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グローリア  作者: 沢良木由香里
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一章 赤目部隊


■一章  赤目部隊




 小槌が振り下ろされた。

 人々の囁き合いに満ちていた審判采配場は、しんと静まり返る。

「静粛に、静粛に! シュワルビシェ国神・ハムギュストの御名のもと、この者に審判を下す」

 いかにも私が審判長ですと主張したげな豪奢な身なりの老人は、荘厳に言い放った。

 一度は黙った人々だったが、審判長の言葉を受けて再びざわめき出した。

 湧き上がる興奮を押し殺すように、生唾を呑み込む音がそこかしこから聞こえてくる。

 ドーム型をした審判采配場には、階段状の傍聴席があった。そこには長イスが所狭しと並べてあり、闘技場や劇場のような雰囲気を醸し出している。

 民にとって、審判とは闘技場や劇場と同じ種類の見世物だ。

 審議される者を中央にある裁きの台上のイスに縛り付けて罪を暴く。

 審議される者が無罪か有罪かを導き出すのは、ハムギュスト教会にて正式な手順を追って任命された審判員達の役目だ。審判長と三人の審判員を含めた四名が罪の裁量を行なう。

 審判采配場は様々な身分・年代の人々で賑わっていた。他の見世物と違って金を取られないため、貧困層の達も多数詰めかけている。

 いい暇つぶし。そう言いたげな貴族の放蕩息子の姿もあった。お金のかからない遊びと言えば、審判采配場傍聴というつわものの姿もある。

 グローリアは、そんな場で自分自身が裁かれようとしているにも関わらず、凪いだ気持ちで傍聴席を見渡していた。

 身なりのいい者や教会関係者、そして学生風情の者。彼女を見る人々の目は、嫌悪や恐怖、または無関心で充ち満ちている。

 グローリアの視線が、傍聴席の最前列で止まる。そこは被害者本人や遺族が座る場所。

 そこには、誰もいない。

 グローリアは俯き、きゅっと唇を噛んだ。血色の悪いかさついた唇の端が切れ、血の味がする。

「神に見放されし赤目の子供よ……審判を下す」

 グローリアは豊かな黒い巻き髪を揺らし、審判長を真正面から見据えた。

 審判長は彼女の視線にたじろいだのか、ぐっと体を引く。審判長達がいる審判台からグローリアがいる裁きのイスまでの距離は、ゆうに十歩はある。

 いくら赤目が人間離れした力を有していると言っても、そんな離れた位置にいる者を殺せるはずがない。

 それに、彼女の両腕には丈夫な鎖が幾重にも巻いてあるのだ。さらに、足枷も。そのため、審判長達へ飛びかかることはおろか、逃げ出すことさえ不可能な状況にある。

 一呼吸置いて、審判長達は一斉に聖水をなみなみと注いだ杯を掲げた。透明な素材で作られた杯が、澄み切った空を反射して青く煌めく。

 グローリアは赤い双眸を細め、乱反射する光を見つめた。

 ――もしも、自分が貴族やそれなりの家に生まれついていたならば、状況は変わっていただろうか。いや、それほど変わりはしないだろう。

 ――上手く取り繕えれば良かったのだろうか。いや、大して変わりはしないだろう。


 グローリアは赤目だ。


 このことを前提にして物事を見れば、どんな状況下におかれていても結論は同じ。グローリアを擁護する声は一つもあるわけもなく。

「赤目に裁きを」

「忌まわしき悪魔の子供に罰を」

「罪を贖わせ、彼女に救いを」

 無慈悲な声ばかり上がる。

 グローリアは自身が座っているイスの下にこびりついている血痕を凝視した。

 ここは、刑の執行場としても使われている。

 絞首、斬首、磔、火あぶり、手足落とし。

 罪の重さによって執行される刑は様々だが、どれも壮絶な苦痛をともなう刑ばかりで。

 刑罰を受ける者の中には本当の悪党もいるだろう。しかし、冤罪により裁かれた者もいるはずで。

 声なき声が、グローリアの耳に木霊す。

「生き倒れていたところを助けたクルマシオ一家三名を殺害。よって――――有罪。赤目に死刑を命ずる」

 高らかに響く采配に、歓声が上がった。

「刑の執行方法は手足落としの上で、斬首刑。なお今回は、赤目ということで――非公開処刑とする。理由としては、一般民を傷付ける恐れがあるからである」

 審判采配場は、どよめきと熱気に包まれる。

 じゃあ審判も非公開でしろよと誰かが叫んだ。

 彼の叫びは他人を心配するものではない。せっかく赤目の処刑も見られると思っていたのに、非公開処刑となったことを悔しがる響きを秘めていた。

 グローリアのこめかみに冷や汗が伝う。手足を裂かれ、その上での首切り――。身の毛がよだった。

 審判員達は服の裾を引きずりつつ、退場していく。それに合わせて、興奮冷めやらぬ民衆も引き揚げていった。


 全員が審判采配場から退場したあと、ようやくグローリアは両手首に巻いてある鎖を外してもらうことができた。イスの背もたれに結ばれていた両手首には、鎖の跡が赤く残っている。

 兵達はグローリアの両手首へ鎖の代わりに強固なゴム状の拘束具を嵌める。そして、その上から太い縄を巻き付けた。

「行くぞ、早く立て」

 背中を押されたグローリアはよろめいた。足枷は外されていないため、上手くバランスを取ることができない。

 グローリアは何とか転ぶのを避けて歩き出した。弱音を吐いたところで聞いてもらえるわけもない。……足枷についた鉛が、ズッと重々しい音を立てた。


 兵士達は彼女の前後左右を抜け目なく囲んでいる。

 狭い通路を抜け、地下へ続く石段をおりた。階段を一段下がる度に、鉛が鈍い音を立てて両足を痺れさせた。

 湿気の多い地下は苔むしており、ところどころ雨水が染み出している。レンガを導入して補強しているものの、それはただの応急処置に過ぎない。今にも崩れてしまいそうだ。

「こいつも処刑されるんだな」

 鼻声が地下牢に反響した。先頭を行く兵士が、ちらりとこちらを横目見る。グローリアは黙って目を逸らした。

「赤目なんだから、最初から有罪が決まってたようなもんじゃないか」

 右にいる兵士は蔑みの色を込めて言った。

「おい、お前……本当に罪状どおりの罪を犯したのか?」

 グローリアの背後に続く兵士が問い掛けてくる。グローリアは熟考した末、唇を開く。

「違う、と言ったところで……審判は下ったのだから、処刑されることに変わりありません」

「それはそうだが……クルマシオの中にだって――」

「アンバー、よせ。罪人と会話することは禁じられている」

 背後にいる兵士の言葉を、グローリアの左側を歩いていた兵士が遮った。

 やがて、兵士達の足並みが止まった。先頭にいた兵士は懐から小さな鍵が連なった銀の輪を取り出す。

 一番奥まったところにある独房の扉が開いた。

 兵士達はグローリアの手首に巻いた拘束具を手早く外すと牢へ投げ入れ、素早く鍵を閉めた。用心深く、三つも錠前をかける。

「こんなことをしなくても、わたしは逃げません」

 グローリアは檻の棒を握りしめ、凛とした態度で言った。

 途端、じゅっと肉が焦げる音がした。掌に鋭い痛みを感じてグローリアは顔を顰めて檻から手を放す。

 檻の素材として電気石が使われているのを、すっかり忘れていた。

 地下牢の壁に一定間隔を置いてかけてあるランタンが、兵士達の影を色濃く照らす。

「悪いな」

 兵士達はそれだけ言うと、来た道を引き返していった。

 審判采配場に配属されている兵士達の役割は罪人を地下牢へ連行したり、近辺の警護を行なうことだけ。地下牢に長くとどまることはしない。

 グローリアは力なく座り込む。

 兵士達が去ったのとほぼ入れ替わりに、ペタペタと湿った足音が近づいて来た。

「よっ、お嬢ちゃん……ひっく……どうだった?」

 酔っぱらった痩せぎすの男が、檻越しにグローリアを覗き込んでくる。

 初老にさしかかったこの男は、地下牢の番人である。

 収容された囚人の話を聞いてやったり、自害を企てないよう見張ったり、時には外の様子を教えてくれたりする役目を担う者だ。

 彼いわく、地下牢と地上を繋ぐパイプ役らしい。

 十日前にここへ連れて来られたグローリアを温かく迎え入れてくれた番人は、赤ら顔に少しの心配を浮かべている。

「手足切断の上で斬首刑、らしいです」

 グローリアの答えに番人は酒気を帯びた息を荒くする。彼は動揺しているようだった。

 近くの牢屋に入っている囚人達がいっせいに叫び出した。

「そりゃ、あんまりじゃねぇのか! まだガキだぞっ?」

「うおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおっ」

「生きたまま体中の皮をひん剥かれて、火あぶりの刑に処されるよりはマシだろ」

「その前に、僕を殺してくれえええ!」

「お前ら、黙らんかい!」

 番人は囚人達を怒鳴り、頭を掻く。

「処刑はいつ行なわれるか、聞いてるか?」

 尋ねられ、グローリアは首を横に振った。

 番人は、そうかと短く答えてどこからか小さな丸イスを持ってくる。彼はそれに座ると、キセルに刻みタバコを押し込んだ。

「おい、クソ番人。タバコ吸うなよ。空気が薄くなる」

「いいじゃねえか……ちょっとくらい」

「なら、俺達にもくれよ」

「嫌だね……ヒク……最近、タバコの物価が上がってるんだ。自分のぶんを確保するので精一杯だ」

 そう言うと番人は囚人達の顔に、これみよがしにタバコの煙を吹きつけた。

「あ、この野郎!」

 グローリアは彼らのやりとりを興味なさげに見ていた。

 脳裏に反芻するのは、審判長に言われた「有罪」の言葉である。

 抵抗する気はなかった。

 こうなってしまったのは、全て自分の責任だと彼女は自覚していた。だから、迫りくる死の足音から逃げようなどと思わない。

 ――と。

 カツン、カツン、と規則正しく金属音が地下牢内に満ちた。

「やれやれ、客人か?」

 番人は小さな丸イスから腰を上げて覚束ない足取りで出入り口の方へ消える。

 グローリアが収容されている牢から、地上に続く階段は見えない。

 地下牢は入り組んでおり、地図を持っている兵士達か長年ここを根城としている番人以外は迷い、のたれ死ぬとさえ言われている迷宮だ。

 ペタペタ、カツン、ペタペタ、カツン。

 裸足の男――番人だ――と、硬質な靴を履いていると思われる人物の足音が近くなってくる。

 囚人達は皆、息を殺していた。

 グローリアは前髪を掻き上げ、独房の奥へ引っ込む。

 ランタンの灯かりは牢の奥には届かない。そこには、安息の闇と薄汚れた毛布だけが無造作に横たわっている。

 グローリアは臭い毛布にくるまり、体を丸くして瞳を閉じた。


「……ヒク……お嬢ちゃーん……あれ、寝たかな?」

「扉を開けて」

 冴えた声がグローリアの鼓膜を震わせた。ぴくりと肩が弾む。

「いや――それは、ちょっと……」

「構わない。ボクが良いと言ってるんだ。開けて」

「しかしですね、勝手に開けたら……ヒック……私が大司教様にお叱りを頂くことになるんです」

「…………大司教様にはボクが頼んだと言えばいい。さあ、鍵を」

「うぅぅぅん……ヒク……」

「何も拷問しようというわけじゃない。ただ、少し話をしたいだけなんだ。もし、鍵を渡してくれるのならば、仕事中に酒を飲んでいたことは黙っておいてあげる」

「か、かしこまりました!」

 押し問答の末、グローリアの独房の鍵が三つとも外された。

「ガキんちょ、今だ! 脱出しろや!」

 血気盛んな男が叫ぶ。

 グローリアにそんな気はない。彼女は、暗がりに蹲ったまま少しも動かずに息を殺していた。

 牢内に人影が入って来る。影は番人に手渡されたのだろうランタンを手に掲げていた。

 オレンジ色のランタンの灯かりが、グローリアの嫌な記憶を思い揺さぶる。

 あの、夕暮れ。転がった三つの死体。そして――。

「……なんだ、寝ていないじゃないか」

 ランタンを持った人影が、グローリアのすぐ前で屈んだ。

 グローリアは、あっと目を丸くする。

 声を聞いた瞬間から思っていた。彼なのではないか、と。

 ランタンの灯かりが弱まり強まり、照らし出す青年の体は、ほっそりとしていた。

 逆十字のピアスが輝く。襟ぐりの開いた簡素な黒いシャツから覗く首筋は、少し力を入れれば折れてしまいそうに儚げだ。そして、印象的な赤茶けた短髪と…………。

「あなた――あの時の――?」

 呟くグローリアに、青年は険呑な光を宿した瞳を細めた。彼の唇が半弧を描く。

「うん。……あのあと、意識を失ったキミをボクがここまで連れて来た」

 グローリアは「ふうん」と呟き、胸に宿る微かな違和感の正体を探っていた。たしかにあの家で「生きてる?」と問いかけてきた青年であるはずなのに、何かが違う気がする。

 その違和感の正体はすぐに掴めた。

(あ、そうか。目が……)

 自分と同じ、夕陽のような赤い瞳をしていたはずの青年が、漆黒の夜を思わせる黒い瞳をしている。

 同じ赤目の子供であると思っていたのに、見間違いだったようだ。

 ふと、グローリアの掌に目をやった青年の眉根が寄った。

 グローリアは慌てて掌を握りしめて隠す。先ほど誤って檻に触れた両手は、赤く焼け爛れている。とても見られたものじゃない。

「ボクを、恨む?」

 青年の口から、ぽつりと漏れ出でた言葉。彼は真剣そのものの表情で問うた。

 グローリアはきっぱりと首を横に振った。

「何言ってるの。あなたを恨むなんて、とんだお門違いでしょう?」

 青年の瞳孔が縮まる。

「ヘンリー様ぁ、もうそろそろ……。見回りの兵士が来てしまいますから」

 檻の入り口で番人が青年を急かす。

 ヘンリーと呼ばれた青年は立ち上がり、グローリアに背を向けた。華奢な体つきの割に身長がある彼の背中に、一抹の寂しさを感じる。

 グローリアは身を乗り出して彼へ言葉を投げかけた。

「わたし、あなたに救われたと思ってる。本当だったらあの時、わたしは死んでいたはずだから。生き残れるかもしれないチャンスをくれて……ありがとう」

 笑顔を添えた、グローリア渾身の言葉に返答はない。

 ヘンリーは足早にその場を去った。



 グローリアの非公開処刑は、審判の日から数えて十四日目の夜に行なわれることになった。

 それを伝えてくれたのは、柔和な顔をした司教達で、彼らはグローリアの最期が光に包まれるよう聖典を読む予定だと述べた。

 そんなのいらないと突っぱねたのだが、それは聞き入れてもらえなかった。

 処刑の日。朝早くからグローリアは、司教達に歯の浮くような説法を聞かされていた。

 地下牢の真上に設えられた祈りの部屋は眩いまでの白さだった。

 調度品もテーブルも、イスさえ存在しない。ただの四角い部屋だ。

 ハムギュスト教のトレードマークとも言える、楕円形の真ん中に剣が突き刺さっている紋様も見当たらない。

「いいですか、ハムギュスト神は全てを見渡しております。聖典『コーネルの章』にもあるように――――」

 幼子に語りかける如く聖典を引用しつつ、善を説く彼らが鬱陶しい。

 グローリアは、説法自体が嫌いなわけではなかった。

 けれど、死ぬ直前まで正義や善こそ光、他は全て死ぬべきだと言いたげな説法など聞きたくない。

「さあ、貴女はこれから死を以って罪を贖うのです。それは尊いこと。臆することはございません。行きなさい」

 ようやく終わった、とグローリアは息を吐いた。

 司祭達に一礼し、部屋の前に控えていた兵士達のもとへ向かう。

 今から処刑に臨む――しかも、生きたまま手足を切断された上で斬首される者とは思えない足取りの軽さである。

 兵士達は戸惑い気味に顔を見合わせた。

 審判采配場は閑散としていた。

 公開処刑ではないため、中央に処刑人が数名いるだけだ。

 処刑人の横には審判長と審判員達の姿もあった。

 人の死は、それを見た者の中にしこりとなって残るものだ。大衆でそれを分かち合えば、罪悪感は人数分薄れるというが、今回は非公開裁判である。ごく少数の見物人しかいない。審判長達は、自らが下した死刑という罪悪感を受け止める覚悟で、グローリアの最期を見届けにきたのだ。

 グローリアは深くお辞儀をした。

 ――赤き瞳を持つは、人に非ず。

 もしかしたら民衆の思考と同じように、審判長達もそう思っているかもしれない。

 だから、見に来たのかもしれない。物珍しい赤目が、処刑される様を。

 しかし、それでも良かった。

 一人きりで死んでしまうより、余程いい。

 瞑目する。瞼の裏に浮かんだのはグローリアに向けられた憎悪と、そして笑顔。

『赤目は人間じゃないの?』

『ねえ、どうして? どうして、隠そうとするの?』

『嫌い! 嫌い! 大嫌い!』

 幼子の涙声が頭の中に木霊す。

 脳の奥深くに眠らせたはずの悲しみが一気にせり上がってきて、グローリアは口許を押さえた。

「……逃げようなんて思うな」

 グローリアは、肩に手をかけてくる兵士を振り払って首肯した。そんなこと、考えるわけもない。

 グローリアは一人、歩き出した。

 よほど暴れる囚人でない限り、兵士達が同行するのは裁きの台の下までだ。

 これはハムギュストの教えにある、死への道は一人行くものだという考えに起因している。

 結局のところ処刑人によって殺されるため、死への道のりなんてあってないようなものなのだが、ハムギュスト教を国の礎として掲げているこのシュワルビシェ国は、一応形式に則ってそうしていた。

 吐き気が治まる気配はないが、グローリアはそれを一片たりとも顔に出さず中央の処刑場へと歩を進めた。

「お待ち下さい」

 うろこ雲が走る藍色の空の下、明朗な声が響く。

 屋根のない審判采配場は広大な敷地面積を有するだけあって声が通りにくい。

 しかし、その声は誰の耳にもくっきり届いた。

 処刑人や審判長、兵士達の目がいっせいにグローリアの後方へ向けられる。グローリアは声の主が誰かわかっていた。

 グローリアは淡々と処刑人の前に立ち、声の主を振り返った。

 会うのは三度目。そして、これで最後。

「ヘンリー殿! ここは現在立ち入りです!」

 兵士達の制止も聞かず、ヘンリーは裁きの台に続く階段を上り、グローリアと向かい合った。

 グローリアは柔らかく微笑んで小首を傾げる。

「あなたも、わたしの処刑を見に来たの?」

 グローリアは赤毛の青年に訊いた。彼は無言だった。

 地下牢に入って来たり、部外者以外立ち入り禁止のこの場へ入って来たりと、不思議な青年だった。

「――――この者は神の御名のもとに赦される」

 グローリアの問いには答えず、ヘンリーは巻紙を開いた。

 場にいる全ての人々が目を剥く。

「へ、ヘンリー殿。何を……っ」

 抗議を申し立てようとする審判長にヘンリーは凍えた目をやった。

「『悪魔の子供は常軌を逸した稀なる力も持ち得る者である。我、大司教・ノードルは死刑囚として刑の執行を待つ赤目をクルマシオとして任命し、命潰える瞬間まで教会に追従することで罪を贖わせるものとする。全てはシュワルビシェ国神・ハムギュストの御名のもとに』…………以上」

 審判長や審判員達がよろめく。大司教の名前が出たからだ。

 大司教というのは、ハムギュスト教会の中でも最高峰の役職のことで、彼に逆らうことは誰であろうと許されない。

 グローリアは目を眇めた。

 ヘンリーは、怪訝そうな顔つきの人々に紙を見せつける。

 そこには、はっきりと大司教の直筆を示すサインと赤い蝋印が押されていた。

 それを審判長に押し付けたヘンリーはグローリアの前へやって来る。

 彼女の頭二つ分は高い位置にある彼の顔を見上げた。彼はにこりともしない。

「名前は?」

「グローリア、です」

「ふうん……聞き慣れない響きだ。……グローリア、これからすぐに大教会へ向かう。クルマシオとして登用する手続きを取るから」

「待って」

 グローリアの手を引き、審判采配場を出て行こうとするヘンリーに緩く抵抗した。

 彼は気だるげにグローリアを見下ろす。圧迫感を感じて視線を彷徨わせそうになったが、何とかこらえて言葉を紡ぐ。

「あなたは誰?」

「…………ヘンリー=アメディック。クルマシオをしている」

 グローリアは目を瞬かせた。

 ヘンリーの左胸に目を走らせると、銀のブローチをつけていた。

 いくつもの輪を複雑に掛け合わせて作られた特注のブローチは、ハムギュスト教の司教かクルマシオしか着けられない。

 なるほど、本当に聖職者クルマシオなのだろう。

 クルマシオはハムギュスト神と対立する悪魔を祓う術を身につけたエリート集団だ。

 人間や獣に取り憑いて体を乗っ取り、悪行を重ねる悪魔を祓う術を持つクルマシオ達は、人々から非常に尊敬されている。

 ――だからと言って、いきなり信用は出来ない。グローリアは死刑が決まっていたのだ。それを助けて何の意味があるだろう。

「どうして、大司教様は赤目をお助けになるの? あなたが……頼んでくれたの?」

 ヘンリーの黒い眼に嫌悪と侮蔑が波打つ。グローリアはぐっと怯んだ。

「赤目は希少な戦闘要員になり得る者だからクルマシオとしての任命を願い出ただけで、助けたつもりはない」

 取りつく島もない。

 ――ああ、そうですか。そりゃ良かったです。ご苦労さま。

 状況が許すなら、そう鼻で笑っただろう。しかし、グローリアは彼によって助けられた身である。不用意な発言は控えるべきだ。そう考えた彼女は、ヘンリーに対して律儀に頭を下げた。



 シュワルビシェ国は、古より王家と教会が手を取り合って統治していた国だった。

 しかし、相次ぐ近隣諸国の民主化の波に逆らえず、今から二十四年前にシュワルビシェ国の絶対王政は崩壊したのだった。

 それにしたがい、現在この国では民衆達によって選ばれた議員達が国を治めている。

 人々から支持を集めた議員の中から議員長が選ばれ、それが実質国の最高権力者の地位を持つ。

 ……そんな議員長でさえハムギュスト教会には頭が上がらない。外交や国政を行なうに当たって、ハムギュスト教会のまとめ役・大司教に一々お伺いを立てている。

 要するに、ハムギュスト教会はこの国にとってなくてはならない存在なのだ。教会がいなければ、外国と対等に渡り合うことも出来ない。

 ハムギュスト教は近年他国でも勢力を伸ばしつつある。悪魔を祓うことが出来るのは、クルマシオとして訓練を受けた者だけ。その事実にようやく要人達は気付き始めたのである。


 うんぬんかんぬん。


 グローリアは今にも閉じてしまいそうな瞼を引き上げながら、頬杖をつき、長ったらしい話をする大司教を眺めていた。

 話の内容の半分も脳に入ってこない。

 ハムギュスト教会がいかに強大で素晴らしいものなのかを伝えたいのだろうが、回りくどすぎだ。

 欠伸が出そうになり、慌てて噛み殺す。

 グローリアは、眠気を覚ますことが出来るものはないかと辺りを見渡した。

 大聖堂の窓には色ガラスが嵌め込まれており、朝の穢れなき陽射しを浴びて聖堂内を鮮やかに彩っている。

(ああ、駄目だ。眠い)

 大司教の立つ壇上を囲んで扇形の長イスに座っているのは、教会に雇用されているクルマシオ達である。その数、二百を下らない。

 大聖堂は黒い服を着たクルマシオで埋め尽くされていた。彼らは一様にキラキラした目で大司教を見つめている。滂沱の涙を流す者の姿もあった。

 大司教は鳶色の口髭を蓄えた人の良さそうな老人だった。彼はふかふかの赤いサテン張りのイスに深く腰を下ろしている。聖職者の証である黒の法衣を着用していなければ、どこにでもいるただの老人にしか見えない。

「以上、大司教様からのお言葉である」

 大司教の傍に木偶の坊よろしく立っていた、床まで届く灰色の髪を持つ男が偉そうに胸を張った。それと同時に、グローリアを除く全員が軍隊のように素早く立ち上がった。グローリアも少し遅れて彼らに倣う。

「神の祝福を」

 大司教は陶器に入れた金色の粉末を振りまいた。空気中の塵と一緒に舞うそれは、とても幻想的で美しい。

 最初は疎らだった拍手が、やがて大きな渦となって聖堂に響いた。

 キラキラと空中に舞う金粉は聖堂にいる者達全て、平等に降り注ぐ。自分に見合わない神聖さに、グローリアは視線を伏せた。

「それでは、神の祝福を受けた諸君に、今年度の所属部隊を発表したいと思います。呼ばれた者は速やかに壁面に貼ってある地図を見て活動拠点となる部屋へ移動をして下さい。まず、第一部隊の者から名前を上げます。クリス=シャトレー……………………」


 グローリアは聖堂の壁面に貼り付けられていた地図をもとに、指定された大部屋へと辿り着いた。

「マジかよ……」

「最悪だ――――……」

「………………ああ、ハムギュスト神よ、僕をお守り下さい」

 複数の少年が入り口付近で頭を抱えたり、天へ祈りを捧げたりしている。

 何を馬鹿なことをしているのだろうか、とグローリアは彼らを奇異の眼差しで見つめつつ、大部屋に足を踏み入れた。

 大きな部屋の中にはいくつものソファがまばらに配置してある。グローリアは手近にあったソファへ着席した。

「……赤目部隊……」

 グローリアは先ほど大聖堂で、自分の名前と共に読み上げられた部隊名を復唱してみた。

(変なの)

 名前を聞いて、赤目だけで構成された部隊だろうと推測していたのだが、実態は違った。

 この部屋にいる者の半数は、赤目ではない。

 グローリアは、胸に輝くクルマシオの証であるブローチをそっと人差し指で撫でた。

 赤目は忌まれている。

 人間と同じ職場なんて、通常ならばまず有り得ない。クルマシオの中では赤目差別がないとでもいうのだろうか。

「……おい、お前」

 鼻の頭にそばかすが散った少年が、グローリアの前に仁王立ちした。

「何か?」

 平坦な声で眉を上げると、青年の顔が醜悪に歪んだ。

「何か、じゃない。赤目が堂々とソファに座るな。汚れるじゃないか」

 グローリアはザッと部屋を見回してみた。

 なるほど、グローリア以外の赤目達は部屋のすみの方で佇んでおり、ソファに座っているのはグローリアだけだった。

 彼女は息を吸い込んで立ち上がった。

「ごめんなさい」

 素直に謝罪を口にしたグローリアに、少年は腕を組んで、満足そうに口端を曲げる。

 しかし、グローリアがそれで引き下がるわけがなかった。

「あなたは長いことクルマシオをされているのですか?」

「は? いや、僕は今日から正式なクルマシオとして――」

 ああ、とグローリアはにっこり笑う。

「じゃあ、わたしと一緒なんですね。入ったばかりなのに、赤目がソファに座っちゃいけない規則があるってご存知だったなんて、すごい」

 グローリアの皮肉を含んだ言葉に、うっと少年が言葉に詰まる。彼女はそれを見逃さなかった。間髪入れず、畳みかける。

「まさか、シュワルビシェ国の誉れ高きクルマシオが、規則にもないことを他に押し付ける横暴……しませんよね?」

「あ、赤目のくせに! 口答えするな!」

 毅然とした態度のグローリアに対し、少年は怒りに頬を紅潮させて手を大ぶりに上げた。その手は勢い良く、グローリアの頬に目がけて振り下ろされる。

 恐怖など感じなかった。彼女は赤い目で青年を見つめ続ける。

「やめろ」

 青年の手を、何者かがタイミング良く制止した。

 グローリアは止めに入った青年に目をやる。

 切れ長の青く光る瞳を持つ青年だった。

 白銀色の髪が陽射しを受けてキラキラと輝いている。指通りの良さそうな髪や、少年の手首を掴んでいる滑らかな白磁の手から、彼の育ちが良いことが見て取れた。

 周囲の人々を圧倒するほど端整な顔貌が、今は不快げに歪んでいる。

 部屋の中にいた少女達が恍惚の溜め息を洩らすのが聞こえた。卑しい赤目にさえ慈悲の手を伸ばす美形の殿方、とでも思っているのだろう。

 グローリアは青目の青年を凝視する。

 青年が厚意でグローリアを助けてくれたわけでないことは、すぐに察しがついた。彼の青い眼差しの奥には、グローリアに対する嫌悪感がちらついている。きっと、乱闘騒ぎになるのを止めたかっただけだ。

 青年に手首を捻り上げられた少年は髪を振り乱してもがく。

「止めるな! この生意気な赤目を叩かせろ!」

 ぴくりと青年の眉間に皺が寄った。

「止めるな……? 誰に対して口を聞いている」

「そうだぞ、新人! ラザファムさんに向かって、何て口の聞き方を……!」

 横やりを入れられて、青目の青年・ラザファムは不愉快そうに少年の手首を拘束していた手を乱雑に放す。

 少年は血の気が引いた顔でラザファムと向き合った。

「あ…………貴方が、ラザファムさん…………?」

「そうだ」

 ラザファムが答えるや否や、少年は全身を小刻みに震わせてよろめいた。

「あ…………申し…………」

 動揺しているのか、まごついている。

 ラザファムは嘆息し、冷やかな目で少年を睨んだ。

「クルマシオの品位を下げるな」

 グローリアは彼らに気付かれないよう注意を払いながら後退し、他の赤目が佇んでいる壁際に寄った。

 ちらりと周りにいる赤目達を上目遣いで見る。

 赤目の誰もが、無表情で俯いていた。何も映っていない赤い目は、グローリアのものと同じ色であるはずなのに、別物のように見えた。

 その時、グローリアの視線が一点で止まる。

 赤目達から少し離れた窓際に、ヘンリーの姿を見つけたのだ。彼とグローリアの目が一瞬だけかち合う。

 ヘンリーは驚いた様子も戸惑った様子も見せず、グローリアから視線を外した。

 あいかわらず、彼の瞳は黒かった。あの時、薄れゆく意識下で見た赤い目は幻だったのか。

 自然、ヘンリーがいる方へ足が向く。

「ヘンリー」

 近くで名を呼んでみても、彼は知らん顔で外を眺め続ける。

「お久しぶり……って、まだ三日しか経ってないけど」

 挨拶するグローリアへ返答はない。

「あの……」

 なおも言葉を紡ごうとするグローリアに対し、ヘンリーは心底嫌そうな顔を向けた。彼はあからさまに歯軋りする。

「…………気安く話しかけないでくれ」

 ヘンリーのあまりに苛烈な一瞥に、グローリアは思わず身を竦めた。

「キミと馴れ合うつもりはない」

「アメディック、入ったばかりの赤目を突き放すのか?」

 そんな風に言わなくたって、と文句を言おうとするグローリアの前に、ラザファムが割り込んできた。

 ヘンリーは無言でラザファムを見やる。二人の間に見えない火花が散った。グローリアは一瞬即発の雰囲気を醸し出す二人をハラハラしながら見守る。

「…………フン、いけ好かない。また今年もお前と同じ部隊とはな」

 ラザファムは尊大な態度でヘンリーを睥睨する。

「…………それはこっちのセリフ」

 ヘンリーは無表情のまま唇を動かした。ラザファムの目が細まる。

「ほう?」

 と、タイミングが良いのか悪いのか。扉が開け放たれた。

 ラザファムは舌打ちをしてヘンリーから離れる。

 大量の紙束を小脇に抱えた黒の法衣を身に纏った人物が大部屋に入ってきた。床に届く灰色の髪を持つ彼はたしか、大司教の横にいた偉そうな男だ。

 部屋の空気が張り詰めた。

 クルマシオ達は行儀良く背筋を伸ばして横一列に並ぶ。その後ろに赤目達が整列した。

 ヘンリーは憂鬱そうに双眸を伏せて前列の一番端に並び、後ろで手を組んだ。その背から毒々しい美しさを感じる。

 ラザファムはヘンリーとは正反対の端に並んだ。彼はぴんと姿勢を正しており、威風堂々としている。

「本日付けでクルマシオとなった者達は、初めまして……かな。私はハムギュスト教会人事統括部のローレンと言います。この部隊に元より在籍していた諸君には申し訳ないが、クルマシオになったばかりの者や他部隊から移動してきた者のためにこの場を借りて私から部隊の説明と仕事内容、給与体系のことについて話したいと思います」

 嫌な予感が過ぎった。

 グローリアの勘は的中し、大聖堂の時と同じように長ったらしい話が小一時間続いた。

 再び訪れる眠気と戦いながら、グローリアはローレンが話している内容で重要な箇所だけ脳内にとどめる。

 赤目部隊は、人間十五名、赤目十五名編成の部隊である。主な仕事内容は赤目の捕獲任務、及び殺害。

「給与は月末払いで、黄玉が十七つ」

 ローレンがそう口にした途端、皆が目を丸くした。

「おい、第一部隊の時の二倍はあるじゃないか」

「その分、危険なことが多いからだろ。何せ、赤目も一緒の職場だし」

 小声で言葉を交わし合う少年達に構わず、ローレンは話を続ける。

「――話の最後に、赤目部隊の隊長と副隊長を紹介させて頂きますね」

 ローレンは、ひげ面の男と金髪緑目の男三人に視線を送る。

 彼らはローレンの横に立ち、自己紹介した。

 ひげ面の男はシェパードといった。赤目部隊に十年も所属しているベテランで、何かわからないことがあれば赤目でも誰でも気兼ねなく聞いてくるように、と言った。彼の鳶色の瞳は、後列に並ぶ赤目へ対しても優しかった。

 金髪緑目の男達は三つ子だった。ジャン、コーン、ベンという三人は非常によく似ていて、見分けがつかない。

 慣れてくればわかるようになるだろうと、彼らはヘラヘラ笑いながら、適当さの滲み出る発言をした。彼らは特殊部隊という殺し専門部隊で五年間過ごし、一年前にこの部隊へやって来たらしい。ローレンは三人の実力――特にジャンの実力――を褒め称えていた。

「……自己紹介も済んだことですし。さあ、チーム編成書類を配って下さい」

「はい」

 ローレンは抱えていた紙束をシェパードとジャン達に渡した。彼らは前列の右端、後列の右端にそれぞれ二人ずつ立ち、一人ひとりに書類を配り出した。

「ほらよ」

「ありがとうございます」

「青いインクで記されているのが君の相方だ。彼のところに行くように」

 グローリアは隊長であるシェパードから貰った書類に目を通し、瞬いた。

 ――ヘンリー・アメディック。

 そこに書かれていたのは、ヘンリーの名前だった。

 全員に書類が行き渡る。グローリアは微動だにしないヘンリーを見つめる。彼の背中からは何も伝わってこない。ただ冷たい空気を感じた。

「さてさて、書類は行き渡ったでしょうか? ……顔合わせは各自、のちほど行なって下さい」

 ローレンが手を叩きながら言った。グローリアはハッとして部屋の中央に注目する。

 自分に視線が集まったところで、ローレンはにこやかに話し始める。

「これから補足として、赤目について重要なことを話しておきます。聖学校上がりでない者は赤目について知らないということも珍しくないですからね。初めて赤目と合同任務を行なうことになる者達はよく聞いておいて下さい」

 全ての視線がローレンに注がれている。

「赤目は異端です。人ではない、人に似たモノです」

 カッとグローリアの中で何かが燃え上がった。

「母胎に宿っていた胎児とすり替わり、人の子の外見を持ちうるモノ。その証が、常人の持ち得ることのない赤い瞳。……人間の皮をかぶっているため身体能力的には私達と同等ですが、赤目の瞳には同類である悪魔をひるませる力があり、彼らは総じて人外なる強靭な肉体を持っている。非常に危険且つ優秀な道具です」

 こんな話、赤目を前にしていい話ではない。あまりに無神経ではないか!

 叫びが喉もとまで出かける。そんなグローリアを抑えたのはヘンリーだった。

 今まで微動だにしなかった彼がグローリアを振り返り、何も反論するなと黒い目で語る。

 グローリアは白い筋が浮くほど拳を握りしめ、下唇を噛んだ。

「今この場にいる赤目は何も不穏な動きをしておりません。しかし、彼らがいつ狂うかはわからない。そうなった時、あなた達が赤目を確実に殺せるように、コンビを組ませるのです。赤目の扱い方さえわかっていれば仕事を有利に進めることが出来ます。戦闘や悪魔を祓う際、大いに役立つでしょう。ちゃんと使いこなすように」

(道具…………! 赤目が、道具……っ)

 眩暈がする。激しい憤りはグローリアの脳を駆け巡る。

 他の赤目達も怒っているに違いないと思ったグローリアは、赤目達の顔を見た。しかし、彼らは何の感慨もなく話を聞いている。

 いや――それどころか聞いているのかさえ定かでない。生気のない色ガラスの瞳は、瞬きをすることすら忘れているようだった。

「では、お待たせ致しました。本日の仕事は次で完了致します。赤目に拘束具をつける作業です。それさえつけておけば、赤目の居場所が瞬時にわかりますし、赤目が狂った時には拘束具が鳴きます。とても便利な拘束具です。……さあ皆さん、それでは大聖堂へ移動して下さい」

 部隊長であるシェパードを筆頭に、赤目部隊のメンバーは大聖堂へ向かっていた。

 真紅の絨毯が敷いてある螺旋状の階段を、グローリアは無言のままに上り詰める。

 質素な飾り気ない膝丈の黒い服に編み上げブーツの集団がうごめく様は、はたから見たらさぞかし異様な光景に見えるだろう。

 集団は黙々と先に進む。足音一つ立てず、息を殺して階段を上がっていく。

 ――怖い。

 最後の一段というところで、グローリアの足がぴたりと止まった。

 螺旋階段を上り終えた先には世界創生の主・ハムギュスト神を祀る大聖堂があった。

 一般人の立ち入り禁止区域に指定されているそこは、大切な儀式の時のみ開放される。朝方、グローリア達が集合していた場所だ。

 先ほどは恐怖など感じなかった空間が、今はこんなにも怖い。拘束具とはどんなものなんだろう、とグローリアは唾を嚥下する。

 中央の祭壇には大司教が佇んでいる。その前に二人の男女が膝まづき、赤目の男が女の掌へ唇を寄せている。赤目の男は顔面蒼白だった。

 これから、自分も彼と同じことをするのだ。グローリアのカールした黒髪が弾む。その顔からはすっかり色が抜けていた。

(痛いの? それとも、苦しいの?)

「皆の者! またここに一人、我が教会に追従の意思を示す赤目が誕生した! そなた達が生き証人だ! さあ、盛大な拍手を!」

 大司教の威厳ある声に触発されて、何人かが手を叩く。それはすぐに収まった。

「グローリア」

 グローリアはびくりと肩を震わせた。声をかけてきたのはヘンリーだった。

 ヘンリーは優雅な足取りで大司教の前に進み出る。若干遅れてグローリアも後に続いた。

「…………」

「ヘンリー、掌を」

 ヘンリーは大司教の手から短剣を奪うと、自らの掌を何の躊躇いもなく深々と切り裂いた。彼の掌に一本引かれた赤線から、血が滲んだ。

「…………早く」

 グローリアはヘンリーに促されるまま、掌を両手で包み込み、傷に舌を這わせる。自分と同じ色をした赤い血は、生ぬるく鉄くさい。

「そなたも……掌を」

 グローリアは黙って口許を拭い、大司教へ掌を差し伸べる。

 強めに刃を立てられた。深く抉られた肉から血が染み出てくるが、さして痛みは感じない。

 グローリアはそれをヘンリーに突き出した。ヘンリーは上体を屈めてグローリアの掌に水たまりの如く溢れる血を舐め取り、ハンカチを取り出してグローリアの傷口に巻いた。

 そして、祭壇上のテーブルにちりばめられたピアスの中から、紫石がついた一対のピアスを掴んだ。

 彼は無造作にグローリアの髪を掻き上げ、右の耳朶を触ると一気にピアスの針で貫いた。

 プチッと小さな音がした。

 ヘンリーは流れるような動作で自分の左耳にも対のピアスをつける。反対の右耳には、逆十字のピアスが鈍い色合いを放っていた。

 大司教は儀式の完了に満足したのか顎髭を撫でる。

 グローリアは耳朶を触った。

 これが、拘束具。

 グローリアの居場所を、ヘンリーが知るために使う媒体。グローリアが狂った時にそれを知らせる役割を持つもの。

 もう、逃げられない。

「皆の者! またここに一人、我が教会に追従の意思を示す赤目が誕生した! そなた達が生き証人だ! さあ、盛大な拍手を!」

 形式的な大司教の言葉にグローリアは深々と礼をした。ちらりとヘンリーを横目見る。彼は礼もせず、じっと地面に目を向けていた。



「すみません、ここはどこですか?」

「…………」

「あの――」

 足早に通り過ぎていく人々は、グローリアの方を見向きもしない。

 誰も彼も、彼女を一瞥して赤目だと確認するなり、避けて通る。

 グローリアは途方に暮れて当てどもなく見知らぬ場所を歩き始める。

 少し視線を落として地面と睨み合いながら歩を進めた。自然と肩が下がる。

 ……あれから血の交換の儀式は、とっぷりと日が沈むまで続いた。

 自分は儀式を終えたからといって、勝手に拠点へ帰ることは許されない。グローリアより以前に儀式を済ませた者達も、黙って聖堂内にとどまっていた。

 ようやく全員が儀式を終え、解散の言葉が大司教から洩れ出でる。大司教の言葉を受けた群衆は、外へ出ようと入り口に詰めかける。グローリアはそんな群衆に身を任せた。

 そして、今に至る。

 どうやら、乗るべき波を間違えたらしい。気づけば見知らぬ場所まで来てしまった。

 途中でどうもおかしいとは思ったのだ。

 グローリアが着いて行った集団には赤目が一人もいなかった。

 もしかしたら、目的地である赤目部隊の拠点とは全く別方向へ進んでいるのでは……と嫌な予感がしていた。

 そして、その嫌な予感は見事的中してしまったのだった。

 グローリアが着いて行った者達は、他の部隊に所属する友人のもとへ向かっていたのだ。

 現在、グローリアの全身から血の気が引いていた。

 ローレンから部隊の説明を受けた際、赤目はむやみやたらに他部隊の領域へ踏み込むなと言われたような気がする。

 現在地を知るべく、周囲の人々にここはどこだと聞いてみたが答えてくれる者はなく。

 グローリアは盛大な溜め息をついた。とにかく、さっさとここから去らねばならない。

 見たところ、何の変哲もない庭園だった。

 鮮やかな緑に、夜の帳がかかっている。

 庭園に点在する白いベンチに人影はない。皆、自分の拠点に帰って食事でも摂っているのだろう。

 ぐう、と乙女にあるまじき腹の音がした。

「ぎゃはははは」

「マジでー?」

 水銀灯のもと、二人の少年が談笑している。

 グローリアは何気なしにそれを眺めていた。

 小柄な少年と目が合った。彼はギョロ目の少年に何やら耳打ちした。

「何だよ、なんか文句でもあんのか」

 あん、とギョロ目の少年が肩をいからせてグローリアに因縁をつけてきた。

 ここで反論しても無駄だと判断したグローリアは黙っていた。

「無視かよ。むかつく――。どこの部隊だ?」

「んん? コイツ、たしかおれと一緒の赤目部隊だぜ。しょっぱなソファに座って態度でかくてさあ。新人が注意しても反抗してきた」

 ギョロ目の問いかけに、小柄な少年は厭味ったらしく答えた。

 グローリアは眉を吊り上げる。

「へええええぇぇぇぇぇ。第一部隊には赤目いないから初めて見るケド、本当に人間みたいなんだな。いっちょ前にプライドとかあるわけか」

「あはは。人間じゃないくせに色々と模倣しやがって……気っ持ち悪ぃ!」

 まるで値踏みするかのように頭のてっぺんから足先まで眺められる。気分が悪い。吐きそうだ。

 彼らは動かないグローリアの肩を押したり、よろめいたところに足払いをかけたりとやりたい放題だ。それでも彼女は耐えた。

 下唇を噛みしめて我慢していたグローリアだったが、髪の毛を引っ張られて、もののように引きずられた瞬間、怒りが理性を振り切った。彼女はギョロ目の手を思いきり弾いた。

「赤目が反抗するんじゃねえよ!」

 ギョロ目は激怒し、護身用だと思われる短剣を引き抜いた。

「お、おい……それはちょっと……まずいんじゃないか?」

「かまうもんか!」

 刃毀れしていないナイフの柄には、クルマシオの紋章が刻まれている。ギョロ目はクルマシオの名を背負い、グローリアを傷付けようとしているのだ。

 グローリアは瞬きもせず、赤い眼差しで少年達を見つめていた。

 人通りが皆無なわけではない。早く誰かがこの事態を上層部へ伝えてくれるのをグローリアは待っていた。

 玩具のようにナイフを翻すギョロ目は酷く興奮している。小柄な少年はどうしていいかわからないのか、挙動不審にグローリアやウルリカの方に視線を彷徨わせた。

 ――絶対にこちらから手は出さない。

 かたく心に誓う。正当防衛だとしても、手を出したら罪は全て赤目であるグローリアに被せられるだろう。

 ギョロ目の短剣が閃く。銀の刃はグローリアの掌に食い込んだ。彼はニヤリと笑ってそれを捻った。肉が抉れる。痛みはあった。

 しかし、グローリアは軽く歯を噛みしめ、表情を殺す。そして、彼の耳元で囁いた。

「あなたは知らないの? 赤目は、心臓を貫かれない限り死なないのよ」

「……っ」

 ギョロ目はグローリアの言葉を無視してナイフをことさら深く刺してくる。ゴリッと骨が削れる音がした。彼はグローリアに痛覚を感じさせようと必死なのだ。

 少しでも痛がったり、逃げ腰になれば、彼はますます増長する。俺は赤目に勝ったんだと自慢げに吹聴するだろう。

 グローリアは片眉一つ動かさなかった。

「何をやってる!」

 鋭い一声が庭に響いた。

 燃える赤毛を靡かせ、血相を変えた青年が駆けてくる。

 助かった、とグローリアは息を吐いた。

 その後ろには大人しそうな少女達が数名固まっていた。彼女達がヘンリーにこの状況を伝えてくれたのだろう。

 グローリアは彼女達に心の中で感謝の言葉を述べた。

 ギョロ目と小柄な少年は一瞬体を強張らせたが、声の主がヘンリーだとわかるや否や、表情を緩めた。

「なんだい、アメディックさん。いっつもすかした顔で黙ってるあんたが珍しいな」

 小柄な少年は見下した表情でヘンリーの肩に手を置いた。

「……何をやってる、と聞いている」

「べつに遊んでただけだぜ。さ、行った行った」

 ヘンリーの涼しげな面差しが、氷点下まで温度を低める。彼の黒い目がギラリと歪に光った。水銀灯の光のもと、彼の瞳が紅く濁ったような気がした。

 ヘンリーは流れるような動きで小柄な少年の背後を取った。少年は咄嗟に振り向こうとするが、遅かった。

 ヘンリーは左腕を少年に巻きつけると、そのまま後ろに下がる。

 少年は足をばたつかせて抵抗するが、無駄だった。ヘンリーはそのまま体をくの字に曲げて右前腕に圧力をかける。

「――――――――っ!」

 小柄な少年は目を白黒させた。

「あ…………あ……………………」

 仲間がやられる一部始終を見ていたギョロ目は短剣から手を放す。

 赤目の肉体は強い。多少の痛みは残るだろうが、死に至ることはないと判断したグローリアは、掌に突き刺さった短剣を引き抜いた。勢い良く血飛沫が上がる。

「このまま、首を折ることも可能だけど……どうする?」

 ヘンリーの一連の動作には少しの迷いも乱れもなかった。ただ、坦々と少年を締め上げ続ける。

 常軌を逸していた。

 ギョロ目は地面に座り込んで、膝を震わせて腰を抜かしている。恰幅の良いはずの彼が小さく見える。

 それだけ、ヘンリーの存在感は大きかった。

 別にギョロ目や小柄な少年と交流があるわけでもない。むしろ、掌を抉られたのだ。彼らに助け舟を出すほど、グローリアはお人よしでなかった。

 グローリアはヘンリーを見た。彼は憂鬱そうに少年の頭に手をかけている。本当に殺す気ではないだろう。

 しかし――。

「ヘンリー……やめて、お願い」

 グローリアは悲鳴を押し殺して懇願する。鼓動が波打つ。

「死んじゃう!」

 グローリアは叫んだ。

 それをヘンリーがどう受け取ったかはわからない。彼は腕の力を緩めた。

 ぐったりと小柄な少年は地面に倒れ込み、喘ぐように肩で息をしていた。

「…………クルマシオの短剣を使って赤目いびり、か。馬鹿げた話だね」

 ヘンリーは酷薄な微笑を浮かべて言い放った。

「すみません! もうしません!」

「ちょっとした遊びだったんです!」

 二人の少年は目を涙で濡らしながら平謝りし出した。

 グローリアは少年達とヘンリーを交互に見やる。こくりと喉が鳴った。

 少年を絞め上げるヘンリーの瞳を見た時、彼女の中に眠る何かが悲鳴を上げた。自分の内部にある潜在的なモノが、ヘンリーは危険だと警鐘を打ち鳴らした。

 彼の黒い瞳はいまだ絶えず燻ぶっている。

 あの刹那、黒曜石さながらの双眸が、間違いなく真紅にたぎった。激情の赤ではない。禍々しささえ感じさせる、煉獄の炎のような、真性の紅蓮。

「姿が見えないと思ったら――何をやっているんだ。赤目はすぐに活動拠点へ戻るよう指示されただろ」

 ヘンリーは額を地面にこすりつけて謝り続けている少年達を尻目に、不機嫌丸出しの表情でグローリアを一瞥した。

「ごめんなさい」

「……掌の傷は……」

「別に、平気」

 正直、刺し傷からは多量の血液が零れていたし、骨が響くように痛かった。だが、それを言ってどうなるわけでもない。

 と、グローリアの右手首をヘンリーが掴んだ。何事かと思ったら、ヘンリーはベルトにぶら下げたポーチの中から包帯を取り出し、刃物に貫かれたグローリアの傷の処置を行なってくれる。

「手当なんか要らない」

 グローリアは包帯を巻くヘンリーの手から逃れようと、身をよじる。ポタポタと血液が滴った。

 赤目は痛覚が人間的でない。激しく傷付けられたとしても激痛が走ることは皆無に等しく、痺れが走るくらいだ。この程度の傷ならば、数時間で塞がるだろう。

「……手当てをしているつもりはない。傷を隠している」

「そんなことしなくたって――」

 ヘンリーは有無を言わさず包帯を巻いた。巻いたそばから真っ赤な血が滲み出る。最後に端を引き裂いて結ぶ。

「……人は残酷な生き物だ」

「え?」

「キミの受けた傷は、本来ならば大ケガに入る部類の傷。そんなキミが平気そうな顔をして大教会内を歩き回る。――赤目の尋常でない強靱さを目の当たりにした人間達ば、これまで以上に赤目を粗野に扱うようになるだろう」

 あ、とグローリアは言葉を失った。そこまでは考えが回らなかった。

 ヘンリーはグローリアの傷の処置を終えると、少年達に冷たい視線をやる。

「赤目部隊所属・キリア=ボーンと第一部隊所属のコンダス=セシリア」

 少年二人の肩がびくりと震える。

 まさか、ヘンリーが自分達の名前を知っているなど予想外だと言わんばかりの顔をしていた。

「このことは上へ報告させてもらう。両名、処罰は後日言い渡されるだろうから、その心づもりで」

 厳しい口調でヘンリーに言われたキリア達は、がっくりと頭を垂れた。

 それだけ言うと、ヘンリーは立ち去ろうとする。

「待って」

 グローリアはヘンリーを呼び止めた。ぴたりと彼の歩が停止する。

「拠点の場所を教えて」

 ヘンリーは嘆息した。

「迷っていたの?」

「うん。皆どこかに歩いて行くからついて行ったんだけど、この辺り……全く見覚えなくて」

 グローリアはモゴモゴと言い訳をする。ちらりとヘンリーを見上げると、彼は困ったように眉を下げた。

「ここは赤目がいていい場所じゃない」

「え?」

「自由行動の際に赤目がうろついていいのは、自身の活動拠点と中央にある教会庁、そして教会の外だけ。他部隊の拠点が近い場所へ近づくなんてもってのほかだ」

 仮にもここは、赤目は絶対に配属されない第一部隊の拠点内にある庭だぞ、とヘンリーは付け加えた。

「…………すみません」

 反論の余地はない。

「……行こう。長居していたら、コンビの連帯責任でボクまで怒られる」

 グローリアは肩を落とし、トボトボとヘンリーの後に続く。

「これからは注意するように」

「はぁい」

 間延びした返事をしながらも、内心深く反省した。

 今回は運良く助かったが、これから先同じ幸運が起こるかはわからない。

 いつだって赤目は異端で、糾弾される対象なのだ。ヘンリーにも多大な迷惑かけてしまった。

 これからヘンリーとグローリアの二人で行動することになるであろうに、最悪な滑り出しである。

 グローリアの気持ちは重く塞いだ。



 大教会――ハムギュスト教会庁は、まるで城のような造りをしている。

 楼門には鉄製の格子戸が吊るされており、外来者を阻む。そこから歩いて数分もすれば、赤目部隊の拠点として建造された巨大な塔に辿り着く。

 塔は四つ建っており、東の塔を第一部隊が、西の塔を第二部隊が、北の塔を第三部隊が、南の塔を赤目部隊が使用していた。

 ちなみに特殊部隊は、どこに拠点があるか他部隊から隠している。彼らは部隊替えがある一年ごとに、拠点を特定されぬよう移動しているようだった。

 四つの塔の中央には庭園や大聖堂、そして大司教達が執務を行なう教会庁が悠然と佇んでいる。

 グローリアはヘンリーに連れられるがまま、南塔の一階部にある食堂へ足を踏み入れた。

 そこは静かだった。最後の晩餐か何かのように厳かで、灯された蝋燭の灯かりさえも暗い。

 カウンターを挟んだ向こう側にある厨房には多くの人の姿があった。ヘンリーは彼らに近づく。

「赤目二人」

「あ、アメディックさん。今日も、ですか…………?」

「うん」

 白いエプロンを身につけた料理人は気遣わしげに言いながら、奥から二つのトレイを持ってきた。料理人はそれをヘンリーの前へ丁寧に、グローリアの前には乱暴に置いた。

 トレイの中身を確認したグローリアの思考が止まる。

「人間一人! よろしく」

 グローリア達の後ろから弾んだ声がした。同じ赤目部隊に所属する女性だった。

「お勤めご苦労様です」

 料理人は満面の笑みで湯気立つ鍋をかき混ぜてそれをよそった。少年のトレイには、いい香りがするスープとふっくら焼けた丸パン、そしてステーキが置かれている。

「…………何これ」

 グローリアがそう呟くのも仕方がないだろう。

 明らかに、赤目と人間では食事の内容が違った。

 自らの目の前に雑然と置かれたトレイの中にあるのは、残飯をぶち込んだような灰色のスープに固くなって茶色く変色したパン、そして野菜の端切れや皮を炒めた物だった。

 沸々と怒りが込み上げてくる。

 ヘンリーは平然とした態度で空いている席に着いた。真向かいにグローリアも着席する。

 ヘンリーの食事もまともなんだろうと思い、彼のトレイを覗き込んだグローリアは絶句した。彼のトレイには、グローリアのものと寸分違わず同じものが載っていた。

 人間であるはずの彼の食事が、である。

「どうして、赤目じゃないあなたの食事が、わたしと同じなの?」

「それでいいと言ったから」

「どうして?」

「別に、食べられないほどじゃない」

 ヘンリーの考えていることはよくわからない。

 二人は無言で食事を進めた。

 変色したパンは千切ることさえ困難だ。グローリアは溜め息を吐いた。

「…………不満?」

「ううん」

 むっつりと首を横に振りながらも、グローリアの顔には『不満』の二文字が浮かんでいた。

 ヘンリーは匙を持つ手を休めることなく言葉を紡ぐ。

「キミはわかっているだろう。赤目が人間と同列の扱いをされるわけない」

「でも……こんな罪人みたいな扱い――」

「これでも改善したんだ。つまらないことを言っていないで、さっさと食べた方がいい」

 グローリアの訴えをヘンリーは退けた。正論が通らないもどかしさに彼女は下唇を噛みしめる。

 何より悔しかったのは、グローリアと同様に本日付けで入隊した赤目達が、不満そうな顔を見せていないことだった。

 それは、こんな理不尽な差別を肯定することになる。

 灰色のスープにグローリアの暗い表情が映り込む。彼女は意を決してスープを口に運んだ。ザリッと口の中で砂の味が広がった。

「まずい。靴の中敷きみたいな味がする」

 苛立たしげにグローリアは唸った。それを聞いて、ヘンリーは目を丸くした。

「……キミはそんなものを食べたことがあるのか」

「食べたことあるわけないでしょ。言葉の綾」

 そう言うと、ヘンリーはグローリアに興味を失ったのか、露骨に目を伏せた。


「おい」

 食事を終え、支給された部屋へ移動しようとしていたグローリアをラザファムが呼び止めた。何事だろうかと身構えていると、ラザファムは不服そうに腕を組んだ。

「お前が食堂で嫌そうな顔をして食事を摂っていたことが問題になっている。あんな顔をして食べられると、食欲をなくしてしまうと何人かが訴えてきた。何故、そんな嫌そうに食べていたんだ」

「――赤目の扱いがあまりにもひどかったから」

「どこがひどい。ちゃんと朝昼夕と食事を与えているし、眠る場所も用意している。しかも、金銭的な保障だってある」

 さも赤目を人として扱ってやっていると臭わせるラザファムを、グローリアはキッと睨みつけた。

「あれは差別以外の何物でもないわ。あんな美味しくない食事、初めて食べた!」

 ラザファムはグローリアの迫力に面くらい、眉間を軽く押さえた。

「お前みたいに反抗的な赤目、初めてだ」

「最上の褒め言葉をありがとうございます」

 憤慨したまま、グローリアはラザファムの制止も聞かずにさっさと場を去った。そして、何年も掃除していないような汚らしい自室を見て、再び気分を害する。埃まみれのベッドを叩くと多量の埃や塵が空気中に舞い、グローリアは盛大に噎せた。

 微粒子が目に入って痛い。グローリアは鼻を腕で覆い、涙目になりながら手探りで窓を開け放つ。目映い月明かりが部屋へと差し込んだ。

 部屋にはグローリアの他に四人の赤目がいた。皆死んだように眠っていた。寝返りも打てないほど細長い簡易ベッドが五つ並んでいる。

 グローリアは埃まみれになってしまった自らの髪を掻き混ぜ、空腹に悲鳴を上げる腹を押さえる。

 溜め息が零れた。死刑を免れたのはいいが、ここでの生活は辛いものになるだろう。人間は、どれだけ赤目を軽視しているというのか。

 そんな物思いに耽りながら、月を眺める。

「ちょっと……まぶしいんだけど」

「ああ、ごめんなさい」

 他の赤目からうざったそうに言われたグローリアは、慌てて窓を閉めて分厚いカーテンを引いた。

 部屋からは一筋の光も消え失せ、静寂の闇が訪れる。


 ――誰も気づいていなかった。

 先に迫り来る、様々な嘆きと哀しみ――小さな光が渦巻く混沌になど。


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