にいるのが疲れると思ったのは初めてだ。
「……。ちょっと待っていてくれ」
言うが早いか、いきなりラザファムは美術品が並んだ店内へ入って行く。
その店の壁はガラス張りのため、懸命に美術品を選んでいるラザファムの姿が見えた。
「あの人、美術品集めが趣味なの」
高級化粧品の匂いを漂わせ、ヴィオラは髪を掻き上げながら言った。
「そうなんですね」
ヴィオラは大きめに巻いた髪の毛先をいじりつつ、グローリアを爪先から頭の先までじろじろと見る。
「ねえ、グローリア……あなた名字はないの?」
「はい」
そう、とヴィオラの声が一トーン冷たくなる。
彼女の反応は別段ひどいものではない。
名字なしというのは一般市民の中でも珍しい。
田舎町にはそこそこいるが、栄えた地域ではほとんど見かけない。
そのため、田舎から出てきた者達は出身地名を名字として使ったりする。
名字がないだけで、田舎者だ、貧民だ、と差別されることが少なくないためだ。
グローリアはクルマシオとなってから、このかた一度もそのことについて触れられなかった。
それは、赤目であることを注視されていたからに他ならない。
もしもグローリアが赤目でなく普通の人間だったら、まず名字なしであることを突っ込まれていたことだろう。
赤目部隊の中で名字なしは、グローリアの他にも四名いる。
シェパード隊長と副隊長達だ。
だが、彼らは実力だけで上にのぼりつめた者達である。入隊当時は見下されたりしただろうが、今や誰も彼らを嘲ったりなどしない。
「ラザファムの足を引っ張っていないでしょうね?」
「はあ……」
ヴィオラは手入れの行き届いた自身のスクエア型の爪をいじりながら言う。
「ラザファムは幼少期から聖学校に入れられていたの。徹底的にクルマシオとしての教育を施されたエリートよ」
彼女から言われずとも、そのことはグローリアだって知っている。
だが、「知っています」と返答すればヴィオラが不機嫌になるだろうことを察したグローリアは黙って曖昧に首肯する。
ヴィオラは見定めるような瞳で、グローリアをジロジロ見た。
「そんな彼が働いている職場にあなたみたいな小娘がいるなんて……」
「あなたにクルマシオが務まるの? 辛いならわたくしのところへお出でなさいな。下働きにしてさしあげてよ」
高慢な物言いが癪に障る。
ヴィオラは苦労したことがないのだ。白磁の肌はかすり傷一つついてやいない。だから、下働きにでもしてあげる、と滑らかに潤った唇から簡単に零すことが出来るのだ。
「ラザファムはね、爵位を持たない下級貴族の息子だから、伯爵令嬢であるわたくしと結婚するのよ。そうすれば、クルマシオとしての地位も盤石なものになるでしょうからね」
その言葉に対し、グローリアは唇を引き結んだ。
「そんな真似、リーダーはしない」
「え?」
「リーダーは、地位を得るために結婚するかどうかを決めるような真似、する人には見えません」
きっと、あなたのことが好きだから結婚するつもりなんですよ、という気持ちを込めて言ったのだが……。言葉が不足した。
ヴィオラは怒りに目元を紅潮させて手を振り上げる。
(やばい)
避けることも出来たが、今のは自分の失言だ。
甘んじて平手を受け入れようと思い、グローリアはきゅっと目を閉じた。
しかし――。
「……余計なことを言わないで頂きたい」
薄目を開けると、店から出て来たらしいラザファムがヴィオラの振り上げた右手首を掴んでいて。
ラザファムは厳めしい顔で、ヴィオラとグローリアの間に入っている。
銀髪青目の見目麗しい青年が冷たい怒りを宿しているさまは、一種の恐ろしさを感じさせる。
ラザファムの威圧に押されることなく、ヴィオラはルージュを乗せた唇を尖らせた。
「あら、わたくしはただ、あなたが気持ちよくお仕事を出来る環境を整えてあげようと思っただけよ。ちゃんとあなたのことも教えてあげようと思って――」
「余計なお世話だ。グローリアは部隊の中でも指折りの有望株だぞ。それを、あなたの下働きになどさせられては迷惑以外の何物でもない」
「…………っ! 今日はもういいわ! 帰ります!」
ヴィオラは頬を膨らませ、そっぽを向くとヒールを高らかに響かせながら走り去っていった。
ラザファムは彼女を追いかけるでもなく、焦った顔一つ見せずに肩を竦める。
「大丈夫なんですか?」
「いつものことだ」
ラザファムは、こめかみを強めに押している。ヴィオラの扱いに相当苦戦していることは火を見るより明らかであった。
「それにしても、リーダーって……小さい頃から聖学校に入ってたんですね。ヴィオラさん、自慢してました」
「あいつ……そんなことまで話していたのか」
「羨ましいです」
「は?」
間の抜けた声でラザファムは問い返した。
「わたしは、聖学校に入れなかったから」
赤目は、聖学校はもちろんのこと、町経営の学校にも通えない。
「……そう良いものでもない」
ラザファムは髪を掻き上げつつ早口で呟く。
「俺は四歳で聖学校へ入学したが、そこでは一日中ハムギュスト教関連の勉強ばかり。一般的な教養は普通の学校に行っている者達より劣っている」
「でも、リーダーって何でも知っているイメージがありますけど……」
目を丸くして言うグローリアに、ラザファムは口の端を上げた。
「クルマシオになってから独学で身につけたんだ。……最初の一年など国の地理もわからず、どんなに苦戦したことか」
「…………だから、ちゃんと知識をつけろって口を酸っぱくして言ってたんですね」
「フン、好きに解釈すればいい」
ラザファムは捻くれた言い方しかしない。それ故、冷たいなどと誤解されるが、本当は誰よりも他人のことを考えてくれている。
と、彼の肩が小刻みに震えた。
グローリアはどうしたのだろうかと思って彼の顔を覗き込むと、
ラザファムは大笑いしていた。彼の笑顔はとても眩しくて。
「お前、見たか? ヴィオラのあの表情。いつも澄ました顔してるあいつがあんな顔するなんて……くくくっ」
「……リーダー、いつもそうやって笑顔でいればいいのに。きっと、そうしたらもっと幸せになれるはず」
思わず言葉が口をついた。
グローリアの言葉にラザファムはサッと顔を赤らめ、慌てて表情を元に戻した。
2
その後、グローリアとラザファムは他愛ない会話を交わしながら、審判采配場前を通りかかった。
ちらりと采配場前の立て札を見やる。今日は盗みと殺しを働いた赤目の罪人が裁かれるようだ。
立て札には催しものか何かのように、罪人の名前は伏せた上で、どんな罪状の者が裁かれようとしているのか書かれるものだ。
そして……赤目が裁かれる場合、内容の最後に赤いインクで大きく丸がつけられる。
グローリアが審判を受ける時も、こうやって書かれていたに違いなかった。
「おい、今から赤目が裁かれるらしいぞ!」
ぴくりとグローリアの肩が震えた。
「そりゃあ、見に行かなきゃ!」
「あれ、お前今から昼寝するって言ってなかったっけ?」
「いやいや。赤目裁判は散々野次飛ばせるからな。いい暇つぶしになるし……昼寝より有意義だろ」
審判采配場の警備員達は整理券を配っていた。皆それを受け取り、和気あいあいと審判采配場へ入って行く。
ラザファムは歯痒そうにそれを見つめていた。
「リーダー、どうしたんですか?」
その場から動こうとしないラザファムに、グローリアは首を捻って尋ねた。
「……ああして赤目が審判采配場で裁かれることをどう思う?」
「罪を犯したのなら、当然のことです」
顔色一つ変えずに言ってのけたグローリアに、ラザファムは満足げに頷く。
「つくづく、お前は不思議な奴だよ」
ラザファムの言っている意味がわからず、グローリアは眉根を寄せた。
ラザファムは審判采配場に入って行く人の群れから視線を外し、こちらを見やる。
「この質問を、これまで同じペアとなった赤目にしてきた。もちろん、ダルテにもな。……あいつらは同じことをのたまった。『赤目だから仕方ない』と。『自分達は生まれたことが罪なのだ』と」
カリッとラザファムは親指の爪を噛んだ。
「俺は、赤目のそんな考え方が大嫌いだ。虫唾が走る」
「……たしかに、赤目というだけで捕らえられる者もいる。だが、審判采配場へ引きずり出されるのは罪人だけ。濡れ衣をかぶせられることもあるだろうが、それは人間も同じこと」
「その、とおりだと思います」
無実の罪によって裁かれる危険性は赤目であっても人間であっても、同じくらいにある。
審判が始まったのだろうか。采配場の中から大歓声が上がった。
「――…………俺の恩師と叔父、そして親友は赤目に殺された」
歓声に紛れて、ラザファムが小さく呟いた。
何と言っていいかわからず、グローリアは固まった。
ラザファムは目を細めて、審判采配場を眺める。
「その人達を殺した赤目は……裁かれたんですよね?」
――死刑になったに違いない。
そんな思いで絞り出した言葉を、ラザファムは力なく首を横に振ることによって否定した。
「親友はこの前殺されたんだ。俺が遠方の仕事へ行っている間にな。彼を殺した赤目がどうなったのかは――わからない」
「全てが済んだ後に、俺はここへ戻ってきたから」
そして、とラザファムは拳を握りしめる。
「恩師と叔父は俺の目の前で殺された。彼らを殺した赤目と再会したら……絶対に捕らえて審判の場に引きずり出す」
「自分の手で、殺したいとは思わないんですか?」
「おい。俺に、罪人になれと言いたいのか」
「いいえ。……報復したいと思わないのが不思議だったから」
グローリアは自嘲的な笑みを浮かべる。
ラザファムは踵を二、三度鳴らした。
「……殺された三人の無念は彼らのものであって、俺のものではない。神の名のもと、犯した罪相応の贖いを受けるのが正当なことだろう」
(リーダーは正しい)
そうグローリアは思った。
裁きにかけようとするラザファムは誠実だ。
しかし、それが正しいと思っていても、実際に正しい行動を取れるかどうかはわからない。
時に、常識と感情は全く別物となる。
はたして、自分の大切な人を殺した赤目と相対した時、人は憎悪を抑えられるのか。
――少なくとも、自分は――。
グローリアは頭を振る。
二人はどちらともなく歩き出した。
「グローリア、俺は赤目が嫌いだ」
出し抜けにラザファムは言った。
心は痛まない。
彼くらい潔いのが、グローリアにはちょうど良かった。
「知ってます。初めて会った時、リーダーの目を見てすぐわかりました」
「――しかしお前は、俺の知る赤目達とは違うと思う」
ラザファムは流れる銀髪の合間から見え隠れする青い双眸をグローリアに向け、少しだけ笑った。
「お前は人間と同じように怒ったり笑ったりして、懸命に生きようとしているだろ。まあ、多少感情の起伏が激しすぎるという難点もあるが」
俺のことを引っ叩いたし、と付け加えることも忘れない。
「だから、何があっても……罪を犯すな」
ぴたりとグローリアの足が止まる。
「…………」
「審判采配場へ連行されるような罪を犯すな」
昼の光は燦々と二人に照りつける。
なのに、目の前にちらつくのはいつか見た夕陽のオレンジと、赤の景色。
ラザファムは知らないのだ。
グローリアが犯した罪を。
「さあ、わかりません」
「おい」
「誰だって、殺されそうになったら本気で抵抗します」
ラザファムは反論を呑み込む。
「もしかしたら、今審判を受けている赤目も、殺されそうになったから……逆に殺してしまったのかもしれない」
「ああ、お前の言うことも一理ある。もしそんなことが起こった時は申し開きをして、情状酌量の余地を――」
「リーダー、あなたが思っている以上に……赤目には権利がないんです。話など端から聞いてもらえない。だからもし、仮に私が正当防衛で人を殺してしまった場合でも、極刑が待っています」
「…………それは、させない」
力強い響きを持った言葉がグローリアの耳を揺さぶった。
ラザファムの顔を見上げると、彼は整った怜悧な顔にわずかばかりの怒りを灯している。
「お前は俺と同じクルマシオだ。決して見捨てたりしない」
グローリアは目を見開いた。変色メガネが緑色の光を放つ。
「赤目ということを卑屈に思わないよう己を律し、弱音一つ吐かず働いている……。お前はきっと、良いクルマシオになる」
「!」
いつも、ラザファムはグローリアに対して厳しい。
しかし、彼はグローリアの熱心さを一番認めてくれている。厳しいのはそのためだ。良いクルマシオとなって欲しいから、指導をする。
グローリアは自分の瞳が潤むのを感じだ。
「……ありがとうございます……」
ラザファムは目を細めた。その瞳は優しかった。
3
昼過ぎに拠点へ戻って来たグローリアは昼食も摂らず、大部屋で熱心に刺繍をしていた。図案はすぐに決まったため、テンポ良く針を動かせる。
窓際ではダルテが幼い赤目の少年に足をひっしと抱きしめられていた。ダルテは赤目の少年に目をやることなく、じっと外を眺めていた。
最後の一刺しを終え、グローリアは目頭を押さえて背筋を伸ばした。そして、出来たての刺繍を手に、ダルテの方へ向かう。
「はい、どうぞ。ハンカチとしてでも使ってくれたら嬉しいわ」
「……これ……」
「ダルテが身につけてるブレスレットをイメージして刺繍したの。良かったら、もらって」
ダルテは古びた――今にも壊れそうなブレスレットを身につけている。彼はそれをぎゅっと握った。
ダルテと知り合って早五ヶ月。
彼は純粋だ。純粋故に、不器用で。同じペアのラザファムとも上手く話すことが出来ない様子だった。
そんな素直なダルテが、グローリアは嫌いではなかった。
ダルテは何も言わずにグローリアの差し出した刺繍を受け取ると、足早に大部屋を去った。
「あ……」
ダルテに纏わり付いていた幼い赤目の少年――グローリアが先日パンをあげたアーティだ――も、慌てて彼に続き大部屋を後にする。
――刺繍に集中していたため、手持無沙汰な気分も若干落ち着いた。
グローリアはぐるりと大部屋を見渡す。
と、木漏れ日が射し込む隅の席で、ボードゲームをしているヘンリーに目が行った。
彼は一人で、盤上の白と黒の駒を滑らかに動かしている。頬杖をついて機械的に駒を動かす彼の顔は、心底楽しくなさそうで。
グローリアはヘンリーの様子をこっそり窺う。ヘンリー側の黒い駒が相手の白い王駒を落とそうとしていた。あと一ターンもすれば、ゲームは終了してしまうだろう。
「ここっ!」
ルールなど知らないが……取り敢えず、脇に置かれた白い駒を白い王駒の前に置いた。
ヘンリーは無表情のまま、自軍の黒駒を斜めにスライドさせて白い王駒を倒す。
「ええ? それって反則なんじゃないの?」
「この駒は斜めにも動けると決まってるんだ」
「ふーん」
悔しそうに鼻の頭に皺を寄せるグローリアに、ヘンリーは赤目を瞬かせた。
「ねえねえ……対戦しない?」
期待を込めた目でお願いすると……余程退屈だったのだろう。ヘンリーは黒と白の駒を分けながら了承してくれた。
「…………いいけど。キミ、ルール知ってる?」
「知らない」
ヘンリーは端的にボードゲームのルールを教えてくれた。勝敗の付け方はいたって簡単。王駒を取られた方が負けというものだ。
後はやりながら教えてくれるというので、グローリアは早速ヘンリーの黒い駒の目の前に駒を進めた。呆気なくグローリアの駒はヘンリーの駒から倒されてしまう。
「最近、暇だわ」
ボードゲームをする手は休めずにグローリアは独りごちた。返事はないものと思っていたのだが、ヘンリーは口を開いてくれる。
「……暇なくらいがいい」
「何それ。仕事嫌いなの?」
「いや……嫌いじゃないけど。好きでもない」
「あ、そう言えば、第一部隊が老朽化した橋の修復をしてたのを見かけたわ。赤目部隊にはそういった仕事、回ってこないの?」
「……変色メガネをかけた集団が橋の修復をしていたら、悪目立ちする」
「じゃあ、赤目を幾人かだけ行かせたら――」
「そんなに仕事がしたい?」
「給料もらってるし……しなきゃ駄目かなって」
ふうん、とヘンリーは興味なさげに呟きつつ、ちゃっかりグローリアの王駒の前に騎士の駒を持って行った。
逃げようにも、周囲をガチガチに固め過ぎていたグローリアには逃げ場がない。
「ああっ!」
グローリアは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「……弱い」
ヘンリーは困り顔で冷静に言い放った。
「弱くない! 今回は調子が悪かっただけ。もう一回勝負して」
「いや、何回やっても一緒だと……」
「ううん、あと一回だけ。お願い」
駄々っ子のように拝み倒すグローリアを見やり――……。
ヘンリーは、笑顔を零した。
グローリアは口を半開きにしたまま彼の顔を凝視する。
ヘンリーの微笑を、グローリアは初めて見た。
聖なる人のような彼の笑顔は、今まで見た誰の笑顔よりも美しく。
きつい瞳が、笑うことによってこんなにも印象を変えるとは。
……グローリアの視線に気付くと、すぐに彼は無表情に戻ってしまった。
彼は聞いてもいないのにボードゲームの解説を早口で始める。早口なのはきっと、照れている証拠だ。
「グローリア、キミは詰めが甘いんだ。中盤は躍動的に動くからすごく良いのに。終盤にかけて駆け足になる。もったいない」
「うう……」
その後、あと一回もう一回を繰り返して、グローリアとヘンリーは合計十回以上も勝負を続けた。
始めた時は昼下がりだったにも関わらず、もう夕方になっている。
二人共、最後の方は大部屋に置いてある菓子を摘まみながら真剣に勝負していた。
ヘンリーの白い姫駒がグローリアの王駒を詰んだ。懲りずに再び並べ出すグローリアに、ヘンリーはまだやるのかと言いたげな視線を送る。
「……もう少し練習してから、再戦を挑むわ」
グローリアは文句を言いつつ駒を片付ける。彼女は深々と腰掛けていたソファから体を剥がし、うーんと伸びをして背骨を伸ばした。
「目がシパシパするー。ね、ヘンリー。芝生公園にでも行って休憩しない?」
「遠慮しとく。一人で行ってくるといい」
「そっか。じゃあ、行ってきます」
グローリアはヘンリーに手を振り、大部屋を出て行く。
ヘンリーはソファの背にもたれかかり、天井を仰いだ。右耳朶に光る逆十字のピアスが涼やかな音を立てた。
彼は慣れた手つきでポケットから点眼薬を取り出すと両目に打ち込み瞑目した。
陽に透ける睫毛と睫毛の隙間から、赤黒い滴が顔を覗かせる。
――ヘンリーは目頭に手をやり、軽く息を吐いた。
市街の外れにあるなだらかな丘には、グローリアの他にも人影があった。子供達は笑い声を上げて駆けずり回っている。どこまでも長閑な風景を前に、グローリアは深く息を吸い込んだ。
湖の前にあるベンチに、見知った少年の姿があった。彼の右隣には、小さな体をより小さく丸めて眠る幼い赤目の姿もある。ラザファムからもらった白パンを分け与えた少年・アーティ。ふわふわ優しい陽射しに眠気を誘われたのだろう。彼はすやすやと熟睡しているようだった。
ダルテは先ほどグローリアがあげた刺繍を、複雑な面持ちで見つめている。
こちらに気付くそぶりを見せないダルテの左隣にグローリアは腰かけた。そこに至ってようやくダルテはグローリアの存在に気がついたようだ。
ちらりとグローリアを横目見てくる。
グローリアは機嫌良く芝生公園を眺めた。
変色メガネをしているせいで、せっかくの綺麗な景色がセピア色に見える。グローリアは、そっと上目遣いで空を眺める。ずれたメガネの隙間より、ピンクに変色した綿雲が見えた。
「これ」
いきなり視界に、茶色い袋が入ってきた。グローリアはダルテが差し出してきた茶色い袋を受け取り小首を傾げる。
ぷん、と焼き立てのパンの香りが鼻孔をくすぐった。
グローリアは目を丸くする。入っていたのはどれも白くて柔らかなパンばかりで。赤目がもらえる給与ではあまり買えないものだった。
「刺繍のお礼」
「え……嬉しい!」
グローリアは込み上げてくる嬉しさを抑えることができずにその場で飛び跳ねる。
そして、ダルテへ「一緒に食べよう」と言い誘った。
初めは拒否していたダルテだったが、期待の眼差しに根負けしたのかしぶしぶグローリアが差し出す白パンを受け取る。
そして……。
「僕の家族は、パン屋を営んでいたんだ」
へえ、とグローリアはパンに食らいつきながら相槌を打った。
気持ちよさそうに眠る小さな赤目の少年の髪を梳きながら、ダルテは言葉を続ける。
「だから、よその店が作ったパンはあんまり美味しいと思わない」
「あら。そんなこと言って……今この瞬間、美味しそうにパン食べてるじゃない」
「…………」
グローリアの反論にダルテは唇を一文字に引き結ぶ。
「――グローリア。あなたは、どうして僕に話しかけてくるの?」
ダルテの問いに、グローリアは首を傾げた。
「さあ……わかんない」
「……」
「あ、わたしと喋ってくれるからかも。他の赤目はだーれも喋ってくれないし」
あはは、とグローリアは頭を掻く。
「きっと、ここは地獄みたいだとみんな思ってるから……人間みたいに笑えるグローリアが疎ましいんだ」
ぽつりとダルテは言った。
彼は眠り続ける小さな赤目の少年――アーティを見やり、嘆息する。
「この子……アーティって言うんだけど。大教会に捨てられてたんだって。ずっと、幼い頃から教会で生きてる。アーティ《罪》と名付けられて」
アーティは、最近ダルテに懐いたらしく。いつもついてくるようになったらしい。
そんなアーティを見つめるダルテの眼差しが揺れる。
「大教会は、僕達の心を必要としてない。人間達は誰しも、僕達が悪魔であることを忌みながら、僕達が悪魔であり続けることを望んでいる」
「そんなことは」
「いいや、そうなんだ……きっと。……僕のお父さんも、そうだった」
ダルテは苦いものを食べたように顔を歪め、きつく自分の腕を抱きしめる。そして、自らの右手首に輝く、青いビーズで編まれたブレスレットを指でいじった。
「これ、お母さんがくれたんだ」
ダルテはブレスレットに優しい眼差しを送る。
「『あなたは悪魔なんかじゃない。私の子供』って。お揃いのブレスレットを買ってくれた。けど――…………」
ダルテは言葉を止めて首を左右に振る。
まるで言っては駄目なことだと自制するように。
「グローリアも、ここへは家族に放り込まれたの? それとも、他人の通報で?」
「う……ん。そんなとこかな」
「そっか」
ダルテは訳知り顔で頷き、それ以上、根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。
心地よい沈黙が二人を包み込む。
「……僕は……グローリアが嫌いじゃないよ」
唐突な一言に、鼓動が止まりそうになった。
ダルテの耳が赤く染まる。彼は照れているのか、顔を背ける。
「……僕はもう、感情がなくなってしまったけど」
諦念を浮かべつつも、ダルテはしっかりとグローリアの赤い瞳を見つめた。
「他の赤目はグローリアが明るいことを嫌がっているかもしれないけれど、少なくとも僕はその笑顔に救われてる。……ああ、赤目だって感情があるんだって思えるから」
唸るような風が、草花を撫でて上空へ駆け上がっていく。
ああ、とグローリアは天を仰いだ。
真摯に向き合えば、どんな人とも心を通わせられる。
――お母さん、世界はこんなにも優しいよ。
4
夜鳥が闇の静寂で鳴いている。
スリッパを引きずる音だけが響く。南塔は静まり返っており、人っ子一人いやしない。
グローリアは一定間隔で壁にかけられたランタンの灯かりを頼りに最上層を目指していた。日中は人間達のたまり場だから行けないが、真夜中の今なら誰もいないはずである。
見回りの司教に見つかったら大目玉だろうが、見つからなければいいだろう。規則などクソ食らえだと思う。
階段を上り詰め、頑丈な鉄の扉を押す。視界一面に広がっていたのは、普段は見ることの出来ない夜の市街だった。
わあ、とグローリアは感嘆の声を上げて花崗岩で出来た腰までの高さの壁に駆け寄る。
夜に沈んだ町はほとんど明かりが灯っていない。それがまた建物の美しさを引き立てる。
この都は緻密に計算しつくされて全てのものを建造している。都全体が、ハムギュスト教会庁を中心とし、ハムギュスト神を祀るための聖なる図柄――四つの楕円形を掛け合わせた形――を描いているのだ。
澄み切った夜風が気持ちかった。薄着のまま抜け出してきてしまったので、少しだけ肌寒い。
夜空に輝く星は故郷のものよりも、数が少ないように思えた。
星を掴む仕草をしながら、グローリアは溜め息を吐いた。
「あ……ヘンリー」
塔の屋根上には短い赤髪を夜風に遊ばせるヘンリーがいた。彼はちらりとグローリアに視線を送る。グローリアは壁を乗り越えて、ヘンリーの横に並んだ。
言葉はいらなかった。ただ、こうして横に並んでいるだけで心が落ち着く。
「……沈んでいるね」
ヘンリーはそう切り出した。
「誰かに何か言われたの?」
「違うわ……」
膝に顎を乗せてグローリアは上体を縮ませた。
「ここにいる赤目達は、どうやって連れて来られたのかと思って」
ヘンリーはグローリアを一瞥する。
「……そんなことを考えていたの?」
「うん。ヘンリーは、知ってる?」
「さあ……どうかな。大司教様のお慈悲によって連れて来られたんじゃないか? キミみたいに」
「何それ」
皮肉げに言うヘンリーにグローリアは嘆息した。
それからしばらくの間、二人は眼下に広がる景色を眺望していた。
「……知りたいのは、ダルテのこと?」
グローリアはヘンリーの横顔を、驚きに満ちた顔で見やった。
「キミがここへ来て一番深く関わった赤目は彼しかいない。彼も自分と同じように罪を犯したのか、それとも別の原因があってここへ来たのか……。ふと疑問を持った。……違う?」
ヘンリーはじっとグローリアを見つめる。観念したグローリアは首を横に振った。
「ううん。違わない」
そう言うと、ヘンリーは短い赤髪の毛先をいじった。
「……ダルテは父親によって町教会へ突き出されんだ。ちょうど彼の母親が流行病で死んですぐあと――三期前だから、一年くらい前にね」
ヘンリーは言葉を続ける。
「彼を迎えに行ったのはボクだった。ダルテの父親は『自分の子ではない。さっき道端で悪さしようとしているのを捕まえて連れてきた』って司教へ縋りついて言ってたよ。赤目隠匿は重罪だからね。実子でないことを訴えるのに必死」
ヘンリーは過去の情景を思い出しているのか、口の端に嘲笑を浮かべる。
「ダルテは、父親の後ろで無表情のまま佇んでいた。……そのあと一通り質問してみて、問題行動を起こしたことのない赤目だとわかったから、ボクは彼を教会へ連れて帰った。大司教にそれを報告をしたところ、クルマシオとして任命するようにと言われたから、そうした」
「父親が……ダルテを……?」
ああ、とヘンリーは首肯する。
ダルテの愛しそうにブレスレットを見つめる瞳が脳裏に過ぎる。
彼の母親が死んだあと、父親はダルテを人目から隠して育て続けることに嫌気が差したのだろうか。……真相はダルテの父親本人にしかわからない。
「ダルテに限らず、ここにいる赤目は何らかの形で通報された者ばかりだ。望んでここへやって来た者はいない」
出し抜けにヘンリーは言った。
息を吐くことが難しい。肩に力が入り、心臓が変な音を立てて軋んだ。
ヘンリーは静かに瞬く星々を仰ぎ、緩やかな動作でグローリアへ向き直った。
「まるで、贄か何かのように、ここへ赤目達はやって来る」
「そんなことって……赤目だって生きる権利が――」
「権利? そんなの、建前だよ。キミだって知ってるはずだ」
ふっとヘンリーは目を細める。
「教会に歯向かう赤目は危険分子と見なされて狩られる。教会は赤目の保護という名目のもと――赤目を何人も……いや、何十人も、何百人も闇へ葬っている」
グローリアは押し黙った。ヘンリーは薄い下唇を噛みしめる彼女を黒い瞳に映し出す。
「……グローリア、キミは目立ってるよ。とても」
言葉の中に棘を感じたグローリアはヘンリーを睨みつけた。それに臆するでもなく、ヘンリーは淡々とした口調で言う。
「赤目達と馴染もうとするのはまだしも、人間と馴染もうとする子なんて、今までいなかった」
ざっと強風が駆け抜けた。
ヘンリーが暗に何を差しているのかグローリアにはすぐ察しがついた。
ラザファムのことだ。彼とは、たまに食堂でパンをもらったり軽口を叩いたりするくらいには仲良くしていた。
「それは、駄目なこと?」
風によって乱れる巻き髪を押さえつつ、グローリアは訊いた。
「いや……ただ珍しいだけで、何の制約もない」
「ヘンリー。赤目と人間は何も変わらないわ。ただ、目が……赤いだけ」
グローリアが言うと、ヘンリーは目を見張った。
「ちゃんと話せば、人間だって赤目だってわかり合える。だって、何も変わらないもの。……あなたとも」
ヘンリーは信じられないという顔で唇を引き結ぶ。彼は頑なに首を横に振った。
「キミは知らないから――赤目が狂ったところを見たことがないから、そんなことが言える。あの姿を見たら、人間と赤目が変わらないだなんて思うはずがない」
「……でも、今は違うじゃない」
こくり、とヘンリーが唾を嚥下する音が聞こえた。
「わたしは今、こうして思考回路を働かせながら会話してる。人間とどこが違うっていうの」
――どうして、人ではないものとして扱うの?
「グローリア、キミや――他の赤目達は運が良かったからこうして今生きている。赤目は生まれ落ちた瞬間から原罪を背負っているものだ。親に生かされたことを感謝こそすれ、自分は人間だと思うなんて、おこがましい」
まるで幼子に言い聞かせるように説教を垂れるヘンリーに、グローリアの瞳が悲しみと苛立ちに染まる。
「たしかに、わたしの親も……わたしが赤目の子供だと知った時、ショックを受けたと言ってた。でも、そんな酷いこと一度も口にしたことはなかった」
「キミの親は突きつけられた真実の前に臆し、目を瞑って耳を塞いでいただけじゃないのか」
「そんなことない」
ヘンリーの反論をグローリアは一蹴した。
「『幸せは、信じた者のところに舞い降りるの。どんな境遇を抱えている者のもとへもね』」
聖なる言葉。グローリアが今まで挫けずいられた魔法の言葉。それを、彼女は口にした。
「――わたしの家族の口癖。いつも、わたしにそう言ってくれていた。絶対に幸せになるんだって心に強く信じていなさいって。どんな辛いことがあっても、あなたはきっと乗り越えてゆけるって。……幸せって、不幸を乗り越えた者だけが味わえる、光明なんだよって」
「そんなの、嘘だ。赤目の子供に、そんな言葉をかける親なんて――」
ヘンリーは明らかに動揺していた。
『赤目は人間じゃないの?』
『ねえ、どうして? どうして、隠そうとするの?』
『嫌い! 嫌い! 大嫌い!』
町へ出る時に変色メガネを着用させられたわけ、学校に通うことを許されなかったわけ。
それ知った時、グローリアは家族を詰った。恨んだ。
しかし、家族はそんなグローリアを、ただ抱きしめてくれた。たしかにグローリアは、家族から愛されていたのだ。
「お母さん達はわたしを人間として育ててくれた。だから、わたしは悪魔の子供なんかじゃない。お父さんとお母さん達の子供よ。そう思っていたって、いいでしょ?」
「………………いいな」
ぽつりとヘンリーは洩らした。
幸せか、とヘンリーは何か特別な響きを持つ言葉のように呟く。
「グローリアの家族は今、どこにいるんだい?」
「……どこだろうね」
「わからないの?」
「うん、勝手に家を飛び出してから随分経つの。今は…………どこにいるんだろうね」
グローリアが答えると、ヘンリーは残念そうに小さく頷いた。
「いつか、キミの両親に会ったら色々話を聞いてみたい。赤目の子供のこと、本当に愛していたのか」
「失礼な。愛されて育ったわよ」
憤慨するグローリアに向かってヘンリーは泣き出しそうな刹那の笑みを見せると、突然顔色を変え――……。
腕を抱えて顔を伏せた。
「どうしたの? 具合でも……」
「…………何でもない」
何でもないわけがなかった。彼は両目を押さえて震えている。歯の根元がガチガチと鳴っていた。
「ヘンリー?」
彼は腰に巻きつけたポーチをまさぐる。しかし、目を押さえているため、その指先はおぼつかない。
ぽろりと小瓶が落ちた。
グローリアはそれを掴むと、目を押さえているヘンリーの手に無理矢理握らせた。
ヘンリーは両目から手を放す。
あ、とグローリアの口から声が零れた。
星明かりのもと、ヘンリーの目元が露わとなる。
血管の浮き出た目尻、充血した白目に浮かぶ濃い黒であるはずの瞳――――が、紅く染まっている。
「ヘンリー……あなた……」
ヘンリーは突き刺さんばかりの動作で点眼薬を目に射した。苦渋の声が漏れ出でる。こめかみからは脂汗が吹き出した。彼は獣のようなうなり声を上げて目を押さえた。
ヘンリーの両目から血がほとばしった。噛みしめていた唇からも血が滴る。
「ちょ、ちょっと待ってて! お医者さんを……っ」
立ち上がったグローリアをヘンリーが止めた。彼は瞳孔の開ききった黒い双眸に強い光を宿し、首を横に振る。
「でも……」
「ボクは――平気だ」
心配するグローリアの手をやんわりと断り、ヘンリーはすっくと立ち上がった。彼はそのまま闇夜に消えた。
◆
「何だよこれ……」
青年の声は震えていた。彼が手にした文献に記されていたコトは、これまで信じてきた世界を覆すに足るもので。ランタンの灯りが揺れる。
「これが事実なら大問題だ」
硬い口調で男性は断言した。彼はガリガリと質の悪い紙を束ねた日記帳に羽ペンを滑らせる。黒いインクがそこかしこに散らばっていた。怒りのまま書いているのだということは一目瞭然だ。
「どうするの?」
健やかに眠る子供の前髪を優しく掻き上げながら、女性は囁く。
三人の間に重苦しい沈黙の帳が落ちた。
「――公にしよう。おれが教会庁へ行く」
青年は拳を握りしめる。しかし、男性はそれに否を唱えた。
「まだ足りない。言い逃れが出来ないような証拠がないと――」
「でも……っ」
「ハムギュスト神はきっと、私達へ加護を与えてくれるわ。焦らずに、着実に……」
女性は、いきり立つ青年と沈痛な面持ちをしている男性の拳を温かな掌で包み込んだ。
「幸せは、信じた者のところに舞い降りるの。どんな境遇を抱えている者のもとへもね」
そうでしょ、と優しげな声で彼女は言い――決意を孕んだ瞳で窓の外に広がる数多の星を見据えた。
◆
どうしてあなたはうまれたの?
どうしてあなたはそこにいるの?
どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
――女性は嗚咽を漏らし、男性は哄笑を上げる。
赤子の瞳は、深い紅色だった。この世の全てが血に塗れたものに見えているかのように。