二章 悪魔祓い
二章 悪魔祓い
1
グローリアがクルマシオとして赤目部隊に入隊して、ちょうど一ヶ月が経った。
気候は安定した時期に入っており、クルマシオの仕事は閑散期にあった。原因は不明だが、春は悪魔憑きの発生率がぐんと下がる。
クルマシオ達は暇を持て余していた。
仕事は業務振り分けを担う司教達が各部隊長に内容を吟味し、各部隊へ仕事を振る。
閑散期の場合、他部隊は都市や地方の巡回を行なうのが常であるが、赤目部隊は特殊である。おいそれと赤目が集団で動くわけにもいかない。
そのため、赤目部隊に所属する者達は、部隊長や副隊長からクルマシオとしての心得について乞うたり、チームのリーダーから実戦に向け特訓を受けたりしていた。
人間達が副隊長三人から悪魔滅却聖典の詠唱について教わっている間、赤目達はシェパード隊長から武術や暗殺方法、そして自分の力を抑える術を学んでいた。
隊長は赤目達が理解出来るようかみ砕いて技術論などを語ってくれた。
しかしそれをまともに聞いているのはグローリアぐらいである。
他の赤目達はぼんやりした様子で遠くを見ている。それを隊長が咎めることはなく、坦々と時間は過ぎて行く。
グローリアは麗らかな陽が射し込む窓際で、シェパード隊長が喋っている自制の仕方を紙束に書きつけていた。
思っていたより、自制というのは簡単らしい。
感情が高ぶった瞬間、己に「止まれ」と呼びかけるのだ。そうすると、表面に出てこようとする悪魔が身を潜めるのだという。
グローリアはふとペンを走らせるのをやめ、ぐるりと赤目達の胡乱な眼を見渡した。
どうして彼らはクルマシオとなったのだろうか。
グローリアと同じように、囚われてそのまま赤目部隊へ押し込められたのだろうか。
何にせよ、空虚な瞳をした彼らが望んでこの場にいるとは考え難かった。
早朝の勉強を終え、南塔一階にある大部屋――部隊の者達は談話室と呼んでいる――に戻る。そこにいる人の数は疎らだった。
「行くぞ」
「はいっ」
初々しい返事をし、今年度から新しく入隊した赤目が偉そうな壮年男性の後ろに続く。これから個別に演習を行なうのだろう。
ペアによって、隙間時間の過ごし方は違ってくる。真面目に鍛練に励むペアもいるが、巡回と称し、同じペアの赤目を置き去りにして町へ繰り出して遊んでいる者もいる。
……ヘンリーの場合は、放置、だった。
ヘンリーはグローリアに何を教えることもせず一日の大半を自室で過ごしていた。
一度、何をすればいいか聞きに行ったことがあるが、「適当に知識を増やしておいて」と言われただけだった。
途方にくれたグローリアは、南塔の下で訓練を行なっている者達に倣い、見よう見まねで剣の素振り練習をしたり、談話室にある本を読んだりしていた。
グローリアは近くにあった新聞を引き寄せて熟読する。世間は今日も平和らしい。
ガラッと扉が開く。立っていたのはラザファムだった。彼は銀髪を無造作に垂らし、神妙な顔つきで一枚の紙と睨み合っている。
自然、談話室にいた者達はラザファムへ頭を下げる。彼はそこに存在するだけで周囲を圧巻させる力を持っている。生来のカリスマ性だ。類を見ない強いオーラが皆の心を緊張させていた。
ラザファムの青い瞳が、グローリアをとらえた。びくりと肩を震わせるグローリアの方へ、彼はズンズンと近寄ってきた。
「ちょうど良かった」
ラザファムはグローリアの前で止まった。
「おい。お前がグローリア、で間違いな」
彼は怜悧な美貌でそう訊いた。
「あ……はい」
ラザファム=ビエロフカ。
彼のことはよく知っている。聖学校を歴代一位の成績で卒業した、優秀なクルマシオ。容姿端麗、頭脳明晰、非の打ち所がない、部隊の者達が尊敬してやまないクルマシオ。その実力は隊長に匹敵するとも言われている。
そして、ヘンリー=アメディックと超絶に仲が悪い。聖学校時代から順位を争う仲だったことに起因していると誰かが噂していたのを小耳に挟んだことがある。
ラザファムは一枚の紙を突き出した。焦点が合わず、紙に何と書いてあるか読めない。グローリアは目を細めて紙に書かれた文章を読んだ。
「『任務内容・ポリーンの町で発生した悪魔祓い。依頼主は個人』」
「……今回、この案件を受けるのならば、お前達のペアと組むよう上から指定された。さあ、すぐに支度を始めろ」
談話室にいる者全てが注目してくる。グローリアは戸惑っていた。
「あの……」
「なんだ」
「仕事の内容を聞いてもいいでしょうか」
「何、ただの悪魔祓いだ。そう大きな案件でもない。お前の能力を実戦で試すいい機会と思えばいい」
ラザファムは鼻を鳴らした。
「わかりました」
グローリアは自分の胸に手を当てる。心なし、鼓動が速い。
「では改めて……。同じチームを組むことになった、ラザファム=ビエロフカだ。十五歳の時にクルマシオになってこの五年間、ずっとこの部隊に所属している。――後ろにいるのはダルテ。お前より三期早く入隊した赤目だ」
至極どうでも良さそうな名乗りにグローリアは拍子抜けする。もっと嫌悪感丸出しで接されるものと思っていた。
ラザファムの背後に隠れていた、大人と子供の狭間にいる黒髪の少年は、赤い瞳でグローリアを凝視している。
心を見透かすような真っ直ぐな視線に、グローリアはたじろぎながらも笑顔を取り繕った。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
大部屋を出て、ひたすら回廊を歩く。ラザファムの後ろにグローリア、ダルテと続いていた。
ラザファムは迷いない動作で突き当たりを右に曲がった。窓のないそこは、闇に沈んでいた。彼は薄暗い階段を上がる。
グローリアは小走りでラザファムの斜め後ろを行く。
ラザファムの耳朶が、偶然目に入った。そこには無数の穴が開いていた。
それにより、彼がこの数年でどれだけ多くの赤目と血の交換を行なったかが窺い知れる。
「お前、アメディックに推薦されたんだろう?」
「…………ヘンリーが、推薦した?」
「ああ。あいつの能力の高さは俺が一番よく知ってる。……そんな奴の推薦を受けてお前は入隊した。まあ……今回の任務での働き、期待しているぞ」
聞き捨てならない科白にグローリアはポカンと口を開けた。
「部隊編成について話し合う場で、あいつがいきなりお前を推薦したんだ。有無など言わせず強引に話をまとめた。よほど気に入られたんだな。あいつが誰かを推薦するなんて、五年間のうちで初めてのことだ」
「まさか。わたしは……ヘンリーに嫌われているもの」
即座に否定し、グローリアは自嘲げに笑った。
ラザファムは何とも言えない表情を形成して眉尻を上げる。
彼の足は止まることなく先へ先へと進む。
やがて、階段が途切れ、最上階である五階に辿り着いた。そこは赤目部隊が拠点としている南塔の最上階である。並びには、シェパード隊長や副隊長らのネームプレートがかけられた執務室兼自室があった。
「ダルテ、そっちは俺の部屋だろう」
「…………申し訳ありません」
ダルテは東階段すぐ横にある部屋を開けようとして、ラザファムに止められる。
ラザファムは西階段横にあるドアの前まで歩を進めると、ノッカーを叩く。どうぞ、と簡素な言葉が聞こえた。
「失礼」
ドアが軋んだ音を立てる。
グローリアは驚愕に目を見開いた。ダルテも同様、ポカンとした顔で部屋内を見回している。
ヘンリーの部屋は、グローリアに与えられた部屋とそう変わらない広さだった。
今にも足が折れそうな長机があることによって、パッと見グローリアの部屋よりも狭く感じるくらいだ。
机上には書類が溢れ返っている。こんなに手狭では作業能率も悪いだろう。インクを溢したのか、一部の紙は黒く染まっていた。
「仕事だ」
ラザファムは素っ気なく用件を述べた。
「どこの?」
ヘンリーはイスに深く腰かけて書類に目をやったまま、口を動かした。
ラザファムは書類の山に埋もれている机へ、強引に地図を広げる。ヘンリーはさも迷惑だと言いたげに眉を撥ねた。
「ポリーンの町の住民から直接依頼があった悪魔祓い」
「へえ……珍しいね。キミがただの悪魔祓いの仕事を請け負うなんて」
「ダルテの技量を知るため、実務をもらいたいと思っていたからな。俺がもらった。そうしたら、上からお前と一緒に行くよう言われたんだ。…………いつものように」
「そんなに難しい案件でもない。ボクに応援要請しなくてもいいと思うけど」
「文句は上へ言え」
「……ポリーンの町は、ここから馬車で半日か。わかった、いいよ」
「悪いな」
「別に」
会話自体は普通だった。しかし、二人の間には冷えた空気が漂っており、グローリアの緊張を煽る。
話は終わったとばかりにヘンリーは再び書類に目を通し始める。ラザファムも踵を返し、ドアノブに手をかけた。
「昼食後すぐに出発するから、用意が出来たら門に来てくれ」
ラザファムの言葉を受けたヘンリーは軽い調子で手を上げた。
2
均されていない砂利道が続く。
外装も内装も派手でない馬車に乗った一行はポリーンの町へ向かっていた。馬車はちょっとした小石があるだけで大げさに揺れ動く。その度にグローリアは腰を擦った。
ヘンリーやラザファム、ダルテは馬車慣れしているのか、さして腰が痛いようには見えない。
「今回、ポリーンの町民は、町教会を通さず、じきじきに依頼をしてきたらしい。普通は町教会を通してクルマシオ召喚の要望があるんだがな。正式な手続きを踏んでいないということで繁忙期なら断っていただろうが、何せ閑散期だ。要請を承諾した」
そして、ポリーンの町が都市部から近かったため、大教会からクルマシオを派遣するに至ったらしい。
もしも都市部からかなり離れた場所からの依頼だった場合、最寄りの駐屯所に勤務するクルマシオが派遣されるシステムとなっているようで。
ラザファムにそのことを説明してもらったグローリアは、初耳だったこともあり、教会の効率的なシステムに感心して感心し、しきりに頷いていた。
クルマシオ達がそんな手筈で呼ばれるものだと、彼女は全くもって知らなかったのだ。
「――グローリア、お前は一体いくつだ?」
「十八ですけど……」
「今まで何を学んできた」
青い宝石の瞳が呆れたように細まる。
「だって、そんな知識……生きていくにあたって使わないし……」
「使うか使わないかはこの際問題じゃない。常識の問題だ。しかもお前、町の名前はもとよりシュワルビシェ国の地理さえ知らないじゃないか」
「別に仕組みなんて知らなくたって、仕事は出来るよ。地理だって地図があれば何とかなるし」
ヘンリーが出してくれた助け舟に、グローリアは思い切り飛びついた。そうだそうだ、とここぞとばかりに同調する。
ラザファムはヘンリーを一瞥し、鼻を鳴らした。
「これからグローリアはクルマシオとして様々な土地へ行くことになる。最低限の知識を持っていないがために困るのは、グローリア自身だ」
「そうならないよう、キミがいるんじゃないか」
どうせボクとキミはいつも任務が一緒だ。面倒見てやって、とヘンリーは軽い口調で言った。
ラザファムは鼻の頭に皺を寄せた。
「あいにく、俺はいつまでも新人の引率をする気はない。大体、何故俺がお前と同じ任務にばかり就かなければならな――」
「ああ、そうだね。でもそれは上に言ってくれ」
ラザファムとの応酬が面倒になったのか、ヘンリーは素っ気なく小窓の外へ目をやった。それにつられてグローリアも外の景色を眺める。外には延々と続くなだらかな丘陵地帯が広がっていた。今にも牧歌が聞こえてきそうだ。
ラザファムは説教を続ける。
「いいか、グローリア。赤目だとか人間だとか、仕事に対するに当たって関係ない。きちんと学び、精進しろ。そうすれば必ず上に行ける」
「はい……」
グローリアはラザファムに見つからないよう、壁側を向いてこっそり溜め息を吐く。
ラザファムがグローリアに期待を寄せていることは一目瞭然だった。
仲は悪いかもしれないが、ラザファムはヘンリーの実力を高く評価している。そんなヘンリーに推薦されたグローリアに、ラザファムが注目するのは必然で。
ふと、目を皿のようにして体術関連の本を読んでいたダルテと視線がかち合う。彼は無表情のまま俯いた。彼の黒髪が寂しげに揺れる。
真っ赤な太陽が山間に沈む頃、グローリア達はポリーンの町に到着した。
「これを……夕方だから大丈夫かもしれないが、念のため」
グローリアとダルテは、ヘンリーから変色メガネを渡された。グローリアは文句を言わずにそれを装着する。
変色メガネをしていれば、瞳の色を誤魔化せる。レンズに度は入っていない。完璧な伊達メガネだ。
「……そういえば、今晩は新月だったな」
ヘンリーは皮袋から暦表を取り出して確認を取り、空を見上げる。藍色に染まりつつある空には月がなかった。
「…………じゃあ、悪魔祓いは明日に持ち越しですね」
ダルテの呟きに一同は揃って頷く。
新月は悪魔の力が最も増す時である。そんな時に悪魔祓いを行なうなんて正気の沙汰ではない。祓うどころか逆に取り憑かれる危険性も強まる。
「とりあえず、依頼書を送ってきた者に面会を……」
ラザファムが依頼書を広げると、グローリアとヘンリー、ダルテはそれを覗き込んだ。
「すみません、ガネット=ドードーという方を知りませんか?」
四人は道行く人に依頼書の主を尋ねた。ガネットと聞いた人々はまばらに振り返る。
最初は疑心溢れる顔をしていたが、グローリア達の胸に光るブローチを見た途端、人々は祈るように手を組んだ。
「クルマシオの方だ!」
「おれ、ガネットを呼んできます!」
「ああ、来てくれたんだ……」
「ありがとうございます」
尋常でない喜び様にグローリアは圧された。それは彼女だけでなく、ヘンリー達も同じだったようで、皆一様に一歩引いていた。
幾人かに引っ張られる形でガネットはやって来た。
体格の良い彼は運動不足なのか、息切れしている。ガネットは乱れた呼吸を整えると、泣き出しそうな笑顔を見せた。
「クルマシオ様方、お待ちしておりました。わしがガネットにございます。ささ、どうぞこちらへ。夕飯の準備は整っております」
ガネットに案内されたのは町教会でなく、一介の宿屋だった。
「…………」
ヘンリーの顔が険しくなる。宿屋が汚いからというわけではない。クルマシオ達は町教会で寝食を取るものだ。だから、普通ならば宿屋に案内されることなどないはずなのである。
宿屋の一階部は酒場になっていた。荒削りな丸テーブルはまばらに埋まっている。ガネットはグローリア達に飲み物を持ってくるよう店員に頼むと、事情を話し始めた。
「あんた方を呼んだのは、町民の皆です」
「ほう、町ぐるみの依頼だったのか」
「はい、ですが連名の依頼にすれば普通よりお金がかかってしまう。だから、皆を代表してわしが依頼書を出したのです」
なるほど、とラザファムが腕を組んだ。
「ということは、アナタが町長ですか?」
ヘンリーが訊くと、酒場にいた者達は一斉に暗く悲しげな顔をした。
ガネットは彼らを代表するように首を横に振った。
「いいえ……その……」
言いにくそうにするガネットを観察していたグローリアは口を開いた。
「町長が悪魔に取り憑かれたの?」
「……はい」
ガネットは落ち窪んだ目を伏せた。
「すごく優しい町長だったんです。でも、ある日を境に性格が変わってしまって」
「俺達の暮らしを一番に考えてくれる、とても人気がある人だったんですぜ?」
「こんな小さなポリーンの町が飢えに苦しまなくてすんでるのも、町長が不作の時は税を軽くしてくれたり、町起こしを手伝ってくれたおかげなんだ」
酒場にいる人々は口々に町長を擁護した。その言葉達はとても温かく、町長の人柄がうかがい知れる。
ダルテはラザファムに言われたのか、人々の発言を依頼書に付け加えていた。
「……町長の性格がどのように変化したか、知っているなら教えて頂きたいのですが」
控え目にヘンリーは申し出た。
「まず、週に一度の教会での礼拝を拒否するようになりました」
「他には?」
「昼間は決して姿を見せなくなって……。町長のご家族からお聞きしたのですが、今まで健康に気を使って脂っこいものは食べていなかったのに、いきなり肉料理を好むように……。しかも二日に一度、生肉を食べているようです」
「なるほど」
ヘンリーは唇の端を親指で拭った。
悪魔憑きかどうかを見定める方法は、いくつかある。聖水や教会を嫌がったり、普段とは違う食事を好むようになったり、横暴で排他的になったり――など、性格面の変化が主である。
しかし、それだけで悪魔憑きと判断することは出来ない。ただの精神病という可能性も捨てきれなかった。
ヘンリーはガネットに視線を合わせた。
「本当に悪魔憑きかどうかの判断は明日行ないます。……話を聞く限り、多分黒だな」
最後の呟きは、グローリア達クルマシオにしか聞こえなかった。
ダルテはペンを走らせていた手を止める。彼の書きつけを見ると、今の受け答えが余すところなく全て記されていた。相当記憶力がいいのだろう。グローリアは彼に尊敬の念を送った。
「それでは、寄付金を」
ラザファムが言うと、町民達は目を合わせた。そして、宿屋の奥から重そうな皮袋を持ってくる。中を確認したラザファムの眉間に皺を寄った。
ガネットはバツが悪そうにしきりに手遊びをしている。
「それが……この町の皆でカンパし合って出せる、最高額です」
無言のラザファムを不審に思ったのか、ヘンリーはラザファムの持っている皮袋を覗き込む。すると、ヘンリーも無言になった。
ラザファムは机の上に皮袋に入っていた金貨を取り出した。散らばったのは赤玉と青玉ばかりだ。黄玉は一つもない。多く見えたのは赤玉が多く入っていたせいだった。
「ダルテ、勘定してくれ」
「はい、リーダー」
ラザファムに頼まれたダルテはすぐに金勘定に入る。
「……どう多めに見繕っても、教会の規定より寄付金が少ないな」
「はい……」
ラザファムの刺々しい物言いに、ガネットの表情が曇った。
「なるほど。町教会に願い出なかったのも、金策が上手くいかなかったからですね」
ヘンリーの確認に、ガネットを始めとした町民が頷く。
「教会には何度もお願いしたんです。ですが、『規定の金を持ってこい』の一点張りで取り合ってもらえず。藁にも縋る思いで大教会へじきじきに依頼書を送りました」
やはり駄目か、と町民の空気が重くなる。
何とかしてやりたいとグローリアは思うが、どうにも出来ない。
「町教会は……援助してくれなかったんですか?」
各町にある教会は、経済的に苦しい者が悪魔憑きになった時、援助をすることが義務付けられている。
グローリアの問いにガネットは俯く。彼は拳を震わせた。
「教会も、経営が切迫しているらしいです。赤玉一つ払えないと言われました」
ひどい、と言いそうになりグローリアは何とか押し留まった。今、自分はクルマシオなのだ。教会をあからさまに糾弾することは出来ない。
「町長ならば、金を持っているのでは?」
もっともなヘンリーの言葉にもガネットは力なく首を横に振った。
「それが……町長は前に悪魔憑きになった町民を救う際に全財産を投げ打ってくれていたらしく、家にはほとんど家具もない状態なのです」
ガネットは涙ぐむ。
「…………こんなことになるまで、わしら町民は町長がそんな暮らしをしていることも知らずに……。その町長が苦しんでいるというのに、お助けしてさしあげることも出来ない」
「ガネットさん……」
「あんただけが悪いわけじゃない。うちらだって」
悲痛な雰囲気が漂う中、一石を投じる者がいた。
「待て」
玲瓏な声が響いた。声の主に皆の視線が集まる。蒼い目を持つ冷たい美貌の青年は、鼻を鳴らした。
「誰も引き受けない、とは言ってないだろう。この依頼、引き受けるぞ」
えっとガネット達はラザファムを呆けた顔で見つめた。
「安心しろ、後で足りない分の金を返還しろなんて野暮なことは言わない」
快く請け負うラザファムを、グローリアは意外に思う。
まさか、ラザファムがそんなことを言い出すなんて思わなかった。
「足りない分はどうするんだ」
ヘンリーが確認すると、ラザファムは「俺が出す」と言い切った。
「リーダー、勘定終わりました」
「いくら足りなかった?」
「規定料金の四分の三です」
「わかった」
事もなげにラザファムは小さな紙に金額を書き、それを懐に仕舞う。
「…………大丈夫なんですか?」
規定料金の四分の三と言ったら大金だ。普通の農民が二年間何もせずに暮らせるくらいの額である。
心配になったグローリアが耳打ちすると、ラザファムは不快感を全面に出して言い放つ。
「大丈夫に決まってるだろう。大体、民の健やかなるを守るがハムギュスト教に仕えし者の務め。……それをなんだ、ここの教会は。経営が切迫している? 教会庁に寄付金が足りない旨を伝えることぐらいは出来たはずなのに。町民の声も退けるような町教会など、いっそ潰れてしまった方がいい」
酷い言い草だが、もっともな意見だった。彼は正しい。
「そう――ですよね。うん、リーダー……ありがとう」
「フン、どうしてお前が礼を言うんだ。というか、俺はお前のリーダーじゃない」
グローリアはまるで自分のことを助けてもらった気分になり、笑顔となる。
わっと酒場が活気づいた。
「クルマシオ様……ありがとうございます……!」
「ほら、これ美味しいですよ」
「これも食べて下さい」
「あたしのも」
酒場にいた町民はグローリア達をいっせいに取り囲んだ。
ダルテは誰からか差し出された薄紅色の飲み物を恐る恐る飲んで、顔を和ませていた。ヘンリーは白パンに果物を煮詰めたものを塗りつけて頬張っている。ラザファムはといえば、町民達から拝まれながら食事をしていた。
「あなたもどうぞ」
グローリアは、酒場のおかみから差し出されたミルクを受け取る。深く頭を下げて一気にミルクを呑み干した。
皆が和気あいあいと騒いでいるのを横目に、グローリアは一心不乱に食事をしていた。
大教会の赤目部隊拠点で出されるさもしい食事と比べ、目の前に広がる食事は豪華なものだった。丹念に焼き上げた肉を咀嚼すると、じわりと肉汁が染み出した。
さぞかし町民達も食べていることだろうと周囲を見回したグローリアは顔を引き締めた。人々は手もとに置いた酒しか飲んでいない。
(この食事は……わたし達のために用意してくれていたものなんだ……)
きっと、無理して振る舞ってくれているのだろう。
わいわい騒いでいる中で、いつの間にかヘンリーの姿が消えていた。
「あれ、ヘンリーは?」
「あの赤髪の人?」
一人ごちたグローリアに酒場のおかみが反応してくれた。
「はい」
「一足先に部屋で寝るって言って上がってったよ」
「あ……教えて頂き、ありがとうございます」
「いやいや。あんたも疲れたなら部屋に案内するけど」
「いや、わたしはまだいいです」
まだ腹が満たされていない。贅を尽くした食事など、この先そう簡単にありつけるとは思えない。今のうちに貯め込んでおかねば。
そんな思いを胸に食事を再開しようとした矢先、机に突っ伏しているダルテが目に飛び込んできた。
「…………ダルテ……?」
「……………………」
健やかな寝息を立てて、ダルテは眠っている。彼の頬は真っ赤だった。
グローリアはダルテが手にしているコップの中身を確認する。匂いを嗅ぐと、ミルクとワインが混ぜられたものだとわかった。グローリアは嘆息する。ダルテはワインと知らずに何杯もおかわりしたに違いない。
「まったく」
ダルテは十六だとラザファムから聞いていた。自分よりも二つ年下の彼を見ていると、姉になったような心境となる。
グローリアはダルテを部屋に運ぼうとするが、意外と重い。
「あちゃあ、こりゃ潰れちゃってるね」
ひょっこりと酒場のおかみが、グローリアとダルテの間に割って入ってくる。彼女は人好きのする笑顔をグローリアに振りまいた。
「あたしが運んでやるよ」
「え……いいんですか?」
「うん。むさい男ならケツ蹴っ飛ばしてでも自分で部屋まで行かせるけどさ。可愛らしい男の子だし」
おかみはムフフと笑い、片目を瞑ってみせる。グローリアはホッとして微笑を洩らした。
「じゃあ……お願いしようかな」
「任せとくれ!」
おかみはひょいっとダルテを肩に担ぎ上げると、階段を上がって行く。
グローリアはおかみさんの申し出に深く感謝しながら、切り分けた肉を口に放り投げた。
3
クルマシオは教会指定の宿屋に泊るのが慣例である。
指定された宿屋の代金はその地区の町教会持ちで、貧乏な町教会の場合は教会で寝泊まりをお願いされることもあるらしい。
今回は町教会を通さない依頼のため、グローリア達は酒場の二階にある宿屋で休ませてもらうことになった。
たらふく食事を満喫したグローリアが案内された部屋は、簡素だが掃除の行き届いた一人部屋だった。案内してくれた宿屋の主人に礼を言い、清潔なシーツが敷かれているベッドにダイブした。
天井のシミを見つめる。
明日、初仕事が始まる。少しだけ緊張していた。
グローリアは久しぶりに満たされた胃を擦りながら瞑目する。彼女の意識はすぐに落ちた。
全てが白くかすんでいた。
どこからか優しく包み込むような歌声が聞こえてくる。子守唄だ。それはグローリアの鼓膜を振動させて心地よいぬくもりの毛布となる。
しかし、それはすぐに潰えた。
『グローリア……頼む』
『早く…………っ』
視界一面に広がる赤、赤、赤。
グローリアは喉元を掻き毟った。これは夢だということはわかっている。早く醒めてくれ。
「やめて!」
「ふざけるな!」
自分の上げた叫び声と誰かの上げた怒鳴り声に、グローリアは飛び起きた。
何か変事があったのかとカーテンを開ける。
外はまだ暗く、何も動くものはない。星が静かに瞬いていた。
どこからか断続的に言い争う声が聞こえてくる。起きぬけの回らない脳をフル回転させて、グローリアはどこから声がしているか確認した。
壁に耳を押し当ててようやく、怒鳴り声が隣室にいるラザファムの声だと当たりをつける。
グローリアは急いで部屋を飛び出した。寝間着に着替えなくて正解だった。
「リーダー?」
隣の部屋を小さくノックした。応答はない。
ただ、その間にもラザファムの罵声が耳につく。
もしかしたら、侵入者かもしれない。そう思ったグローリアは、心の中で宿屋の主人とおかみに謝りつつドアを蹴破った。
ラザファムの部屋には部屋の主を含めて四人の男がいた。深夜の訪問者達にグローリアは警戒を濃くし、携帯している短剣を構える。
男達の身に纏っているローブには教会関係者の証であるブローチがあった。グローリアの赤目が底光りする。町教会の者達なのだろう。
「グローリア……」
ラザファムは自分の声が大きかったことに今更ながら気付いたのか、気まずげに顎を引いた。
「ラザファム殿、こちらの方は?」
「……同じ部隊の者だ」
「そうでしたか。いや、深夜にお騒がせして申し訳ありません。わたくしどもは町教会の司教でして――」
町教会の司教達はグローリアがクルマシオと知るやいなや、へつらい顔で笑いかけてくる。この暗さだ。グローリアが赤目だというのには気付いていないらしい。
へつらいもそこそこに、彼らはラザファムへ向き直る。
「……ラザファム殿、我々の頼み聞き届けていただけますね?」
「さあ、何だったか」
すっとぼけようとするラザファムに、三人は形相を変えた。
「だから、再三申し上げているでしょう。寄付金をもっと巻き上げていただきたいのです」
「…………え?」
グローリアは聞き違いかと思った。
声を発したグローリアに、一人の男が歩み寄ってくる。話が通じると思ったのだ。
「中央よりあなたがたが派遣されてきたと聞いて、わたくしどもは馳せ参じた次第です。このままでは町教会は潰れてしまう!」
声を震わせて目元に手をやる男を、グローリアは冷めた目で見つめた。男の指には一目で高価だとわかる銀の指輪が嵌まっていた。
「そうなれば、ハムギュスト教を説く者がポリーンの町にはいなくなってしまいます。困るのは、大教会でしょう? どうにか、寄付金を!」
「どうして、資金繰りに苦労している? 年に一度、大教会から金が入るだろう」
「それは……」
男達はいっせいに目を泳がせる。
「……ラザファム殿もご覧になったでしょう。この町は貧しいながら、よくおさめられている。そのため、教会が儲からないのです。礼拝には来るものの、神頼みしなくとも大丈夫ですから」
「馬鹿な……」
ラザファムは苦虫を潰したような渋面で吐き捨てた。
「とにかく、そんな不正を行なうことは出来ない」
「何故ですか! 前に来たクルマシオは、町長の家財を貰い受けて下さいましたよ!」
「……何?」
「以前、この町の住人が悪魔憑きとなった時に派遣されてきたクルマシオは町長に直談判して、家財を売って金に変えれば町民を救ってやると言って下さいました。今回も、町長の家財を……」
「人々の話では、町長の家にはもう家財はないと聞いた。無理だ」
「ならば、家を売り払わせて……」
「その前に、その指輪を売ったら?」
グローリアの発言に、ぎくりと町教会の司教達は固まった。
嫌悪感をあらわにグローリアは言い紡ぐ。
「そんな宝石がついた指輪、ハムギュスト神に祈りを捧げるために必要なの? あなた達が着用している衣服だって、高価なものだと思うわ。それらを売り払って資金を作ればいいのよ」
「なんと! こちらが下手に出ていたらつけ上がりおって! 司教である我らにクルマシオ風情が楯突くか!」
司教達は怒りに足を踏み鳴らした。
聖職者としての地位はクルマシオより司教の方が高いのだ。基本的に口答えは許されない。
グローリアは好戦的に腕を組んだ。やはり司教達は、最初からお願いをしに来たわけではなかった。これはお願いなどではない。職権を濫用した命令。
寄付金の上乗せをさせて自分達の懐を潤したかったのだ。
「よせ、グローリア」
臨戦態勢に入るグローリアの肩をラザファムが押さえた。
でも、と不服を述べて顔を歪めるグローリアを横に、ラザファムは町教会の司教達をひたと見据えた。
「とにかく、寄付金の上乗せはしない。どうしても金が欲しいのだったら、自分達で大教会に申し出ろ」
司教達は唇を噛みしめて無言のまま出て行く。
「くそっ、とんだ誤算だ」
「ああ、今度も悪魔憑きが出現すれば、金が入るとふんでたのに」
ドアを閉める直前、至極小さな声がした。常人ならば聞こえなかった声。しかし、グローリアの敏感な耳には確かに聞こえた。
グローリアの瞳孔が縮まる。言葉の裏側に隠されたものの恐ろしさに、さっと顔から血の気が引いた。
――悪魔憑きが出現すれば、金が入るとふんでいた。
彼らは悪魔憑きとなったことで苦しむ者達のことを全く考えていない。グローリアは緩く首を振った。
司教達を追い返すことに成功したラザファムは、がっくりと項垂れている。
「……どうしたの?」
ドアの前にヘンリーが佇んでいた。
グローリアと同じように騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう。彼の後ろにはダルテもいた。
ラザファムは二人に事の大筋を話した。それを黙って聞いていたヘンリーは、やがて深い溜め息を吐く。
「それは……頂けないな」
「ああ。腐ってる」
ヘンリーの言葉にラザファムが同意した。
「――――――馬鹿げてる」
ボソッとダルテは呟いた。皆の視線が彼に集まる。彼は右手首につけたブレスレットを千切れんばかりに握りしめている。珍しい模様が描かれた美しい青い色をしたブレスレットは、悲しい色に見えて。
ダルテは赤い瞳に憂鬱を乗せ、踵を返した。
ラザファムの部屋に残った者達に気まずい空気が流れる。グローリアは意を決して口火を切った。
「それじゃあ、私も部屋に戻ります。おやすみなさい」
「あ、ああ……」
「ボクも戻る」
グローリア達はさっさとラザファムの部屋を後にする。グローリアとヘンリーに会話はなかった。
自室のドアを閉めたグローリアは、親指の爪を強く噛んだ。
『くそっ、とんだ誤算だ』
『ああ、今度も悪魔憑きが出現すれば、金が入るとふんでたのに』
町教会の司教達が零したあの言葉。そして醜悪に歪んだ顔……。
グローリアはぐっと両腕を抱きかかえて蹲る。
――真実はいつも残酷で、重い。
4
翌朝、グローリア達は昨晩のことなどなかったように悪魔祓いの準備をしていた。
悪魔祓いは聖水片手に聖典を読むという簡単なものではない。様々な小道具、そして定められた聖なる場所が必要となる。
まず、キャンドルスタンドに太い蝋燭、銀製の剣。そして、聖水を用意しなければならない。大半は町教会内に常備されているのだが、ところによっては道具が不足している場合もある。なので、クルマシオ達は派遣される時に蝋燭と剣、聖水を持ってくるのが普通だ。
ガネットの話によると、悪魔の力を弱まらせるために町長の家族は一週間ほど前から町長を断食させているらしい。
それを聞いたラザファムは、酷く気を揉んでいた。
悪魔には断食の定義はただの噂であって効果はない。あまり長い間断食をさせていると、余計に症状が悪化することもある。人間の精神力が弱まるためだ。
太陽が中天に差しかかる頃、四人は町長に会いに行った。町長の妻はげっそりと頬がこけており、目の下には青黒いクマがあった。
「まさか、主人が悪魔憑きになるなんて……」
町長の妻は枯れた声で言い、両手で顔を覆った。
「ボクが診てくるから、ちょっと待ってて」
悪魔憑きと精神病の症状はとてもよく似ている。そのため、クルマシオ達はまず問診を行なう。聖水を体に振りかけて対象者と接触するのだ。
「わたしも――」
ヘンリーについて行こうとするグローリアをラザファムが止めた。むっとしてラザファムを見上げると、ラザファムは冷たく「問診は一人で十分だ」と言い放った。
グローリアは物言わぬドアを見つめる。どれだけ見つめてもドアが透けて向こう側が見えるわけもなく。
ややあって、奇声や罵声、そして呪いの言葉が聞こえてきた。ガラスを爪で引っ掻いたような金切り声が上がる。
ドアが開いた。ドアの隙間から町長の姿が見えた。ロマングレーの髪を振り乱し、彼は救いを求めるように胸を掻き毟りながらグローリアへ手を伸ばした。無情にもヘンリーはドアを閉める。
ヘンリーは慣れた手つきで町長とのやり取りを紙に書きつけ、ラザファムへ投げて寄越した。
「間違いない、悪魔憑きだ」
「そうか」
ラザファムはヘンリーから受け取った問診票を受け取ると、すい、とグローリアを横目見た。
「グローリア、恐れを持たないように」
「……気持ちを鼓舞して、自分のやってきたことを思い出すんだ。怖がることは御法度」
グローリアはヘンリーとラザファムの顔を交互に見やり、頷いた。
「わかってます」
「ダルテも――大丈夫だとは思うが、注意を怠るな」
ラザファムがダルテに声をかける。ダルテは微かに首肯した。
悪魔祓いは基本的に二人で行なわれる。
一人が聖典の詠唱と聖水を振りまき、もう一人は蝋燭の火が消えないよう注意しながら部屋中を見張る役割を担う。
今回はそれに、赤目であるグローリアとダルテの二人を加えて行なう。
「町長に憑いている悪魔は二十体前後。絶対に対話はするな」
「はい」
打ち合わせの席でヘンリーに念を押されたグローリアとダルテは声を揃えて頷いた。悪魔との対話は一番タブーだ。話をすれば心に迷いが生じる。悪魔は嘘がとても上手い。憐れみを誘って、そこを突く。
……恐怖などない。ただ、並々ならぬ緊張を感じていた。
晩、町教会にて悪魔祓いが始まった。
司教達は町教会を使用することを嫌がったが、拒否すれば大教会に言いつけるぞ、とラザファムが圧力をかけ……。司教達は渋々教会を使用することを承諾した。
信者がハムギュスト神へ祈りを捧げるまさにその場所で、今、儀式は行なわれようとしている。
長イスやパイプオルガン、司教が使用する神卓と呼ばれるテーブルは綺麗に片付けられている。等間隔で置いてある蝋燭の灯が、不安定に場を照らす。
ぐずついていた空から雷鳴が轟き、稲光に四人の影が浮かんだ。
それを合図に、ラザファムが聖典を詠唱し出した。
ヘンリーは聖水の入った杯を掲げ、中央の寝台に縛りつけた町長へ振りかける。寝台の周りに結界を描いていた。悪魔は聖なる結界を破ることが出来ない。
「うう……」
町長の顔が苦しげに歪む。
グローリアとダルテはそれをただ傍観していた。
赤目の持つ役割は制止と破壊。
悪魔は赤目に見つめられると、抵抗をやめる。その隙をついて対象者を殺すのが仕事である。破壊の行使は、ラザファムやヘンリーが悪魔を祓い切れなかった――もしくは思いのほか高位の悪魔が憑依していた場合にのみ許可される。
「助けて……くれ……」
町長はグローリアへ手を伸ばす。
グローリアは下唇を噛みしめて手を組む。彼女には町長を殺さなくて済むように祈ることしか出来ない。
ラザファムの額に汗が滲む。既に何十体もの悪魔が空中に渦巻いている。それは奇声を発して呪いの言葉は叩きつける。
ヘンリーが当たりをつけていたよりも、悪魔の個体数はかなり多かった。
ラザファムは慎重に聖典を読み上げ、町長に憑いた悪魔を一体一体切り離していく。一言でも詠唱をしくじれば、雨雲よろしく天井を旋回している悪魔達から喰われてしまうだろう。
町長は暴れ回った。結界を激しく殴りつけて雄叫びを上げる。
ダルテはグローリアに目配せすると、町長を押さえつけにかかった。グローリアもそれに続く。結界の内部に入った瞬間、微かに電流が体に駆け巡った。
手足をばたつかせる町長を何とかベッドへ押しやった。彼は口の端から泡を垂らす。
「お前達は、赤目か……?」
人のものとは思えない声が町長の口から洩れた。
――悪魔だ。
ダルテは顔貌を微細も動かさず、黙している。
「我が同胞でありながら、クルマシオとなったのか」
「赦されぬ。我らの悪魔の愛し子でありながら、人に紛れ生きるか」
「同胞殺しの汚名を着てまで、生きると?」
甲高い音で悪魔達は口々に叫ぶ。
町長はグローリア達から視線を逸らして激しい抵抗を見せる。
「――――そうよ」
「グローリア!」
寝台の周りを坦々と巡っていたヘンリーの鋭い声が飛んだ。しかし、一度滑り出た言葉は止められない。
「だから、何?」
挑戦的なグローリアの言葉に悪魔は哄笑を上げる。
悪魔が大きく暴れた。
「な…………っ」
ダルテの靴が聖水で描いた結界を乱す。その隙を、悪魔は見逃さなかった。
グローリアとダルテを強い力ではね除けて体勢を低くし、鮮やかに、滑るように悪魔は移動した。
グローリアは町長から弾き飛ばされたことで、したたかに肩や腰を床に打ちつけて苦悶の声を零す。壁に打ちつけられたダルテも、彼女同様うめいている。
……悪魔憑きは筋肉異常を起こす。悪魔達は人間の潜在下に眠る力を最大限引き出し、自身の手先として利用しようとするのだ。
町長は敏捷な動きで、ヘンリーの首に太い腕を巻きつけた。
「くそっ。アメディック、聖典の詠唱を!」
ラザファムは滴るこめかみの汗を拭いながら、舌打ちして叫ぶ。
しかし、ヘンリーは口を閉ざしたまま動かない。
「おい、聖典を覚えるのが苦手と言っても少しくらい覚えているだろ! 『出て行け』くらい言え!」
ラザファムは聖典を詠唱しつつ、息継ぎの合間に怒鳴った。
宿主から引き離された数多の悪魔が、憎きクルマシオを喰い殺さんとばかりに腐臭と不協和音を放ちながら空中に漂っている。
ラザファムは悪魔の渦がこちらに下りてこないように目を光らせていた。
ヘンリーを助けるために彼が行動を起こせば、悪魔の渦はすぐにでも牙を剥くだろう。そして場にいる者達全てを呑み込んで、より強き体を求める。
だから、ラザファムがヘンリーを助けるために動くわけにはいかない。
巻きついた腕に阻まれながら、ヘンリーはボソリと呟いた。
「――ハムギュスト神よ。光の祝福を」
「ふははははは! 痛くもかゆくもない」
ヘンリーの心がこもっていない詠唱に、町長の体を支配した悪魔は全く動じない。
悪魔は玩具で遊ぶように小指の爪から順にヘンリーの首に食い込ませていく。
ゆらりとダルテが動いた。彼の持つ剣の切っ先は町長の心臓を捉えている。
それを、グローリアが阻んだ。彼女はダルテと町長の間に割って入り、ダルテの剣を弾いた。
ダルテは目を眇める。赤い双眸が危険な光を灯した。
「邪魔をしないで」
「殺すの? クルマシオは、悪魔から人を救うのが仕事なんじゃないの?」
「それは所詮、理想論に過ぎない。この人に憑いた悪魔は多すぎる。到底、祓い切れない」
「まだ、わからないじゃない。もっと聖典を詠唱して――」
グローリアの言葉を皆まで聞かず、ダルテは再び町長へ剣を振りかざした。ヘンリーを人質にとられているというのに、彼は迷いなく剣を向けている。もしも町長を殺す過程でヘンリーが傷付いても、ダルテは平気なのだろうか。
――殺させたくない。
グローリアは町長とヘンリーの背中を押し、自身も一緒に床へ転がる。
「グローリア、何をしている!」
ラザファムが焦燥感の滲んだ声色で吼えた。
「おお、赤目よ……感謝する。そなたは我らとともにあらんとするのだな」
ぎりぎりと、グローリアの背中に町長の爪がめり込んでくる。彼女は素早く町長の手首を掴んで向かい合った。
「出て行け」
グローリアの赤い瞳がぎらりと光った刹那、悪魔の動きが止まった。
「ハムギュスト神よ、偉大なる神よ! 私の声が届いているならば、光の祝福を!」
明朗な言葉にぎょっとしたのは、悪魔だけではなかった。
「お前、何故聖典の内容を……!」
ラザファムは茫然として呟いた。赤目は聖典の内容を教えてもらえないものだ。
グローリアは詠唱を止めない。聖典など見なくとも、空でも言える。
「出て行くがいい。我が主神のもとに命じる、清らかなる敬虔な信者の身の内より、すぐさま出て行きたまえ!」
「苦しくなどないぞ。悪魔の子たる赤目の言葉に、聖は宿らぬことを知らぬか――我らが同胞よ」
にやりと悪魔は嗤い――固まった。彼はグローリアの肩越しに、斜め上を見ている。不審に思ったグローリアは、いけないと思いつつも視線を背後にずらし、そして驚愕した。
そこには、くっきりと爪のあとが残る首筋をさすっているヘンリーが佇んでいた。
彼は黒光りのする双眸を悪魔に注いでいる。何のことはない。ただの黒い瞳。にも拘わらず、少しでも動けば殺すと言いたげな迫力は、まさに赤目。ぶるりとグローリアの肌が粟立った。
「神のもとに命じる! 悪しきは去りたまえ!」
悪魔が気を削いだタイミングを見計らい、ラザファムが力ある言葉を放った。
教会に光が満ちる。凄まじい光は場の空気を洗うように降り注いだ。
「ぎゃああああああぁぁぁぁぁぁあああああああぁぁ!」
断末魔の叫びを上げて何体もの悪魔が町長から抜け出していく。天井に凝り固まっていた悪魔の渦もまた、白い光に洗われて霧散する。
グローリアは力の抜けた町長を抱きしめて、ぺったりと床に座り込んだ。
しばし成り行きを見守っていたラザファムとヘンリーは町長に聖水を振りかけた。それは悪魔祓い完了の合図。体についた汚れを落とす作業である。
グローリアは自らの腕の中に収まった町長を覗き込む。彼はそれに呼応して、うっすら目を開いた。町長の口が感謝の言葉を象る。彼は安らかに瞳を閉じた。
「うそ…………」
グローリアは絶望を表情に浮かべ、囁くように呟いた。
そんな彼女を押しやり、ラザファムは町長の脈拍を取ると、安堵の溜め息を吐いた。
「安心しろ。町長は生きている」
「…………よかっ……」
頭の中が、一気に真っ白になった。
「グローリア、あれほど悪魔と対話するなと言っていたのにお前というやつは――聞いてるか?」
「…………はい」
グローリアは天井を仰ぎ、己の腕に横たわる町長を抱きしめる。
聖なる光がクルマシオ達の頭上へ降り注ぎ、やがて収束していった。
5
異様な程に澄み渡った空の下、グローリア達はポリーンの町から引き揚げることとなった。町民達は誰しも笑顔で彼女達を見送ってくれる。グローリアとダルテが赤目であることを知られて動揺させないよう、変色メガネをかけていた。
「クルマシオ様、またこの町に立ち寄る機会があったらぜひ足を運んで下さい! またご馳走させて頂きますから!」
「本当にありがとうございます」
「クルマシオ様方に幸あれ!」
温かな言葉達はグローリア達の姿が見えなくなるまで連綿と続いた。
町外れに止めておいた馬車に四人が乗り込もうとした時、町教会の司教達は現れた。三人はにこやかな顔をしているが、目が全く笑っていない。
「寄付金は多めに貰っていただけましたかな?」
「……いいや」
ラザファムが素気なく言うと、司教達は喚き散らし始めた。
「馬鹿な! 町長も元気になったんだ。金を巻き上げる方法はいくらだってあるだろう!」
「大体、悪いのはこの町の奴らだぞ。偉大なる教会に寄付もせず――」
「クルマシオは人々を救うことが役目でしょ! そんな悪魔みたいな所業、出来るわけないわっ」
グローリアは司教達の言葉を遮って挑むように言った。すると、司教達はアイコンタクトを送り合い、不敵に嗤った。
「赤目のお嬢さん。ポリーンの町教会は寄付金が不足しているのです。そんな中、悪魔祓いは格好の臨時収入。わかるかね」
「でも、町の人達はお金がないって……無理に徴収すれば皆の生活が……」
「知らんよ、そのようなこと。金がないなら、見捨ててしまえば良かったんだ。人一人死んだところでハムギュスト神が見守るこの世界の秩序は何も変わらん」
取り繕うことを忘れた司教は剥き出しの感情をさらけ出した。
――見捨ててしまえば良かったんだ。
グローリアの目が、異常なくらい開いた。目の前が白く霞む。
目の端で、ヘンリーやラザファムが何事か叫ぶのを見た。声は聞こえない。怒りに血が煮えたぎり、動脈が波打つ。
あつい、あつい、あつい。
全身が煉獄に焼かれるように熱かった。
司教三人組の中で一番前に出張っていた男の額を掴んだ瞬間、グローリアの意識は途切れた。
ハッと意識を取り戻した時、グローリアはヘンリーとラザファム、ダルテに押さえつけられていた。
グローリアは地面に頬を擦りつけたまま、嘆息する。
自分の意識が飛んでいる間に何があったのか、何となく想像がついた。赤目の力が暴走したのだ。シェパード隊長から自制の仕方を習ったというのに、情けない。
グローリアが額を掴んだ男は、後方で白目を剥いている。
不穏な空気が辺り一帯を覆う。町教会の司教達は失神した男を引きずり、無言のまま逃げした。
「――むごいことを」
ぼそりとラザファムが呟いた。グローリアは奥歯を噛みしめた。
彼女が正気を取り戻したことに気付いたヘンリー達は拘束を解いてくれた。
グローリアは滾々と湧き上がってくる怒りの感情に身を震わせながら上半身を起こし、むっつりと黙りこくる。
「赤目なのに、どうして怒るの?」
囁くように掠れた声で、ヘンリーは呟いた。
「何言ってるの。むかついたり、悔しかったりしたら、怒るわ!」
グローリアは怒りに赤く充血した目でヘンリーを睨んだ。気持ちが溢れて抑えられなかった。ヘンリーは赤い唇を舐める。こくりと喉仏が動いた。
つかつかとラザファムがグローリアの前に屈んだ。彼は物珍しげにグローリアの顎を上向かせた。冷たく光る青い双眸には好奇と忌避の色合いが篭もっていた。
「悪魔の子供のくせに、まるで人間みたいだな」
赤目は化け物。人の腹から生まれ出でた悪魔の子供。人でないモノ。だから、人間的な感情はない。
それが、世間一般の常識である。
慣れていたはずだった。人間と思われないことくらい、わかっていたはずだった。
しかし、見世物のように観察されるという屈辱を我慢する術を、グローリアは持っていない。
シェパード隊長に習った自制の方法は、悪魔の力を抑える方法であり、怒りを抑える方法ではなかった。
パンッと小気味の良い音が鳴り響く。
ラザファムの銀色をした髪が舞った。彼の白い頬に張り手の跡が浮かんだ。
「うるさい、うるさい! 赤目が赤目がって言う前に、教会の腐敗をどうにかしてよ! 怒っちゃ駄目なの? あんな酷いこと言われて怒らない方がどうかしてる!」
グローリアは喚いた。
ラザファムは口の端を引き攣らせる。
「…………確かに、それはもっともだ」
怒りを抑えつけ、彼は低い声で言った。
え、とグローリアは拍子抜けする。まさか、ここで同意を得られるとは思っていなかった。
彼女と同じく、この展開を予期していなかったであろうヘンリーも目を眇める。
「お前は町の人々の生活を守ろうとして思わず司教達へ盾突いた。そうだろう?」
「それは――」
「お前の行動は、一クルマシオとして称賛に値する」
「………………人間を……庇った…………」
掠れた声が、グローリアの耳に届く。
ヘンリーは茫然とした目をグローリアに向けている。
グローリアは、ついと視線を逸らした。
「――庇ったわけじゃない。ただ、相手に怒りを覚えただけ」
「そうか。しかし、それを加味しても非はあちらにある。町教会の司教が町民を故意的に貧困へ追い込むなんて言語道断。あいつらにはしかるべき措置を取る。……お前は我を忘れたことを反省しておけ」
ラザファムの言葉に、グローリアは眉を顰める。
「俺は公正を重んじる神に仕えるクルマシオとして――一人の人間として、真実を捻じ曲げてまで赤目を糾弾などしない」
不審げな眼差しを向けるグローリアに、ラザファムはそう言い捨てた。
彼はそのままダルテを伴って馬車へ乗り込んだ。
その場に突っ立って動かないグローリアに向かってヘンリーが声をかけてくる。
「キミは、もう少し力を抑制する方法を覚えた方がいい」
「うん」
「あのままボクやビエロフカ、ダルテが止めなかったら……確実に相手を殺していた」
ぞくりと背筋が冷たくなる。
「キミはさっき、完全に我を忘れていた。……わかっているだろう。もしまた人を殺したら、助命は――」
すっとグローリアの表情が消失した。
「うん。迷惑かけてごめんなさい」
ヘンリーは前髪を掻き上げた。
「次からは気を付けるように。ただでさえ、キミには前科がある。今回は反省の意ありということで、隊長や副隊長達には届けないから」
淡白に言い、ヘンリーは踵を返す。
ヘンリー、とグローリアは無機質な声色で呼びかけた。彼は訝しげに振り返った。
「わたし、あの人達を殺したこと……後悔してない」
ヘンリーは息を呑むと、唇を引き結んだ。
今も木霊するのは、耳慣れた子守唄。スープのにおい。夕陽に飛び込んで行く鳥達。優しいまどろみと、温かみを持ったランプの光。
グローリアは赤い瞳を揺らした。
「あの時わたしは、正常な意識下で彼らを殺した。でも、少しも後悔してない」
「グローリア――」
「それだけ言っておきたかったの。引き止めてごめんなさい」
何とも形容しがたい空気が漂った。
馬車に揺られて半日。グローリアは痛む腰を擦りつつ、食堂の席についた。
ポリーンの町で食べたものとは雲泥の差がある食事を前に、思わず溜め息が零れる。
ことり、と音がした。何だろうかと視線を上げると目の前に真白いパンが乗った皿が置かれている。
グローリアは驚愕の眼差しで、白パンを差し出した青年を見た。彼は奥歯に物が詰まったような微妙な顔をし、グローリアの目前にパンだけでなくスープも置いた。
グローリアは信じがたい出来事に硬直した。
「………………これ……」
やっとのことで声を絞り出すと、ラザファムの頬に朱が差す。
「要らないなら、俺が食べる」
「いえいえ、食べます! 食べます!」
「……フン、最初から素直にそう言えばいいんだ。今回、お前は悪魔祓いの時に良い動きを見せていたからな。これは褒美だ」
横柄に腕を組み、早口でまくし立てるとラザファムは食堂を去って行った。
グローリアは白パンを齧った。そして、スープを啜る。とても優しい味がした。少しだけ……本当に少しだけだがラザファムと歩み寄れた気がした。
「……いいな……」
同じテーブルについていた赤目の少年が、羨ましそうにグローリアの食べている白パンとスープを見て呟いた。
まだ十歳そこそこの幼い面差しをした黒髪赤目の少年は、とてもひもじそうだった。彼の前にはグローリアに支給されるのと同じゴミ溜めのようなスープと萎びたパン切れがある。
まだ上手く感情が隠し切れない赤い双眸は、自分と似ていて。
グローリアは躊躇いなく自分がもらった白パンを千切ると、少年にそれを差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
赤目の少年は嬉しそうにそれを両手で受け取る。そして、大急ぎで頬張った。
グローリアは思わず笑った。
「そんなに急がなくても誰も横取りしたりしないわ」
「あ……うん」
少年は照れたように頭を掻いた。
「わたしはグローリアっていうの。あなたは?」
「僕?」
キョトンと少年は首を傾げる。まるで、初めて名前を聞かれたような顔をしている(事実、そうかもしれない)。
グローリアが頷くと、彼はしきりに視線を彷徨わせながら答えた。
「僕は、アーティ」
「そう。よろしくね、アーティ」
「うんっ」
アーティは勢い良く首肯した。
食堂内にいる人々は、グローリア達を冷えた眼差しで見つめている。人間達の視線に気付いたアーティは、途端に顔面蒼白となり俯いた。彼はそのまま席を立つ。
感情全てを切り離したかのような彼が、グローリアにはとても痛ましく思えた。
悪魔を見る目で、赤目を見つめてくるクルマシオ達。彼らの視線に耐えられない、繊細な小さな赤目。
……どうしてここまで、赤目は邪険にされるのだろうか。
グローリアがポリーンの町でおこなった悪魔祓いの際、悪魔と対話したのは――自分は【悪魔の同胞】などではない、と強く思ったからだ。
――赤目は人に非ず。だが、悪魔だとも言えない。
胎児を食い殺し、赤目は生まれる。教本にはそうとしか記述されていない。
……しかし。
――違うよ。そうじゃない。赤目は――
グローリアの思考を遮るように、厳かな声が脳内に広がった。